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薔薇と脳髄の向こう

目で殺すは殺生の他

2023.04.04 09:37

こうすればもっとあの人のことを理解できると思ったけれど、案外そういうわけでもないようだ。

「界人くん」

猫なで声を使ってわざとらしく甘えてくる女を軽くあしらいながら、界人はベッドの上で寝返りを打った。女に背を向ける形になる。

「すごいね、刺青」

女がそう話しかけてくる。背中のタトゥーを指で軽くなぞっているようだ。

「触るな」

彼女の腕を掴み、向かい合った。マスカラで縁取られた瞳が三日月型に歪む。

「巽さんは龍だったよ」

彼女が、悪戯っぽく笑ってそう言った。

「界人くん、対抗意識燃やしすぎ。巽さんはどうだったとか聞いてくるんだもん。ヤキモチでしょ?ひなのことすきなんだね」

何を言っているんだこの女は。的外れもいいところだ。

お前に興味があるんじゃなくて、神谷巽に抱かれた女だから、と言いかけてやめた。ヘドが出るほど脳みそが空っぽな女なんて、神谷巽が一度抱いたということ以外に価値など無い。

自分の知らない巽がどんな感じなのか、知りたかっただけで。パッと思いついた方法がこれだっただけだ。

それに、この女はこちらが望んでいることを喋りもしない。もっと、巽がどういう言葉を言ったのかとか、どういう身体つきをしていたのかとか、どこに傷があるのかとか、そういうことが知りたいのに。

界人は自分で声をかけておきながら、もう面倒になった。

「界人くん、まだ未成年なんでしょ?大人っぽいよね」

聞いてもいないことはぺらぺらと喋るくせに。

「普通にかっこいいし、ひなとまた遊ぼうよ」

肝心なことは言いやしない。

界人は、彼女の手を振り払って半身を起こした。床に散らばった洋服を持ち上げ、さっさと着出す。

「‥‥‥巽さんはもっと優しかったよ」

界人の手が止まった。

彼女は猫のように目を細める。

「もっと優しくて、ちゃんとひなの話に相槌うってくれたもん」

界人の真っ黒な目がゆっくり彼女に向けられる。

彼女は、その目を見て動けなくなった。何故だかはわからない。

息するのも許さないような目だった。

「‥‥‥か、界人くんが優しくないってことじゃないけど」

慌てて言葉を繕う。界人は興味を失ったように彼女から目を背けた。

その時、テーブルサイドに置いた界人のスマホが震える。

素早い動作でそれを取るが、かかってきた番号を見て軽くため息をついた。

彼女なんて既にいないような動作で、通話ボタンを押し、スマホを耳にあてる。

「何」

「お前先輩に向かっていきなりそれはねえだろうがよ!仕事仕事、今から来られる?」

「アンタまた俺になんか押し付けるつもりなの」

「いや、巽さんからの」

「いく」

まだ何か続けようとした濤川の通話を切り、ベッドサイドに適当に置かれた財布から3枚、万札を取り出してベッドの上に放った。

「仕事。払っといて」

「はぁ?何その言い方!ひどい」

金まで多めに出しているのに、何故そんな風に言われなきゃいけないんだろう。

そんなことを思いながら、喚いている彼女を置いてさっさとホテルを出ることにした。



スマホのメッセージアプリには、濤川から「特に服装指定なし!すぐ来るように!」と来ていた。

一方的に通話を切ったことに関しては特に怒りもないらしい。

濤川も、そう言った意味では自分が今まで関わってきた人間とは少し違うように感じる。どこか変わっているというか。よく言えばおおらかで、悪く言えば馬鹿だ。

だから、そんな馬鹿の観察をするのは飽きない。

大通りでタクシーを拾って、「神路町で」と告げる。こんな朝方の、ほとんどの店が閉まっているような時間に神路町に行く客は妙なのだろう。運転手は気まずそうにちらりと界人に視線を送った。

飛んでいく景色を眺めながら、女の言葉を思い出していた。

「巽さんは優しかったよ」

そう、優しいのだあの人は。彼女の言う優しいと、自分が認知している優しいには少しだけ差異があるとは思うが、それでも優しいということには同意だった。

でも、界人は物足りなかった。

あの人の、笑顔以外の感情を見てみたい。

界人が出会ってから見た巽の顔と言えば、いつもニコニコ微笑んでいるものか、時々見せる無表情かくらいだった。巽は、少なくとも自分たちには感情を悟られないようにしている。

