逃げるうしびと (戯曲前半)
戯曲「逃げるうしびと」
うしびととはなんなのか。なぜ逃げるのか。その出逢いによって、運命が動き出す
今は昔。アズマの国とヒノモトの国の、国境にある小さな島で、人の売り買いがなされようとしていた。/いま、「ひと売り」の女ヤマコが、いらいらとお堂の前を行ったり来たりしている。そばには、アズマの国の娘テルテが草木とたわむれている。これからヒノモトの国へ売られるところなのだ。しかし、なぜかテルテは売られることを喜んでいる。/とそこへ、ひと買いのウミヲが、鬼の形相で駆け込んでくる。「おおい、きゃつが逃げ出しやがった! クソったれめが!」
2011.3.11東日本大震災後に書かれた意欲作。
2021年3月初演。男2・女3。130分。
逃げるうしびと
作/広島友好
○時…今は昔、中世の時代。人の売り買いがなされていたころ。
一場…ある晩春の日。午後遅く。
二場…一場から約一年後。雨の夜。
三場…二場から三日後。夜。
四場…三場から五日後。午後。
五場…四場から数日後。黄昏時。
○所
一場…日本の東にあるアズマの国と、日本の西にあるヒノモトの国の、国境にある小さな島。無人の島。その島の小高い場所にある、観音菩薩像を祀ったお堂の前の空き地。
二場…ウミヲの営む宿屋「すもぐり屋」。おなごの春を売り買いする宿でもある。ヒノモトの国にある。
三場…アズマの国にあるヤクドクの木の森。海辺の近くにある。
四場…一場と同じ所。国境にある小さな島のお堂の前の空き地。
五場…ヤクドクの木の焼け野原。アズマの国にある。(三場と同じ所)
○登場人物
うしびと…男。奴婢。いわゆる賤民。「うしびと」と呼ばれる者。三十歳前後。
テルテ……若い娘。アズマの国の者。海を愛する。十代半ば。
ヤマコ……女。人商い人(「人買い」などをする者)。アズマの国の者。二十代後半。
ウミヲ……男。人商い人。今はヒノモトの国に住む。三十代前半。
婆あ………ウミヲの宿で働く。「ウミヲの産みの母」。元遊女。年齢不詳。
○衣装(註…以下の記述にこだわることなく自由な発想の衣装でもよい)
うしびと…袖なしで膝丈の着物に腰紐。首に手拭い。髪を後ろで茶筅に結っている。裸足。
テルテ……筒袖の着物。腰に細い布紐。裸足。二場よりは赤い柄の小袖の着物。帯を前で花結びにしている。
ヤマコ……派手な柄の小袖の着物。腰帯。髪を長く垂らし、首の後ろで紐で一つに束ねている。草履を履く。帯に小さな鞭をはさんでいる。
ウミヲ……烏帽子を被り、直垂(ひたたれ)に括り袴(裾丈が膝下)。草履を履く。
婆あ………地味な柄の小袖の着物。着物の上から白い腰巻を巻いている。
◎この芝居は虚構であり、架空の物語である。
◎一場
今は昔の物語。
時は中世。人の売り買いが人目を避けてではあるがなされていた時代。
ある晩春の日の午後遅く。空は曇りがちである。
日本の東にあるアズマの国と、日本の西にあるヒノモトの国の国境(くにざかい)にある無人の小さな島。
その小島の小高い場所にある、小さなお堂の前の空き地。人の売り買いが秘密裏に行われている場所でもある。
お堂の中には、小さな観音菩薩像が御本尊として祀られている。お堂の屋根は鳥たちの落とした糞にまみれ、その糞の中には、鳥が食べた小さな木の実の種が混じっている。
お堂の前では人商い(ひとあきない)を生業とする女・ヤマコが、威嚇用の小さな鞭で自分の手のひらを軽く叩きながら、せわしなくお堂の前を行ったり来たりしている。
ヤマコのそばには、ヤマコとは逆にのんびりと草木とたわむれているテルテがいる。テルテは元気な娘で少々「頭のねじ」がゆるんでいる。
二人はアズマの国からの旅の間に、テルテの人懐っこさもあり、親しくなっている。
島の小鳥がさえずっている。
ヤマコ まだ来ない。いつも約束守んない。ウミヲの野郎め! お天道様が山の端に隠れちまうよ。
テルテ ねえねえ! お話しておくれよ、もう一つ。
ヤマコ ウミヲのやつ、よくあれで人商いが務まるもんだ。
テルテ ねえねえ、ヤマコよぉ、お話してよぉ!
ヤマコ なんだまたかっ。好きだなお前、お話が。
テルテ ねえ、ヤマコよぉ。
ヤマコ これからヒノモトの国へ売られようってのに、のん気な娘だ。不安じゃないのか。
テルテ (明るく)おら、売られるんじゃねえもの。自分からヒノモトの国へゆくんだもの。
ヤマコ (苦笑)そうだったな……。
テルテ ねえねえ、お話してよ。お話してるうちに、待ちびともやってくるべ。
ヤマコ フンッ、しょうがないねぇ。よしっ、もう一つだけな。
テルテ うんっ。(ヤマコの前にじっとしゃがんで座る)
ヤマコ ……今は昔のこと、ワのナの国に住む大金持ちのお館様が、下人のうしびとを飼っていた。とある日のこと、突然うしびとが泣き出した。館で、地獄の赤鬼に出食わしたと言うのだ。うしびとは、お館様の着物の裾にすがりつき、「私めは、地獄の赤鬼が恐ろしい。命が惜しい。お願いでございます、どうかミのヤの国へ逃がして下さい。運が良ければ日暮れまでには、ミのヤの国へ逃げのびることができるでしょう」。そこで気のいいお館様は、うしびとを哀れんで、ミのヤの国へ逃がしてやった。――その夜のことだ。お館様が庭を散歩していると、地獄の赤鬼にバッタリ出食わした。うしびとを失って、だんだん腹の立ってきていたお館様は、地獄の赤鬼に文句を言った、「なぜにわしのうしびとを怖がらせた。おびえて逃げてしまったではないか。これからどんどん山を拓いて、荘園を増やしていかねばならんのに、わしは大損じゃ」。けれども、地獄の赤鬼はかえって驚いてこう言った。「俺ゃうしびとを怖がらせる気などさらさらなかったぞい。逆にこっちが驚いてしまったわ。きょうはたまたま、あのうしびとに出食わしてしまっただけ。ヘヘヘっ、実はあのうしびととはミのヤの国で、あした、会うことになっているのだ」。「あした……?」お館様は、「はてな?」と思いながらも、地獄の赤鬼にこう尋ねた。「すると、うしびとと会うためでないとしたら、なぜにきょう――わしの館にやってきたのだ?」。地獄の赤鬼は、ニタリと笑ってこう答えた。「わからねえのか、お館様よ! きょうやってきたのは、お館様、あんたに会うためだぞい!」。(自分の話を面白がって笑う)ヘヘヘヘっ。
テルテ (うまく理解できない)え――? え――? それって、どういう意味?
ヤマコ 頭悪いな、テルテ。お前、占いしか能がないのかよ?
テルテ 占いは――あれは、おら知らねえうちにやってるだけで……おらもう、占うの、やめるんだ。
ヤマコ (瞬間的に頭に来て)やめるって――、ついさっきあたいを占ったじゃないか!
テルテ 占った……? おらが? おめえを?
ヤマコ 覚えてないのかよ! まったく。
テルテ ごめんっしゃ……。(お話への好奇心を抑えられず)ねえねえ? それでさっきのお話、どういう意味だべ?
ヤマコ つまり……地獄の赤鬼は、「きょう」はうしびとじゃなくて、お館様の命をもらいに来たのよ。自分が死ぬのに、それに気づかないお館様を、地獄の赤鬼は馬鹿にして笑ったってわけ。
テルテ ああっ、そういうこと。
ヤマコ そして「あした」はミのヤの国で、うしびとの命を頂戴するってわけさ。どこに逃げても、地獄の赤鬼からはのがれられない。おのれの「定め」からはのがれられない……。(手を合わせ自分の心の中の神仏に祈る)
テルテ なんだかかわいそう……。
ヤマコ それが「死」ってやつさ。
テルテ せっかくミのヤの国まで逃げたのに、赤鬼に食われちまうだなんて。
ヤマコ (蔑みを含んで)うしびとがか?! うしびとがかわいそうってのか? ハハハっ。おいおい、それにあたいは、うしびとが食われるだなんて、ひと言も言ってないぞ。
テルテ え、地獄の赤鬼って、牛の肉食うんじゃねえの?
ヤマコ 牛じゃない。人だ、人、「うしびと」は!
テルテ (急に自分の無智が恥ずかしくなって)だっておら、うしびとって、見たことねえもの。
ヤマコ なんだテルテは、うしびと知らないのか? (からかう)実はうしびとはなぁ、体が人で、頭が牛なんだ。だから、うしびと! 「モウオォッ!」
テルテ まさか! 本当にぃ?
