オリンピックボランティアスタッフは集まらないと思う
オリンピックのボランティアスタッフが全然集まってないようです。
当たり前だと思う。
有識者とかいう指揮者みたいな人が集まって何を相談しているか知らないけど、こんな国を挙げての一大イベントになんで「ボランティア」なのか、という疑問。そんなにお金ないわけないよね。あんなに金使ってでっかい競技場やら何やら準備しているんだから。
「ボランティアの在り方などを有識者が検討する初会合が都内で開かれ、会議では「募集にあたってはボランティアのやりがいをわかりやすくPRしていくことが必要だ」といった意見が出された」
だそうです。
...いや、そうじゃないでしょ。
なぜお金を回さないのか。物質的な恩恵を受けられるメリットを条件にしなければ8万人なんて集まらない。
そもそもボランティアって善意で成り立っているから、責任という自覚もその人自身によるものです。万が一何かしでかしても減棒されるわけでもなし、クビになったって明日から路頭に迷うわけでもない。だってボランティアだから。だからサボったって、テキトーにやったってボランティアだから仕方ない。
でもそれじゃアスリートはベストを尽くせないし、オリンピックのクオリティも下がる。それだけでなくテロにはじまる犯罪の抑止力にもなれない。だってボランティアだから。そこまで重大な責任を負わせることがでないんだから仕方がない。
警備会社の人がボランティアでやっていたらこっちは不安ですよね。それ相当の対価を払っているからその人(会社)が任務を遂行するわけだし、我々も警備員を信用する。
お金ってただ物品を手に入れるための存在ではなく、信用し合えるための証明でもあるわけです。
そういったことを有識者だか指揮者はちゃんと考えているのか。
オリンピックが開催されていても世の中は平日で、当然みんな自分の仕事を優先して生活するわけです。その期間に日中8時間も拘束されて交通費や宿泊費も自腹。その条件でもやります!やらせてください!と言う人が8万人集まらないって、当たり前でしょ。ちょっと考えればわかること、いや、考えなくてもわかること。有識者じゃないけど指揮者になったことはある僕がわかるんだから。
多分有識者か指揮者のどちらかが、50年ちょっと前の三丁目の夕日東京オリンピックの頃と同じテンションで国民が賑わっていると勘違いしているのだと思うのです。有識者指揮者はいつも座り心地の良い大きな車の後部座席で移動し、料亭で美味しいお肉をいっぱい食べてお酌されている森喜朗さんだから世の中がどんな変化をしているのか、普通の人間がどんな精神でどんな生活をしているのか知らないのでしょうね。
「あのオリンピックが東京にやってくる!この一世一代のイベントに自分が参加できるなんてまるで夢のようだ!東京タワーも建ったし、カラーテレビで力道山を卵焼き食べながら世界の国からこんにちは巨人大鵬三種の神器!」
みたいな頭の中に違いない。
年配の人が、自分が若かった頃を基準として年下を見てしまうのはある意味仕方がないのかもしれません。いつの時代もそれは同じ。でも、今の世の中の変化やそのスピード、方向性が今までとは全然違うことにほとんど気づいていない。
もう昔のようにはできないのですよ。環境が全然違うんだもの。
だから変化しなきゃ。自分が変化していかなきゃ。
それを受け入れられる柔軟性を持たなきゃ。
それができないのに指揮者じゃなくて有識者とか、団体の上のほうとかに居座ろうとするからこんなことになっちゃう。世の中と噛み合わなさすぎる。
無理でしょ。このままいくと8万人なんて絶対に絶対に集まらないから。
仕事として雇えばいいのに。そんなお金もないんだったらオリンピックなんてやらなきゃいいと思う。誰のためのオリンピックなんだか。
以前このブログにオリンピックマスコットのことを書きましたが、今回の記事と合わせて読んでみてください。
その記事の続編として書いた記事もよろしければぜひ。
ちなみに指揮者ってのは言いたかっただけです。意味はありません。
荻原明(おぎわらあきら)