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埼玉県 (12/04/23) 蓮田市 (9) 蓮田地域 貝塚

2023.04.13 14:30

蓮田地域 貝塚

山ノ神村

塚本 (貝塚村本村)

羽山村


蓮田地域 貝塚

蓮田台地の北東部にあり、元荒川の右岸に位置する。西は上閏戸村、南は中閏戸村、東は元荒川を隔てて白岡村 (現白岡町) に接している。古くは閏戸郷に属し、閏戸が三村に分離した際には上閏戸村に属していた。伝承では、この貝塚村は六軒百姓が開発を行ったとされ、更に開発が進み1698年 (元禄11年) には上閏戸村から分村独立し貝塚村が誕生したとされている。地名は付近に貝塚が多いことに由来している。ただ、1665年 (寛文5年) の上尾宿助馬調には既に「かいつか村」が見られるので、この頃から実質的に分村化が進んでいたとみられる。貝塚村は三つの小名の山ノ神村、貝塚村、羽山村で構成されており、現在でも小字として山ノ神、塚本、羽山として残っている。


大字貝塚の人口推移状況は以下の通り。貝塚は蓮田市の中で4番目に人口の少ない地区。他の地域同様に高齢化が進んでいる。


資料に記載されている貝塚の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り


貝塚地区訪問ログ




山ノ神村

旧貝塚村の中で北側に位置していたのが山ノ神村になる。地域内には山ノ神沼があり、村の名称はこの沼に由来する。



北向き地蔵

祠の中には1714年 (正徳4年) に造立された地蔵菩薩で左手に宝珠、右手に錫杖を持った姿で丸彫りされている。建立の際、北向きに建てるようにとお告げがあったと伝わっており、地元では北向き地蔵と呼ばれている。別の言い伝えも残っている。

お地蔵様はいつも北を向いていて寒いだろうと、言ってお爺さんがそっと南向きにしてあげましたが、翌日もお参りに行くとまた北を向いておりました。何遍直してあげてももとどおりになっていました。この話を聞いた村人は不思議に思い、今まで以上にお地蔵様を大切にしてお線香やお供物を絶やさなかったということです。

8月24日の縁日には、近在の人がお参りに訪れ、諸願成就の際には2色・3色の布、団子や酒を奉納しているという。

祠の斜め後ろには1832年 (天保3年) に奉納された社寺型手水鉢が置かれ、時期は不明だが、2個の力石も置かれている。それぞれには「奉納 力石 ■五〆目」、「奉納 力石 丗〆目 (約112Kg)」のと刻まれている。更に、1849年 (嘉永2年) 「再建地蔵堂」と刻まれた石碑がある。この年に地蔵堂が建てられた事がわかる。その横には根金住民が1764年 (明和元年) に寄進した燈明の柱も残っている。


馬頭観音 (12番)、山ノ神の共同墓地

道を東に進むと畑の中に山ノ神の共同墓地がある。中に雨よけのひさしの中に地蔵菩薩、馬頭観音と不明の石塔 (1784年 天明4年) の三つが納められている。


山ノ神沼

南側には山ノ神沼がある。山ノ神沼の響きは神秘的なのだが、その名の由来が資料に載っていた。山ノ神沼のあたりは鎌倉室町時代の頃は荒川の本流が流れていたと考えられている。当時の荒川は高虫の方から流れて井沼神社の西側にぶつかり神社の北を流れ清水沼、住宅地をへて山ノ神沼のほうに流れていた。この沼は古い荒川の河跡湖になる。古い時代には山ノ神沼は上沼と下沼があり、上沼の「上」を「神」と表記し、近くに大山といわれる大きな森があったので、山ノ神と呼ぶ様になったそうだ。これが江戸時代の山ノ神村の名の由来で、現在でも小字名として残っている。この沼は、この地域の畑への水を供給のための灌漑用池で古くから利用されていたそうだ。池の東には池に沿って遊歩道が整備されている。ここで休憩を取る。



塚本 (貝塚村本村)

旧山ノ神村 (小字山ノ神) の南は塚本という地域になる。この地域が貝塚村の本村になり、小字貝塚だった。


馬頭観音 (9番)

1866年 (慶應2年) に飼っていた馬が亡くなり埋葬した場所に、馬の供養として貝塚村の講中及び馬持助力により山角柱を建てたそうだ。馬頭観音塔正面には「奉請 上岡馬頭尊」と刻まれている。この文字の馬頭観音を見るのは初めて。上岡馬頭尊とは東松山市上岡にある軍馬や農耕馬の守り観音として信仰を集めていた上岡馬頭観音 (妙安寺) から勧請されたという。


庚申塔 (21番)

今日は二つ目の猿田彦型庚申塔に出会った。1847年 (弘化4年) に貝塚村講中により造られたもので、山角柱に「猿田彦大神」の文字がを刻まれ、台石には三猿が浮き彫りされている。猿田彦大神は元々は道案内の神だが、江戸時代中頃からは庚申信仰とも結びつき、庚申塔にもその名が記されるようになった。道案内の神らしく、道しるべになっている。正面には「向南 川越場 さって 江ニり余 すきとへ ニり」、左側面に「右 くき 志やうふ ニり」、右側面に「左 こうのす ニり はらいち 一り■丁」と記されている。7月下旬から8月中旬にかけ灯籠を立てて拝むそうだ。


