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埼玉県 (15/04/23) 蓮田市 (15) 蓮田南地域 東、本町、上、関山、御前崎、末広、山之内、見沼町

2023.04.16 06:25

蓮田南地域

東 (ひがし)

本町 (ほんちょう)

末広 (すえひろ)

御前崎 (おまえざき)

上 (かみ)

見沼町 (みぬまちょう)

山ノ内 (やまのうち)

関山 (せきやま)



昨日蓮田市巡りを終え、今日は蓮田市の近くの北本市に住んでいる大学時代の同級生と鴻巣で会う事にしている。生憎朝から雨が降っている。会うのは夕方なので、昨日まで訪問した史跡の資料を閲覧するため、時間まで蓮田図書館で過ごし、午後に雨ガッパを羽織り、鴻巣を目指して県道311号線をひたすら走る。雨は全く止む様子はなく、雨足も強くなったが、無事鴻巣に到着して夕食を共にした。今日は史跡は巡っていないのだが、滞在中に、史跡巡りで少しずつ見学した蓮田南地域の訪問記を載せておく。



蓮田南地域

蓮田市の行政区分けで蓮田南地域とされている地域は本町、末広、御前橋、見沼町、上、関山、東、蓮田、 馬込、大字蓮田、大字馬込、綾瀬、山ノ内となっている。蓮田と大字蓮田は4月9日、 馬込と大字馬込は4月10日に訪れているので、ここではそれ以外の地域の史跡について触れる。

蓮田市都市計画マスタープラン見ると

蓮田南地域の人口は世帯数は増加傾向だがほぼ横ばい状態になっている。蓮田市全体の人口が減少傾向なのでなんとか頑張っている地域になる。ただ、この地域が蓮田市の中心としては期待した状況ではない。子供の人口が減少が続いていることから、今のままではいずれこの地域も人口減少が始まるだろう。この地域の土地利用指定から他の地域に比べ集合住宅の割合がかなり高くなっている。住民の意識調査では他の地域に比べて住民の不満は比較的少ない。蓮田市全体の40%の人口がこの地域に集中している事、住民もこの地域の居住環境にある程度満足しているので、この地域を中心として更に開発を行い行政サービスの充実が求められるだろう。


資料に記載されている蓮田南地域の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り


蓮田南地区 訪問ログ



東 (ひがし)

元荒川河川敷 (市街化調整区域) を除いて大部分の地域は市街化区域に指定され、蓮田駅にほど近い地区は商業地として利用され、他の地区は住宅地として利用されている。

1964年 (昭和39年) の 住居表示実施により、大字蓮田および大字川島の各一部から東一丁目 - 六丁目が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。

大字東の人口推移状況は以下の通り。東は蓮田市の中で3番目に人口の多い地区。他の地域同様に高齢化が進んでいる。1982年には約840人 (約360世帯)の人口の激増がみられる。これは東5丁目に1981年11月に駅前団地 (330戸) が建設され入居が始まった事にある。それ以降は世帯数はコンスタントに増加しているが、人口はほとんど横ばい状態が続いている。蓮田市中心地になり、大規模集合住宅が建設されたことで、比較的若い年代の住民が多く、高齢化率は蓮田市平均を下回っている。


若宮神社 (東八幡神社)

東地区の南端のこのあたりは若宮と呼ばれている地域で戦前迄民家は殆どなく山林だった。戦後、交通の便が良い事から宅地化が進み景観は大きく変わった。若宮神社の創始時期については不明だが、古くから下蓮田の鎮守として祀られてきた。近くには中世の城館跡と思われる堀の内 (蓮田市内には幾つもの堀の内がある) の地名があり、この屋敷の豪族が、武神の八幡神の勧請に関係していたとも推測される。八幡神社なので祭神は祭神応神天皇、合殿仁徳天皇で、社殿は幣殿と一間社流造りの本殿で、本殿には金幣が大小一体ずつ安置されている。地元では「八幡さん」と呼ばれている。1908年 (明治41年) に、合祀政策により字桑原の神明社と字綾瀬附の稲荷社の両社を合祀したが、旧氏子の強い要望によって両社共に1935年 (昭和10年) 頃に旧地に戻している。

