【SQ5】12 もっと速く走れたら
拳甲の一撃を叩き込まれた骸骨の兵士は、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。バラバラになって地面に散らばった骨の欠片からあからさまに視線を逸らしながら、ステファンはふっと笑って呟く。
「薄目ならいけます」
「薄目な時点でいけてないのでは……?」
エスメラルダの突っ込みは当然のようにスルーし、ステファンはうーんと伸びをして荷物の中身を確認し始めた。エスメラルダもつられて鞄に目を落とす。薬品類……特にハマオの残量が心許ない。というのも、魔法を主な武器として戦うステファンは魔力回復のために頻繁にハマオを消費するのだ。
「下の階ではもう少し出し惜しみしていたんですけどね。ここではそうも言ってられないでしょう」
「……薄目のせいで無駄撃ちしてるとか、そういうんじゃないですよね?」
「失礼ですね! 何のために初めから範囲を広めに取って詠唱してると思ってるんですか。薄目でも外さないためですよ」
「いや……ええ……?」
それこそ無駄なんじゃないですか……と言いかけたエスメラルダだったが、流石にこれ以上突っ込むと本格的に言い合いになりそうなのでやめておいた。探索に付き合って貰っている身でありながら戦い方に必要以上に文句をつけるというのは、あまりよろしくない行為だろう。環境のせいで常に比べて精細を欠いているという点を差し引いても彼は優秀な冒険者である。そしてそれは相方であるジャンも同様だった。
骸骨が装備していた矢筒を片手にぶら下げて戻ってきたジャンが、おーい、と気の抜けた声を上げる。
「あっち魔物いるわ。エールとケイナが先行して様子見てるからオレらも行くぞ」
「はい。どんな魔物ですか?」
「え? うーん、なんか、でっけえ……燃えてる……車輪?」
意味が分からない。
だが、とにかく魔物がいるという事には間違いないようだ。エスメラルダとステファンは顔を見合わせて頷き合い、ジャンの後を追って先に進んでいく。探索は順調であった。誰も何にも躓いていないのが、かえって不気味に感じられる程に。
◆
散々言われている通り危険な迷宮である第三層には、今までと比べて安全に休憩できる場所がかなり少ない。果たして生物かどうなのかも怪しい魔物たちは神出鬼没でどこから現れるとも知れず、ここでなら休憩できると思った場所には毒沼が口を開けている。そんな調子であるため、十二階の探索を開始した今も『カレイドスコープ』一行は十一階の休憩地点……リリとソロルも使っているという野営地点を主な拠点として利用していた。
今日の料理当番はエールである。マンドラジャガやら余っていた獣肉やらを雑多に放り込んで煮込んだシチューの鍋をかき混ぜながら、彼女はむむむと唸る。
「それにしても、なかなか見つかりませんね。竜騎士さまの遺品」
「ホイホイ見つかっても、それはそれで何かイヤだけどな」
ジャンが肩をすくめる。エールは苦笑で応えた。確かに、それはそれで一理あるが。
評議会からの指令で伝説の竜騎士の装備品を探し始めてから数日が経つ。しかしこれまでに一行が見つけた遺産は錆びた重砲ひとつきり……そもそも探索の進みそのものが遅いとはいえ、ヒントをもらった上でこの調子なのだから進捗は悪いと言って差し支えないだろう。
「そのヒントも微妙に分かりづらいというか……結局地図を描いてから照らし合わせないと、どこにあるのかは分からない訳だし……もうちょっとどうにかならなかったのかな?」
エスメラルダがそうぼやきながらつまみ上げたのは、レムスから渡された「ヒント」だ。王都の宮廷魔術師が魔力感知によって割り出した遺品の位置を示しているらしいのだが、記されているのは周辺の簡単な地形程度であるためその位置がフロアのどこなのかは実際に歩き回って隅々まで確かめてみなければ分からない、というのが実情だ。
「王宮に仕えてるようなすごい魔術師でも、このフロアの地形ぜんぶを写し取るっていうのは無理なんですか?」
と、エスメラルダは隣に座っていたステファンに問いかける。持参したらしい樹海ベリーをちまちま口に運んでいたステファンは、顎に指を添えながら落ち着いた声で答えた。