ヤマコ ハハハっ。――冗談さ。だから言ったろ、人だって。
テルテ たまげたべ。
ヤマコ うしびとは根っからの下人さ。生まれ賤しいやつのことさ。うしびとのやつらは、ヤクドクの毒の花粉吸っても平気なんだ。牛みたいに鈍いもんだから、毒の効くのもわかんない。だから、ヤクドクの木の務めに駆り出されてるのよ。
テルテは「ヤクドクの木の毒」の話に急に身を硬くさせ――
テルテ おら――、ヤクドクの木なんか、なくなっちまえばええと思ってる。
ヤマコ (びっくりして声をひそめ)めったなこと言うもんじゃないよ! ここは周りに人のいない島だからいいけどよ。
テルテ ヤクドクの木は春になると、毒の花粉まき散らして――アズマの国はもう駄目だ――おらとこの村も、何人も毒の花粉のせいでワズラってる。
ヤマコ だから、言うなってそれを!
テルテ ねえ、なしてこんなことになったんだべ? ヤクドクの木が毒を出すなんて、毒の花粉まき散らすだなんて。……知らねえうちにやられちまうんだ。ヤクドクの花の花粉すい込んじまうと、花粉が知らねえうちに、胸ん中むしばんでく。そのうちに息が苦しくなって、食べられねえのに腹下して、ワズライの床についちまう。どうにもこうにもやる気が失せて、あげ句の果てはオダブツだ。(そのとき空に稲光が走る)――ねえねえ、これって天の神様が怒ってるんだべか?
ヤマコ (稲光にビクついて)なんだかヤな感じだね……。さすがのお前も知ってるだろ? ヤクがあればドクがある。ヤクドクの木の毒は、人を苦しめるが、ヤクドクのヤクの実は、金になる。人を腑抜けのようにうっとりさせ、桃源郷に誘い込む魔力があるんだ。ヤクドクのヤクの実が生み出す銭と、その旨味を吸うために、ヒノモトの国も、ヒノモトの人も、国ぐるみ・人ぐるみで、ヤクドクの木を守ってる――。
テルテ だから――だから――なくなっちまえばええ、そっだら恐ろしいもの――!
また稲光――そして雷鳴。
ヤマコ (おびえてお堂にすがりつく)アギェッ!
そこに稲光を背に受け、顔を陰にした人買いのウミヲがお堂の裏から現れる。腹を立て、荒い息をしている。目は吊り上がり、まさに「鬼」の形相。ここに来るまでに、必死に島のあちこちを捜し回っていたのだ。
ウミヲ おおい、彼奴(きゃつ)が逃げ出しやがった! うしびとがっ! クソったれめが!
テルテ (心底びっくりして)ギャッ、出た! 地獄の赤鬼!
ウミヲ なんだとぉ? 地獄の赤鬼だと!
ヤマコ (ウミヲだと気づいて息をつき、苦笑して)この男は、人さらいのウミヲだよ。
ウミヲ どっちも――人聞きが悪い。
ヤマコ じゃ、かどわかしのウミヲ。血も涙もない人買い男。
ウミヲ 人商いはお前もご同業だろうが、ヤマコ。――そんなこたぁ今はいい。うしびとのやつが、逃げ出しやがったんだ!
ヤマコ あれっ? あんたとしたことが! きょうの「商いもん」のがしちまったのかい。
ウミヲ この島に舟を着けた途端、俺を突き飛ばして逃げ出しやがった。その力の強えこと。まさに牛だ。
ヤマコ しかし、逃げるったってこの小島じゃ――
ウミヲ ああ、空き地はお堂のあるこの辺りと、あとは、裸足じゃ痛くて歩けねえようなゴツゴツした岩場ばかりだ。逃げられるもんじゃねえ。
ヤマコ だったらこの辺に――
ウミヲ それがいねえのよっ、うしびとのやつ! 俺ゃ島中ぐるっと捜し回って、ここに戻ってきたところだ。
ヤマコ、ニヤリと笑って――
ヤマコ 「二つの瞳より四つの瞳」。捜すの手伝ってやるよ。
ウミヲ 有り難え。やっぱりお前、俺のこと――
ヤマコ (慌てて否定して)勘違いすんじゃないよ。商いのためさ。何もあんたのためじゃ――
ウミヲ (半ばあきれて)ヘッ、一に商い、二に商いか。さすがはサンジョウの親方の娘だよ、お前は。
ヤマコ 馬鹿にして。
ウミヲ (テルテを見て)このおなごは……?
ヤマコ きょうのお品(しな)さ。
ウミヲ (テルテを見て値踏みする)ふぅん。
テルテ (見られて居心地が悪い。が、聞く)……おめえさ、ほんとに地獄の赤鬼でねえの?
ウミヲ このウミヲ様のどこが赤鬼だ!
テルテ (ホッとして)おら、命取られるかと思った。
ウミヲ なんだ、この女? (自分の頭を指で叩いて)足りねえのか?
ヤマコ おつむのねじがゆるんでんだよ。
テルテ エヘっ。エヘヘヘっ。(ト何故か笑う)
ウミヲ (つられて笑う)ヘッ、笑ってやがら。……(ヤマコに)で、どうするよ? しばらくお堂にでも括っとくか?
ヤマコ 逆に逃げないよ、この子は。自分で売られるのを望んでんだから。
ウミヲ ほうっ……、てめえから?
ヤマコ わずらって寝てるおとうのため、苦労の絶えないおかあに楽させるため、幼い弟と妹のため。親孝行の泣かせる子だよ。(涙ぐむ。泣き上戸)
ウミヲ チッ、相変わらず情の厚い女だな。(懐から手拭いを出し渡す)
ヤマコ アズマの国は元々貧しい国だけど、哀れなのは女・子どもさ。日照りや飢饉のたんびに口減らしに売られ、戦のたんびにさらわれて売られる。おまけにヤクドクの木が狂ってからは、貧しさに拍車がかかり、あした食う物にも困る始末。嫌がる娘を、泣く泣く親が売るご時世さ。
ウミヲ そりゃあ、人商い人(ひとあきないにん)の俺らのせいじゃねえ。気にすんな。
ヤマコ ところがだ、この子は自分で望んで売られてく。けなげな子だよ!(手拭いで鼻をチンッとかみ、ウミヲに返す)おまけに驚くのは、この子、「お先告げ」をするんだ。少々おつむのねじがゆるんでるせいだな。
ウミヲ へえっ、お先告げを……。(強く興味を示す)
ヤマコ アズマの国のおなごの中には、昔っから「告げびと」の血筋がある。
ウミヲ 告げびとねぇ。聞かねえわけでもねえが……タチの悪い告げびとは、火あぶりだと聞いたがな。世を乱す占いをする陰陽師の手合いはよ。そうお触書に出てたぜ。
ヤマコ (小声で内緒事のように)それがおっそろしいほど当たるんだよ。
ウミヲ へえっ……。おい娘、占ってみな、おめえの占いが当たるなら。――アズマの国はどうなるよ、わがふるさとの行く末は?
ヤマコ (腹立ちと嘲笑)ハハッ! 国を捨てたやつが、「ふるさと」だなんて、笑わせるよっ。
ウミヲ なんだとぉ!
ヤマコ 本当のことだろっ、あんたがアズマの国を捨てたのは。(ウミヲを悲しく睨む)
ウミヲ (瞬時頭に血が昇るが、何とか気を静め)――ヘッ。今は仲良く……うしびとを捜そうぜ。
ヤマコ フンッ……。(気を変えてテルテに)テルテ、ここで大人しくしてなよ。逃げたら、(手を合わせ)お堂におられる観音様に叱られるよ。
テルテ あいっ。
ヤマコ いい返事だ。
ウミヲ (少しいらいらして)さぁっ。
ウミヲとヤマコ、うしびとを捜して雑木林の中へ去る。
テルテ、お堂に手を合わせ、ぶつぶつと独り言。
テルテ 神様、仏様、観音様。神様、仏様、観音様。どうかヒノモトの国の、あまびと(海人)になれますように。――(ふと)ヒノモトの国の海は、まだきれえだってヤマコは言ってたけんど……真珠取れるかなぁ。真珠取れれば、おとう喜ぶだろなぁ。(また手を合わせ)観音様っ、どうかどうか、願いを叶えておくれっしゃ。
稲光がする――お堂の扉がガタガタガタガタ震え出す。扉がそっとあき、辺りをうかがうようにして中からうしびとが現れる。
テルテ (びっくり仰天して)ヒャッ、今度は神様仏様? 観音様? それとも、おめえが地獄の赤鬼様か?
うしびと (名乗り)今まかり出た私は、うしびとです。周りがそう呼ぶうしびとです。生まれながらのうしびとです。これが定めの生まれです。いわゆる下人というやつです。いわゆる奴(やっこ)というやつです。これから誰かに買われ、ヤクドクの森で働かされます。ヤクドクの木の務めに就かされます。もう何度目のことかわかりません。何度逃げ出したかわかりません。そのたびに捕まって、鞭打たれ……真っ赤に熾(おこ)った鉄の焼き鏝(ごて)で、尻に「牛」の焼印を――。私にはもう、自分の出自さえわかりません。自分の「生まれ」さえわかりません。どこで生まれたのか、本当の父親は誰なのか……。確かなのは、人が勝手に私を、うしびとと呼ぶこと……。
テルテ (無邪気に)ねえねえ! うしびとって本当なの? おら、うしびとって初めて見た。どこに住んでんの? 何食ってるの? ねえ、おめえさ、海好き? 素もぐりできる? ねえねえ、ヒヅメはあるの?
うしびと さっきから何を聞いてた、ヒヅメなぞあるものか! 私は人だ!
