「キリストの復活・私たちの復活」イースター礼拝メッセージ
マルコの福音書 16章1―8節
1. さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2. そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3. 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4. ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。5. 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6. 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7. さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
8. 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
イースター礼拝メッセージ
2023年4月9日
マルコの福音書 16章1―8節
「キリストの復活・私たちの復活」
2023年、主イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの朝を迎えました。イースターおめでとうございます!
先ほど交読した聖書個所、第1コリント15章に「初穂」という単語が出て来ました。先週、私は大和田の向こう側(国道8号線の東側)の田んぼが広がる道を車で走りました。昨年秋に稲刈りが終わってから、何も無いように思っていた田んぼに、青々と多くの麦が育ち、穂からこぼれ落ちそうなほどの実がついている様子に驚かされました。たまにしか見ない私のような者にとっては、ある日突然、麦畑になっているように感じられますが、土を造り、苗を植え、大切に育てておられる農家の方は、麦が無事に成長し、初穂が実り、それから畑中の穂に実が付くのをずっと期待し、いつも気にかけておられることでしょう。
聖書は宣言します。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)。麦畑の多くの穂の中のまず一本目、最初の穂に実が付いた。初穂が生じた。そうなれば、次々と畑中の穂に実が付き、大豊作となるでしょう。同じようにキリストの復活は初穂、それに続いて、私たちキリストにつながる穂も実らされ = 新しい いのちに復活させて頂くのです。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。(Ⅰコリント15:21,22)
創造主なる神様によって最初に造られた人=アダム。神様からいのちを与えられたアダムはエデンの園で奥さんエバと何の不安もなく幸せに生きていました。エデンの園の中心には「禁断の木の実」として知られている「善悪の知識の木」がありました。神様から「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、口にすることを堅く禁じられていた実でした(創世記2章)。人が神様を忘れないように、どなたによって生かされ守られているかを忘れないように、この世界の本当の支配者を見失わないように、神様はたった1つだけのルールを人にお与えになられたのでしょう。
しかし、そのたった1つだけのルールを人は破ってしまうのです。ヘビのなりをした悪魔にエバはそそのかされ、さらにエバにうながされて夫も…。夫婦は食べてはいけない実をかじってしまったのです。
神様との約束を破ってしまった…。その時から、すべての人は死ぬ存在になったと聖書は教えます。本来は永遠に神様とともに生きる存在だったのに、定められた時が来たら、この地上から去って行かなければならなくなったのです。
そして聖書が語る「死」とは、寿命が来て終わりという肉体の死以上のものを表しています。それは、いのちの源なるお方との関係が死んでいる状態です。アダムとエバは、神様に背いたとき、これまで親しく語り合っていた神様が、突然恐ろしく感じられました。神様から逃げようと、身を隠したのです(創世記3章)。悪いことをした子どもやペットが叱られることを恐れ、親や飼い主に見つからないように隠れたり、ごまかしたり、言い訳をしたりする様子に似ています。
アダム以来、すべての人は死ぬものとなりました。そんな私たちを生かすために:いのちの源なる神様ともう一度しっかりつなぎ直し、恐怖や束縛によってではなく、安心と本当の自由を頂いて、神様と人が永遠にともに生きていけるように、そのためにイエス・キリストはこの地上に来てくださいました。そのために十字架にかかり、身代わりに罰せられ、死なれ、私たちの罪の赦しと救いを完成してくださったのです。さらにキリストは死からよみがらされ、今も生きておられます。初穂として復活されたイエス様。私たちも必ず同じようになる。この約束をイースターの朝、確認していきましょう。
イースターの日曜日の朝、起きた出来事です。マルコの福音書16章4-6節、
4. ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。5. 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6. 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
十字架上で亡くなられたイエス様のなきがらにもう一度、良い香りをささげたい。そんな思いでマリアたちはやって来ますが、「お墓の入り口に置かれた大きな石の扉を動かすことが出来るだろうか・・・。私たちの力では無理だ。お墓の管理人さんにでも頼もうか。でも誰もいなかったら、せっかくお墓に行っても無駄足になってしまうかもしれない。それでも構わない。とにかくイエス様のおそばへ」そんな思いで彼女たちはお墓へ行ったでしょう。
大きな石の扉・・・。私たちも日々の生活で、そのようなものと直面させられます。どうして良いか分からない問題、先の見えない不安を前に立ちすくんでしまいます。うつむき、下を向いてしまう私たちです。重い扉が、私たちの心をふさいでいます。
マグダラのマリアたちもそうだったでしょう。愛するイエス様の突然の死。しかも世界一むごたらしい方法と言われていた十字架刑で死なれた。聖なるお方が、指導者たちにねたまれ、怒りを買い、不当な裁判にかけられ、群衆にあおられるようにして死刑判決を下された…。この現実はあまりにもつらすぎて、重すぎて、悲しすぎました。心に重くのしかかった大きな石の扉でした。
しかしお墓に来て、「目を上げて見ると」、現実はまったく違っていたのです。非常に大きかった石の扉が動かされていたのです。マタイの福音書によれば、天から御使いが下りて来て、大きな地震が起こり、石の扉が動いたと説明されています。
そして開いていた入り口からのぞいたお墓の中では、さらに驚くべきことが待っていました。お会いできると思っていたイエス様のお身体が消えていて、そこに真白な長い衣をまとった青年が座っていて、突然話しかけて来たのです。「幽霊!」と思いたくなり、腰を抜かしそうです。この青年は御使い=天使でした。「イエス様は、もうここにはいらっしゃらない。死からよみがえられた!」と勝利宣言!喜びの知らせを御使いは伝えたのです。
しかし、女性たちはあまりにびっくりし、恐くなって、その場から逃げ出したと、マルコの福音書は記します。この8節「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
で、マルコの福音書は閉じられていたのだろう。9節からの本文は、後の教会が、他の福音書の復活の記述も参考にしつつ、追加した文章だろうと言われています。
― 震え上がってしまった。気も動転していた。「弟子たちとペテロに『イエス様がよみがえったよ!』と伝えなさい」と御使いに言われたのに、女性たちは最初、誰にも何も言えなかった。恐ろしかったから。 ― ここまで書いて、マルコは筆を下したのでしょうか。
もちろん他の福音書を見れば、この後、よみがえられたイエス様が女性たちと出会ってくださり、声をかけてくださったこと。弟子たちのもとにかけていって、女性たちはこの驚きの知らせを伝えたことなどが見えてきます。しかし、マルコの福音書の本文は、「恐ろしかった」で終わっているのです。「ああ良かった。良かった。めでたし。めでたし」のハッピーエンドの終わり方に慣れている私たちにとっては、期待外れなエンディングでしょうか?