「探知魔法は専門外なので詳しい事は分かりませんが、もしそれが可能なら、私たち冒険者が迷宮を歩き回って地図を描く必要は無かったでしょうね」
「うーん、正論……」
「ただ、小さい範囲とはいえ感知できただけでもかなり凄い事だと思いますよ。ほら、この迷宮、瘴気が漂ってるでしょう」
「瘴気?」
ステファンはそっと指を頭上に向けた。つられてそちらを見てみれば、どこからか射し込む日光を薄く遮る紫の霧が確認できた。
「あれ、魔力を阻害するんですよ。至近距離で魔物に向かって放つくらいならどうという事は無いんですが、迷宮の外から探知魔法で探るとなるとかなり邪魔になると思います。まして王都からなんて……普通は遺品の反応を拾う事すらできないんじゃないですかね」
「へえ……」
ステファンの解説に、エスメラルダ含む他の面々は何となく理解した気がしなくもないといった表情で頷いた。よく分からないが本職のウォーロックがそう言うなら恐らくそうなのだろう。四人の様子を見たステファンは溜息をひとつ吐き、手元に残っていたベリーを口に放り込んだ。
そうこうしている内に料理が完成したようだ。具材がごろごろと入った旅人のシチューは、急ごしらえの割にはなかなか上手くできているように見える。一口味見をしてぱっと表情を明るくしたエールがシチューを人数分の皿によそい始めるのをよそに、ふとケイナが立ち上がる。
「どこ行くの?」
「ええと、ちょっと……用を足しに」
「ああ、了解。あんまり遠くには行かないでね」
エスメラルダの言葉にひとつ頷き、ケイナはそそくさとその場を離れていく。迷宮であっても生理現象は止められないものだ。むしろ安全な場所にいる内に出せるものは出しておく方が良い。
「オレもウンコしとこうかな」
ジャンがあっけらかんと言う――が、その瞬間に横から飛んできたステファンの肘が彼のむき出しの鳩尾にめり込んだ。ヴッと鈍い悲鳴を上げてうずくまるジャンに、ステファンは冷たい目を向ける。エールは誤魔化すように視線を逸らし、エスメラルダは苦笑を浮かべた。少なくとも、食事前にするような話ではない。
焚火から少し離れた場所で用を足し、装備を整え直したケイナは小さく息を吐いて辺りを見回した。魔物の気配は無い。このまま真っ直ぐ戻っても問題はないだろう……と踵を返そうとしたところで、ふと彼は足を止めた。耳を外側に向け、じっと周囲の様子を探る。……息づかいが聞こえる。
「カザハナ?」
声に出して呼べば、朽ちた墓標の陰から白い影が躍り出る。尻尾を振って近寄ってきたカザハナを撫でてやりながら、ケイナは苦々しい表情を浮かべた。彼女がいるという事は、つまり。
「お前も試験を突破したのか……?」
「……そんな訳ないだろ。分かってて訊くなよ」
返る声もまた苦い響きをしている。カザハナの後を追って現れたハルはこれまで以上に険しい表情でケイナを見た。
「お前は……って聞くまでもないか。まだ探索なんかしてるんだ」
ケイナの肩が跳ねる。ハルは盛大な溜息を吐き、冷たいながらもどこか諭すような声色で告げる。
「もういいだろ。選ばれた者しか来られない第三層にまで来たんだから、十分偉業だよ。……なんでまだ続けるわけ」
「良く……なんか、ない……俺は」
絞り出すように返した言葉を一度切り、ケイナは腰の帯を強く握りしめた。震える呼吸を呑み込み、きっとハルを睨みつけて彼は言う。
「初めに、……初めに世界樹に行こうって言ったのはお前だろ……!」
ハルの眉が盛大に寄る。地面に座り込んだカザハナが二人の顔を見比べ、ふるりと身体を震わせた。足元の彼女を見ないまま、ケイナは責めるような口調で続けた。
「お前が勝手にどっか行ったから、追いかけてきたんだ。お前が……約束を破ったから」
「……そんな昔の約束、知らないよ。まさかそのためにこんな所まで来たって言うの?」
「そう、だけど……そうだったけど!」
そこでケイナは一度視線を落とした。どこか遠くから不気味な風の音が響いている。叫び声か、あるいは泣き声にも聞こえるその音が、二人の間を吹き抜けていった。辺りはひどく静かだ。そう離れていない場所にいる筈の仲閒の気配すら、ここには届かない。
