観想
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/shou/kokugo/document/ducu7/c01-00-007.html 【井口時男が読む「教科書の俳句」第7回 高浜虚子④ ――花鳥諷詠の功罪】より
流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子 季語:大根(洗ふ) (冬)
切れ字:かな
〇詠嘆の「かな」と第三者性
昔、中学生のころだったか、この句を初めて読んだとき、ああよくわかる、と思った。
家の前の消雪用を兼ねた細い流れのほとりにしゃがんで母や祖母が大根を洗っている。雪国の冬支度だ。子供の私もたまにその傍らにしゃがんで手伝いのまねごとをしたりする。ところが、どんなに注意しても葉っぱがもげて流れてしまう。葉っぱ一枚だって漬物になる。あっと思って手をのばすがもう間に合わない。山裾の傾斜地だから流れが早いのだ。
しかしやがて、どうも虚子の句は私の体験とは違うようだと気づきはじめる。
大根洗いの当事者である私の体験に即して言語化すれば「流れゆく」ではなく「流れ去る」だ。「流れゆく」はすでに出来事から距離をおいて眺めている人の視線である。しかも事態を俯瞰している。なにより「かな」という詠嘆が決定的だ。当事者の口からは絶対に「かな」は出ない。
「かな」は魔法の言葉だ。末尾に「かな」と置いたとたん当事者性が消えてしまって、我がことであっても一幅の絵を見ているような距離感が生じる。「ゆとり」といってもよい。そのとき、芭蕉なら〈馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉〉(二つ目の「ぼく」はくの字点)と詠むだろうし、漱石が自ら「俳句的小説」と称した『草枕』なら一瞬にして実現する「出世間的な詩味」「非人情の天地」というだろう。「かな」はこうして、「人情」の中で日々あくせくしている状態から心を離脱させてくれるのだ。その一瞬(だけ)、いわば「小我」が「放下」されるのである。俳句は「ゆとり」の文学だというその秘密のいっさいが「かな」に凝縮しているようではないか。
とにかく、「かな」の詠嘆は傍観する第三者のものだ。母や祖母があかぎれを作りながら大根洗いしているのを「山村の初冬の風物」だとか「画になる」(『草枕』)だとかいいながら懐手でながめているよそ者のまなざしである。そう気がついたときから私にはこの句がつまらなくなった。
〇主客未分と無思想性
大根の葉の流れる原因である水辺での大根洗いという習俗はもうほとんど見られなくなったが、それを別にすれば、平明きわまりない、解説なしで誰にもわかる句だ。
昭和3年(1928)11月10日の東京郊外の吟行の際の句。実際、虚子はこのとき小さな橋の上から水流を見下ろしていたらしい。
「フトある小川に出た、橋上に佇むでその水を見ると大根の葉が非常な早さで流れて居る。之これを見た瞬間に今まで心にたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである。その瞬間の心の状態を云へば、他に何物もなく、たゞ水に流れて行く大根の葉の早さといふことのみがあつたのである。流れゆくと一息に叙した所も、一にその早さにのみ興味が集中されたからのことである。」(改造文庫『句集虚子』自序 昭和5年)
「他に何物もなく、ただ⋯⋯」は、前回〈白牡丹と〉の項で引いた「大自然と自分と一様になつた」(「写生俳句雑話」大正12年=1923)主客未分化の状態に近いだろう。虚子にとっての理想的心境だ。だが、虚子の俳句の急所もやはりこの一点にある。
山本健吉『現代俳句』(昭和26年)はこの自序を引いたうえでこう述べている。
「作者の心は、瞬間他の何物もない空虚さが占領する。よく焦点をしぼられた写生句であり、『ホトトギス』流の写生句の代表作とされるゆえんであるが、その場合この写生句が、精神の空白状態に裏付けされいることを認めねばならぬ。」
山本はほぼ虚子の自己解説を受け入れている。だが、「『ホトトギス』流の写生句の代表作」だという定評を認めたうえで、「空虚さ」「精神の空白状態」と付け加えるところには微妙な批判意識がうかがえる。肯定と留保と、山本の態度はアイロニカルだ。
山本が留保したものを明確に打ち出せば、この「空虚」「空白」は虚子の「無思想性」「非社会性」の源泉だということになるし、さらに「痴呆状態」といったきつい評言にもなり得る。現に平畑静塔「昭和の西鶴――虚子の俳人格とその作品――」(昭和27年 『俳人格』所収)は、虚子を「芭蕉に次ぐ者」とし、「虚子の俳句は、蕪村や子規のはるか上位に立つもの」と讃辞を贈ったうえで、しかし山本の見解を踏まえて、「一種の痴呆美の俳句」だといい、「俳人は痴呆でいいのである」などと続けている。