テルテ (うしびとの剣幕にびっくりして)おら――おら……初めて見たもんだから。(しょげる)
うしびとは下人や奴婢が身につける粗末な着物を着ている。しかし自分なりに精一杯奇麗に保っている。このうしびとが生来持つ気品がにじみ出ている。
うしびと (しょげるテルテを気にして)……なんだそなたは? 名はあるのか?
テルテ (すぐに元気に)村ではアンズと呼ばれてた。だけど売られることになった日に、おら、テルテと名ぁ変えた。お日様が照る照るのテルテだ。おら、お日様が好きだ。海からのぼるお日様が。海にしずむお日様が。だから元気でいられるように、お日様が照る照るの、テルテにしたんだ。
うしびとはテルテを「おかしなおなごだな……」と思いながらも。
うしびと テルテとやら、人買いどもはどっちへ行った? あっちか――こっちか?
テルテ あっちに行った――
うしびと あっちだな。(ト逆方向へ逃げようとするが――)
テルテ ……かも。いやちがう。そっちに行った――(トうしびとが逃げ出した方を指す)
うしびと 何?(足を止め)そっちだな。(ト逆方向へ)
テルテ ……かも。
うしびと かも――? (逃げ惑い)うぅっ? ど、ど、どっちだ――?
テルテ あっちから――戻ってくるかも。
うしびと あっちから――(ト逆方向へ逃げようとするが……)
テルテ いや、そっちから(うしびとが行きかけた方から)――戻ってくるかも。
うしびと そっちから。(おびえて、行きかけては後ずさりして、戻る)
テルテ いやいや、こっちから――戻ってくるかも。
うしびと こっちから――(トまた行きかけては……)
テルテ いやいや、そっちから――戻ってくるかも。
うしびと そっちから?(右往左往)
テルテ そっちから――こっちから!
うしびと そっちから――こっちから?(右往左往)
テルテ こっちから――あっちから!
うしびと こっちから――あっちから?(結局その場を少しも動けない。恐怖に体が震える)――ああっ、情けない。見えぬ人買いどもの影におびえるとは。
テルテ アハハっ! おめえさ、怖いんだ人買いが。まれに見るおじけ者(怖気もの)だな! 見えねえイバラ(荊)に縛られてるみてえ。
うしびと (心底憤って)そなたは鞭の痛さを知らぬのだ。焼金(やきがね)の熱さを知らぬのだ。逃げて捕まるたびに、鞭打たれ……、それでもうしびとの暮らしに耐えかねて、逃げて逃げて――、捕まって――。
テルテ おめえさ、そんなに嫌な務めさせられてたの? ねえ?
うしびと あっちこっちに売られては、きつい仕事をやらされていた。潮汲み。芝刈り。水汲み。塵芥(ちりあくた)の掃除。そして――死んだ牛の世話。
テルテ だからか――。
うしびと そなたは、初めてか? 売られるのは。
テルテ ふふっ。うふふ。
うしびと なんだ、うれしいのか?
テルテ んだ。
うしびと 何故? ええっ? 売られるのが何故うれしい?
テルテ おとうおかあが、喜ぶから。
うしびと そなたが売られるのを、親は、喜んでるのか?
テルテ 買われるのをだよ。銭がへえるから。家が助かるから。それが、おらの役目だ。
うしびと 役目――。
テルテ それに、おら一人じゃねえし。コヨ姉(ねえ)もサヨ姉も、みんなヒノモトの国へ売られてった。
うしびと (批判めいて)何をしてるんだ、そなた親は?
テルテ あまびとだよ、立派な。アズマの国でいちばん素もぐりがうめえんだ、アワビ取るのがうめえんだ。今はおとう、ワズラってるけど……。おら、おとうの顔見るのがつらくてつらくて――
うしびと 売られるなんて、そんないい事ではないぞ。主(あるじ)次第、運次第。ほとんどがひどい所だ。
テルテ んだべか……?
うしびと 私がその証だ。逃げたんだ私は、何度も何度も、我慢しきれなくなって。(指で脱走回数を数える)ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ……(延々と……)一回逃げるたびごとに、鞭打たれ、焼金を当てられ――(ト自分の尻を手で撫でる)
テルテ ねえねえ、そういう生まれ? うしびとって?
うしびと だから! 売られるたびに、逃げ出すたびに、そう呼ばれるようになった。
テルテ ねえねえ! 逃げられねえの、うしびとから?
うしびと うしびとから――?
テルテ うしびとから、ちがうもんに、変われねえの?
うしびと 変わる――?
テルテ そうっ、なんか別の人に?
うしびと (パッと顔を明るくほころばし)よしっ――。そなたにだけ、私の秘密を教えて進ぜよう。何を隠そう私は――まろびとなのだ。「まろびと」。わかるか? 本当はまろびとなのだ。やんごとなきお方の血筋につながる者。
テルテ まろびとって――え? えっ? ミカド様と血がつながってるってこと?
うしびと ここに、証の系図もある。(懐を押さえる)
テルテ 見せて見せて!
うしびと いや、これはめったなことでは……。それにそなた、字は読めるのか?
テルテ おら……、お話は――好きだ。
うしびと フフっ。(勝ち誇って)よし。お伽話のようにして、そなたに語って聞かせよう、私の悲しい御物語(おんものがたり)を。
テルテ うんっ。
テルテは膝を抱え、うしびとの正面にじっと座る。
うしびと (目を輝かせて語る)実は私は、京の都に生まれたまろびとなのである。さるやんごとなき父母(ちちはは)の元に生まれた、正真正銘のまろびと。その父母に、いつくしみ育てられた、それはそれは見目麗しいおのこ(男の子)であった。けれども私が七つの歳に、母上が流行病(はやりやまい)にかかり、あっけなくみまかってしまわれた。
テルテ みま……かる?
うしびと 死んでしまわれたのだ……。
テルテ おめえのおかあ――死んだのか。
うしびと そうだ。私の悲しみは海よりも深いものであった。そしてその母上の死が、私の不幸の始まりであったのだ。
テルテ いったい、なしたの?
うしびと 新しい母に疎(うと)まれたのだ。
テルテ 新しいおかあに?
うしびと ああ、後添えとしてやってきた継母にな……。その人は初めこそ優しかったのだが、自分にやや子が出来ると、急に私に冷たくなった。腹を痛めたわが子可愛いさに、血の繋がらぬ私が疎ましくなったのだ。新しい母は、嫡男である私を追い出しにかかった。わが子である腹違いの弟に、家督を継がせるために。その継母はあろうことか、怨霊に魂を売り渡し、私にまがまがしい呪いをかけたのだ。私はあっという間に病にかかり、三日三晩寝込んだかと思うと、気づいた時にはたいそう醜い有り様になっていた、まるで牛のような顔形に。ダラダラとよだれを垂らし、四つ足でのろのろと地面を這い回る有り様。――優しかった父上からも疎まれた。外聞をはばかられ、ついには無情にも家を追い出されてしまった。それからはまさに、牛が地を這うごとくの流浪の暮らし。わらしに石持て追われ、乞食の真似をして暮らす日々。挙げ句の果ては、アズマの国に流れ着き、ワズライのヤクドクの木を、牛のように引っこ抜く有り様。患い過ぎて駄目になったヤクドクの木を、まるで牛のように――。
テルテ (バッと距離を取る。毒を吸わないように口を押さえて)おめえ、ワズライのヤクドクの木を?! あの毒で、アズマの国は駄目になったんだ――。知ってるの、おめえさ? 毒は平気なの?
うしびと 「うしびとには稀なる力がある」……そう人は信じている。本当は、これこそがまろびとの証であるのに。
テルテ でも――、そのまろびとのうしびとさんが、なして今ここさいるの?
うしびと (筆の穂先で花粉をぬる仕草をして)ヤクドクの花の花粉をぬっている最中に、逃げ出したのだ……。毒に恐れをなした蜜蜂の代わりに、何千何万のヤクドクの花の雌しべに、雄しべの花粉を付けていたのだ。だが、ふとした弾みに梯子から足を滑らせ、枝から落ちた。そのとき、地面に叩きつけられ体に、稲妻が走ったのだ。これが――、このようなみじめな仕事が、まろびとの務めなのだろうか……。そう思ったときには、後先考えず、花粉をぬる筆を投げ捨てて走り出していた。――なあ、テルテとやら、信じてくれるか。私がまろびとなのだと?
トその時、お堂の裏手から鞭を手にしたウミヲが飛び出してくる。続いてヤマコも。
ウミヲ 誰がまろびとだと! ふざけるなっ!(二度、三度とうしびとを鞭打つ)
うしびと アアッ!! アアァッ!!(体と心の痛みにうめく)
ウミヲ うしびとよ、お前はうしびとだ! 下人だ、げにん。奴だ、やっこ。(うしびとの懐を探り系図の巻紙を取り上げ、開いて見る)こらなんだ、白紙じゃねえか。
うしびと まろびとの系図はここに、この胸の中に書かれている。
ウミヲ ふざけるな! お前はアズマの国で、ヤクドクの木の務めを一生果たしてりゃいいんだよ。ヤクドクの実の採り入れで、一生を終えるんだ。わかったか!(また鞭打つ)
うしびと アアァッ!!
テルテ やめれっ! やめれっ!(うしびとを必死にかばう)
ウミヲ なんだぁ? ……ハハァン、おい娘。うしびとに一目惚れか?