明治の初めにはこの神社で蓮田学校が開校している。その後、明治6年に学校は同村内の慶福寺に移っている。当時、蓮田学校は「若宮学校」と言われおり、現在の蓮田南小学校の前身になる。

朱塗の鳥居をくぐると1921年 (大正10年) に伊勢講中により造立された石燈籠が置かれている。

境内には二つの祠が置かれている。大きい方の祠は金刀比羅宮 (写真右) でもう一つの祠の中には7体の大黒天像 (左) が置かれている。

神社入り口の階段の両脇には力石が残されている。それぞれは1720年 (享保5年) 奉納の「力石 三十二〆目 (約120㎏)」と1762年 (宝暦12年) に奉納された「奉納力石三十貫目 (約112kg)」と刻まれている。また、境内には1879年 (明治12年) 奉納の社寺型手水鉢があり、「清浄水」の文字が刻まれている。神社敷地内には4基の記念碑が置かれている。何も伊勢太々講中が造ったもので、伊勢神宮、出雲大社、木曽御嶽などの参拝記念の様だ。伊勢社殿の隣には下蓮田公民館が建っている。この場所が下蓮田村の中心地だったのだろう。


愛宕神社、浅間社

東にはもう一つ神社がある。東はJR線路に沿って東側、元荒川までの地域で、蓮田駅の東の公園中に愛宕神社がある。愛宕神社は、1718年 (享保3年) に創建され、火の神、鬼門除けの神のある迦具土神 (かぐつちのかみ = 勝軍地蔵菩薩) を祭神として祀っている。地元では愛宕様と呼ばれ、火防、武芸、五穀豊穣の神として信仰を集めている。

社殿は丘の上に建っている。この丘は富士塚だった。丘の上に登道は二本あり左が愛宕神社へ、右が浅間社の道になっている。1925年 (大正14年) 奉納の手水鉢が置かれている左の道から愛宕神社に登る。

富士塚頂の境内には祠の右側に1925年 (大正14年) 造立で浅間大神と刻まれた櫛形板の浅間社があり木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと) を祀っている。安産、子育て、子授けな どのほか酒造、花火、養蚕、産業発展の御利益があると云われ、毎年7月1日の「初山参り」または「浅間様」には、昨年の初山参り以降に生まれた赤ちゃんが、初めて山に登る行事で、お参りをした赤ちゃんの額に赤い神社印を押して、子供のすこやかな成長を祈っている。この行事は埼玉県中心に群馬、栃木、茨城、千葉県でも残っているそうだ。浅間社への道の下には自然石が置かれ、表面には富士山が線刻、登山口と刻まれ、背面には「奉納 大正十四年 開山」とも刻まれている。富士塚登り道の途中には1925年 (大正14年) 造立の駒角柱があり、小御獄磐長姫命と刻まれている。小御嶽は富士山五合目にある小御嶽神社を勧進し、木花咲耶姫命の姉の磐長姫命を祀っている。富士塚の頂には力石が埋められている。また、富士講に関わる拝所も設けられている。自然石に、日蓮が百日行を行い法華経を埋納したと伝わる富士山6合目の経ヶ岳を勧請した「経ヶ岳」、富士講の巡礼地の富士山8合目にある烏帽子岩があり、何も1925年 (大正14年) に置かれたの。

愛宕神社の前は下町自治会館が置かれている。この地域は下町と呼ばれた所で、戦前から、ここから北側に向け元荒川に沿って集落があった。


庚申塔 (16番)

愛宕神社の前の道を北に進む。下町地区住宅街に中に祠があった。祠の中には1799年 (寛政11年) に造られた庚申塔 (16番) が置かれている。に頭の邪鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像とニ鶏が浮き彫りされている。この庚申塔は道しるべも兼ね、文字に保存状態はすこぶる良く、左側面に「右 こうのす道 向 せうぶ道 左 じおんじ道」。右側面に「向 いわつき道」と刻まれている。


庚申塔 (15番)

1775年 (安永4年) に造立された笠付角柱庚申塔で、邪鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像とニ鶏が浮き彫りされている。この庚申塔も道しるべも兼ね、左側面に「右 こばり 左じおんじ」、右側面に「右 じおんじ 左 こむろ こばり こうのす はらいち 道」と刻まれている。 



