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埼玉県 (08/04/23) 蓮田市 (2) 蓮田南地域 蓮田・大字蓮田

2023.04.09 09:37

蓮田南地区 蓮田・大字蓮田 (はすだ)



今回の東京滞在は定期健診と娘の結婚相手の両親への挨拶が目的。結婚相手は埼玉県の蓮田市の出身。今は二人とも東京に勤務しているが、いづれは蓮田市の実家に住むことになるのだろう。蓮田市は元荒川と見沼代用水に囲まれた地域で、何年も前に関東の川沿いのサイクリングに凝った時期があり何度も通っている。ただ、蓮田市の市内を巡ったことはなかった。今回の娘の結婚相手の出身地という事で、興味が沸き、今回は蓮田市内にある史跡を何日かかけてみて回ることにした。4月6日に東京に入り、東京に置いている自転車の整備を7日に行きつけの自転車で行い、その自転車で蓮田まで移動。



蓮田市 (はすだ)

蓮田には約3万年前から人が住んでいたといわれており、市内には多くの貝塚・住居跡等の遺跡が残されており、今回はその幾つかを訪れる予定。

江戸時代には高槻藩に属しており、1871年 (明治4年) の廃藩置県で現在の蓮田市域は岩槻県、浦和県、忍県の3県に管轄されたが数か月で、埼玉県となっている。蓮田市域の村々は,1874年 (明治7年) に黒浜村が岡泉村半蔵受日川新田、日川新田、長崎村と合併して黒浜村に、上蓮田村、下蓮田村が合併して蓮田村に、上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村が合併して閏戸村に、根金村、根金新田村が合併して根金村になっている。1889年 (明治22年) の町村制施行で、高虫村、上平野村、駒崎村、井沼村、根金村が合併して平野村となり、閏戸村、蓮田村、貝塚村が合併して綾瀬川に因み綾瀬村が、南新宿村、城村、黒浜村、江ケ崎村、笹山村が合併して黒浜村が誕生している。その後、1934年 (昭和9年) には綾瀬村が蓮田町と名称変更している。

蓮田市全体の人口推移は下の通りで、2001年をピークとして、それ以降は人口減少が続いている。ピーク時に比べて、約20年で6%の人口の減少となっている。これはそれ程大きな問題ではないのだが、高齢化と少子化がそれ以上に進んでいる。2000年の高齢化率は13.6%と低いのだが、現在では32.1%に上昇している。この大きな原因は少子化が進み、労働人口が減少していることにある。

2021年に発行された蓮田市都市計画マスタープランに目を通したが、他の行政のマスタープランと変わらない内容で、まるでマスタープランのテンプレートがあるかの様に同じだ。現状を説明して、その中にある課題を抽出し、その課題を解決していくという構成だが、現状分析は良くできてはいるが、残念ながら、現状の課題の原因が把握されておらず、課題の優先付けもされていない、更に課題の解決の具体的方策が明確でない事は他の行政と似たり寄ったりの印象を持った。完璧を求めるのは酷なのだが、少なくとも現状の分析で問題点の抽出まではできているのだから、もっとそれ以降の問題解決の具体案作成に力を入れる必要があるだろう。これは他の行政のマスタープランと同じなのだが、国から与えられたテンプレートを埋めるという作業自体が目的となって、問題解決を目的としていない官僚主義の傾向があるだろう。ビジネス経験もなく、事務作業がメインの役所内の人材だけで解決策をひねり出すのは難しいだろう。もっと民間に知恵を求めるべきと思う。例えば、マスタープランでは「少子化を歯止めする」との目標を上げているが、言葉だけで、これは自然の成り行きで止められない事ははっきりしている。少子化が進む中で、その環境で、市民生活の充実のための行政サービスの充実を考えるべきだろう。マスタープランにある課題解決には莫大な資金が必要になるが、その原資についても不明確で検討されていないようだ。提案の多くはインフラ整備となっているが、市内全土を廻ったが、本当に住民が我慢できないほどではない様に思える。優先度をつけて、対応しない課題を探すべき。もっと行政サービスのソフト面に重点を当てた施策が必要と思える。そうすれば蓮田市の目標の「優しさとやすらぎに満ちた永住環境都市 蓮田」に近づけるのではと思う。