「虚子のこの大根の俳句は、他のいかなる芸術をもってするも置き換えることはできないのである。一見痴呆の見事なる細工ともいえぬことはないであろうが、俳人は痴呆でいいのである。」
静塔は、こんな「痴呆美」を完璧な作品にできるのは俳句だけだ、「人格」まで俳句そのものになってしまった虚子だけだ、というのである。静塔はまた、俳句は「社会変化にほとんど関知しない奇型の文学」であり、それゆえ「悲しき文学」だ、とも書いている。では、かつて虚子の「無思想性」「非社会性」に飽き足らず新興俳句運動に身を投じた静塔の、これは虚子に対するアイロニカルな讃辞だろうか、それとも精いっぱいの皮肉だろうか。
いずれにせよ、山本健吉も平畑静塔も、この〈流れ行く〉に対してはアイロニカルにしか語れないらしいのだ。この句には、評者をアンビヴァレントに引き裂く何かがあるようだ。
すべてはあの主客未分状態に由来するのだろうと思う。
観照(観想)の果てに到達する主客未分状態には、対象から分離された自己というものが存在しない。だから、対象に対する批判的分析もないし自己に対する反省的意識もない。そもそも知性というものの働く余地がない。知性の働きは自己と疎遠なものとして対象を措定するところから始まるものだからだ。その意味で、主客未分状態はまさしく「空虚」、まさしく「空白」、まさしく「無思想」、まさしく「痴呆」なのである。
しかも、〈流れ行く〉の句にはなんの趣向もないし言葉や表現の工夫もない。現象そのままの「流れ行く大根の葉の早さ」に詠嘆の「かな」を付けただけだ。このとき「かな」は、しばし覚めやらぬ痴呆的な放心状態そのものの「余韻」の表示にほかなるまい。
主客未分状態は言語化不能の状態である。しかし、俳句も言語芸術である以上、言語化不能なその状態を言語化せざるを得ない。しかも定型の調べに載せて季語を用いて。そこでは言語化するために意識的に言葉を工夫すればするほど主客未分状態から遠ざかってしまう、という背理が往々にして生じがちだ。
しかしこの〈流れ行く〉はほぼ無技巧であるために、かえって、原初の主客未分状態を最もよくとどめているともいえるのである。おそらく、山本健吉や平畑静塔の強いられたアイロニーとアンビヴァレンスはそのことに由来する。
〇花鳥諷詠と客観写生
さて、この昭和3年、虚子は「花鳥諷詠」ということを言い始めていた。
花鳥諷詠とは「花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」(『虚子句集』自序 昭和3年)
俳句の対象は「花鳥風月」、季節の推移とともに生じる「自然界の現象」だと虚子はいう。しかし、厳密にいえば自然現象すべてではなく、有季定型の俳句という小さな器が許容できて、かつ、美意識によって選別された自然現象なのだというべきだろう。その意味で、「花鳥風月」という美的自然の精髄は、和歌から連歌へ、連歌から俳諧へ、俳諧から俳句へと受け継がれて、歳時記に網羅されているのだ。
そしてまた、虚子の理想が観照(観想)の極みで到達する主客未分状態であることからも、対象は制限されざるを得ない。つまり、花鳥諷詠には、白牡丹や大根の葉のように、こちらに危害を及ぼさない静止的自然こそふさわしいことになる。同じ自然現象でもクマやイノシシに遭遇したらそうはいくまい。王朝末流の美意識を生きた吉田兼好は、和歌の美学について、「おそろしき猪ゐのししも『ふす猪ゐの床とこ』といへばやさしくなりぬ」(『つれづれ草』)と書いていたが、和歌の「雅」に対して「俗」を選んだ虚子の写生俳句においても、観照(観想)の対象になれるのはこちらをおびやかさないおだやかなものだけなのである。「花鳥諷詠」は静的自然を得意とし動的自然を苦手とするのだ。
碧梧桐〈赤い椿〉の項で書いたように、虚子は関東大震災の句を詠まず、門下にも詠むのを禁じたというが、その一班の理由もここにあるだろう。大震災は大地も揺らすが人の心も大きく揺らしてしまうのだ。さらに震災は、人間の生活を揺らし、社会を揺らす。(仄聞するところでは、現代においても、東日本大震災後、震災の句は詠むな、と門下に指示した伝統俳句派の「大家」もいたそうだ。)
なるほど虚子は人事を排除しているわけではないが、あくまで自然界の現象に「伴ふ」限りにおける「人事界の現象」である。もちろん、イノシシや震災ならずとも、生きている人間は何をしでかすかわからないのだし、政治まで含む社会現象はなかなか観照(観想)の対象にしにくかろう。虚子の写生はおのずから「非(避)社会的」たらざるを得ないのである。