「強くなりたい」
ぽつりとこぼれ落ちた声にハルの眉が上がった。俯いたまま、ケイナはぼそぼそと呟く。
「強くなってどんな魔物も倒せるようになるんだ。そのために世界樹の天辺まで行く」
「は? ……あんなお伽噺信じてるの。そんな都合のいい話あるわけないだろ。それに、強くなったところで……」
「俺が!」
カザハナが弾かれたように顔を上げる。自分を諫める言葉を遮るように声を荒げたその勢いのまま、ケイナは悲壮に歪んだ顔をハルに向けた。今にも泣き出しそうな声で、叫ぶ。
「俺がもっと速く走れたら、ジュディスは死なずに済んだんだ……!」
ハルの顔から表情が消える。彼の様子が僅かに変わった事にも気付かないまま、ケイナは自らの右腕を強く掴んだ。完治した筈の傷が痛む。ずっとずっと痛くて仕方がない――けれど、自分よりもっとずっと痛い思いをした人がいるのだ。心も体も、自分よりずっと深く傷ついた人たちが。
だれも自分を責めなかった。それが、苦しくてたまらない。
「俺の力がもっと強かったら、身体が頑丈だったらっ、もっと早く助けを呼べた……あそこに残って戦えた」
「……、……」
「残ればよかった……戦えばよかった! 俺が、俺が……」
「そんなわけないだろ」
これ以上なく硬く、強張った声だった。はっと見てみればハルは青い瞳にいっそ冷酷にすら感じられる光を宿してケイナを睨んでいる。彼の拳もまた、ケイナと同じように強く握りしめられていた。
「お前が強くなって何になるんだよ? 死んだ後で何をやったって、今更だ」
「――――」
「それに、お前が残ったところで何も変わらなかったさ。……力があったって、無理な時は無理なんだよ」
「……ん、でッ!」
肩を震わせて俯いていたケイナが勢いよく地を蹴ってハルへ肉薄する。彼の胸ぐらを掴み上げ、裏返った声で吼えた。胸の内に渦巻いていた感情を、一息に吐き出すかのように。
「なんでそんな事言うんだ! なんで! 何も知らないくせに……約束破ったくせに! 俺のこと否定してばっかりで!! 何も分かってくれない!!」
「分かってないのはお前だッ!!」
声を荒げ、ハルはケイナを突き飛ばす。よろめいて後ずさったケイナを支えるように駆けてきたカザハナが寄り添う。思わぬ反撃に言葉に詰まる幼馴染をきつく睨みつけ、叩きつけるようにハルは叫んだ。
「そうやって夢とか、願望とか、……約束とか! そんな物に縋ってこんな所まで来るなんて馬鹿馬鹿しいに決まってるだろ! 見ろよ! 何があるっていうんだこんな死臭ばっかの場所に!!」
そう言って勢いのまま広げた手の先には朽ちた墓標がある。その後ろ、地面に突き刺さった槍の先端に残された頭蓋骨の空洞の両眼が二人を見つめている――さっと頭が冷えた。冷静になって言葉を失うケイナに、ハルは尚も続ける。
「どうしようもなかったんだよ! こんな所で無事に生きていられる方がおかしいんだ! 死んだって仕方ない……お前の仲閒も、」
ハルは一度言葉を切った。震える息を吐き、彼は表情を歪める。尻尾を垂らしたカザハナが主の元へと寄っていく。だが彼女の無垢な献身もハルの激情を止める事はできなかった。そうして吐き出された次の言葉に、ケイナはついに怒りも忘れて凍りつく。
「――ボクの父さんと母さんだって!」
ハルとカザハナが去り、一人取り残されて立ちつくすケイナの背後からジャンがゆっくりと歩いてくる。辺りを見回しながら近付いてきた彼は、俯きがちに立ったまま微動だにしないケイナの後ろ姿を見て僅かに眉をひそめた。頬を掻き、しばし逡巡する様子を見せてから意を決したように声をかける。
「どうした、随分帰ってこねえから見に来たんだが……何かあったか?」
「――……ぁ……いや……何も……」
消え入りそうな声の返答にジャンはますます困ったように顔をしかめた。ううん、と小さく唸り、少し考え込むと彼はケイナの肩に手をかけた。振り返った顔には生気がなく、どこか青ざめているようにも見える。それには気付かない風を装いながら、努めて明るく笑いかける。
