俳人・黒田杏子
https://haikualpha.jp/kurodamomoko/story1.html 【俳人・黒田杏子①】より
俳句αあるふぁ編集部
颯爽とした登場
黒田杏子氏は1938年8月、東京市(当時)本郷に生まれ、1944年から小学校卒業までを疎開先の栃木県で過ごしました。東京女子大学に進学すると、学内の俳句研究会「白塔会」に入会、句会の指導者であった山口青邨が主宰する「夏草」にも入会しました。俳句に手を染めたのは「風」同人であった母の影響であったようです。
大学卒業後、博報堂に入社した氏は一度、俳句から離れます。雑誌「広告」の編集長を務めるなど広告業界の最先端で働く多忙な日々の中で、瀬戸内寂聴、永六輔ら、のちに終生の交流を持つ文化人と出会いました。
20代の終わりに転機が訪れます。青邨に再入門を乞い、作句を再開したのです。仕事に全力投球する一方で俳句にも心を注ぐ日々のはじまりでした。その日々の句が収められたのが第1句集『木の椅子』(1981年)です。いまはない牧羊社という出版社から、「現代俳句女流シリーズⅢ」の一冊として刊行された句集です。〈十二支みな闇に逃げこむ走馬燈〉〈小春日やりんりんと鳴る耳輪欲し〉〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉といった現在でもよく知られる句も『木の椅子』の句。この句集は2020年にコールサック社から新装版が刊行されており、現代の読者も氏のエネルギッシュな青春期の句業に触れることができるようになっています。
『木の椅子』は第6回現代俳句女流賞と第5回俳人協会新人賞を受賞しました。選考委員たちはこの句集を現代の女性の句集として評価しました。当時、よく引用されたのは、師・青邨が帯文に引いた次の句です。
かよひ路のわが橋いくつ都鳥
この句について現代俳句女流賞の選考委員・野沢節子は「豁達な活動的な作者のある一面」、同・細見綾子は「仕事に打ち込んで、いわゆる女性の仕事という域を出た」と評しました。句集の跋文で兄弟子・古舘曹人は「杏子の通勤路に隅田川があり、橋があり、都鳥がある」とも書いています。古風にも見えるこの句は当時、広告会社で活躍する新世代の女性の通勤の景として解釈されました。女性の社会進出を期待する風潮の中でこの句が受け取られ、評価を受けたのです。
もっとも「かよひ路」「都鳥」といえば、『伊勢物語』の世界が彷彿とし、恋の句として読んでみたくもなります。古典の世界を思わせる典雅な句が多いのも、この句集の特徴です。
七部集七夜をかけて虫に読む 涅槃図の一隅あをし孔雀立つ
四万六千日飢餓絵図の婆靴磨く 夕桜藍甕くらく藍激す
芭蕉七部集を一夜に一冊ずつ、庭で鳴く虫たちに聞かせるように読み上げながら味わう秋の夜長。古びた涅槃図の一隅に鮮やかな孔雀の姿を発見した驚き。一生分の功徳が得られるという四万六千日に見た、生の幸福とは無縁だったかもしれない絵の中の老婆。桜花・夕空・藍甕それぞれの色合いのイメージが繊細に調和して掻き乱される心。美しい句が並びます。『木の椅子』は黒田杏子という俳人の多面的な句風を示しています。
二つの受賞に先がけて、牧羊社の月刊誌「俳句とエッセイ」は黒田氏を積極的に起用し、活躍の場を与えました。「俳句とエッセイ」はこの頃、女性俳人や若手俳人の発掘と評価を試み、俳句界に新風を吹き込みつつありました。それまで社会の先頭に立っているとはいえなかった女性や若者こそが時代を開拓するのだという1980年代という時代の空気に「俳句とエッセイ」は呼応したのです。
この時期の黒田氏の輝かしい活躍を、当時、神尾久美子が紹介しています。
今日の女流俳句の隆盛はブーム的とまで言われており、新人の擡頭もまた年々著しくなっている。最近、総合誌「俳句とエッセイ」によって、あざやかなフットライトを浴びた黒田杏子氏もその一人である。昨年六月より同誌企画の連載作家として、角川春樹、土生重次二氏と共に華々しく登場、毎月二十句の力作を寄せ、まさに、「未知数の魅力」の期待にふさわしい活躍をつづけている。(中略)黒田氏の作品には俳句姿勢の動きに加えて、「どこまでやれるか」ではなく、「どこまでやるか」という見事なひらき直りがしっかり感じられて、「黒田杏子」という作家に、いま尽きぬ興味を抱いている。