本町 (ほんちょう)

全域が市街化区域に指定されている。主に商業地として利用されており、蓮田市の中心街を形成している。1964年 (昭和39年) の住居表示実施により、大字蓮田の一部から本町が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。

大字本町の人口推移状況は以下の通り。入手できた人口データの1979年には人口621人だったがそれ以降は人口減少が止まらず、2020年には代からの259人と半分以下までに落ち込んでいたのだが、2020年に蓮田駅西口第一種市街地再開発事業で駅前団地 (14階、168戸) が建設されたことで人口が、前年259人 (180世帯) から629人 (340世帯) に激増している。入居者はほとんどが蓮田市内から転居してきており、蓮田市全体の人口はほとんど変動はない。転居者は比較的若い世代なので、この地域の高齢化率は52.1% から一挙に26.1%に低下している。


蓮田車站納地記念碑

本町は近代的な街並みに開発されている地域で蓮田駅があり、蓮田市の玄関口となっている。駅前には広いロータリーになっており、そこに1903年 (明治36年) に建立した蓮田車站納地記念碑が置かれている。 2015年 (平成25年) に現在地に移設された。 蓮田駅は1885年 (明治18年) に日本鉄道の開業と同時に開設されている。これは郷土の先人 たちの熱意と努力によるもので、 今日の市の発展 の礎となりました。



末広 (すえひろ)

本町の西側に位置して、全域が市街化区域に指定されている。1964年 (昭和39年) に大字蓮田の一部から末広一丁目・二丁目が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。

大字末広の人口推移状況は以下の通り。大字単位での人口は1979年以降しか図書館には無かったのだが、それによるとそれ以降、少しづつ人口は減少し近年は横ばい状態になっている。


夜泣稲荷大明神

蓮田駅から少し西に向かうと末広地区に入る。末広地区の東の端に稲荷神社がある。稲荷神社は鳥居が朱塗りになっているものが多いのだが、ここは祠が朱塗りになっている。蓮田市ではこのような朱塗の祠をよく見かける。祠の中は狐が朱塗りの雛壇に行儀良く並んでいる。地元で大切にされている事が分かる。鳥居の上に扁額があり、稲荷大明神と書かれ、その上に小さく「夜泣」とある。夜泣稲荷と呼ばれていたのだろう。この神社の情報は見つからないのだが、全国にある夜泣神社は拝むと赤ん坊の夜泣きが止まったというものが多く、ここもそうだろう。


板碑

夜泣稲荷大明神の裏側に墓地があった。この墓地の中に板碑が多く残されているそうだ。資料では9基が紹介されている。造立時期が刻まれているものでは1383年 (永徳3年)、1379年 (永和5年)、1416年 (応永23年)、 1386年 (至徳3年)、 1425年 (応永32年) と鎌倉時代から室町時代にかけてのもの。板碑は供養塔にあたるのだが、鎌倉武士の領地に限られているそうで、安土桃山時代以降は一般庶民に石仏が供養塔と変化しているのは興味深い。

板碑の半分は場所も変わり、埋もれてしまっているのだが、以下のように資料に写真があった。


馬頭観音 (1番)

末広地区にほぼ西の端、綾瀬川近くに、1843年 (天保14年) に火災で焼死した馬の供養のために建てられた馬頭観音で、駒角柱に「馬頭観世音」と刻まれている。



御前崎

一丁目の大部分と二丁目の全域が市街化区域に指定されており、一丁目の一部が市街化調整区域に指定されている。1964年 (昭和39年) の住居表示実施により、大字蓮田の一部から御前橋一丁目・二丁目が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村と下蓮田村にまたがっていた。

大字御前崎の人口推移状況は以下の通り。1980年以降、少しづつ人口は減少し近年もその傾向は続いている。


不動明王

蓮田駅から東へ広い道がある。県道311号線 (蓮田鴻巣線) になる。歩道も広くとられている。蓮田市の幹線通りになり西の伊奈町に通じている。この道路沿いに祠が置かれ、その中に不動明王像が安置されていた。ここの不動明王は優しい顔をしている。