「急で悪い! 実はオレちょっと用事思い出したから街に帰りてえんだけど、一人で言うのこえーだろ? ほら、ステファンとか最近すぐ手が出るし」
「え……あ……」
「一緒に説得してくんね? 頼む」
唐突な誘いにケイナは困惑したように視線を泳がせたが、やがて小さく頷いた。ジャンはにっと笑って、行こうぜ、と踵を返す。軽やかに元来た道を戻っていく彼の後を数歩遅れてケイナも追った。
途中で一度足を止め、先程までハルがいた場所を振り返る。日の光の射し込まない暗がりには閉塞した重い空気と薄雲のような瘴気がわだかまるばかりで、見れば見るほど気分が沈んでいくような心地がした。
◆
ジャンの言葉とは裏腹に、ステファンをはじめとした他の面々は探索を切り上げて帰還する事にすんなりと同意した。本来の予定より随分と早く、ミッションの目標である竜騎士の遺品も見つけていないが……元々急いで達成しろとも言われていないミッションだ。多少ゆっくり進めるくらいで丁度いいだろう。
だが、街に帰ったところで、こんな心境では落ち着いて宿で休める筈もない。例によってケイナは一人で街をぶらついていた。宿を出る前にエスメラルダに控えめに引き止められたが、それを振りきる形で出てきてしまった――その罪悪感が彼の足を余計に重くする。彼もそこまで鈍くはない。気付けない訳がないのだ、仲閒に心配されている事も、ジャンが自分を気遣って探索を切り上げた事も、ハルにはハルの思うところがあるという事も。
気付けば既に陽が落ちかけている。そういえば今日は迷宮に入る時間が遅かったな……とぼんやり思いながら、偶然目に入った花壇の縁に腰を下ろした。周囲に人通りは少ない。この周辺は冒険者の行動範囲とアイオリス住民の居住区画のちょうど境目にあたる場所だ。人が少ないのは頭上に世界樹の根がせり出しているせいもあるだろうか。日当たりが良くないため周囲の空気は少し冷たく、湿っている……だが、今はそれが有り難かった。
ひと気の無い根の陰に、辛気くさい顔をしたセリアンの青年が一人。冷えた空気に沈んだ街の片隅はひどく侘しい雰囲気を漂わせている。ケイナは足元に転がっていた小石を爪先で小突いた。ほんの少しの力しか込めていなかった筈のそれは予想外に遠くまで跳んでいき、剥き出しの地面の広場から石畳で舗装された通りへ転がる。
ちょうど小石が転がっていった先にいたのは、ケイナがここに来てから始めて通りかかる通行人だ。彼女は突如目の前を跳ねた小さな物体に驚いて足を止め、それがやって来た方角に目を向けて……ぱっと表情を明るくした。
「あーっ! ケーちゃーん!」
「……え!?」
ケイナが弾かれたように顔を上げれば、通りの向こうから走ってくる小さな人影が……満面に喜色を浮かべたディアマンテの姿が見える。何かの飲み物が入っているらしいコップを手にやって来た彼女はケイナの目の前で足を止めると興奮を隠しきれない様子でぶんぶんと腕を振る。
「やったあ、また会えた! あのね、まえ借りたハンカチ、ちゃんと洗って……あ! 宿に置いてきたーっ!!」
喜んでいたかと思ったら今度は慌てだすディアマンテを見て、ケイナはぎこちなく苦笑した。その表情に何を思ったのか、ディアマンテはふと首を傾げて彼に問う。
「ケーちゃん、疲れてる? 疲れた時は甘い物がいいよ。はい、ぼくのおやつ」
「え……あ、うん、ありがとう……」
差し出された飴をケイナが受け取れば、ディアマンテはよいしょー! と声を上げて彼の隣に腰かけた。どうやらコップの中に入っているのはリンゴのジュースらしい。甘い香りのするそれをこくこくと飲むディアマンテを困惑気味に見つつ、ケイナも飴を口に含む。こちらは濃い蜂蜜の味がした。
ぷはー、と息を吐き、ディアマンテは弾んだ声で言う。
「アイオリスにはおいしいものがいっぱいあるねえ。ケーちゃんはアイオリスの人?」
「いや……俺はブラッドウッドの森のほうの……」
「知ってる! 山都の麓だよね。じゃあやっぱりケーちゃんは冒険者なんだ」
ひとつ頷いて答えれば、ディアマンテはにこりと笑う。