虚子は「諷詠」については格別の解説をしていないようなので、要するに定型の調べに載せて句を詠むことだと思っておけばよさそうだが、その詠み方を規制するのが客観写生説である。
つまり、「客観写生」は「いかに」詠むかという技術論であり、「花鳥諷詠」は主として「何を」詠むかという対象の規定である。だから二つは矛盾するものではなく、両者相まって、大正後期から昭和期の虚子の俳句論の根幹を形成することになる。つまり、〈白牡丹と〉も〈流れ行く〉も、ともに客観写生句であり、花鳥諷詠句である。
(もっとも、「諷詠」はやや主情的でウエットな語感があり、「客観」の方はドライだという微妙な違いはあるのだが、それはここでは追究しない。虚子自身は、「客観」を説きながら「余韻」も必要だという言い方でこの違いを補正していた。その見本が〈白牡丹と〉の句である。)
〇生々流転と自然随順
『金子兜太 俳句を生きた表現者』の準備で金子兜太の文章を読んでいた時、こんな一節に出会って不審に思ったことがあった。
「『流れ行く大根の葉の早さかな』――大根の葉を徹底して客観したとき、虚子のこころは大根の葉とともに自在に流れていた。それだけである。そして、そこに、いつまでも温ることのない非情の眼が、流転の相を底ふかく映していたのである。」(金子兜太「「虚子の『客観』」昭和43年 『定型の詩法』所収)
写生句であるはずの〈流れ行く〉に「流転の相」などという仏教的な観念を読みこんでしまうのはばかげている、俳句の世界に「現代=二十世紀」をもたらした金子兜太ともあろう者がなぜ、まるで〈古池や蛙飛びこむ水の音〉に禅の悟達の境地などを読んで芭蕉を神格化した月並宗匠みたいな読み方をしてしまうのか、それが不審だったのだ。
だが、「流転の相」とは虚子自身が述べていることなのだった。
昭和31年(1956)のタイトルもずばり「生々流転」という短文で、虚子は自ら〈流れ行く〉の句を引いたうえで、こう書いていた。
「大根は二百十日前後に蒔き土壌の中に育ち、寒い頃に抜かれ、野川のほとりに山と積まれて洗はれるのであるが、葉つぱの屑は根を離れて水に従つて流れて行く。水は葉をのせて果てしなく流れて行く。こゝにも亦た流転の様は見られたのである。」
兜太は虚子のこの自己解説をそのまま受け止めていたのだ。(もちろん、兜太の論は、虚子の方法ではもう現代は描けない、と展開していくのだが。)
作者の自己解説を鵜呑みにしてはならない、そもそも作者の自己解説など参照する必要もない、というのが私の批評の立場だが、虚子のこの述懐を疑う必要はなさそうだ。昭和5年に作句時を回想して「之を見た瞬間に今までにたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである」と書いたその「たまりたまつて来た感興」の内容が「生々流転」ということであったのかもしれないから。そしてたしかに、「生々流転」は虚子の人生観、自然観の根底の思いであったようだから。
たとえば、兜太も言及しているのだが、早くも大正4年(1915)の「落葉降る下にて」の末尾にはこんな一節があった。
「山川が静かにありの儘を其掌の上に載せて居れば時は唯静かに其等のものの亡び行く姿を見せるのみである。其処に善も無ければ悪も無い。」
温泉場に宿泊して仕事しながら、日々の出来事や心境を書き綴ったこの文章の中心には、幼い我が子の死を始めとする死というものに対する感懐がある。その結びがこの一節なのだ。
これこそ究極の自然随順である。そして、日本人である我々は、川のほとりで水の流れを指して孔子が言ったという「逝く者は斯かくのごときかな、昼夜を舎おかず」(『論語』)を思い出したり、鴨長明の「ゆく川の流れは絶えずして」(『方丈記』)を思い出したりして納得する。水の流れに生々流転、世の無常を連想する思想は我々の伝統に根ざしている。
しかし、虚子みずからの解釈とはいえ、これでは寓意的解釈というものではなかろうか。写生句は本来、寓意的解釈など必要とせず、それだけで一小世界の活写として自立すべきものではないか。そしてまた、もし我々が虚子の自作解説など知らずにこの句を読んで、無常観の表現だなどと解釈したとすれば、それは芭蕉の〈古池や〉に禅の境地を読みこむのと同じく、写生句というものを知らない過度な観念的解釈だと批判されるのではないか。そもそも子規の近代俳句は、そういった月並宗匠連の観念的解釈を排除することから始まったのではなかったか。さらに、流れ行く大根の葉が生々流転の寓意であるならば、桐一葉の落葉を詠もうが初霜を詠もうが、季節の移ろいを詠む句はすべて生々流転の寓意句だということになるのではないか。そういう無数の生々流転の句の中で〈流れ行く〉が格別すぐれた句である理由はどこにあるのか。もしそれが無常観の伝統的言説を踏まえているからだというのであれば、同じ理由で、新鮮味のない月並な観念だということにもなるのではないか。