(神尾久美子「今年度への期待 俳壇と俳人」、「雲母」1982年1月号)
毎月20句の連載という破格の扱いに驚かされます。この文章で神尾久美子が書いている通り、当時の俳句界では女性に注目が集まる機会が急増していました。こうした状況については、平井照敏が同時代に次のように書いています。
大正の頃、はじめて「ホトトギス」に婦人の俳句欄が設けられ、婦人句会がひらかれて、杉田久女のような才媛があらわれるが、昭和十年頃、やっと、橋本多佳子、三橋鷹女、中村汀女、星野立子の四Tが、女流俳句の橋頭堡を築き上げる。それが今や、俳句大会の受賞者の大半を女性が占める状況になって、女性らしい俳句、女うたが完成しそうな勢いになっているのである。いま若手で注目されている黒田杏子の句は、
白葱のひかりの棒をいま刻む 人泊めて氷柱街道かがやけり
のようなもので、かなり詩的性格のつよいもののように見受けられる。
(平井照敏「俳句の現状と未来」、「詩学」1983年2月号)
「女性らしさ」が無条件に信じられているあたりに時代が感じられますが、とにもかくにも1980年代前半という時期は、女性俳人の増加が多くの俳人に実感された歴史の転換点でした。その時代において若手として期待を向けられ、寵児として躍り出ることになったのが、黒田杏子という俳人だったのです。黒田氏の名前はまたたく間に知られるようになりました。たとえばこの頃、氏が属する青邨の「夏草」について評した石原八束の文章にも、主要な同人として氏の名前が挙げられています。
夏草は俳壇の最長老で今年九十歳の山口青邨翁の主宰する伝統ある俳誌である。有馬(朗人)・深見(けん二)及び斎藤夏風編集長のほか、古舘曹人とか黒田杏子とかいったいま活躍ざかりの同人を擁して清新の句風を誇るホトトギス系の結社である。
(石原八束「夏草の重鎮・有間・深見」、「短歌現代」1982年11月号)
こうして時代の波に乗った黒田氏は、さまざまな雑誌に俳句やエッセイを次々に発表していきます。「夏草」以外に俳句を発表する機会が急増した結果、『木の椅子』のわずか2年後の1983年には、第2句集『水の扉』をふたたび牧羊社から刊行しました。〈強がりの日記果てんとしてゐたり〉〈一人より二人はさびし虫しぐれ〉のような作者の顔が覗く句、〈藍蔵の片蔭ながくゆきにけり〉〈かまくらへゆつくりいそぐ虚子忌かな〉〈らふそくの絵師にまひるの大夏炉〉のような丈の高い句のほか、〈夏帯のゆたかに低し住井すゑ〉のような、のちに黒田氏が得意とするようになる、文化人の姿を詠んだ句も、この句集から見られるようになります。
次回は師・青邨の死去と主宰誌「藍生」の創刊を中心に、1980年代末から1990年代の足取りを辿ってみます。(編集部)
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19970805,19980311,20000718,20020324,20101231,20111119,20121029,20130320,20151025&tit=%8D%95%93c%88%C7%8Eq&tit2=%8D%95%93c%88%C7%8Eq%82%CC【黒田杏子の句】より
自転車の灯を取りにきし蛾のみどり
黒田杏子
飛んで灯に入る夏の虫。虫たちの愚かなふるまいを嘲笑った昔の人も、一方では、灯を取りに来る存在として彼らの襲来に身構えるのであった。蝋燭などのか細い灯だと、たちまち彼らに取られてしまうからだ。なにしろ命がけで取りに来るのだから、たまらない。これは、ランプ生活を余儀なくされた少年時代の、私の実感でもある。そこへいくと現代の虫たちは、命と引き換えに灯を取ることもなくなった。せいぜいが打撲(?)程度ですむ。見られるように、作者もここでむしろ抒情的に灯取虫を観察している。「みどり」に見えるのは光源の関係だろう。『一木一草』所収。(清水哲男)
朧夜の四十というはさびしかり
黒田杏子