「冒険者ってすごいよねえ。魔物と戦うんでしょ? ぼくだったら怖くて腰が抜けちゃうよ」
「いや……」
ケイナは俯いた。不思議そうに見上げてくるディアマンテから視線を逸らしながら、弱々しい声で続ける。
「すごくなんか、ない……」
「…………」
ディアマンテは目を丸くして、眉をひそめて両手で握ったコップに目を落とした。沈黙が二人を包む。どこからか高く鳴く鳥の声。背既に陽は落ちきって周囲にはだんだんと夜闇が下りてきつつあった。きっと夕食の準備をしているのだろう、近隣の家々から美味しそうな匂いが漂ってくる。暖かく鼻孔をくすぐるそれが、今はどこか別の世界のもののように感じられた。
ケーちゃん、とディアマンテが小さく呼ぶ。ケイナは顔を上げる事ができなかった。少女は静かな、それでいて真摯に語りかけるような調子でゆっくりと続けた。
「ぼくケーちゃんがなんで落ち込んでるのか知らないし、まだ知り合ってばっかりだし、出しゃばっちゃダメだって分かってるんだけど……」
けど、と少女は言う。
「悩んでる事があるなら、お話してほしいな。ううん、ぼくにって訳じゃなくって、仲閒とか……友だちとか……ケーちゃんの事心配してる人に」
「心配……」
「あのね、心配かけるのって迷惑かけるのとは全然違うんだよ。その人に悪いことが起きませんようにって祈って、困ってたら力になりたいと思うのが心配だよ。ぼくはケーちゃんの力になりたいな……」
そこまで言って、ディアマンテは我に返ったように顔を上げる。そうして誤魔化すようにはにかむと腰かけていた花壇の縁から飛び下り、僅かに裏返った声を上げた。
「ごめんねなんか、お節介言っちゃって! ……あ、そうだ! ぼくハンカチ取ってくるよ。宿、ここから近いし……すぐ戻るからケーちゃんはそこで待っててーっ!」
「え、あっ……」
止める間もなく走り去ってしまったディアマンテの背中を、ケイナは呆然と見送る。取り残された彼の頭上で鳥がカァと鳴いた。周囲は既にかなり暗い。正確な時間は分からないが、もう完全に夜と言って差し支えない頃だろう。
どうしたものかと内心途方に暮れつつ、ケイナは舌の上に僅かに残った飴の欠片を噛み砕いた。蜂蜜の濃厚な甘さが頬の内側にこびりついている。正直あまり好きな味ではなかったが、確かに疲れは少し取れたようだった。
――そろそろ帰らなければ。居住区の隅、昼夜問わずひっそりとした路地に下りる階段の最上段に膝を抱えて座り込んでいたハルは、長く息を吐くと緩慢な動きで立ち上がった。陽が落ちたせいもあるが少し肌寒い。宿に置いてきたカザハナの体温を恋しく思いながら彼は階段を下りていく。
喧嘩の後の静寂は、静かなようでいて実際は複雑なノイズで満ちている。それは不理解への怒りや不満であり、如何ともしがたい現状への苛立ちであり、孤独への不安であり、悲しみであり……そしてそのどれもが、時間が経てば経つほど腹の底に溜まって凝り固まっていくような気がしていくのだ。
それでも素直に非を認める気になれないのはちっぽけな意地のせいだ。そんなもの、あっても邪魔にしかならないと分かっているのに……。重い頭を振って整理のつかない思考を追い出そうとした、その時だった。
薄暗い路地の出口を塞ぐように、人影がひとつ、立っているのが見える。
アースランの若い男だ。ハルは顔をしかめる。見た事の無い顔である――もしや、無許可で三層に立ち入ったのがバレて衛兵が捕縛に来たのだろうか。背中に汗が滲むのを感じつつ慎重に相手の動きを観察するハルに、男は微笑みを浮かべて声をかけてくる。
「やあ、こんばんは。タカツキのハルっていうのは、君で合ってる?」
「……そうだけど、何の用? あんたの顔に覚えは無いけど」
「だろうね。初対面だから」
あっけらかんと言い、男は一歩踏み出した。ハルは動かない。腰に下げた矢筒とナイフに意識を集中させながら、相手の出方を窺う。
警戒した様子を隠さないハルを見て、男は苦笑する。
「そう怖い顔しないでくれよ。俺はメレディス。君に頼みがあって会いに来たんだ」
「頼み?」
「単刀直入にいこうか。君が持ってる『地図』が欲しい」