馬頭観音 (5番)、地蔵菩薩、板碑、石仏

県道311号線 (蓮田鴻巣線) を西に進むと見沼代用水に架かる御前橋ぶつかる。すぐ北側、見沼代用水沿いに墓地がある。

  • 板碑 - 墓地建物内には阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」が刻まれた年号不詳板碑が置かれている。年号不詳だが、鎌倉時代から室町時代前期に集中し、関東の鎌倉武士の本貫地とその所領に限られているので、これもその時代のものだろう。
  • 廻国巡礼記念地蔵菩薩 - 墓地入り口に祠があり、1778年 (安永7年) に造立された右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像が置かれている。台石には「天下泰平 国土安全 回国供養」と刻まれ、また道しるべを兼ねており、右側面に「左 じおんじ」と刻まれている。
  • 馬頭観音 (5番) - 廻国巡礼記念地蔵菩薩の横には1921年 (大正10年) に造立された馬頭観音が置かれ、駒角柱に馬頭観世音と刻まれている。

墓地内には幾つもの石仏が置かれている。資料で紹介されているものは

  • 金剛界大日如来 (左)  - 1687年 (貞享4年) に造立された舟形石塔に智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像が浮き彫りされている。供養する故人を1717年 (享保2年)、1740年 (元文5年)、1733年 (享保18年)  の三回に渡って追加している。
  • 阿弥陀如来/聖観音 (右) - 1660年 (万治3年) に造立された舟形石塔上部に卍が刻まれ、その下に、向かって右に阿弥陀如来立像、左に合掌する聖観世音菩薩立像が浮き彫りされている。1666年 (寛文6年) にもう一人供養のために追加されている。
  • 如意輪観音  (左上) - 1758年 (宝暦8年) に女性の供養のために造立された舟形石塔に、輪王座を組む如意輪観世音菩薩坐像が浮き彫りされている。
  • 如意輪観音 (中上) - 1691年 (元禄4年) に女性の供養ために建てられた舟形石塔に、輪王座を組む如意輪観世音菩薩坐像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (右上)  - 1697年 (元禄10年) に男性2人と女性2人の供養のために建てられた隅丸角柱形石塔に、両手で宝珠を持つ地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (左下)  - 天明年間 (1781 ~ 1789年) に少年と少女の供養のために建てられた舟形石塔に、両手で宝珠を持つ地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (中下)  - 1726年 (享保11年) に供養塔として造立され、1736年 (享保21年)、1738年 (元文3年)、1749年 (寛延2年) に渡り合計少年5人を供養している。供養塔には両手で宝珠を持つ地蔵菩薩坐像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (右下) - 1733年 (享保18年) に男性の供養塔として造立され、1733ねん (享保18年) に男性一人追加供養されている。舟形石塔に、合掌する地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。

上 (かみ)

元荒川河川敷 (市街化調整区域) を除き市街化区域に指定されている。1964年 (昭和39年)の-住居表示実施により、大字蓮田の一部から上一丁目・二丁目が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。

大字上の人口推移状況は以下の通り。1980年以降、少しづつ人口は減少し近年は横ばい状態になっている。


須加神社 (須賀神社)

本町の蓮田駅から少し北に進むと須加神社がある。旧上蓮田村の鎮守だった。社名は、祭神の素鳴尊が八岐大蛇を斬り、稲田姫命 (いなだひめのみこと) と婚してその宮居を定めた土地に至った時に「吾心清清し (あしんすがすがし)」と言ったことにちなんだそうだ。

須加神社は元々は南西の現在の御前橋二丁目にあった産土山 (うぶすなやま 現在は消滅) と呼ばれる地にあったのだが、江戸時代にこの地に移転したと推測されている。境内には1913年 (大正2年) 伊勢太々講中が寄進した石燈籠があり、奥に幣殿と本殿の社殿が置かれている。

