長岡京出身プロサッカー選手【家長昭博さん】が輝き続ける秘訣とは?
長岡京市出身の夢を叶えた人や、長岡京市を応援してくれる企業のみなさんが「夢サポーター」となり、イベントなどを通じて市民のみなさんに夢と活力を届けてくれる市制50周年記念夢プロジェクト。長岡京市出身のプロサッカー選手、家長昭博さんの特別インタビューがついに実現しました♬
家長選手が夢を叶えるために歩んできた軌跡とは? プロ入り20年を迎えた今もなお、第一線で輝き続ける秘訣とは?
長岡京市で過ごした18歳までの日々を振り返ってもらい、夢を追いかけたくなるような素敵なコメントをたくさんいただきました!最後に長岡京市の皆さんへのメッセージもあります。
【プロフィール】
家長昭博(いえなが・あきひろ)
1986年生まれ。長岡京市出身。小学2年生からサッカースポーツ少年団「京都長岡京 SS」に所属。幼少期からその才能を発揮し、長四中在学中にはガンバ大阪Jrユースに入団。2004年高校在学中にガンバ大阪とプロ契約を締結。2007年日本代表初選出。その後も国内外で活躍し、現在は J1 の川崎フロンターレに在籍。2018年 Jリーグの年間最優秀選手(MVP)に選出、昨年ベストイレブンに 4度目の選出をされるなど、第一線で活躍中。
少年時代、アスリートとしての感性を磨いてくれた場所
「サッカーで負けた時の悔しい気持ちは、地元の友達や豊かな自然が癒してくれました」
―――長岡京市でどんな少年時代を過ごされたのか、お聞かせください。
僕は長五小出身で、長岡京市の中でも特に自然が多いエリアに住んでいました。西山や小泉川が近かったので、山に入ったり、川遊びをしたりと、とにかく“野生”の遊びが大好きな少年でしたね。あとは、長岡天満宮に隣接する長岡公園で友達とサッカーをしたり、たわいもない話をしたりして遊んでいました。豊かな自然の中で存分に遊べるところがあったので、お小遣いは駄菓子を買うくらいあれば十分でした。
当時はそれが当たり前だと思っていましたが、大人になっていろんな場所に住んでみると、そういう環境はなかなかあるようでない、とても貴重だったことに気づきました。長岡京市の豊かな自然に触れたことで、アスリートとしての感性が磨かれたと思います。
また、僕はとにかく自由な日々を生きていましたね。そして負けず嫌い。自分がやりたいと思ったことは、とことんやらないと気が済まないタイプの子どもでした。先生の言うことも全然聞かないので、周りの人はきっと大変だったでしょうね。
思い返すと地元の人や周りの人、家族も含めて僕を否定する人が誰もいなくて......。ありのままの自分を受け入れてくれたまちの人に感謝しています。
サッカースポーツ少年団「京都長岡京 SS」家長選手交流会風景
―――サッカーをはじめたきっかけ、少年サッカー時代の思い出をお聞かせください。
僕がサッカーを始めたのは小学2年生。クラスメイトに誘われたことがきっかけでした。当時の監督は、サッカーを純粋に楽しむことに加え「勝つ醍醐味」をしっかりと教えてくれました。サッカー人生で一番嬉しかった試合も、悔しかった試合も小学校の時。長岡京市内でしかプレーしたことがなかった僕が、京都府内の大会にも出場するようになり、僕より上手な選手がたくさんいることを知りました。
当時はいっぱい失敗して悔しいことがない日はなかったくらいで、その時の感情は今でも鮮明に覚えているのですが、具体的なエピソードは記憶しておらず......。どうして記憶が薄れているかというと、仲の良い友達に恵まれ、自然と触れ合って遊べる場所もあり、いくら辛いことがあったとしても、しっかりと息抜きしてリセットできていたからだと思います。悔しいことも忘れさせてくれた、とにかく楽しい小学校時代を過ごしました。
今年(2023年)1月、サッカースポーツ少年団「京都長岡京 SS」家長選手交流会にスペシャルゲストとして招待され、久しぶりに長岡京市へ帰ってきました。子どもたちの練習風景を見ると、僕も同じように夢中でボールを追いかけていたことを思い出しますね。街並みは多少変わっているところはありましたが、空や山々の緑の感じ、まちの空気感は、まったく変わっていなくて、ホッとしました。
ユース時代、サッカーと真剣に向き合う僕を支えてくれた場所
「自分がやりたいこと、興味のあることを探求していれば、自ずと仲間に巡り会うと信じています」
―――ガンバ大阪のユース時代(中学校・高校)、おひとりで大阪の練習場に行っていたと聞きましたが、当時のエピソードをお聞かせてください。
長四中在学中にガンバ大阪Jrユースに入団しました。放課後、ほぼ毎日電車で練習場まで通う道のりは、精神的にも体力的にも辛かったです。モヤモヤしたいろんな気持ちはありましたが、切り替えて「無の境地」で(笑)気づいたら大阪行きのホームで電車を待っていました。練習を終えて、帰りの電車の窓から西山が見えてくると無性にホッとしましたね。