〇写生のトリヴィアリズムと「意味」
みんな「かな」に眩惑されているのだ、という気がする。何の趣向も描写の工夫もない小学生にもわかる平明な句だからこそ、ひたすら末尾の「かな」が表示する「空白」に思い入れをして虚子の言外の観念をさぐるしかない、そのためついつい虚子の自己解説を参照してしまう――これはそういう句なのである。
私は実は、この句に対しては、〈古池や〉について子規が「芭蕉雑談」(明治26年)で述べた評言がそのまま妥当するのではないかと思っている。
子規は、〈古池や〉は談林的な技巧の中をさまよっていた芭蕉にとって、平明なことを平明に詠めたことが画期的だったのだが、実は句としての良し悪しを定め難いタイプの句なのだという。だからこの句を「無類最上の句」だとする人がいても「平々淡々香も無き臭も無き尋常の一句」だとする人がいても不思議ではない。この句はただ現象の「ありの儘を詠ぜり、否ありのまゝが句となりたる」ものであって、それ以上でも以下でもない。そして、「文学なる者は常に此の如き平淡なる者のみを許さずして多少の工夫と施彩とを要するなり」、つまり、芭蕉のほんとうの「佳句」は別にある、と述べていたのだった。
私自身は虚子の〈流れ行く〉は「尋常の一句」だとする立場だが、それはさておき、ここにはもう一つ写生句なるものの重要な問題がある。平畑静塔が、〈流れ行く〉は花鳥諷詠句の「極致」だとしたうえで、「極致」とはとりもなおさず「高度トリヴィアリズム」だと述べた問題である。
「社会にもまた自己そのものにもかかわらずに、眼前の些事に執着するということは、虚子に始まった一つの俳句作法である。」(平畑静塔「昭和の西鶴」)
写生句は自然(花鳥風月)の一小片をありのままに(客観的に)切り取るものだが、一小片は一小片にすぎず、ついに思想的意味も人生的意味ももちえないのではないか、という問題だ。その無意味性に耐えきれないからこそ、この句に対して、評者たちは「かな」に過剰な思い入れをしたのだし、虚子自身も、一小片は「大自然」に通じる(〈白牡丹と〉の項参照)などと自己弁護しながら、しかしその小片性に安住できないから生々流転の相などという過大な意味を持ちださざるを得なかったのではないか、と私は思うのだ。
〇再び平凡なるものの擁護について
さて、虚子が「花鳥諷詠」を言い出した昭和3年はどういう年だったか。
すでに大正末年から、一方にロシア革命に刺激された革命のための文学(プロレタリア文学)があり、他方に大震災後の都市改造で出現したモダン都市東京の新風俗に取材したモダニズム文学があり、2月には初の「普通選挙」が実施され、無産政党の進出を恐れた権力による大規模な選挙干渉があり、3月には共産党員の一斉検挙(三・一五事件)があり、4月と5月には第二次・第三次山東出兵があり、6月には張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)があって軍部の独断専行が始まり、治安維持法に死刑と無期刑が追加され......という年だった。
いくぶんの皮肉もこめて言うのだが、虚子の「非(避)社会的」な花鳥諷詠説は、結果的に、こうした社会的歴史的暴風から俳人たちを保護する役割をもったのである。俳人たちも社会人として実生活では暴風に襲われざるを得ないが、「平凡」の擁護者としての虚子の庇護下にいる限り、彼らの俳句表現は無風でいられたのだ。
そしてまた、「社会にもまた自己そのものにもかかわらずに、眼前の些事に執着する」(平畑静塔)虚子の指導は、多数の作家や詩人を苦しめた「自己表現」という近代文学特有の甘い毒の誘惑からも俳人たちを守ることになった。そうやって保護された「平凡」なる人々が「ホトトギス」の広大な裾野を形成したのである。
最後に、虚子の句集『五百句』から、大正末期から昭和初期にかけての句を十句掲出しておく。なるべく花鳥諷詠にして客観写生に添う句を選んだが、前回の〈白牡丹といふといへども紅ほのか〉(大正14年)と今回の〈流れ行く大根の葉の早さかな〉(昭和3年)は除いた。
棕しゆ櫚ろの花こぼれて掃くも五六日 (大正13年)
晩涼に池の萍うきくさ皆動く (大正13年)