テルテ ひとめ……ぼれ? ひとめぼれって何?
ウミヲ なんだ、この女? 頭おかしいのか?
ヤマコ だから言ったろ、おつむのねじがゆるんでるんだって。
ウミヲ ヘッ、おもしれえ。(トつぶやきながら、うしびとの首に飼い牛のように縄をつける)
テルテ (縄をつけられるうしびとを、目を丸くして唖然として見る)あんれ、まあ……。
ウミヲ (テルテに)おめえ、あした何が起きるか、お先告げができるんだってな。おめえはアズマのイタコか、陰陽師か? よぉっ、俺のあしたを占ってみろよ。よぉっ! 告げびとさんよ。
うしびと そなた、お先告げができるのか?
テルテ (何だか笑って)おら、おら、占いはもうやめるんだ……。
ヤマコ 何言ってんだか。(ウミヲに)この子は「なんか」起こんないと、お先告げができないんだよ。
ウミヲ なんかってなんだ?
ヤマコ 突飛なことさ。何かが起こるだとか、ひどくたまげるとか、気持ちが異様に高ぶるとか。
ウミヲ 面倒くせえ娘だな。
テルテ、その人懐っこい性格でウミヲに聞く。
テルテ ねえねえ聞いて、人買いさんよ。おら真珠取りになりてえな。おら息長いんだ。おら海にずっともぐってられる。昔は海が遊び場だったからな。
ウミヲ へえ、そうかい。
テルテ ねえねえ、人買いさんは? どう? 海好き? 素もぐりできる? ヒノモトの国の海は、まだきれいだっていうな。
ウミヲ アズマの国に比べりゃな。しかしこの頃ぁ鬼クラゲが増えてきた。ありゃヤクドクの毒のせいだろか……。(思わず考え込む)
テルテ おら、海で泳ぎてぇ。もう何年も海で泳いでねえもの。ヒノモトの国のあまびとになって、きれえなきれえな海にもぐって、深え深え海にもぐって、アワビ取るんだ。真珠取るんだ。
ウミヲ おめえ、真珠が取れるのか?
テルテ (首を振る)んにゃ、まだ取ったことねえ……でもおとうが話してくれた。きれえな海にもぐると――あるって。それはそれはきれえな白い珠(たま)で、アコヤ貝って貝の涙が、真珠になるんだって。そうおとうがおらに教えてくれた。おら、ぜってえ真珠取りになるんだ。
うしびと 貝の涙が……真珠に。
ウミヲ おもしれえ女だな、おめえ。――(テルテを気に入って)おい、俺の宿に来るか。ええ? どうだ。でっかい宿だぞ。腹いっぱい飯食わせてやるぞ。奇麗なベベ(着物)も着せてやる。
テルテ 海も連れてってくれる?
ウミヲ (ニヤリと片頬をゆるませて)俺の言うこと聞くならな。好きなだけ連れてってやる。
テルテ だったらおら――、おめえとゆく。
ウミヲ よしっ!
テルテ 早くヒノモトの海へ行きてえな。おらほんとは――、うちから逃げ出してきたんだ……。
ウミヲ (適当に相槌を打つ)わかってるって。そういうの全部ひっくるめて、俺の宿に来い!
意気投合するウミヲとテルテ。しかしヤマコが――
ヤマコ 待ちなよ――。その子はまだ、あんたの「物」じゃないよ。
ウミヲ チッ。幾らだ?(懐の財布に手をやる)
ヤマコ テルテは生娘だ。銭五貫文だ。
ウミヲ ちと高くねえか。五貫文なら、栗毛の馬が二頭は買える。三貫と五百がいいとこだ。
ヤマコ 銭がかかってんだよ。テルテの親にはもう前金渡しちまってるし。飯食わせて、舟乗せて――それにお先告げをやるんだ。
ウミヲ まだ見たことねえからな。信じられねえ。
ヤマコ この子、あたいを占ったんだ――。
ウミヲ 何――? (軽く聞く)なんて占ったんだよ?
ヤマコ …………。(急に口をつぐむ)
ウミヲ よぉ、ヤマコよ? どうしたよ?
――間。ヤマコ、気を取り直して、
ヤマコ うしびとは、幾らだ?
ウミヲ こいつは二貫と五百文。
ヤマコ テルテは四貫五百に負けてやる。差し引きで、残り二貫文、今すぐ寄越しな。さ。(ト手を出す)
ウミヲ (あきれて)しっかり商い上手だな。サンジョウの親方も、さぞ喜ぶだろうよ。
ウミヲはヤマコに金を渡す。銅銭を紐で差し通した、ひとつ一貫文(千文)の銅銭の塊を二つ。(作者注……ここでは銭一貫文を約十万円で計算している)
そしてウミヲはヤマコにうしびとの首につないだ縄を渡す。
ウミヲ テルテ、こっち来い。
ヤマコ うしびとはあたいとだ。……道中、その子に変な真似するんじゃないよ。
ウミヲ しねえよ、そんなこたぁ。(ニタリと笑う)
ウミヲ、ヤマコに何気ない風を装いながら気になっている事を聞く。
ウミヲ よぉ――ところで、親方は元気かよ、サンジョウの親方は? 体壊してると、噂で聞いたんだが……?
ヤマコ 国を捨てたあんたとは、商いするなって言われてる。
ウミヲ ヘッ、口は達者ってわけか。
ヤマコ 相変わらずだよ。足は弱ったけど、恩知らずの野郎がそばにいないんで、ますます元気になった。(少し強がり)
ウミヲ 嫌われたもんだな。戻る場所はねえ、か。
ヤマコ よく言うよ! 親に捨てられ、道端で腹すかして泣いてたガキのあんたを、拾って育てて、一人前の人商いにしたのは、誰だと思ってるのさ。育ての親の恩も忘れて、あんたは親方裏切ったんだからね。
ウミヲ こりゃ藪蛇だ。聞かなきゃよかったぜ。
ヤマコ フンッ。(用意ができて、うしびとに)さ、行くよ!
ウミヲ (ヤマコの腕を取り)まだいいじゃねえか。よぉ。
ヤマコ 雲が荒れそうだ。時化が近いよ。この頃はヤクドクばかりか、お天道様も狂ってる。
ウミヲ (ヤマコの斜視の目を見つめ)よぉ。その目が――俺ゃ好きなんだ。俺ゃその目に吸い寄せられる。お前がまだ、俺に気があるのはわかってるんだ。だから親方が寄せと言っても、俺との商いを続けてるんだろ。
ヤマコ あんたは――儲けがいいからさ、ほかの人買いに比べて。それだけ。
ウミヲ わかってるだろ、アズマの国はもう駄目だ。今にヤクドクの毒で、体が駄目になっちまうぞ。この春の花粉の季節にゃ、ヒノモトの国まで毒の花粉が舞い散ってきやがる。
ヤマコ アズマの国は、あたいらのふるさとだ。――それにあんた、嫁もらったんだろ、ヒノモトの宿で?
ウミヲ 妬いてんのか? ありゃあ……(一瞬逡巡して)ただの宿の婆あ(ばばあ)だ。掃除したり、着物洗ったり、身の回りの世話をするだけの婆あだよ。心に決めた女は、ヤマコ、今も昔もお前一人なんだ。(とヤマコを抱きすくめようとする――が)
そこにまた突然、稲光が瞬き、雷鳴が轟く。
ヤマコ ギャァッ!
テルテ キャーーーッ! (雷におびえる)あああぁぁぁ………
ウミヲ (ヤマコとの雰囲気が壊れ、機会を逃がし)チッ。
ヤマコ (やおらお堂に向かい、震えながら祈りを捧げる)鎮めたまえ、守りたまえ! 鎮めたまえ、守りたまえ!…………
また雷。
ヤマコ ギャアッ!
ウミヲ (あきれて)ただの雷だよ。
ヤマコ (おびえて、ハッと気づいたように)怒ってらっしゃるんだ。
ウミヲ 何――?
ヤマコ ……そうだよ! 胸がざかざかしたんだ。この人商いを――天の神様が怒ってらっしゃるんだ!
ウミヲ なんだとぉ?! 相変わらず信心深えな。
ヤマコ (突然に)なしだっ――この商いは。金返すよ。また日を改めてだ。
ウミヲ お、おい、馬鹿言うなっ! テルテは俺がもらってく。
ヤマコ 帰るよ。(テルテの手を引っ張る)
ウミヲ ふざけるな!
トまた稲光と雷鳴――。
ヤマコ (雷におびえて頭を抱える)ギャアッ! こりゃほんっと縁起悪いよ!
ウミヲ そんなこと言ってると、言霊が真(まこと)を呼び寄せちまうぞ!
テルテ (突然低い声で唸り出す)おおおおぉぉぉぉ……おおおおぉぉぉぉ……
ウミヲ (テルテの様子に驚いて)なんだぁ?!
また稲光が走る。
テルテ おおおおぉぉぉぉ……
ヤマコ テ、テルテ――? あんた、まさか――?
ウミヲ よぉっ、お先告げかよ?!
今まで以上に大きな雷鳴――!
テルテはあぐら座りで上体を揺らしながら唸る。目は虚空を見るともなく見ている。耳はお天道様の声を聞き、口はそのお天道様の言葉を伝える。呪術師のような口調で低い声である。
テルテ おおおぉぉぉ……おおおぉぉぉ……燃えるぅ、燃えるぅ……ヤクドクの木が。炎の中でうしびとが……うしびとが踊っているぅぅ。
うしびと (びっくりして思わず体が跳ね上がる)何ぃ――?!