年齢を詠みこんだ春の句で有名なのは、なんといっても石田波郷の「初蝶やわが三十の袖袂」だろう。三十歳、颯爽の気合いが込められている名句だ。ひるがえってこの句では、もはや若くはないし、さりとて老年でもない四十歳という年齢をひとり噛みしめている。朧夜(朧月夜の略)はまま人を感傷的にさせるので、作者は「さびし」と呟いているが、その寂しさはおぼろにかすんだ春の月のように甘く切ないのである。きりきりと揉み込むような寂しさではなく、むしろ男から見れば色っぽいそれに写る。昔の文部省唱歌の文句ではないけれど、女性の四十歳は「さながらかすめる」年齢なのであり、私の観察によれば、やがてこの寂しい霞が晴れたとき、再び女性は颯爽と歩きはじめるのである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)
かはせみの一句たちまち古びけり
黒田杏子
高校通学時、最寄り駅まで多摩川を渡ったので、「かはせみ」は親しい存在だった。美しい鳥だ。翡翠(ひすい)を思わせる色なので、漢字では一般的に「翡翠」をあて、魚を取るところから「魚狗(ぎょく)」とも言う。とにかく、素早い動きが特徴。ねらった獲物に一直線に襲いかかり、素早く元いた岸辺に戻ってくる様子は、うっかりすると目では追いきれないほどに感じる。そうやって取ってきた魚は、岩などに叩きつけて殺す。猛禽さながらの鳥なのだが、スズメよりは少し大きい程度の体長であり美しい色彩なので、残酷な印象は残さない。掲句は、そんな「かはせみ」の敏捷さと美々しさとを、暗喩的に捉えた作品だ。「かはせみ」の句をいくつか作ってはみるのだが、眼前にその姿を置いていると、句がスピーディな飛翔感についていけず、たちまちにして「古び」てしまうというのである。対象を直接描かずに詠む技法はよく使われるけれど、なかなか成功しないケースが多い。もってまわった表現になりがちだからだ。その点、この句はぴしゃりと決まっていて、好感が持てる。中村草田男には「はつきりと翡翠色にとびにけり」があって、こちらは流石にどんぴしゃりである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)
花三分睡りていのち継ぐ母に
黒田杏子
長い間、病臥している母だ。すっかり小さくなった身体を、一日中横たえている。作者には、彼女がひたすら「いのち継ぐ」ためにのみ、睡(ねむ)っているように写っている。季節はめぐりきて、今年も桜が咲いた。母が元気だったころの桜の季節もしのばれて、いっそう悲しい気持ちがつのる。母はもう二度と、みずからの力で桜花を愛でることはないだろう。このときに「三分」の措辞は絶妙である。「二分」でもいけないし、「八分」でも駄目だ。「三分」は母の薄いであろう余命の象徴的表現でもあるので、実際の咲きようが「二分」や「八分」であったとしても、やはり作者は断固として「三分」と詠むのである。詠まねばならない。そして、桜の「三分」は、これからのいのちに輝いていく「三分」。比するに、母の「三分」は、余命をはかなくも保つ灯としての「三分」なのだ。そこには、強く作者の願望もこめられているだろう。この悲しさ、美しさ……。読者の背筋を、何かすうっと流れていくものがある。名句である。「俳句界」(2002年4月号)所載。(清水哲男)
白鳥の来る沼ひとつ那須野にも
黒田杏子
作者は1944年に戦火を逃れて東京から栃木に疎開。以後高校卒業までを当地で過ごす。那須野という地名に格別の個人的な思いがあることがわかる。シベリアから飛来して冬を越す白鳥への思いが幼年期から少女期までの「故郷」に寄せる郷愁と重なる。個人的な思いに根ざした言葉はどうしてこんなに強靭なのか。言霊のはたらきとでもいうべき。『日光月光』(2010)所収。(今井 聖)
とほき日の葱の一句の底びかり
黒田杏子
座五の、底びかり、に惹かれ、まずその葱の一句はどんな句なのだろう、と思った。それから、以前葱農家の方からいただいた箱詰めのそれはそれはりっぱな葱を思い出した。真っ直ぐに真っ白に整然と並んだ太い葱たちは、まな板にのせても切るのがためらわれるほど美しかったのだ。その葱の、大げさでなく神々しいほどの輝きを思い浮かべながら検索してみると〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉(黒田杏子)とある。ひかりの棒とはまさにあの時の葱であり、いま刻む、という言葉にはかすかな逡巡が感じられ共感する。遠き日の一句はこの句なのだろうか、いずれにしても、句のことを句に仕立てる、という難しさを越えて光る二つの葱句である。『日光月光』(2010)所収。(今井肖子)
若き母の炭挽く音に目覚めをり
黒田杏子