橋裏を皆打仰ぐ涼すずみ舟ぶね (大正15年)
底の石ほと動き湧く清水かな (大正15年)
巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ (昭和2年)
わだつみに物の命のくらげかな (昭和2年)
やり羽ば子ねや油のやうな京言葉 (昭和2年)
旧城市柳りう絮じよとぶことしきりなり (昭和4年 *満洲旅行中の句)
石ころも露けきものの一つかな (昭和4年)
蜘蛛打つて暫しばらく心静まらず (昭和5年)
ちなみに、虚子にも当事者的な大根洗いの句はある。
大根を水くしやくしやにして洗ふ (二つ目の「くしや」はくの字点)
我が少年時代のような傾斜地の水流ではなく平地の水辺のようだし虚子自身が大根を洗っているとも思えないが、こちらの句は当事者に寄り添っている感がある。「水くしやくしやにして」が私は好きだ。
〇拙句
私はまだ大根の葉の句を作ったことはないので大根の花を。
花大根雪駄の似合ふ男ぶり (「鹿首」12号)
私の暮しにはもう大根を引くことも洗うこともない。そして、この雪駄の似合う男も、残念ながら、私ではない。「花大根」は諸葛菜(仲春)を指すこともあるが、ここでは大根の花(晩春)である。黄色い菜の花は野趣ある女、白い大根の花は野趣ある男、というのが私のイメージだ。
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【井口時男が読む「教科書の俳句」】
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易経を基にした、気質診断の方法を学びました。
陰陽五行の5つの要素に陰陽を+して、全部で人を10のタイプに分けて読んでいきます。本質を突いて非常に興味深い!
https://ameblo.jp/iunityyuri/entry-12452072987.html?fbclid=IwAR2hMq7Bf-OVx5NSi6_WCdaiKSao26A1RGPXiGeULOovdetouZtiINkRBOI 【五行と氣質診断】より
電車の車窓からは、黄色とピンクだらけ。
朝晩は冷えますが、春がいっぱいの風がふいています。 大好きな季節。生命がどんどん動きだす感覚です。
先日、陰陽五行十干十二支をベースにした、「氣質診断」の講座を受けて、一級氣質診断士となりました。
易経や算命学などすばらしいシステムだと思いますが、あまりにも深くて複雑で、そのうち勉強したい。
「氣質診断」は、易経を元に、生年月日で基本の気質を五行×陰陽の10個のタイプにわけて診断します。 非常にシンプルなものですが、統計学と言われるだけあって、本質をついた結果がでてびっくりします。
占いではなく、統計学のツールとしてビジネスのコンサルティングにも活用されています。
五行は、古来中国の思想ですべての要素を 木、火、土、金、水
の五大要素で理解するもので、四方向にも、季節にも、色彩にも内臓にも、すべてにこのシステムが応用されています。
氣質診断士協会より
古神道にも五行のワークがありますし、今中先生とコラボした中医学でも、すべて五行と陰陽が基本の考え方でした。
今は、赤ちゃん主導でホルモンがでて、出産を促すことが解明されてきました。 西洋占星術もそうですが、赤ちゃんの魂は生まれるタイミングを自分で選んでくるのだなと思います。だから生年月日はその人の波動を表す。
ここでばらすのもなんですが、私は「金の陽」タイプで、個性的で美意識とプライドが強く、好奇心とチャレンジ精神旺盛。でもおこちゃま。とでました。
パートナーは火で、相克の関係。やはり育てられて来たのか。しみじみ。😂
面白かったのは、シンプルであるがゆえにチームビルディングにも使えるということ。
課題ではスマップの5人の星を見ましたが、こりゃあうまくいかないだろうなと思う組み合わせでした。 嵐とは違う😒
グループの場合、なかの人々の五行と陰陽のバランスがとれているとうまくいきます。
人を採用する場合にも誕生日がわかれば、参考になりますね。
自分理解、他者理解のツールとして、とても面白いです。
今は青、春で「木」の季節。始まりです。 身体でいうと肝臓。
溜まった不要物をデトックスしましょう。しばらく陰陽五行にはまりそう。
Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵春は冬に溜まった老廃物を解毒する季節
陰陽五行から見る「春」
春は、陰陽五行では木のエネルギー。木には発散・柔軟・伸びる・生長という特徴があります。