蓮田南地区

蓮田南地域は市域の南部に位置し、北側は蓮田駅があり交通利便性に優れ、蓮田市の中心市街地となり、南側の農地集落地は農地・平地林で田園風景が残っている。この二つの地区は特色が異なり、それぞれが個別の課題を有している。蓮田駅西口では再開発事業が行われ、駅を中心とした行政の拠点機能が整備されているが、蓮田駅西側地域は基盤整備の遅れで渋滞などが発生し流通に課題があり商業活力の低下が見られる。これは全土で共通の課題だが、都市化が進むにつれ、域内のコミュニティの衰退が懸念されている。 南西部の農地は高齢化と後継者の不足により耕作放棄地の増加が見られる。

蓮田市の人口が横ばい状態にある中、この地域の人口は堅調に増加している。東北自動車道のインターチェンジがあり、域内には蓮田駅ガあり都心への通勤圏になっていることから、市外からの転入者も人口増加の要素となっている。地下鉄7号線の浦和美園~岩槻~蓮田間の延長計画があり、浦和美園~岩槻間はようやく実現に向けて進んでいる。岩槻~蓮田間の延長は計画にはあるが、まだ具体的に進んでいる様には見えず、実現はいつになるかは不透明。この実現が今後の蓮田の発展の鍵になるだろう。


蓮田南地区 蓮田・大字蓮田 (はすだ)

中世には蓮田村は箕輪郷、騎西庄、岩槻領に属していた。江戸期の当初は岩槻藩領にあり、1681年 (元和元年) に幕府直轄の天嶺となり、1722年 (享保12年) から1733年 (享保17年) にかけて新田 (下蓮田新田?) が開発されている。1747年 (延享4年) には上蓮田村と下蓮田村の二村に分かれ、上蓮田村は一ツ橋殿、下蓮田村は少し遅れて1770年 (明和7年) に川越藩領になっている。両村は明治維新まで続き、上蓮田村は小菅県を経て浦和、埼玉県となる。下蓮田村は武蔵知県事の管轄となり、大宮県を経て浦和県、埼玉県の管轄になる。二村は1874年 (明治7年) に再度一村となっている。


大字蓮田と蓮田の人口推移は以下の通り。大字蓮田は1980年代半ばから人口が急速に増えている。これは市外からの転入者が大字蓮田は2012年に蓮田と大字蓮田の二つの地区に分離されているのだが、この分離の背景は何だったのかは分からなかった。大字馬込も同様に二つに分割されているのだが、双方に共通するのは元々の大字蓮田と大字馬込は耕作地帯で民家は少なく人口も限られている。大字蓮田として残った地域には僅か140世帯程しか住んでいない。想像するに都市計画上の農地と市街化地区を分けたのではと思う。


資料に記載されている蓮田・大字蓮田の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 慶福寺、蓮華院弥陀堂
  • 神社: 神明社、稲荷橋、稲荷社、子安明神、諏訪神社、天神社
  • 庚申塔: 10基  馬頭観音: 2基


蓮田南地区 蓮田・大字蓮田 訪問ログ



今日の天気予報は午後から雨となっている。昼は娘の結婚相手の両親宅に挨拶に行くので、史跡巡りは午前中だけ。朝8時過ぎに出発したが、まもなく雨が降り出した。まだ小雨なので、雨ガッパを羽織って巡る。昨日は見沼代用水沿いを走り、蓮田市に入ってから、蓮田にある史跡も幾つか見ている。それも含めて記載する。


神明社

見沼様子の東側に桑原耕地の社になる。時代は不明ながら、天照皇大神を勧進し祀っている。祠の前には墓石も混じった石塔が集められている。この地域で所有者不名の墓石を集めて祀っているのだろうか?


稲荷橋、稲荷社

見沼代用水を稲荷橋を南に渡った所に稲荷社がある。この橋の名はこの社が由来だ。

稲荷社は400年ほど前にできた小さな下蓮田新田村の鎮守にあたる。境内には綾瀬川の氾濫や子供の水難から守るため建てられた弁天社 (右下) が置かれている。また、鳥居をくぐった所には敷石供養塔 (右中) も置かれていた。


耳だれ地蔵

稲荷神社の少し南に祠があり、地蔵尊が置かれていた。1674年 (延宝2年) 10月に造られている。舟形の石材に蓮華座の上に地蔵菩薩を表す梵字「カ」を刻み、右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。地蔵の顔の脇には「奉建立念仏慶 供養二世安楽所」と刻まれ、現世と来世の安楽を祈願している。地元では耳だれ地蔵と呼ばれ、耳の病気の治癒にご利益があると言う。治ったときに、願い主の背丈より高い団子の連を奉納していたそうだ。確かに耳が長く垂れている。