テルテ ヤクドクの木を焼きながらぁ、うしびとが踊っているぅ。この世にたった一人の、まろびとのうしびとがぁぁ……
うしびと 私が――?! 何を言ってる――?!
テルテ まろびとのうしびとが……ヤクドクの木を焼き払うぅ。……一本残らずぅぅ。燃えろぉ、燃えろぉ、ヤクドクの木よぉ。燃えろぉ、ヤクドクの森よぉぉ。うしびとよぉ、ヤクドクの森を焼き清めよぉぉ……。おおおぉぉぉ……うしびとよぉぉ……
うしびと 馬鹿を言うな! おい、目を覚ませ。(テルテの頬を叩く)おい! おい! そなた、目を覚ませ!
テルテ (朦朧としながらも少し我を取り戻す)痛いよぉ……!
ウミヲ まがまがしい占いだぜ。(うしびとに)これがおめえの、あしたの運命らしいな。
うしびと むぅっ――!
ヤマコ おっそろしぃっ。そんなことすりゃ大罪人だよ。百叩きだ。縛り首だ。何かの悪い夢だよ!
ウミヲ こりゃおもしれえっ。アズマの国丸ごと燃やしちまうがいいや! アハハっ! 牛の屁にもならねえうしびとが、国をひっくり返すとよ。(馬鹿にして笑いに笑う)ヒャハハハハっ! ヒェッヒヒヒヒっ! 燃やしちまえ、ヤクドクの木を! ヤクドクの森を! ついでにアズマの国もぜんっぶ燃やしちまえ、うしびとさんよぉ! ヒャッハハハハっ! ヘェヘへへヘヘっ!
うしびとはテルテの「お先告げ」におびえ、しかし同時に腹を立てる。ウミヲに向かって突進する。
うしびと (ウミヲにぶちかまし)モゥオッォオォォっ!!!
ウミヲ アアッ、何しやがるッ。(よろける)
うしびと、首の縄をヤマコの手から引っこ抜いて、縄を付けたまま必死に逃げ出す。
うしびと (叫びながら走り去る)アッアァアアァァァーーーっ!!!
ウミヲ (一瞬あっけに取られ)うしびとにしちゃ、逃げ足が速え。
テルテ (夢から覚める)……ねえ、なしたの? あれ? うしびとは? ――走ってる!
ヤマコ あんたも罪なおなごだよ。うしびとに呪いをかけやがった。
テルテ (困惑して)おらが――呪いを? おら……おらっ――なんもわかんねっ!
ウミヲ こりゃいいや! へへっ、テルテ、俺ゃおめえが気にいった! (懐から財布を取り出し、ヤマコに投げつける)ヤマコ、ほら、景気づけだ! この娘、お前の言い値で買い取ってやる。おーい、うしびと、待ちやがれっ! 逃げらりゃしねえぞぉ!(腕捲りして追っていく)
テルテとヤマコは逃げるうしびとと、それを追うウミヲの姿をハラハラしながら目で追う。
とカラスが一羽、「カァーっカァーっ……」と鳴きながら、お堂に糞を落として飛んでゆく。
テルテ あっ――。(カラスが糞を落とした)
テルテはお堂にさっと近づき、指で糞を取る。
ヤマコ 何してんだよ、汚いよ。
テルテ 木の実の種だ――。
「カァーっカァーっ……」とカラスの鳴き声。
トやや遠くで、逃げるうしびとを追うウミヲの必死で、どこか楽しげな声がする。
ウミヲの声 待てーーーっ! うしびとっ! 待ちやがれぇ~~~っ!
テルテは木の実の種を指に取った格好で、逃げるうしびとをじっと見る。
すとんと暗くなる。
◎二場
一場から約一年が経つ。ある春の日の夜のこと。小雨が降っている。
ここはヒノモトの国にある、ウミヲの営む宿屋。「すもぐり屋」。旅の宿であり、宿の女たちが春を売るところでもある。アズマの国との国境からさほど離れていない街道筋にある。宿の表には「すもぐり屋」の看板が掛かっている。
その宿の一室。テルテの部屋。四畳半の広さの板間が二つ。下手の部屋には衣桁(いこう)と小さな屏風が置いてある。床に置かれた膳には湯飲みが二つとお茶の入った鉄瓶。上手の寝室には二畳ほどの畳の上に、寝乱れたままの布団が敷かれている。テルテはその布団で宿の客と「まぐわい」(性交・売春)を交わしたあとである。テルテは一年のうちに男とのまぐわいはもちろん、宿での暮らしにも慣れてしまっている。
テルテは今「事」を終え、部屋の戸口に立ち、帰る客を見送っている。
テルテ また来ておくれ。おらの素もぐりはアズマの国仕込み、ヒノモトの国一だよ。待ってるよぉ。
客は帰っていったようだ。テルテは部屋の中に戻ると、小さな鉄瓶から湯飲みに茶を注ぎ、飲む。「ヤク茶」である。ヤク茶は、ヤクドクの実を干して粉にしたものを煮立てて淹れた茶で、多幸感と高揚感をもたらす強い幻覚作用がある。
宿の婆あが来る。腰は曲がっているが、慣れた手付きで部屋を片付け、手早く布団を敷き直す。
テルテは部屋の隅で背を向けて、立て膝で、汚れた自分のアソコを濡れた布でぬぐっている。
テルテ おばぁ、ヤク茶が切れてるよ。持ってきといておくれ。
婆あ あいーーーっ。でも、乙姫や。
テルテ ん? 何さ?
婆あ ヤク茶飲ませても、飲まれるな。
テルテ わかってるよ。
婆あ ヤク茶は、客に飲ませるもの。
テルテ わかってるって。
婆あ わかってても、やめられないのが、ヤク茶と男。(お盆に茶の道具を仕舞って、さっと部屋を出る)
テルテ (婆あの去った後の戸に布切れを投げつけ)おばぁの小言は聞きたくねえ!
婆あ (さっとまた顔を覗かせ)聞きたくないのは、夜中の歯軋り、婆あの小言――てか。
テルテ ハハハっ、おばぁ、わかってんじゃねえの。
婆あ (笑う)ゲゲゲゲゲゲっ。こう見えても若い頃ぁ、乙姫も顔負けの「男殺し」だったのさ。(科をつくる)
テルテ おばぁが?
婆あ あたしもアズマの国から売られた遊女上がり「だべ」。この体ひとつで、ここまでこの世を渡ってきた。
テルテ (前から気になっていた……)ねえねえ、おばぁ。ウミヲは……、おばぁの実の息子だって――本当?。
婆あ たぶん……あの子がそう言うんだから。産んで、程なくして別れたから、確かなことはわかんない。てて親が誰かもわかんないしね。
テルテ そう……。
婆あ (袖をまくって)腕の四つのホクロを手がかりに、あの子があたしを見つけたのさ。
テルテ おばぁ、物乞いしてたとか……?
婆あ 東大寺の門前でね。そこへ、大仏様のお導きか気まぐれか、一生一度の罪浄めの祈祷に来ていたウミヲに、手ぇつかまれて、この宿に連れてこられたってわけ。うんもすうもないんだから。ここだけの話、あたしゃ今でも、あの男が実の息子とは思えない。
テルテ でも――似てる、ウミヲに。
婆あ やだよ。やめとくれ。(何だか照れる)
テルテ 似てるよ。
婆あ どこが――?
テルテ 口いっぺえ飯がっつくとこが。銭つかんだら離さねえとこが。業突く張りなとこが。
婆あ (面白がって笑う)ゲゲゲゲゲっ。嫌なとこが似るもんだね。
テルテ (ほがらかに)アハハハ。
婆あ ゲゲゲゲゲゲっ。(ふざけて)あたしゃもう――死なない気がする。
テルテ アハハっ、やんだっ、おばぁったら!
婆あ ゲゲゲゲゲゲぇっ。(大いに笑う)
ウミヲ、来る。
ウミヲ おい婆あ、ねじくれたがま蛙みてえに笑ってねえで、部屋片付けな。次のお客がアソコおっ立てて待ってるんだよ。
婆あ あいーーーっ。(ト去りかけて、振り向いて、ウミヲの背に「ベーっ」と舌を出して去る)
テルテ うふっ。(思わず笑みがこぼれる)
ウミヲはテルテの笑みを、自分に微笑みかけたものだと勘違いして、笑みを見せる。どこまでも幸せな男である。
ウミヲ テルテ、またおめえ名指しの客だ。すっかりこの宿の人気者じゃねえか。一年前は嫌だ嫌だと泣いてたオボコが、今じゃ別人だ。
テルテ おめえさに、たっぷり仕込まれたからな。(男の股間への)素もぐりの仕方。タマのなめ方。男のあしらい方。もう五年十年経ったみてえだ。
ウミヲ へへっ。さ、お足寄こしな。
テルテ (銭を渡しながら)ねえねえ、ウミヲ。いつ海に連れてってくれる?
ウミヲ もっと稼いでからな。(お足の中からほんの少しの銅銭をテルテに渡す)
テルテ (手の中のわずかな銭を見ながら、ふと)おら、聞こう聞こうと思ってたんだが……
ウミヲ なんだ? なんでも聞いてみろ。
テルテ おらの取り分、少なくねえか?