自然界では「陽気」が増加して動物が冬眠から目覚めたり、木々が芽吹いたり。人も同様に陽気が増え、新陳代謝が高まり、細胞が活性化します。
冬に貯まった余分なものを排出するデトックスの季節が春。五臓でいえば肝になります。
デトックスをする臓器でもある「肝臓「胆のう」」。肝臓の一番重要な働きは、血液中のさまざまな老廃物を分解して解毒し、いつでもきれいな血液が流れるように管理していること。
肝臓、胆のうの働きが悪くなると自律神経の失調となってあらわれたり、むくみやイライラが起こりやすくなったりします。
(肝臓と胆のう・表裏一体 共に補い合う)
春こそデトックスで心も体も健康に!
寒い冬が終わりを告げて日差しが柔らかくなる春になると、なんとなく体の不調を感じる人が多いようです。そんな春だからこそ、実はデトックスに最適な時期なのです。
春にデトックスが最適な理由
デトックスとは、体の中にたまってしまった老廃物を排出することですが、そもそも、老廃物とはどのようなものなのでしょう。また、春にデトックスをおこなうと、どのようなメリットがあるのでしょうか。
#老廃物はどうしてたまる?
老廃物をひとことで説明すると、体内にあるけれど、もはや体には必要とされなくなったゴミのような不要物のことです。人間の体の中では、常に代謝がおこなわれています。たとえば、空気を吸うと「二酸化炭素」が排出されますが、この二酸化炭素も老廃物です。食事で肉や魚などのたんぱく質を食べると、分解されるときに人体には有害な「アンモニア」が老廃物として作られます。また、糖分がエネルギーとして使われる際に不完全燃焼すると、乳酸ができます。このように、普通に生活しているだけで、体の中では老廃物が作られているわけです。もちろん、老廃物は尿や汗などから排出されます。それでも、知らず知らずのうちに、たまってしまうこともあるわけです。
#なぜ春にデトックスがGood?
春がデトックスのベストシーズンである理由は、ずばり冬場は老廃物がたまりやすい時期だからです。冬は寒いので、どうしても体の代謝機能が低下してしまいます。さらに、運動量も比較的に少なくなる傾向があるため、ほかの季節よりも汗をかきにくくなるのも、冬に老廃物がたまりやすくなる原因の一つに数えられます。また、暑い夏にはたくさんの水分を摂取しますが、冬場には摂取量も減りがちです。老廃物が尿と一緒に排出される量にも影響が出るのは、当然のことといえるでしょう。
#春に起こる体の不調!老廃物がたまるとどうなる?
老廃物が順調に排出されれば問題はないのですが、体にたまるとトラブルが起こりやすくなります。寒い冬の間には老廃物が蓄積しやすくなるので、うららかな春を迎える頃に、なんとなく体の不調を訴える人が増えてしまうのもうなずける話ですよね。春に起こる体の不調としては、のぼせ、めまい、便秘、そして、肌荒れやニキビをはじめとする肌トラブルなどが挙げられます。
#春は排出の季節!?春野菜で肝臓をサポート
東洋医学の世界では、春は解毒作用がアクティブになる季節と位置付けられています。解毒機能を担っている、重要な臓器のひとつに肝臓があります。春野菜には肝臓の働きを助けてくれる成分が含まれているので、積極的に春野菜を食べて肝臓をサポートし、デトックスの促進を目指しましょう。春野菜にはほんのりとした♦「苦み」を持つものが多くありますが、実は、この苦みや香りこそがポイント。春野菜の苦み成分には解毒作用や抗酸化作用があるのです。
腸を綺麗にしてくれる食材でデトックス
体にたまった有害ミネラルや老廃物などの毒素が排出される割合は、便が75%、汗が3%、髪と爪がそれぞれ1パーセントとなっています。つまり、老廃物のほとんどは便で排出されているということですよね。ですから、腸内環境が整えば、それだけデトックスがスムーズに進むということになります。腸内のコンディションのために重要な役割を果たすのは善玉菌です。善玉菌のエサとなる食べ物を積極的に食べて、善玉菌を増やしましょう。善玉菌が好むのは、食物繊維とオリゴ糖です。食物繊維が多く含まれているのは根菜、キノコ類、そして、山芋などのねばねば食材。一方、オリゴ糖がたくさん入っているのは、ごぼう、キャベツ、玉ねぎ、はちみつ、バナナなどです。
春のデトックスは、体調不良の解消を狙えるチャンスです。食べ物の力を借りたり、運動を取り入れたりと、自分に合う方法をいろいろ組み合わせてデトックスにトライするのがいいでしょう。
農家の様々なオーガニック野菜料理も楽しめる春のデトックスを堪能しながら、健康できれいな体を手に入れてはいかがでしょうか。味噌.、梅干しなどもお忘れなく!