第二土地改良竣工碑

猿田彦庚申塔の道しるべにある「すきとへ ニり」の道を東に進む。畑の中に第二土地改良竣工碑が建てられている。蓮田市の低地は昔から沼地が多く、江戸時代の初め頃から少しづつ開墾され米づくりが行われてきた。そのために不定形の田畑が多くその上用水や排水に苦しむ湿地帯だった。 農業にも大変な労働で、収穫も不安定であったため、大正時代の中頃、元荒川の河川改修や綾瀬川の改修が行われ、続いて排水の確保、田畑の土地改良が 進められ、更に、農業の機械化、近代化を進め、大掛かりな土地改良が各地で行われた。江戸時代に開発が始まってから400年の年月が 費やされ、ようやく良質の田が実現している。この偉業を讃え、苦労を忘れず後世に伝える目的で、土地改良記念碑が各地に建てられた。この第二土地改良竣工碑もその一つになる。


神宮寺跡、庚申塔 (17番)

猿田彦の庚申塔まで戻る、次は南 (川越方面?) に向かう。すぐ側に畑の道沿いに墓地がある。ここは神宮寺跡だそうだ。この南に貝塚神社があり、その別当寺の神宮寺だった。新義眞言宗、足立郡倉田村明星院末、八幡山と号號し本尊阿弥陀如来を祀っていた。1868年 (明治3年) の神仏分離令で廃寺になっている。墓地の中に庚申塔と地蔵菩薩などが移設されている。


馬頭観音 (11番)

1835年 (天保6年) に亡くなった馬の供養のためコミュニティセンターの東側に駒角柱形文字型馬頭観世音菩薩を建てたものをこの地に移設している。正月には供え物をし拝んでいるそうだ。


馬頭観音 (10番)

 1928年 (昭和3年) に飼っていた馬の供養として建てられ、駒角柱形石塔に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。正月に注連縄を張り、供え物をして拝んでいる。


貝塚神社、綾瀬貝塚

貝塚神社の創建年代などは不詳だが、江戸時代初期から中期にかけて当地周辺の開発が進み、上閏戸村から貝塚村が独立し、貝塚村の鎮守として稲荷社と称して創建されたと考えられている。地内でも高台に当たる貝塚の上に建てられており、貝塚村の開発を進める中で、農耕の神である稲荷神 (倉稲魂命) を祀ったと思われる。1868年 (明治2年) に村社に列格、1913年 (大正2年) の神社合祀により、羽山村鎮守の山神社 (旧十羅刹社) とその境内社の稲荷社、山ノ神村鎮守の八幡社 (山神社) と雷電社とを合祀し、貝塚神社と改称している。

ここには縄文時代前期 (約5500年前) の貝塚が発見され、綾瀬貝塚と呼ばれている。元荒川右岸においては最も奥に位置する貝塚になり、標高約13m、水田との比高は約4mだそうだ。縄文時代前期の貝塚としては比較的大きく、三ヶ所からなっている。発見された貝類はヤマトシジミを主体とし、若干の海水産の貝を含んでいる。縄文時代前期にはこの辺りまで元荒川流域の低地帯に海が奥深く入り込んで、貝塚附近が干潟であったことがわかる。

境内には祠があり、その中に三つの石塔が納められている。真ん中のものは1757年 (宝暦7年) に学業成就祈願し造立された角柱形の石塔に「天満宮」と赤字で刻まれ菅原道真を祀っている。その両側にも石塔があるのだが、両方とも祭神は不明という。向かって左側の切妻角柱形石塔は右側のものは1740年 (天文5年) に造られた角柱形石塔で、両方とも十羅刹社から移転したものと考えられている。

鳥居の脇には力石が三つ置かれており、それぞれは天保年間 (1831 ~ 1845年)、1748年 (延享5年) 羽山村中奉納の「奉納 力石 三十〆目 (約112Kg)」、 1707年 (宝永4年) 奉納のものになる。



羽山村

塚本の西側にはかつては羽山村があり、現在では小字羽山となっている。


大日如来、若宮八幡宮

貝塚神社から西に向かい旧羽山村に入る。畑の中に二つ石塔が建っている。一つは金剛界大日如来を祀っている。1704年 (宝永元年) に僧侶の位牌として造立された舟形の石塔に、梵字「ア」を刻み、智拳印を結ぶ金剛界大日如来立像と蓮華座が浮き彫りされている。その隣には子供若者守護を祈願した若宮八幡宮

が祀られ、1749年 (寛延2年) 造立の宝形角柱形の石塔に「若宮八幡宮」の文字が刻まれている。


弁天

道を西に進むと空き地に1730年 (享保15年) に造られた入母屋破風付角柱形の石祠がある。中は空なのだが、弁財天を祀っているそうだ。


地蔵菩薩 (13番)、巡礼塔

弁天から道を北に取ると、畑の中に墓地がある。その中に地蔵菩薩像や巡礼塔が置かれている。


子育て地蔵 (4番)

道を北に進むとようやく住宅街に入る。民家の塀の前に地蔵

1739年 (元文4年)、1759年 (宝暦9年) にそれぞれ少年と少女の供養のために造られたもので、舟形石塔に、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像が浮彫りされている。地元では「子育て地蔵」と呼ばれている。


宝篋印塔

道を東に向かい先訪れた道しるべになっていた庚申塔 (21番) の道に向かう途中、畑の中に林がある。林の中に蓮田市指定文化財となっている宝篋印塔が二つ置かれていた。造立時期は不明だが、成田家家人、小林周防守図書頭の墓と像伝えられているもので、市内最古と思われている。



これで今日予定していた史跡は全部周り終えた。ここから図書館に向かい明日の下調べを行う。



参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)