ウミヲ むっ?
テルテ 花代百文のうち、たったの十文。
ウミヲ (ごまかして……その卑屈な表情を見よ)前に話して聞かせただろ。いいか、花代百文のうち、半分の五十文は、この宿の主である俺の取り分だ。おめえに部屋を使わしてやって、おまんま食わしてやってるんだから、な、当り前だ。あとは――そうよ、着物代に白粉代、髪をきれいに結ったりのあれこれが、二十五文。残りの二十五文のうちの十五文が、おめえの親に渡した前渡し金の返済だ。差し引き残り十文が――おめえの懐に入るってことよ。つまりだ、おめえは全然損してねえってわけ。逆にありがたく思ってもらわねえとな。ヘヘヘっ。
テルテ ふぅん、そっか……。(言いくるめられる。計算が得意でない)――おら、この床下の甕(かめ)に、お足ためてんだ。いつか海に行くときに困んねえようにな。
ウミヲ (ニタリとして)……そりゃ秘密にしとかなきゃな。誰かに盗まれたら事だ。ま、このウミヲ様の宿に盗みに入るやつなんて、ヒノモト中捜してもいねえだろうがな。――おっ、そうだ。ヤマコのやつが、これをおめえに。(懐から小さく折り畳んだ、手紙代わりのなめした革を取り出す)
テルテ おらに――? なんだろ?
ウミヲ おめえのすぐ下の弟が、ヒノモトの国へ売られていったのよ。覚えてるだろ、人売りのヤマコの手配でな。その弟が、おめえに文(ふみ)を預けて寄越した。渡しゃあわかると、生意気な口を叩きやがったが。
テルテ クズシローが、ヒノモトの国へ――。
ウミヲ 安心しな。このウミヲ様が、ヒノモトの国の荘園の中でも、いちばん楽な務めに廻してやったからよ。――んでも、おめえ、文が読めるのか? (「文」を見て)もっとも、こりゃ字じゃねえけどな。波に魚の絵がかいてある。その上から大きなバッテンがしてあらぁ。おい、こりゃどういう意味だぁ?
テルテ あっ――、あっ――!(文を奪い取って、その絵を食い入るように見つめ、震え出す)おとうっ――おとうっ――!
ウミヲ おとう――? おい、テルテ? 乙姫? どうしたよ?
婆あが戸からさっと顔を出す。
婆あ 乙姫姉さんっ、次のお客人(きゃくじん)です。(宿の商売用の掛け声)「お楽しみーーーっ!」(湯飲みやヤク茶の鉄瓶などを乗せたお盆を、テルテのそばに置いて去る)
ウミヲ (テルテの様子を心配しながらも)おい、しっかり稼げよ。海に行きたいんだろ? 客にはヤクドクのヤク茶をたっぷり飲ませろ、いいな。今年の新茶だからな。きっと甘い味がするだろうよ。(ほくそ笑む)
テルテ (震える手でヤク茶を飲もうとする――弟からの知らせに動揺している)ああッ――、いい香り。
ウミヲ (制して)自分は飲むなって! 何度言わせる。客に飲ませて、うっとりさせて、財布の紐をゆるめるのよ。
テルテ (軽い狂乱)だって新茶は――、この宿に初めて来たとき、おめえがおらに飲ませてくれて――。おら、あん時の気持ち忘れらんねえ。海の底の魚んなったみてえに、ゆらゆらゆらゆら揺れて泳いで――海の底なのにまったく苦しくねえ。なんもかんも忘れるみてえに、頭ん中さ空っぽになって――。おめえも、おらをやさしく抱いてくれて――、おらっ――おらっ――(文を手に震える)
ウミヲ (小動物のように慈しみ、そして蔑みながら)かわいいなぁ、おめえは。フンッ、その気持ちを、客に味あわせるのよ。てめえが溺れちゃ、素面(しらふ)の海に浮かび上がってこれねえぞ。わかったな。おっと、くれぐれもヤク茶だなんて気取(けど)られるなよ。いいな。(革の文をテルテの手から奪い取る)さっ、お務めだ!
テルテ 返してっ――!(弾かれたようにすぐに文を奪い返す――そして胸に抱く)
ウミヲ (あきれて)お務めだけはしっかりやれよ、テルテ――いや、乙姫様よ。(客を迎え入れる)どうぞ、お客人、お楽しみーーーっ!
ウミヲ、客をジロジロ見ないように腰を低くして去る。
ウミヲに促されて、客が入ってくる。あのうしびとである。手に持った手拭いで額の汗をふいたり、軽く咳をし口をぬぐう振りなどして、さり気なく顔を隠している。
テルテはもう一度弟からの革の文をじっと見る。流れる涙をぬぐう。だが、文に書かれた内容をとうにあきらめ悟っていたのか気丈にも気を取り直す。革の文を懐に仕舞うと、笑顔で客に向かう。
テルテ おめえさ、初めての人だね? (床に両手をつきお辞儀する)いらっしゃいませ、お客人様! さ、さ、こっちへえって。雨に濡れたの? 外の桜は散ったかえ? (手早くお茶を注ぐ)お茶飲む? 新茶だよ。さ、着物脱いでさ。ぐずぐずしてると時が経つよ。(ト客の腰紐をゆるめようとする)
うしびと (テルテの手を払い)いい。脱がなくて。
うしびとは「取りあえず」といった様子で、テルテの入れたヤク茶を飲む。
うしびと フム……うまいな。まさか――(湯飲みの茶の匂いをかぎ、じっと見る)
テルテ キ、キノコ茶だ。この宿のおばぁが、裏山から摘んできたキノコで作ったお茶だ。この世に二つとねえうめえ茶だ。フハハ。(ごまかし笑い)
うしびと キノコ茶か……。(もう一口啜る)ん、うまいっ。
テルテ (手を出す)花代――。前払いだよ。
うしびと 銭はもうない。宿の入り口で足をすすぐときに、有り金は渡した。私は寝に来たんじゃないんだ。
テルテ 人呼ぶよっ。
うしびと 待て――待ってくれっ! (テルテに近づき、顔を覗き込む)私がわからないか?
テルテ (うしびとにつかまれた腕が)痛いよっ。な、何――? なんだべ?
うしびと な、やっぱりそなただ! あの時のおなごだ。
テルテ だれ?
うしびと 覚えてないか。私さ――うしびとさ。
テルテ うしびと……?(記憶をさぐる)……うし……う……ああ、ああっ。うしびと! あん時のうしびとか。まろびとのうしびとか! なしておめえ?
うしびと シィッ。(声をひそめて)そなたを捜してやってきたんだ。噂を聞いて――。
テルテ 噂……?
うしびと そなたはあれから、あの小島から、ヒノモトの国へ売られて行ったんじゃなかったのか。
テルテ そのはずがさ、ウミヲに変に気に入られて……この国境(くにざかい)のウミヲの宿で働くことになったんだ。
うしびと (宿の奥の方を気にかけて)やはりあの男か……。あの人買いの宿なのか。
テルテ ここも一応ヒノモトの国さ。ウミヲはアズマの国を捨てたと言うけど、離れられねえのさ。だから目と鼻の先のここに、宿を構えて商いしてるんだ。けんどおら、もっと海のきれえな所に移りたいよ。
うしびと 名前を変えてわからなかった。探すのに手間が折れた。
テルテ この宿じゃ、乙姫さ。いい名だろ?
うしびと ただ噂が伝わってきた――。知ってるか、ヤクドクの森で働くうしびとたちは、一年に一度だけ、宿で女を抱く許しが与えられる。秋の実の採り入れが終わったあとに、一年に一度のご褒美としてな。いや、次の一年を、また牛のように働く餌として……。その時、うしびとたちが口々に噂を――天の神様の声を聞く、頭のねじがゆるんだおなごが、国境の宿にいると――。
テルテ 知らねえうちに、客人にお先告げをやってるみてえだな、おら。
うしびと 相変わらず、人事みたいな。
テルテ うしびと、おめえはどうしてたのさ?
うしびと 私か――? あの小島を逃げ出したはいいが、すぐにウミヲに捕まった。それからアズマの国に送られて、ヤクドクの木の、「ヤクの実」採りさ。目には見えない花粉舞う中、毒の花粉を嫌というほど浴びながら、いつ終わるとも知れないヤクの実採りさ。春には、手に筆を持ち、毒の花粉に恐れをなした蜜蜂に代わって、雌しべに雄しべの花粉をつける。夏には、一里も離れた泉から、桶で水を運んでは水やりをする。毒に狂った虫どもが、まだ青い木の実を食べてしまわぬように、日差しに焼かれながら素手で虫を取る。それでも、ワズラい過ぎて駄目になってしまうヤクドクの木がある。そういう木は、根ごと掘り返してしまうんだ。焼くことはできぬからね。焼けばまた、毒の灰が広がってしまうからね。あれはつらい務めだったなぁ。根ごと掘り返すんだ。きれいに傷つけぬように。最後は鍬を捨て、素手で根を掘り返すのさ。傷つけたら、そこから毒の菌が出てくるからね。傷つけぬように掘り返して、ワズライの木を根ごとお日様に当てて、カラカラに干からびさせるんだ。――そうしてようやく秋には、たわわに稔ったヤクドクの実を採り入れる。そしてひと月天日に干して、甘くなったヤクドクの実を、甕(かめ)に詰め込んで、唐(から)の国へと送り出す。
テルテ 唐の国へ? ヤクドクの実を?