♦酵素と医食同源
🔹医食同源(いしょくどうげん)とは、
日頃からバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し、治療しようとする考え方。
🔹病気を治療するのも日常の食事をするのも、ともに生命を養い健康を保つために欠くことができないもので、源は同じだという考え。
🔹食事は医療の根本であり、病気を治す薬と健康を増進する食事とは、本来根本は一緒であるから、日常の食生活に留意することが大切だとする東洋医学の考え方。
引用
🔵食物を食べ、それを栄養素に変えてエネルギーや細胞を作り、生きています。
この時タンパク質、炭水化物、脂質の3大栄養素、そしてビタミン、ミネラル、さらに食物繊維これら大切な栄養素を働くようにするのが「酵素」です。
人間活動には酵素が大切です。酵素は生命力そのものです。
体内酵素は2万種あるようで、そのうち消化酵素は24種類、それ以外は代謝酵素です。
消化酵素は食物を消化し、エネルギーの換え吸収する。
代謝酵素は消化、吸収された栄養素を血や肉。骨になります。
代謝は、エネルギーを作り、新陳代謝を行い、排泄と解毒を行い、免疫力と修復力を高めます。
これらには.お米、味噌などの発酵食品、漬物、海藻類、さらに、旬の山菜、野菜などをお勧めです。人体がスムーズに正常に活動するためには大切な酵素です。
🔵「人の運は食にあり」~観相家・水野南北の生涯と研究!
「自らの食生活を改めることが、陰徳を積むことになる」という考え方が非常に興味深いです。
* * *
江戸時代中期の頃に生きた水野南北は、日本一の観相家といわれ、「節食開運説」を唱えた人物である。いわゆる霊能者と呼ばれる類ではないが、その人物史を見てみると、霊妙不可思議な出来事に何度も遭遇している。
●不遇な少年期を通じて、観相家への道を志す
まだ幼児の時に両親を失って孤児となり、鍛冶屋をしていた叔父に引き取られるが、性格はすさみ、10歳の頃から飲酒を始め、喧嘩ばかりしていたという。そして18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、入牢するに至っている。
だが、牢内での生活を通じて南北は、人相について興味深い事実を発見する。罪人として牢の中にいる人の相と、普通に娑婆生活を送っている人の相の間に、明らかな違いがあることに気づくのである。これがきっかけとなり、南北は観相家というものに関心を持つようになった。
出牢後、南北はさっそく、当時大阪で名高かった人相見を訪れ、自分の相を見てもらった。するとなんと、「剣難の相であと1年の命」と宣告されてしまった。愕然とした南北が、助かる方法はあるかと問うたところ、その唯一の方法は出家であると言われた。
南北は天下稀に見るほどの悪相・凶相の持ち主だったのである。
●麦と大豆のみの食生活で、凶相が消えた
そこで禅寺を訪れて入門を請うが、住職は南北の悪人面を見、断ろうと思い、「向こう1年間、麦と大豆だけの食事を続けることができたなら、入門を許そう」と告げた。
助かりたい一心の南北は、この条件を忠実に実行に移す。港湾労働者として従事しながら、1年間、麦と大豆だけの食事を実践するのである。
こうして1年が経過し、約束通りのことを実行した南北は、禅寺の住職のところへ行く途中に、再び例の人相見を訪ねてみた。と、この人相見、南北の顔を見るなり驚いて、「あれほどの剣難の相が消えている。貴方は人の命を救うような、何か大きな功徳を積んだに違いない」と言った。南北が、食事を変えて1年間貫き通したことを話したところ、それが陰徳を積んだことになって、彼の凶相を変えてしまった、というのである。
これで禅寺に行く必要のなくなった南北は、自分も観相家の道を志そうと決意し、諸国遍歴の旅に出た。水野南北、21歳の時である。
●様々な仕事を通じて、人相と体と運命の関係を追求
