「宇田川源流」【宇田川教育論】 私立大学が閉校してゆく背景と特色ある教育を残すために
「宇田川源流」【宇田川教育論】 私立大学が閉校してゆく背景と特色ある教育を残すために
水曜日は、「宇田川教育論」をお届けしている。先週は大河ドラマについて書いたが、特に交互というわけではなく、私の感覚で好きにさせてもらっている。
教育は「国家百年の計」と言われて久しいが、実際に「教育」とくに「大学教育」というのは、自由度が高く各大学の研究や最先端の講義を受けることができる「最高学府」である。もちろん最高の学歴になれば大学院になるのであるがまだまだ進学率が低いこと、また楽譜としては大学が大学院を運営していることから、基本的には大学が最高学府であるというように考えているのである。
さて、その大学の経営が芳しくない。一つは下記に挙げられるように「女性の社会進出」という要因がある。この事よって、昔はあった「総合職」と「一般職」というような職業的な分類が無くなってしまった。同時に、「女性は早く結婚をして子供を産む」という価値観が薄れてしまった(まだ完全になくなったわけではない)ので、そのことから、早く社会に出るよりもゆっくりと時間をかけてでもそれなりのキャリアを身に着けるべきというような感覚が少なくないということになる。このようなことから「短期大学」という大学形態や、女性特有の価値観をはぐくむ「女子大学」というカテゴリーの人気が無くなっているのである。しかし、これはもう少し前の話。
一方、通常の私立大学に関しても徐々に人気に陰りが出てきている。そもそも現在のZ世代の持つ「多様性」という価値観に、集団講義というような事があまりなじんでいない。「自分のやりたいことをやる」という世代の若者に対して「講義によって知識を押し付ける」というような感覚のやり方は、既にそぐわない状況になってきているのである。要するに「研究機関」としての「研究員養成」というようなことか、または「社会人教育」における「社会で実際に役に立つ即戦力知識」出なければ、学ぶ意味を考えられなくなってしまっているのである。
そもそも、「法学部出身で、営業職の会社に勤める」とか「工学部出身で経理を行う」など、そもそもの専門性と全く異なるところに就職する。つまり、「入った学部専攻と、会社企業の人事部が見たその人の特性屋適正」が全く異なるということになるのではないか。そのような状況で大学が存続するためには、何をしなければならないのか。
美智子上皇后の母校にも波及する「ヨン様の恵泉女学園大」閉学ショックと「女子大消滅」危機
このまま、女子大学は消滅してしまうのか。
恵泉女学園大学(東京都多摩市)を運営する学校法人恵泉女学園は3月22日、閉学を前提に2024年度以降の学生募集を停止すると発表した。同法人の公式サイトでは、募集停止に至るまでの経緯について、以下のような説明がなされている。
〈入学者数の定員割れが続き、大学部門の金融資産を確保・維持することが厳しくなりました。これまで大学存続のためにあらゆる可能性を模索し、将来のありかたについて慎重に検討を重ねてまいりましたが、このたび閉学を前提とした募集停止という苦渋の決断に至りました〉
教育ライターが、学校を取り巻く厳しい現状を明かす。
「少子化によってどこの学校法人も学生集めが困難になる中で、女子大と女子高の人気低下は特に深刻です。今年度の入試も津田塾大や東京女子大、日本女子大は難易度を下げながら、定員割れの事態こそ避けられましたが、そのほかは壊滅的。あの美智子上皇后の母校である聖心女子大学は健闘していますが、同系列である札幌聖心女子学院は2025年3月末の閉校が決まり、2023年度以降の中学校・高等学校の募集を停止しました」
今年、小倉優子が学習院女子大や白百合女子大を受験したことがきっかけで、女子大の凋落を知った世代もいるだろう。ただ恵泉の場合、一般的な女子大不人気とは異なる事情もあると、この教育ライターは続けて解説する。
「大学のキャンパスが、系列の中学高校がある世田谷区から遠く、多摩センター駅からさらにスクールバスを乗り継ぐという立地でした。しかも近くには都立大学、中央大、帝京大、国士館大、明星大など競合する大学が集まっており、わざわざ女子大に通うメリットがなかったのです。さらに大学ウェブサイトのトップページには、韓国留学の写真を掲載。『ミヤネ屋』や『そこまで言って委員会NP』にも出演していた『自称・恵泉のヨン様』ことイ・ヨンチェ教授が広告塔になるなど、韓国や中国、タイへの留学を売りにしてきた。ところが新型コロナの影響で海外交流が思うようにできず、昨今の韓流ブームの波に乗ることができませんでした」
「ヨン様」の神通力も通用しなかったのである。
2023年03月25日 17時58分アサ芸プラス
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12104-2248725/
そもそも、大学が存続するということは、間違いなく、「大学が若者にとって魅力的である」ということが重要であり、そのことは、まずは大学教授とか助教授と言われる人々が、そのような認識を持つことが最も重要であり、それができない人々が教壇に立つこと自体が大きな問題なのではないか。要するに時代に会っていない「骨董品」が、若者に教えるなどと言うのは、歴史や古代の知識でなければ意味がない。まあ、昭和時代のトレンドなどを、「昔は良かった」というような話と共に、教えるのでなければ意味がないのである。
そのうえで、AIの時代である。知識を記憶して、その記憶を基に穴埋め問題の解答を出すような話は、AIに人間が叶うはずがないのである。そのように考えれば、AIの時代に、現在の偏差値教育による教育などをしても何の意味もないということになる。しかし、現在の教授たちはそのような「偏差値教育のエリート」でしかない。また、国家試験やそもそもの大学受験が全てそのような形になっているのであるから、その偏差値教育・記憶教育に合わせん変えれば国家試験に通らないというような状況になってしまっているのである。
そのようなことでは、日本全体が停滞するということになるのであるが、まさにそのようなことから「失われた30年」がそのまま残されてしまって、いまだに景気回復の兆しが見えない状況になってしまっているのではないか。
そのような意味で、「専門学校」が人気で「大学」は今一つ人気がない。それでも「親が喜ぶような有名大学」がレベルを下げていれば、親を喜ばせるというような事や、社会に出てからなんらかのメリット(先輩がいるなど)があるのだが、そうではない大学に関しては、基本的には高校生に見向きもされなくなってしまうということになるのである。
ある意味で「高校生の認識やぢ亜額に対する意識に変化」と「それについていけない大学」という構図があるのだが、それだけではなく、「大学のが脱皮できない」だけではなく「研究社会であることから大学の活動や大学で教えている内容が社会への有用性や社会に対しての貢献度」が見えてこないということになるのではないか。
もちろん、そのうえで上記に書いた「コミュニケーションの取り方」が完全におかしいということになるのである。
今後このようなケースは少なくない。どの大学が脱皮出来て、どの大学が時代に撮りこのされるのか。そのような状況が見えてくるのではないか。