うしびと そうだ、海を越えて。――しかしそれで終わりではない。冬には冬の務めがある、冬を越す備えが。まず邪魔な枝を間引く。それが済んだら、幹を守るために、何千何万ものヤクドクの木に菰(こも)を巻く。それから、秋の大雨で壊れた川の堤を、うしびと総出で直す。そして雪降り積もる夜は、縄を綯(な)い、わらじを作り……ひっそりと息を詰めたように毎日を過ごす。春、夏、秋、冬……。一年に一度のお楽しみは、秋の実の採り入れが終わったあとの、秘め事だけ。祭りの夜に許しが出て、おなごを抱ける。そこで――、そなたの噂が。
テルテ ……いろいろあったんだな、おめえ。
うしびと あっという間の一年さ。その間にうしびとたちは倒れていった。ジワジワと毒に侵され、一人、また一人と――。うしびとが毒に強いなんて、あれはうそだ。一日の仕事が終わったら、あとはもうぐったりさ。なんとも言えない疲れだ。ワズライの毒が肺の中を侵すんだ。わかるまい、そなたには。ダラダラ病(やまい)さ。体がだるくて、何もかもやる気が失せてしまうんだ。うしびとの中には、鼻血を出して、下痢になって、くたばっていく者もあった。その弔(とむら)いをもまたうしびとが……。うしびとがまったく平気だなんて、うそさ。毒の廻りが遅いだけなんだ。だからまた春には、代わりのうしびとたちが、ウミヲたちによって連れられてくる。――いやしかし、私には、長い長い一年になった……。
テルテ ほんに長え一年だ……。
うしびと そのあいだの心の支えこそ――「まろびとである」その事実。ミカドにご同行された熊野詣のまろびとが、旅の宿で、美しい衣洗いの母を見初めて、一夜(ひとよ)の契りを交わした。そのとき生まれたのが、この私。私には、まろびとの血が流れている――その事実のみが、つらい月日を支えていた……
テルテ あんれ――? なんだか前におらが聞いた、まろびとの話とちがってる。おめえのおかあは、衣洗いのおなごじゃなかったはず。おめえのおとうは、熊野詣のまろびとじゃなかったはず。
うしびと (自分の心の内に気持ちが向かい、テルテの言葉が耳に入ってこない)その心の平安も、今は「夢」に食い破られた! (強く頭をまさぐる)そなたが、私に植えつけた夢だ。そなたの呪いが植えつけた、忌まわしい夢だ。だから――そなたに逢いに来たのだ!
テルテ (じれて)もうっ! 長ったらしい話はどうでもええべ。うれしいよおら、逢いに来てくれて! さ、寝ようよ。素もぐりしてあげる。タマ遊びしてあげる。(うしびとを布団に誘い、衣の下の股間に、頭から潜り込もうとする)
うしびとはテルテの頭を起こしてやめさせる。
うしびと いや、いい! 寝るのはいい! 頼みがあって来たのだ。(両手で頭をかきむしり)私に取り憑いて離れない、この夢をのけてくれっ! 消してくれっ! お願いだ。まがまがしいこの夢を!
テルテ 夢? 夢? どんな夢?
うしびと そなたが私に、お先告げした夢だ。ヤクドクの木に火をつける夢。火を放つ夢。燎原の火のごとく、ヤクドクの森を焼き払う夢。
テルテ (邪気なく)そんなの占ったか、おら? 忘れちまった。アハハハっ。
うしびと (半狂乱)そんな勝手があるかっ! ヤクドクの木を燃やす夢に取り憑かれ、頭が狂いそうなのだ。この一年、寝ても冷めても夢を見る。昼間働いていても、夜寝ていても、同じ夢ばかり。花粉の筆を持っていても、鍬を手にしていても、縄を綯っていても、ヤクドクの木を焼く夢ばかり。何度、火打石を持って、ヤクドクの森をさまよったことか。本当に火をつけようとしたことか。それを夢見ただけでも――魂が――陶然ととろけてしまいそうに……。(しかし首を何度も振り)しかし、火をつければ大罪人。百叩きだ。磔だ。この夢をのぞいてくれ、私の頭からっ! 脳天から火が噴き出しそうなのだ。夢を与えたそなたなら、夢を消すこともできるだろ? なっ。頼む。この通り!
テルテ (苦しむうしびとの頭を慈しむように撫でて)――おめえさ、めんこいねぇ。ほんっに哀れだねぇ。
テルテ、じいっとうしびとを見つめる。
テルテ (うしびとの手を取り、ずいっと立ち上がる)行こう、うしびと! さあっ!
うしびと どこへ?
テルテ 決まってる、あそこさ。あの場所さ。
うしびと あの小島か? お堂のあるあの島か? そこでもう一度占い直すのか?
テルテ ヤクドクの森さ。ヤクドクの木を燃やしにさ!
うしびと (テルテの手を振り払う)な、何を言ってるんだ! 火をつければ、大罪人。――駄目だそんなこと……足がすくむ、手が震える。ヤクドクの実が、どれほどの金になるか、そなた知らぬのか。ヤクドクの実には、多くの人がむしゃぶりついている。「国ぐるみ・人ぐるみ」――その「ぐるみ」に群がって、何万もの人々が生きている。その甘さ、恐ろしさ……。私はヤクドクの「ヤク」を使ったことはないが……それが人を狂わせる。
テルテ おら――よく知ってる……。
うしびと それに、ヤクドクの木を、この花粉舞う季節に燃やせば、毒の灰がそこら中にまき散るだろう。アズマの国に暮らす関わりのない者らも巻き添えになる。
テルテ けんど、定めからはのがれらんねえっ。夢に取り憑かれて、占いに呪われて――おめえさ……おらの――おとうみてえに。(懐の「文」をそっと押さえる)
うしびと そなたの父上……?
テルテ おめえがそれほど夢に取り憑かれてるのは、本当は心ん底で、ヤクドクの木を燃やしちまいてえからじゃねえの?
うしびと な、何――?
テルテ 今の、そのうしびとの暮らしから、のがれてえからじゃねえの? とき放たれてえからじゃねえの?
うしびと ――――。
――短い間。
テルテ ……おとうは、おらの占いに呪われたんだ。「海を捨てろ」っていうおらのお先告げに。根っからのあまびとなのに、「海を捨てろ」だなんて。おら、おら――知らねえうちに占ってて……。おら、なんて罪深えんだろっ。
うしびと しかし――アズマの国の海は、ヤクドクの毒に侵されてとうに腐っている。そなたの占いがあろうがなかろうが、海で暮らしを立てることなど――
テルテ おとうは、今のおめえみてえに、頭が割れる、脳天から火が噴き出すと、朝から晩まで身悶えて、「海は捨てられねぇっ。海は捨てられねぇっ」て――とうとうワズライの床についちまった。おら、おら、おとう見るのがつらくて、つらくて――
うしびと そなたの父上も……夢に取り憑かれて――。(興奮してのどが渇き、ヤク茶をがぶがぶ飲む)夢に取り憑かれて――狂ったか!
テルテ おとうは昔のおとうじゃなくなった。結局、海にも出られなくなって、魂も朽ち果てたみてえになって……。おらの占いのせいで――おらのお先告げのせいで――。
うしびと それは――、海を汚したヤクドクの毒のせいかも知れぬではないか。
テルテ (首を振る)――さっき、弟から、知らせが届いたんだ。(革の「文」をうしびとに見せる)クズシローから文が来た。(大泣きする)アッアアーーー! おとうが死んだって! おとうが死んだって! あぁッ、クズシローも売られてった――。
うしびと (「文」の絵を見て)波に泳ぐ魚に、バツ印――これは……そうか――あまびとの父上が「死んだ」という意味か。
テルテ おら、なんのためにヒノモトの国に売られたんだかっ。おら、おら――胸がずんだか苦しくって、ワズラってるおとうから――おとうから逃げ出したんだっ! アァっ、アアァっ!(しゃくり上げて泣く)
うしびと (またヤク茶をゴクリと飲む)厄介だな、そなたの占いは……海を捨てろという占いで海を捨てても、結局は……。てことは――ヤクドクの木を焼き払っても……(トまた茶を飲む)
テルテ けんど――頭ん中に取り憑いてる「夢」は消えるべ。苦しむことはなくなるはず。その頭に取り憑いた夢を叶えれば。
うしびと (トまた茶をがぶり)…………。
トこのとき、部屋の戸が勢いよくバンッとあく。そこに宿の婆あがいる。手に似顔絵の描かれた「お触書」を持っている。
婆あ 「お楽しみーーーっ」のところ、お邪魔申しますっ。乙姫姉さん、お触書のお回しですっ。国の守(くにのかみ)の地頭から急なお知らせ。うしびとが一人、ヤクドクの木の務めから逃げ出したそうで。これは、そのうしびとの似せ描きの絵(似顔絵)。(テルテに渡す)
うしびと (顔を背ける)
婆あ なんでもそのうしびと、お尻に「牛」の字の焼印があるとかで……ゲゲゲっ。(首を伸ばして客人をうかがい見る)
ウミヲ、来る。婆あの襟首をひねり上げる。
ウミヲ 「お楽しみーーーっ」を邪魔するんじゃねえっ、この助平婆あが! (うしびとに)すいませんねぇ、お客人。
うしびと いえ……。
婆あ 親に向かって助平婆あとはなんだ!