庚申塔 (42番、44番)、石橋供養塔

更に道を南に進み、見沼代用水と宇都宮線を越えた所に庚申塔が置かれている。向かって左の庚申塔 (44番) は笠付角柱型で正面には餓鬼を踏む青面金剛立像、二鶏三猿、瑞雲を伴う日輪・月輪が浮き彫りされている。本体左側面に「二世安楽」と刻まれ、二世安楽の祈願のために1715年 (正徳5年) 霜月吉日に建立されたもの。その隣、真ん中の角柱型庚申塔 (42番 下右から二番目) は1830年 (文政13年) に造られ、庚申塔と文字が刻まれている。更に右端には隅丸角柱形の石橋供養塔 (右下) がある。石橋完成記念・道案内 蓮田 蓮田1956₋1 1747年 (延享4年) 10月吉日と建立日が刻まれている。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩坐像が浮き彫りされ、「石橋供養塔 拾五ヶ所」と刻まれている。見沼代用水の15ヶ所に架けた石橋の完成記念なのだろうか?またこの供養塔は道しるべにもなっており、正面に「南 いわつき道」、左側面に「東 志おんじ道」、右側面「西 はらいち道」と刻まれている。


馬頭観音 (1番)、地蔵尊

見沼代用水に戻り、少し南、下流側の草むらの中に、山角柱形の馬頭観音 (右下) があった。比較的新しく1879年 (明治12年) 2月18日に造られて、正面に「馬頭観世音菩薩」の文字が刻まれている。その隣には地蔵尊 (左下) の塔もあったが、この地蔵尊の情報は見つからず。


立合橋、瓦葺掛樋跡

馬場観音 (1番) の南で見沼代用水と綾瀬川が合流している。ここに綾瀬川を渡る立合橋がかかっている。この場所は代用水を開削当初、江戸時代の1728年 (天保13年) には木製の樋による水路橋の掛樋 (かけとい) が架かっていた。見沼代用水の水を南に流すには綾瀬川を通過しなければならない。その為に綾瀬川に水を流す水路橋を架けた訳だ。長さ約50m、幅約7m、深さ1.8mだった。

見沼代用水が他の川との合流点ではサイフォン形式の伏越 (ふせこし 図左) と水路橋の掛渡 (図右) の二つの方法で水を運んでいる。ここを伏越ではなく掛渡で通した理由は、一つは見沼通船のためであり、二つは設計上の困難があった為とされる。

瓦葺掛樋は構造的には木の橋なので、洪水で綾瀬川が増水すると橋脚が破壊されたり、押し流されてしまうことが多かった。瓦葺掛樋は竣工からわずか2年後の1730年 (享保15年) には、洪水によって崩壊している。木製の樋や橋脚は通常、十数年で老朽化してしまうので、掛樋は建設後には頻繁に架け替えがおこなわれた。掛樋の補修・改築工事は幕府の普請役が監督し、建材(木材、石材、金物など)は江戸から見沼通船で現地へ運ばれた。工事のさいの人足には地元の農民が動員された。見沼通船の航路として、瓦葺掛樋は重要な施設だったので、江戸時代の間は、架け替え費用は大きいのだが、見沼通船の主な目的は、周辺地域からの年貢米を江戸へ輸送することだったので、掛樋の形式が改められることはなかった。1908年 (明治41年) に、鉄製の樋とレンガ造りの橋脚・橋台によって架け替えられているが、レンガ造りの掛樋も竣工から、わずか2年後の1910年 (明治43年) に明治時代最大規模の洪水によって、橋台の一部が倒壊してしまった。

このレンガ造りの掛樋の遺構が上流の蓮田側 (写真中、左下) に残っている。下流側は上尾市が掛樋史跡公園 (写真上、右下) を造園してレンガ造りの掛樋の遺構を保存している。


瓦葺伏越、瓦葺調節堰

この掛樋設置から250年近い歳月の中で水路の変形や欠陥が甚大になり、流末地域の用水不足から、送水形態はそれまでの掛樋から昭和36年には樋管 (コンクリート製のパイプ) で川の下を潜るサイフォン方式の伏越となり瓦葺伏越と呼ばれていた。その後、水資源開発公団による利根導水路計画で1968年 (昭和43年) と1995年の合口ニ期事業によって建設・改築されたものが現在の瓦葺調節堰になる。

瓦葺伏越の出口から約50m下流で、見沼代用水は開削当初からの西縁用水路、東縁用水路の2つの水路に分かれ、その間にあった見沼溜井を干拓してできた見沼新田へ西縁と東縁が用水を送っている。