境内には末社の稲荷神社、2基の御神輿を納めた神輿庫、また児童遊園や自治会館もあり、地域住民の憩い集いの場所となっている。

1836年 (天保7年) 奉納の手水鉢が置かれた祠の中に4個の力石が置かれている。

参道の入り口の一の鳥居の扁額には「牛頭天王」と書かれている。牛頭天王 (ごずてんのう) は日本における神仏習合の神で、ここの祭神の素鳴尊と同一とされている。この神社は一般的に「蓮田の天王様」として知られている。神社例祭は4月15日と7月14日に行われているのだが、7月は俗に「天王様」の山車の祭りがあるそうだが、今でも続いているのかはわからなかった。蓮田市では上平野の八幡神社の「天王様」が有名だったが、今では山車は出ていない。埼玉県には各地で天王様祭りがあり、その中でも久喜では盛大に天王様の祭りが続いている。


堂山公園

今回資料閲覧のため毎日通ってい蓮田市図書館のすぐ南側に堂山公園がある。蓮田市の名士の飯野氏の生家のあった屋敷跡地で、遺族によって蓮田市に寄贈され公園となっている。

公園の広場には飯野喜四郎の銅像 (写真左) が置かれていた。飯野喜四郎は明治元年蓮田村に生まれ、県会議員を務めた。明治30年には現在の春日部高等学校設立に尽力、大正7年には現在の埼玉大学の誘致運動、武州銀行 (埼玉協和義銀行の前身) の設立、県甘諸商同業組合長、 大宮合同運送株式会社設立社長等、県下の教育、産業、交通等に貢献的に活躍し、蓮田市発展の基礎を作った人物。 また、公園内には戦後60年の平成17年に蓮田市遺族会により戦没者慰霊之碑が建てられている。蓮田市は太平洋戦争では直接空襲などの戦禍は無いのだが、蓮田市の若者の多くが兵士として出中国北部や内モンゴル、満州などに出兵しており、戦没者は400名以上だった。終戦前夜に熊谷が空襲され、蓮田からも熊谷が焼ける様子が見え、住民は恐怖に包まれたという。

堂山公園内には、1823年 (文政6年) に廻国巡礼記念、富士修行記念で造立された石碑が置かれていた。山角柱に「秩父 西国 坂東 百番供養塔」また背面に「善行心山 奉修行大峯富士山諸願成就之所 善行院大楽坊」と刻まれている。道しるべも兼ねており、右側面に「与しみミち 古うのすみち」、左側面に「志おんじ道 かす可べ道」の文字が刻まれている。



見沼町

上の東が見沼町になる。全域が市街化区域に指定されており、主に住宅地として利用されている。1964年 (昭和39年) に住居表示実施により、大字蓮田の一部から見沼町が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。

見沼町には史跡として紹介されているものは一つの板碑だけで、地図に従って探すも見つからず、近侍の人に聞き、写真を見せてもこころあたりがないとの事で、断念。見沼町は戦前から集落があった場所なので史跡がないのは少し疑問がある。住宅地開発で消滅してしまったにだろうか?

大字見沼町の人口推移状況は以下の通り。見沼町は戸建て住宅街で世帯数は増加を続けている。蓮田市中心に近く、戸建てが亭はいる地域なので人気があるのだろう。人口もコンスタントに増加していたが近年は横ばい状態になっている。


蓮田橋

見沼町、綾瀬、山之内、関山の四つの地域の境界に蓮田橋が見沼代用水に架かっている。見沼代用水沿いは川口から利根川まで自転車道路と遊歩道のヘルシーロードが走っており、何度も走ったこちがある。この橋の所の自転車道路は少し変わっており、橋の下を、用水の水面よりかなり深く掘り込まれた道になっている。豪雨の際には通行止めになる。


見沼公園

見沼代用水の東側には見沼公園がある。かなり広い公園で、片隅には遊器具が置かれているが、それ以外は広いグラウンドになっている。



山ノ内

見沼町の西、見沼代用水と綾瀬川に挟まれた地域になる。山ノ内とその南の綾瀬の地域内は大部分が企画整理された戸建て住宅地として開発されている。地域東側には商業施設になっている。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。

大字山ノ内の人口推移状況は以下の通り。山ノ内は1999年 (平成11年) 8月に 大字蓮田の一部から成立した新しい大字で、全地域が住宅街と商業施設となっている。戸建て住宅街と高層集合住宅がある。若い年代が多く15歳未満の子供が他の地域に比べて多く、高齢化率は7.6%と蓮田市内では最も低い。ただ、15歳未満の人口比率は年々低下していっているのが気になるところ。