そうやって蓋をされると、壊してでも見て見たくなる。

一瞬、良くないことを考えたが飛んでいく景色と共に忘れた。



「お前結構厳ついタトゥー入れてるよな」

巽はまだ来ていないようだった。

濤川がそう言って界人の左肩から首にかけて這い上がっている無数の蛇を見ている。

首元の開いた服を着てきてしまったのが失敗だったか。

「アンタ入れてないんだっけ」

「入ってるよ!何入ってるか知りたい~?」

「めんどくさ」

「面倒くさいとはなんだよ!教えてやらねえからな!」

「え~ナミちゃん、何入ってるの?」

いつの間にか巽が入口に立っていた。

「あ!巽さん!正解は、不動明王でした!」

「いいの入れてるね」

「でしょ!?俺の推し仏っす!」

あ、またこの笑顔だ。界人は巽を凝視しながらそう思った。

その視線に気づきつつ、巽はあえて界人を見た。

「灰ちゃんは?」

「メドゥーサです」

「げげげ!すげえ!蛇だけじゃなかったんだ!」

ひとりで騒いでいる濤川を無視して界人は巽から目をそらさない。

「巽さんは何が入ってるんですか?」

低い声で問いかける。巽は再び口角を上げた。

「龍だよ」

「っかーー!渋いっすね、めっちゃいいっすわぁ!」

「でしょ。名前にちなんで」

貼りついた笑顔だ。感情の奥底が見えない顔だ。

「見たいです」

「え?」

「見たいです、巽さん」

巽の瞳の色が僅かに曇った。一瞬視線が彷徨うが、すぐにまた笑みを浮かべた。

界人はその一瞬を見逃さなかった。

「え~また今度ね」

「界人、しつれいだぞっ!いきなりそんなこというなんて!」

巽の表情は苦笑いに近い笑みに変わった。

流石に話題を変えたほうが良いと察した界人は適当に口を開く。

「すみません。じゃあ、アンタみせて」

「よ~し俺ので我慢しろよ!」

そういってTシャツを脱いだ濤川の背中には、本人の飄々とした人柄からは想像できないほど荘厳で立派な不動明王が彫られていた。



巽さんは、刺青の事を言われるのが嫌なのかな。

仕事自体は大変なものではなかったので早々に済ませ、住んでいる寮に帰ってきた。

シミが多くなってきた天井を見上げながら先程の巽の様子を思い出す。

一瞬だけ見せた動揺。苦しいほどにその理由が知りたくなった。

部屋に居ても仕方がないので、日が暮れるころに出かけることにした。

家の周りから離れ、少しだけ遠くまで足を延ばす。

犬の散歩をしていた老人は思わず界人の身長に驚いて見上げていた。

そういえば他にも巽さんの表情が違ったことがあったな――

忘年会シーズンの頃だったろうか。

確か、誰かを見つけて苦しそうな顔をしていたのだ。あの視線の先には、誰がいたんだろう。

気が付けば、その時巽と一緒に歩いた繁華街の方まで来ている。

嗚呼、あの居酒屋の前にいる誰かを見ていたんだった。

大学生くらいだと思われる集団、だったはずだ。

界人は足を止めて、その居酒屋をぼうっと眺めていた。

何人かのグループがひっきりなしに出入りしている。ある時はサラリーマンのグループ、ある時はカップルらしき人たち。

大学生数人のグループが出てきたとき、そこに見知った顔を見つけた。

フラッシュバックしたのは、玄関を開けて眠そうな顔でこちらを見上げている姿。

巽が酔ったので家まで送り届けた時に出てきた人物だった。

トモダチ、なのだろうか。

店の前でその青年は仲間と別れて、一人だけ違う方向へ歩いて行った。

興味が湧いた界人は、その足取りを追うことにした。

綺麗な顔をしていると思う。

界人はあまり他人の容姿に興味がない。そもそも、人間に興味がないので、濤川すらまともに顔を認識していないくらいだ。

神谷巽の顔は、とても綺麗だと思う。だからこそ、とってつけたような笑顔だけじゃなく色々な顔を見たいと思うのだろう。

そんな界人の目にも、その青年は綺麗な顔だと映った。

短めに切った髪はわずかに跳ねている。眼鏡の奥の瞳は薄いブルーをしていた。

見つからない距離を保ちながらその背中を見つめる。

電車に乗り込み、3駅ほどで下車。

こちらに気づいている気配はない。

ポケットに入れていたマスクを念のためつけておくことにした。

青年がスーパーに入っていく。

慣れた手つきで食材や酒をかごに入れていくのを見ながら、界人は自分も適当に総菜パンを買った。

そのスーパーからすぐ近くにある、見覚えのあるマンションに彼は吸い込まれていく。

巽を送り届けた家。

流石にこれ以上は尾行はできないと判断した界人は、部屋の電気が点くのを確認してからその場を後にした。

一緒に住んでいるのか、それともたまたま泊まりに行くことが多いだけなのか。わからないことが多い。

自宅に帰る気にもならなかったので、そのまま5キロほど歩いて本家の方へやってきた。

組員専用の食堂も併設されている本家は、応接間と食堂は好きなように出入りができる。

夜も更けてきてはいるが、大体誰かはいるだろう。

木戸をくぐり、喫煙所に向かうと、先に人影があった。

「あ~ルカ、今日は早く帰れそう。ご飯食べたい。もう作ってるの?早いねハニー」

いつものような冗談っぽい口調ではあるが、もっと楽しそうな声だった。

素早く身を隠して、内容を聞こうとしたが、それきりで彼は電話を切ってしまった。

ホッとしたような、切なそうな、嬉しそうな、感情の入り混じった微笑みを浮かべて巽はポケットからもう一本煙草を出す。

界人が近づくと巽はそれに気づいて軽く手を振った。

「灰ちゃん、呼び出し?」

「いえ。飯食いに来ました」

半分は嘘で半分は本当だ。

界人は巽の横へ並び、素早く煙草に火をつけた。

「ありがと」

「巽さん、今帰りすか」

「うんーーたまには家帰ろっかなって思って。同居人も待ってるから」

「恋人ですか?」

「あー全然、そんなんじゃないよ。友達」

そう言って巽は困ったように笑った。

ーーあ、その顔。初めて見た。

「巽さん」

「ん〜?」

「俺も吸っていいすか」

「どうぞ」

界人はポケットから煙草を取り出し、1本引き抜いた。

「同じ銘柄だね」

巽が笑った。今度はいつも通りの、貼り付いたような笑みだった。

少しだけ悔しくなった。