最初は地元の仲間と一緒に3人で練習場へ通っていましたが、途中で2人辞めてしまい僕1人 で通うことに。サッカーが本当に好きだったから、行かないという選択肢はなかったですが、結構精神的にきましたね。一緒に通う友達がいなくなったことは当時の僕にとっては大変辛いことでした。
その後時間はかかりましたが、徐々にユースのメンバーとも打ち解けるようになりました。今でも僕はちょっと人見知りな一面がありますね。ですが自分がやりたいこと、興味のあることを探求していれば、自ずと仲間に巡り会い、自然とコミュニケーションをとれるようになると僕は信じています。
また、いくらサッカーが好きでも、今日はいまいち気分が乗らないな......と、練習に行くことが憂鬱な日も。そんな時は、「今日は最低限やったらよしとしておこう」と思うようにしていました。それでも嫌なら逃げていたこともあります。
大人になってからも無理をして頑張る必要はないのかなと。そういう日はやるべき自分の仕事、与えられたことを最低限しっかりこなすことを心がけています。そして「嫌だな」と思う理由を紐解くことを大切にしています。理由をはっきりさせれば自ずと解決の糸口が見つかるものですから。
夢を叶えた今も大切にしていること
「シンプルに地味なことをする、毎日チャンスが来ないか気にする、継続する工夫を大事にしています」
サッカースポーツ少年団「京都長岡京 SS」家長選手交流会風景
―――夢を叶えた今も、大切にしていることを教えてください。
シンプルに地味なことをコツコツやり続けること、チャンスが転がっていないかを気にし続けることでしょうか。僕は、サッカーで成功したいと思って毎日やってきましたし、コツコツやり続けることで僕はチャンスをつかんできたと思います。時にはチャンスをつかめなかったこともありましたが、再度チャンスが来るよう、つかめるように精一杯努力をし続けてきました。毎日コツコツ地味なことをやれる人じゃないと、チャンスが来ても実力を発揮できないと思いますし、毎日成功したいと思っている人じゃないと、チャンスに気付けないと思います。
また、分かりやすいチャンスなんて普段そうそうないですよね。だから僕は今でもチャンスがどこかに転がってないかな?と常に気にしています。そうすると小さなことでもチャンスと捉えられますし、今まで気付けなかったことに気付けることがあります。
結局一番難しいのは「モチベーションを維持すること」です。僕は今年37歳になるのですが、年を重ねる中で、モチベーションを高く持ち続けることは年々大変なことだと感じています。そのために、いろんなことを1、2年サイクルで変化を付けるようにする、練習の内容は毎日飽きないように自分でアレンジすることを常に心がけています。
家長選手の今後の夢
「成功も失敗もすべて『自分の中に入ってくる』ような人生を送りたい」
Ⓒ川崎フロンターレ
―――昨年ベストイレブンに 4度目の選出をされるなど大活躍の家長選手ですが、今後の「夢」を教えてください。
昨年は2位で終わってしまったので、今年は絶対優勝したいと思っています!
そしてまたご縁があればぜひ関西でプレーしてみたいと思いますし、もしかしたら長岡京市に住むようなこともあるかもしれません(笑)
「今を全力で自分らしく頑張る、楽しむことが一番大切なこと」と信じることができているのは、少年時代に長岡京市でのびのび自由にさせてもらって、全力で夢に向かっていけたから。感謝しかないですね。
僕もいつかは引退する日がやってくるのですが、セカンドキャリアのことはまだ今、まったく考えていません。きっと考えても出てこないと思うので、運命的な出会いを待っています。(笑)これまでもこれからも一つひとつ目の前のことを全力で、そして自分で選択して決断し、成功も失敗もすべて「自分の中に入ってくる」ような人生を送りたいと考えています。
最後に、市民に向けてのメッセージ
東急武蔵小杉駅コンコース内。川崎フロンターレの広報ビジュアルに家長選手の姿も!
―――最後に、8万人の長岡京市民に向けてメッセージをお願いします。
僕が育ったまち長岡京市で市民の皆さんが楽しく暮らしている姿を想像するだけで嬉しくて、僕のサッカーを続ける活力になっています。今でもふと、タケノコの加工工場からタケノコを茹でたなんともいえない甘い香りが漂う中、通学していたことを思い出しますね。
「あの家長が出身のまちなんやで」と、皆さんに誇りを持って言ってもらえるような活躍をしたいと、今回のインタビューを通じて改めて思いました。
皆さんも楽しく人生を送ってもらえたらと思います!!
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