心行寺と六阿弥陀詣で
先日とある地元郷土史グループの方々より心行寺の歴史について面白いお話をうかがいましたのでご紹介させていただきます。
江戸時代の終わりごろのこと、この荏田地域を中心に「六つのお寺」をお参りし「阿弥陀如来」を詣でる「六阿弥陀」という信仰があり、心行寺はその「第5番」寺院であったということです。
写真は心行寺山門前にたたずむ石碑です。「六阿弥陀 五番」と書かれています。
六阿弥陀信仰についてはこちらのブログに書かれていました。もともとは江戸の町人の間でそのような信仰がさかんに行われていたようです。
六阿弥陀信仰は、六体の阿弥陀如来像を「南」「無」「阿」「弥」「陀」「仏」に見立て、春や秋彼岸に六つのお寺に参拝することで、死後の極楽往生を願うという信仰でした。
それが転じて、町人、とりわけ女性の気分転換にちょうどいいということで、女性が外出する為のいい口実として当時流行していたようです。今でいうところの、日帰りツアーのようなものでしょうか。
当時の人々は今よりもずっと健脚だったようで、6つのお寺を1日で歩き参るということをしていたようです。
こちらが当山のご本尊さまです。
阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
元禄九年三月十四日(1696)十三世念誉圓佐和尚代に寄進されました、身丈一尺二寸の坐像です。台座裏に「武州都筑郡荏田村澁沢山」、頭部内に「相州鎌倉扇谷住仏師数馬作」とあります。
ちなみに、文政13年(1830年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」には心行寺の本尊について「本尊弥陀の立像、長一尺四寸、大弐の作なりと云う。」とありますが、これは編纂者の誤りで実際には上記の通り座像で作者も違っています。
さて、荏田を中心とした六阿弥陀信仰については、市が尾にあります真言宗豊山派東福寺さまに版木が残っていたことにより判明したそうです。
写真は、今回いただきました資料で東福寺さまに伝わる版木の写しです。
ちょっとこれでは何が書いてあるか分かりにくいので、活字の資料も頂戴しました。
この文章を読みますと、もともとこの地域に「観音講」という組織があって、その構成員の人々もだいぶ年老いてきて足がおぼつかない、はるか江戸の六阿弥陀に詣でたいが遠すぎて行くことができない。待てよ、遠くに行かなくても近くにも由緒ある阿弥陀さまがあるじゃないかと、荏田村の小泉さんという人に相談し、内野さんという人が中心になってこの六阿弥陀を作ったと、大体そういう内容でしょうか。
これによって、心行寺に「御詠歌」があることも判明いたしました。六阿弥陀詣での人々が、お寺にお参りした際にお称えしていたものでしょうか。
たえす聞 渋沢山の のりの聲
五つのちりを 拂う松風
意味は、「渋沢山(=心行寺、当地の地名)より絶えず聞こえるお念仏の声は、私たちの心に積もったちりをきれいにはらってくれる松風のようだ」というところでしょうか。
実を申しますと、心行寺には古い記録類がほとんど残ってなく、かつてのお寺の在りようは他の資料を集めて推測するしかない状況です。
今回、地元郷土史グループの方々にこのような貴重なお話を聞かせていただいたことは大変ありがたく、また阿弥陀さまのお導きであると貴重なご縁に感謝しています。
最後に、心行寺についての古記録や言い伝え等、ご存知の方がいらっしゃいましたら、是非住職にあれこれと教えていただきたく今後もこのような情報お待ちしております。