隣の大字綾瀬は全域が住宅地になっており、史跡は紹介されておらず訪問していない。参考に綾瀬の人口推移も載せておく。1980年代には人口は急増している。これは住宅地開発でこの綾瀬に転入が急増したと思われる。1991年をピークでそれ以降は人口減少が止まらず、禁煙は横ばい状況になっているが、ピーク時に比べ30年間で40%もの人口減少となっている。山ノ内でも、今後、同じ現象が起こるのではと思える。


山ノ内公園

戦前の山ノ内地区は全面畑で覆われており、民家はほとんどなかった。住宅地開発の際に、地域北側の関山橋の南には山ノ内公園が造られている。公園内にはまだ桜が咲いており、ここで休憩。



関山

関山橋の東側は蓮田南地域の最後の訪問地の関山になる。地域の元荒川河川敷は市街化調整区域、それ以外は市街化区域に指定され、主に住宅地として利用されている。1964年 (昭和39年) の -住居表示実施により、大字蓮田の一部から関山一丁目 - 三丁目が成立。1971年 (昭和46年) には大字閏戸および大字城の各一部から関山四丁目が成立している。江戸時代から1872年 (明治7年) に蓮田村になるまでは上蓮田村に属していた。今回の蓮田市滞在ではこの関山にあるインターネットカフェを利用している。

大字関山の人口推移状況は以下の通り。近年は人口は横ばい状態が続いている。


関山貝塚

見沼代用水に架かる関山橋からは元荒川の新荒川橋まで、150号線が走っている。関山橋から緩やかな坂道の途中に関山貝塚の案内板が置かれていた。関山貝塚は縄文時代前期 (約6500年前頃) の貝塚になる。この辺りまで海が入り込み奥東京湾を形成していた。この貝塚の発掘調査で貝殻が発見されている。 (温暖種のハイガイが77.4%、ヤマトシジミが15.7%) 貝層の中からは、獣骨、鳥骨、魚骨、クルミなども出土している。また、1928年 (昭和3年) には多種多様な縄文を施した関山式土器と命名された土器も発掘されている。この発掘以降、関東地方各地で関山式土器が発見されている。


延迦地蔵

関山貝塚の前道を渡った所に小さな墓地があり、その中に延迦地蔵菩薩立像が置かれている。造立時期は不明だが、舟形石塔に、両手で宝珠を持つ地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、「延迦地蔵大菩薩」と刻まれている。地元では「いぼ地蔵」と呼ばれ、正月や盆に供え物をして拝み、願いが叶った時にお礼として団子を供えるそうだ。


長松寺

いつも行っている蓮田市図書館の近くに禅宗曹洞派の長松寺がある。開山は仲山良信 (1595年 文禄4年 寂) と伝わっている。本堂は鉄筋コンクリート造りの二階建ての近代的な御堂になっている。

長松寺の入り口には蓮田地域から太平洋戦争に従軍し亡った軍人の忠霊塔が建っている。戦死された方々471柱の名が刻まれている。


馬頭観音 (1番、2番)

寺の墓地に二つの馬頭観音があると資料にあったので、探す。一つは見つけたが、もう一つは写真を頼りに探すが見つからず。

  • 馬頭観音 (1番 写真左) - 1909 年 (明治42年) に造立された自然石に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (2番 写真右 不明) - 1933年 (昭和8年) 造立の駒角柱に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。見つからなかったので、資料の写真を借用。


これで蓮田市の史跡巡りは終了。全地域を巡り、訪問記を作る事で、ある程度、蓮田市の事が分かり、個人的には消化できた。娘の夫が育った地がどのようなところかを見て親しみが湧いた。娘もいずれはこに蓮田で住む事になるのだろう。

見落としていたものが数件あるのと、訪問記を編集している際に、疑問点やもう少し深く知りたい事も出てきた。東京に来た際には再度訪れる事になるだろう。

この日は友人と鴻巣で夕食を共にし、鴻巣のインターネットカフェ泊まりとなった。明日は娘の住んでいる東京練馬に帰る予定。



参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)