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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

近代アジアの動乱35-西太后、清漪園再建

2023.03.25 11:21

1884年、清朝の西太后は、アロー号戦争で荒らされた「清漪園」の復興を命令した。この清漪園は、乾隆帝が自らの母崇慶太后のためにつくった離宮だった。西太后の子の同治帝は、74年に崩御し、妹の子光諸帝が継いでいた。西太后は50歳を越え、なんと子供に代わって自分で自分の離宮を建てるのである。

正室であった東太后は1881年に逝去、そして自身の銘を皇后にする準備もすすんでいた。清朝の国力はどんどん落ち、1875年から1000万人の餓死者を出す飢饉が発生していたが、彼女の目的な清朝の継続であり、自分が引退後に皇帝から敬われることだけだったという。

実際この庭園は、昆明湖を中心として290万㎡、この湖も乾隆帝が西湖を北京に再現しようとした人口湖なのだからスケールが違うというものである。彼女は、自分の宮殿「楽寿堂」「仁寿殿」なども造営し、総大理石の38mの石船「清晏舫(せいあんほう)」も造らせた。

名前も身体と心を和らげるという意味の頤和園に変え、西太后は自分の隠居場所を確保するつもりだった、しかし時代錯誤である。この膨大な経費は海軍の予算を流用してつくられ、このため新造船ができずに日清戦争に敗戦したといわれている、また西太后も、戦争費用を奪うために造営させたとも言われている。