ハルの眉がぴくりと動いた。しばしメレディスというらしい男の言葉を吟味するように沈黙し、詰めていた息を小さく吐くと険のある口調で応える。
「地図なんて誰でも持ってる。ボクより正確な地図を持ってる冒険者なんて、星の数ほどいるでしょ」
「シラを切るなよ、分かってる癖に。……形見(・・)の地図さ。それを伝手にここまで来たんだろ?」
何でもないという風にそう言い切ったメレディスに、いよいよハルの表情が硬く強張った。メレディスはもう一歩、踏み出す。ハルは半歩後ずさった。
「な……んで、知ってる?」
「色々あってね。でも今それは関係ないだろ? とにかく俺はその地図が欲しいんだ。当然、対価は用意してる」
そう言ってメレディスは上着の内側から取り出した小袋を差し出す。袋の中身は確認できないが、並の冒険者ではとてもではないが手に入らないような金銭が詰まっている事は明らかだった。だがハルはそれには見向きもしない。メレディスを睨みつけ、思わず腰の武器に手を伸ばしながら呻くように告げる。
「渡すわけがないだろ……お前なんかに……」
「そうか、それは残念だ」
じゃあこうしようかな。
そう言ってメレディスが指を鳴らした次の瞬間、ハルの背後から高い悲鳴が響く。はっと振り向いて見てみればいつの間にか現れていた知らないブラニーを、セリアンの女が押さえつけているところだった。
「わあ! やめて! やめてよおっ!!」
ブラニーは――ディアマンテは、短い手足を必死に振り回してもがくが、セリアンがその口元に怪しい布を押し当てると糸が切れたように動かなくなった。小さな手からコップと、一緒に握られていたハンカチが滑り落ちる。残っていたジュースが地面に大きな染みを作った。ハルは息を呑む。
「な、」
「俺は初めから、取引をしようなんて気は無かったんだ」
声は間近から聞こえた。視線を前に戻せば、目を離した隙にすぐそこまで迫っていたメレディスがハルの瞳を覗き込んでいる。
「ただまあ、必要の無い犠牲を出すのはもったいないからさ。……場所を変えようか。邪魔が入れば、そのぶん手間(・・)も増える」
にっこりと笑い、彼はハルの肩に手を置いた。何気ない風な仕草だが布越しに伝わってくる掌の感触はひどく重く、冷たい。
「さあ、行こう……」
言葉も出せずただ吐息を震わせるハルの腕を無理矢理に引き、メレディスは歩き出す。ディアマンテを抱えたセリアンの女もそれに続いた。そうして、路地にはこぼれたリンゴジュースの甘い香りだけが残される。
「こ、れは……」
早鐘のようにばくばくと打つ鼓動の音を聞きながら、ケイナは路地の入口に転がったコップを見下ろした。すぐ近くには甘い香りの染みがある。恐らくディアマンテが飲んでいたものだ。傍らにはハンカチ。間違いなく自分の所有物で、あのとき彼女に渡したものである。足元ではカザハナがしきりに周囲の匂いを嗅いでは歩き回っている。彼女の捜しものも、ここにはいない。
花壇に座ってディアマンテが戻ってくるのを待っていたケイナの元にカザハナが駆けてきたのは、ほんの数分前の事だった。いやに落ち着きの無い彼女に半ば引っ張られる形でここまでやって来て、そして目にした光景が、これだ。
震える指先で地面の染みを撫でる。湿った感触。液体がこぼれてからさほど時間は経っていない。戻ってきたカザハナがケイナの袴を引っ張って移動させようとする――路地の向こう側、迷宮入口へ続く道の方角へと。彼女は焦っている。恐らく何かを感じ取ったのだ。ここで起こった何かを……ここに誰がいたのかを。
ケイナは表情を歪めて唇を噛み、やがて意を決したように路地の向こうを睨んだ。カザハナと視線を合わせ、語りかける。
「宿に戻って刀を……仲閒も、連れてくる。迷宮入口で待っててくれ」
カザハナはひとつ吼えると一目散に駆け出した。彼女が細い通路を抜けるのを見送る前に、ケイナも踵を返す。一度、足が止まりかけた。あり得るかもしれない未来の空想が足首に重く絡みつく。が、彼はぐっと拳を握ってそれを振り払う。両の手で自身の頬を強く叩き、走り出した。
青年の影が暗い街を駆け抜けていく。地を駆る爪先に力を込めた。もっと走るのだ。一秒でも、一瞬でも速く。