ウミヲ ヤニだらけの目で覗き見すんじゃねえって言ってんだ、俺は! 睦み事の音聞いて楽しんでんじゃねえよ。
婆あ お宝合わせ(男女のナニのこと)覗いたって減るもんじゃないだろ! その方が燃えるってお客人だっているんだよ、ゲゲゲっ! (標語のように)「いつ見ても お宝合わせは 見飽きない」
ウミヲ いい年こきやがって。
婆あ あたしがこの宿大きくしたんだ! なんか文句あるかい。「生きてれば 生きてる限り 楽しみたい」
ウミヲ うそつくな! 元は乞食だろがよっ。東大寺(とうでぇじ)の門前で、「右ゃあ~、左ぃの~、旦那さま~」って哀れな声上げて、物乞いしてた遊女の成れの果ては、どこのどいつだ。拾ってもらっただけでもありがたく思いな。クソッ、何が産みの親だ、犬ころみてえに、俺を捨てたくせによ。お触書なんてあとでいいんだよ。お客人に楽しんでもらわなくっちゃ。
婆あ ウミヲ、こらっ、お触書にそむくと商いできなくなるよ。いくら袖の下を弾んだってね、国の守も、あんたのきわどい商いを見て見ぬ振りができなくなる。「地頭には 赤子も婆あも かなわない」
ウミヲ (痛いところを突かれて)わ、わかってるよ! (客に)ヘヘっ、お客人、すいませんねぇ。そういうわけで、念のためお顔改めを――
ウミヲはうしびとの顔を覗き込もうとする。が――
テルテ (素っ頓狂な明るい声で)おら――、この男(お触書の似せ描きの絵)知ってるよ!
うしびと ――!(ビクンッとおびえる)
ウミヲ なんだって!
テルテ 覚えてねえの、ウミヲ? 一年めえに小島で会っただろ? アズマの国の国境の、観音様のお堂の前で。おらと入れ替わりにアズマの国に売り飛ばされた、あのうしびとだよ。島を逃げ回ってた、あのうしびと。(笑って)このお客人とは、まったくの別人だ。
ウミヲ (お触書の似せ描きの絵を見ながら)覚えてねえな。うしびとはどれもこれも同じに見えるからな。うしびとは五万といる。
テルテ あのお客人は、この(絵の)うしびとじゃねえよ。全然他人。(うしびとに近づき抱きつきながら)お尻に焼印なんてなかったべ。さっき一発確かめた。ね?
うしびと あ、ああ。(うなずく)
ウミヲ そうかい……。(お触書を婆あに投げ返し)騒がせやがって。(うしびとに)ヘヘっ、お客人、どうも失礼しました。気を悪くしねえで下さいよ。
うしびと いや……。
ウミヲ (掛け声)どうぞお楽しみーーーっ!(婆あを引き連れていく)
お婆 (似せ描きの絵とうしびとを見比べて)あたしの目にゃ、似てるように見えるけど――
ウミヲ 目ヤニ婆あがうるせえんだよっ。さ、来いっ。(婆あを蹴立てて戸を閉めて去る)
うしびと、戸にそっと耳をつけ、ウミヲたちが去ったのを確かめると――
うしびと テルテ、裏口はどっちだ?
テルテ あんれ?! おめえさ、逃げるの?! 夢の始末はどうするのさ? おめえに取り憑いた夢の始末は? ワズラって苦しむ羽目になるべ。
うしびと むむぅっ、捕まっては元の子もない。
テルテ だったら――、おらも連れてって。
うしびと なんだぁ? 私と――来る? それは占いか?
テルテ ちがう、この胸の声だ。一人じゃ逃げおおせねえよ。おめえさ一人じゃあやしまれるべ。
うしびと それもそうだな……よし、二人で参ろう、ヒノモトの国の果ての果てへ。
テルテ だから! ゆくのは――、アズマの国さ! ヤクドクの木に火ぃつけて、夢追い払おう。火の粉にまぎれて追っ手まいて逃げるっしゃ。大騒ぎの大わらわで、悪夢からも、追っ手からも、逃げられるはず。夢叶えれば、夢は消えるべ。おらも――おらも――おとうを死に追いやった、おらの罪を焼くんだ!
うしびと だから!(瞬時可能性を考えるが)――馬鹿な! 無理だと言ってるだろ!(部屋から逃げ出ようとする。震えている)
テルテ (ヤク茶を鉄瓶ごと差し出す)これ飲んで、気ぃ落ち着けて。な? 頭割れそうなんだろ? 気ぃ狂っちまいそうなんだろ? わからねえよ、おめえがやったなんて。だれも見てねえよ。
うしびと それも占いか、お先告げか、悪霊のささやきか。――さっきから頭がくらくらする、胸が熱いぞ! (ヤク茶を鉄瓶から直に飲む)――余計のどが渇くな、このお茶はっ! 駄目だ、私には勇気がない――。
テルテ また逃げるの、うしびと!
うしびと 何ぃ――! (逃げ出そうと戸に手をかけているが)逃げてなぞいるものか――!
テルテ 逃げようとしてるじゃねっか!
うしびと そなたにはわからぬのだ、鞭打たれる怖さが、焼き金当てられるつらさが! うしびとのつらさが!
テルテ だからおめえさ、うしびとじゃねえんでしょ? 本当は、うしびとじゃねえんでしょ!
うしびと わからぬのだ……うしびとのつらさが、他人には。
テルテ うしびと、逃げてるばっかじゃ、本当にうしびとだぞ!
うしびと うるさいっ! 私は――、まろびとだ――まろびとだ。うしびとではないっ!
テルテ だったらうしびと――おらと一緒に!
うしびと うしびとと言うな、うしびとと! 二度と――、二度と! わからぬのか――そなたの無智が、私をそう呼ばせるのだ! 私はうしびとではない。うしびとではないっ。そなたに――、そう呼ばれたくない!(逃げようとする)
テルテ (引き止める)うしびと、逃げるなって!
うしびと (テルテを払いのける)だから! 逃げてないっ、逃げてないっ! うしびとではないっ!!!(戸を開け逃げ出そうとする)
お婆 (戸の向こう側で)ああッ、うしびとじゃーーーっ!!!
うしびとが戸をあけた先で、戻ってきていた婆あがお触書を手にさっきから部屋を覗いていた。先程からのテルテとうしびとのやり取りを聞いていて、お触書のお尋ね者が確かにこのうしびとであるとはっきりと気づく。
婆あ (再度似せ描きの絵とうしびとを見比べて、指差し)やっぱりこいつは――、うしびとじゃあっ!
うしびと ああっ! 万事休す!(驚き後ずさり腰砕けになる)
テルテ おばぁ、ごめんよっ!!(戸をふさぐように立っている婆あに、体当たりする)
婆あ (勢いよく転ぶ)あれーーーーっ! うしびとじゃ~! うしびとじゃ~!
テルテ、急いで床板の下から銅銭の入った甕を取り出すと、腰が抜けて座り込んでいるうしびとの手を取り、立たせる。
テルテ こっち来て! うしび――、おめえさ! 早くっ!(テルテは二度と「うしびと」と呼ぶまいと思う)
うしびと あ、ああ!(うなずく)
うしびとは何とか立ち上がり、もつれる足でテルテとともに部屋を抜け出る。廊下を走る。しかしまた二人は廊下を戻ってきて、後ろを振り返りつつ慌てて逆方向へ駆け去る。
外で野犬どもがけたたましく吠え立てる。
ほんのちょっとの間を置いて、二人が逃げたのとは逆方向の廊下から、騒ぎを聞きつけたウミヲが足音高く駆け込んでくる。
ウミヲ 大丈夫か、お袋!
婆あ (大泣きする)ウエエーーっ、腰打ったぁ、腰抜けたぁ。(ウミヲにすがりつく)うしびとじゃ、あの男! 確かにお触書の。乙姫かっさらって逃げてった!
ウミヲ なにぃっ! (追いかけて行こうとするが、婆あが強い力でしがみついて離さない。足を取られてこけてしまう)アアッ! 離せっ、こら、お袋! このクソ婆あっ! しがみついてんじゃねえよっ。(蹴飛ばす。床下の甕がなくなっているのを目敏く見つけて)ああっ、あのアマ本当に逃げやがった――テルテ! テルテ! 離せ婆あ!
婆あ (ウミヲにしがみついて大泣きする)ウゲゲぇ~~~っ! うしびとに逃げられた~~~っ! うしびとの首にかかった銭百文、儲けそこねた~~~っ! ウゲゲゲぇぇぇ~~~っ!(さらに泣き喚く)
ウミヲ 離せっ、離せ、婆あぁ!
婆あ ウゲゲゲぇぇぇ~~~っ!
ウミヲは婆あにしがみつかれてテルテたちを追うに追えない。
ウミヲ テルテ! テルテ! 離せっ、離せ、婆あっ!
婆あ ウゲゲゲぇぇぇ~~~~~~~~っ!…………
突然雨が激しくなる。雨粒が屋根を叩くように降りそそぐ。
ウミヲ (歯噛みする)テルテぇ……!
………溶けるように暗くなる。
(後半に続く…)