掲載誌では、この句の前に「炭焼いて炭継いで歌詠みし母」が置かれている。だから掲句の炭は、母が焼いたものだ。私が子どもの頃に暮した田舎でも、農繁期を過ぎると、山の中のあちこちの炭窯から煙が上がっていたものである。焼いた炭は、使いやすいように適当にのこぎりで切っておく必要がある。たいして力もいらないから、たいていは女子どもの仕事だった。深夜だろうか。ふと目覚めると、母の炭を切る音が聞こえてきた。このときの子どもの気持ちは、お母さんも大変だなとかご苦労さんというのではなく、そうしたいわば日常化した生活の音が聞こえることで、どこかでほっと安堵しているのだ。とにかく、昔の女性はよく働いた。電化生活など想像すべくもなかった時代には、コマネズミのように働き、そしていつもそれに伴う生活の音を立てていた。たまに母親が寝込んでしまうと、家内の生活の音が途絶えるから、子どもとしてはなんといえぬ落ち着かぬ気分になったものだ。母を追慕するときに、彼女の立てていた生活の音を媒介にすることで、句には大いなる説得力が備わった。「俳句界」(2012年11月号)所載。(清水哲男)
春暁の土をざくりと掘り起す
小田 実
春は曙……と「枕草子」の冒頭にある。暁は曙よりも時間的には早い。「冬来たりなば春遠からじ」とか「春眠あかつきをおぼえず」といった言葉は、もうお馴染みである。東の空が白みはじめる早朝、畑に出て土を掘り起す(畑と限らなくてもいいが)、土の上に立った晴ればれとした気持ち良さを、たまらずズバリ詠んだものであろう。「ざくり」がいかにもダイナミックであり、春早朝のこころの健やかな気合いが感じられる。掲句は、小田実が黒田杏子に宛てた手紙に、自ら引用した少年時代の俳句である。亡くなる五カ月前に書かれたこの手紙は、杏子の『手紙歳時記』(2012)に引用されている。「実を言うと、昔、少年時代、「俳句少年」でした。短歌は性に合わず、俳句をつくっていました。からだが大きかったので、まだ中学生なのに、大学生になりすまして、大人達の吟行に参加したこともありました」とある。「短歌は性に合わず」は頷けるけれど、彼が「俳句少年」だったことは、あまり知られていないのではあるまいか。小田実を悼んだ杏子の句に「夏終る柩に睡る大男」がある。(八木忠栄)
銀河逆巻くその十指舞ひやまぬ
黒田杏子
前書に「大野一雄公演 パークタワーにて」とあります。大野一雄の舞踏を観た人なら、「銀河逆巻く」は比喩でも誇張でもなく、嘱目ととらえるでしょう。私は20回ほど大野氏の舞台を観、また、数回、舞踏の稽古に参加させていただきました。稽古の前には十数名程の研究生と紅茶を飲み、クッキーを食べながら、生命と宇宙の話をされるのが常でした。「卵子と精子が結合すると、卵子は回転を始めます。それが、ワルツの始まりです。」30分ほど話されてから、「あなたたちは、宇宙的な舞踏家になってください」と、いったん話が終わり、「では、今日もフリーにフリーにいきましょう」のひと言で、研究生たちは各々それぞれの位置で立ち止まり、動き始めます。フリーな動きの中にも三つの要諦があります。一つは、爪先立ちであること。二つ目は、屈む姿勢であること。三つ目は、身体の一箇所は必ず天を向いていること。地に対して向かう屈みの姿勢こそが、土方巽が創出した地の舞いである舞踏であり、大野一雄の独創は、その姿勢を保ちながら天に引っ張られるような垂直の意識を志向するところにあります。たとえば、バレリーナは、身体の軸が天に向かっていますが、大野の舞踏は、地と天に対して同時に向かう意識に特徴があります。大野氏はこれを「together」と言いました。天と地の両方に引っ張られている緊張に舞踏家の立ち居があり、それは、植物が根を張らすために地中をまさぐっていると同時に、天の光に向かって伸びようとしている意志と同じです。この姿を「宇宙的な舞踏家」と言ったのだと思います。大野一雄は、痩身で小柄でしたが、掌が大きく指が長く、同時代の他の舞踏家、例えば息子の大野慶人、笠井叡、麿赤児と比較しても、十指の動きが複雑で、表情が豊かでした。それは、時に昆虫の脚の動きのように見えることもあれば、饒舌な手話にも見え、指で地を天をまさぐり宇宙をつかもうとする強情でした。ですから、「銀河逆巻くその十指」は、比喩でも誇張でもなく、現実です。『花下草上』(2007)所収。(小笠原高志)