「恐ろしかったからである。」唐突に見えるマルコの福音書の終わり方。未完成のままのようにも思われます。この終わり方について、3つほどの説があるのだそうです。
- マルコが書き残していたはずの15章9節以降のエンディング部分が、引きちぎられたりして失われてしまったのではないか。
- マルコが突然の病におかされたり、または迫害が襲って来たりして、15章8節で執筆を止めざるを得ない緊急事態が生じたのではないか。
- 実際に、マルコは15章8節でこの福音書を閉じようとしたのではないか。
皆さんは、どう思われますか?
「恐ろしかったからである。」で終わるマルコの福音書。私は、このことにも神様のご計画、神様のみこころがあるのではないかと思わされました。私たちの生かされているこの地上は、すべてがめでたしめでたし、ハッピーエンドというような理想郷ではありません。もしかしたらハッピーエンドを知ることができるのは、天国に入れて頂いてからで、地上ではハラハラドキドキ、七転八倒の日々をのたうち回り、葛藤し、格闘して最後まで歩むのかもしれません。
墓の前から逃げ出してしまった女性たちのように、私たちにも逃げ出したくなる現実があります。震え上がってしまうような衝撃的な出来事にも直面させられます。気が動転してしまうような事態に置かれることもあります。ただただ恐ろしい、恐い、そう感じてしまう時もあります。「恐いな…」と感じてしまう人が夢にまで出て来て、私たちを苦しめることもあるでしょう。何よりも、いつかは必ずやってくる「自らの死」という現実。それは考えたくない、まだ当分先だと思い込みたいことではないでしょうか。
そんな恐怖、恐れ、おびえを持っていることを、私たちは正直に認め、恐いので「神様ともにいてください、イエス様 助けてください」としがみついていけば良いのではないでしょうか? ― 自分には信仰があるから大丈夫です。いつも平安です。神様が守っていてくださるから怖いものなんてありません ― そんな強がり、独りよがりな悟り、思い込みは、意外ともろいものなのかもしれません。
旧約聖書のイザヤ書41章10節に、このような神様からの語り掛けがあります。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
このみことばを呪文のように唱えて、「大丈夫・大丈夫。恐くない・恐くない」と思い込んで、一人で肩で風を切って生きていくことを神様は私たちに期待しておられるのでしょうか? そうではないと思います。正直に自分の心を注ぎだして、神様からのこの励ましのみことばに応答することを、神様は待っていてくださるのではないでしょうか。イザヤ書41章10節への私たち人間の側からの祈り・願いは、このようではないのかなと感じています。
「神様、恐いです。だからともにいてください。離れないでいてください。
いつもあなたがともにいてくださることを実感させてください。
神様、心臓のバクバクが止まりません。逃げ出したいです。
こんな臆病で、小さな私の神様でいてください。いつも支え、助けてください。
神様の力強い御手で守られていることを覚えさせてください」
主イエス・キリストは、2,000年前、本当によみがえられました。イエス様は昔も今も永遠に生きておられる神様です。私たちに語りかけ、働きかけていてくださるお方です。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。復活されたイエス様の確かな約束です。
そして初穂であるイエス様が死からよみがえらされたように、私たちもやがてこの地上での生を終え、主イエス様に手を握られて、確実に次の住まいへ移って行きます。天国でよみがえり、新しいいのち、永遠のいのちを神様から頂いて生きるのです。
先週、受難週の礼拝で私たちは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との十字架上からのイエス様の壮絶な叫び声を聴きました。イエス様も極限の恐怖を味わわれました。
しかし、イースター=キリスト復活の事実は、イエス様は決して見捨てられていなかったという絶対的な証拠でした。父なる神様によって、イエス様はよみがえらされたのです。父なる神の愛・父なる神の守り・父なる神との関係が断ち切られることはなかったのです。まことのいのちはつながっていたのです。
イースターの朝、暗く重い石の扉は開かれていました。墓の中の暗やみに、明るい光が差し込んでいました。
私たちの現実。恐怖に満ちた現実にも神様の光が届いている。何よりもよみがえられたイエス様が私たちとともにいてくださる。この神様の約束を信じて、歩み続けていきましょう。
祈ります。
みことばへの応答
以下、自由にご記入ください。
1. マルコの福音書が「恐ろしかったからである。」の言葉で閉じられている。
この事実は、あなたにどのような気付き、励まし、慰めを与えますか?
2.主イエス様はよみがえられ、今も私たちとともにいてくださる。
このことを事実として信じることは、あなたにどのような影響を与えますか?
お祈りの課題