南北はまず髪床屋の弟子となって、3年間人相を研究し、続いて風呂屋の手伝いをして、やはり3年間、全身の相について研鑽を深め、さらに火葬場の作業員となって、ここでもまた3年間、死人の骨格や体格などを詳しく調べ、人の運命との関連について研究を重ねたという。
この修業時代に南北は、相学の淵源は仙術にありとの思いから、仙師を求めて深山幽谷に分け入ったりしている。そして25歳の時、奥州の金華山山中でようやく求める仙人と出会うことが叶い、100日間に及んで相法の奥義を伝授されているのだ。
この仙師は、「これすなわち相法の奥秘にして寿を保つの法なり。たとえ俗人といえどもこの法を行なう時は寿命百歳に至りなお天気に至ること自らやすし」と教えたという。
仙道には、食について厳格な規則がある。その理想とするところは、不老不死である。相法の奥義も、病まず弱らない体のまま長寿を全うすることにあるとすれば、「運命(長寿)」と「食」とを関連づける両者の接点は大いにあると考えられる。
●伊勢神宮での啓示を受け、生涯粗食を貫く
さらに南北は後年、そのことを確信させる神秘な体験をしている。
おそらく50歳頃のことであったと思われるが、彼が伊勢神宮へ赴き、五十鈴川で21日間の断食と水ごりの行を行なった際、豊受大神の祀られている外宮で、「人の運は食にあり」との啓示を受けるのである。
豊受大神は、五穀をはじめとする一切の食物の神で、天照大神の食事を司ると言われる。
南北は、「我れ衆人のために食を節す」という決意のもとに、生涯粗食を貫いた。その食事の内容とは、主食は麦飯で、副食は一汁一菜であった。米は一切口にせず、餅さえも食べなかった。また若い頃はあれだけ好きだった酒も、1日1合と決めて、けっしてそれ以上は飲まなかったという。
このような食生活を、盆も正月もなく続けたのである。南北はひどい凶相で、短命の相の持ち主であり、長生きしたり成功する相などは持ち合わせていなかった。しかし、食を慎んだことで運が開け、健康のまま78歳まで生き、大きな財を成したのである。
●食の節制により、運をひらく
水野南北による「幸運を招来する法」とは、一言で言えば食の節制である。次にその要点を現代語訳したものの一部を挙げてみる。(佐伯マオ著・徳間書店刊『偉人・天才たちの食卓』所収)
・食事の量が少ない者は、人相が不吉な相であっても、運勢は吉で、それなりに恵まれた人生を送り、早死にしない。特に晩年は吉。
・食事が常に適量を超えている者は、人相学上からみると吉相であっても、物事が調いにくい。手がもつれたり、生涯心労が絶えないなどして、晩年は凶。
・常に大食・暴食の者は、たとえ人相は良くても運勢は一定しない。もしその人が貧乏であればますます困窮し、財産家であっても家を傾ける。大食・暴飲して人相も凶であれば、死後入るべき棺もないほど落ちぶれる。
・常に身のほど以上の美食をしている者は、たとえ人相が吉であっても運勢は凶。美食を慎まなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人で美食する者は、働いても働いても楽にならず、一生苦労する。
・常に自分の生活水準より低い程度の粗食をしている者は、人相が貧相であっても、いずれは財産を形成して長寿を得、晩年は楽になる。
・食事時間が不規則な者は、吉相でも凶。
・少食の者には死病の苦しみや長患いがない。
・怠け者でずるく、酒肉を楽しんで精進しない者には成功はない。成功・発展しようと思うならば、自分が望むところの一業をきわめて、毎日の食事を厳重に節制し、大願成就まで美食を慎み、自分の仕事を楽しみに変える時には自然に成功するであろう。食を楽しむというような根性では成功は望めない。
・人格は飲食の慎みによって決まる。
・酒肉を多く食べて太っている者は、生涯出世栄達なし。
南北の説いたこのような観相学の要諦は、岡本天明が書記した「日月神示」に示された開運の法とも酷似しているのである。
(引用おわり)