懸樋修繕碑記

1908年 (明治41年) に、鉄製の樋とレンガ造りの橋脚・橋台と改造された掛樋は明治43年の大水害で被害を受け修繕されている。その改造修繕の記念碑が明治43年に瓦葺調節堰前に建立されている。


土地改良記念碑

先程訪れた馬頭観音 (1番) まで戻り、湘南新宿線を東に超えて田圃の中を走ると土地改良記念碑がある。この後、幾つもの土地改良記念碑を見ることになる。かつての蓮田市の低地は昔から沼地が多く耕作には不向きだったが、江戸時代の初め頃から少しづつ開墾され米作が行われてきた。当時は不定形の田畑が多く、用水や排水に苦しむ湿地帯で、農業には大変な労働が必要となり、収穫も不安定だった。大正時代の中頃、元荒川の河川改修や綾瀬川の改修が行われ、排水の確保、田畑の土地改良が進められ、更に、農業の機械化、近代化をはかるため大掛かりな土地改良が行われた。江戸時代に開発が始まってから400年を掛けてようやく良質の田にすることができた住民たちが、その苦労が報われた記念として建てられている。史跡としては、素通りされる事が多いのだが、その背景を辿ると、見え方が異なってくる。


地蔵尊

土地改良記念碑の北側の住宅街に入った所で地蔵尊を見つけた。蓮田市の石造物のリストには無く、情報は見つからなかった。


庚申塔 (43番)

地蔵尊のすぐ側には1829年 (文政12年) 11月吉日に造られた駒角柱形の庚申塔が置かれている。「庚申塔」の文字が刻まれ、瑞雲を伴う日輪・月輪が浮き彫りされている。この庚申塔は道しるべを兼ねており、正面に「あきは三り はらいち十八丁 あげを一り」、右側面に「志おんし一り かすかへ二り 」と記されている。土地勘がないので何処への道しるべはわからないのだが、春日部へ二里、上尾へ一里だけは分かった。


蓮華院弥陀堂

庚申塔から東南方向に2ブロック進むと墓地がありその中に蓮華院弥陀堂が建てられている。この蓮華院弥陀堂は蓮田の地名発祥の地と伝えられている。743年 (天平15年)、聖武天皇が諸国巡察のため、東国に僧の義澄を派遣し、義澄がこの地に立ち寄った際に一夜をこの弥陀堂で過ごした。翌朝には、前方の沼田に、いっぱいの蓮の花が生い茂り、義澄はその美しさに心を打たれ、宿となった弥陀堂を蓮華院と名付けました。それ以来この地が「蓮田」と呼ばれるようになったと伝わっている。


身代り地蔵

蓮華院弥陀堂の前に身代り祈願の為、1745年 (延享2年) に作られた地蔵尊立っている。右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩と蓮座が丸彫りされている。台石正面に「代受苦」の文字が刻まれていることから、身代り地蔵と考えられている。


慶福寺

蓮華弥陀堂の西隣は天台宗の慶福寺になる。先程訪れた墓地と蓮華弥陀堂はこの慶福寺が管理しているそうだ。慶福寺の創建年代等は不詳だが、慶安年間 (1648-1652寂)に慶運が興したとされていたが、中興としているが、1338年 (建武5年) 銘の板碑が発見されていることから、それ以前と考えられ、一つの説では平安末期の慈覚大師円仁の開眼導師とも伝えられ、とにかく古くより当地に創建されていたと思われる。当時、慶福寺は壕と土塁で囲まれていた様で、戦時には砦の役割を果たしていたと考えられる。戦国時代にはこのあたりは戦場になり、村や寺院は消失している。この慶福寺もその際に焼失したが江戸時代に再建された。境内には三代将軍徳川家光が川越の地へ植えたとされる枝垂れ桜 (写真右下) が残っている。また、この寺は蓮田学校 (現在の蓮田南小学校) の仮校舎として、1873年 (明治6年) に開校し、1880年 (明治13年) まで使用されていた。その開校記念碑 (左下) が建っていた。

慶福寺の入り口に地蔵尊が三体置かれていた。

  • 延命地蔵 (左下): 右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像。背面に「今世後世能引導」と延命地蔵菩薩経の偈 (げ) を刻んでいることから、延命地蔵と考えられている。
  • 富士見の地蔵 (中下): 右手に錫杖、左手に宝珠を持ち蓮座に立つ地蔵菩薩。台石正面に「一膽一禮 倶生極楽」の文字が刻まれている。俱生神に極楽往生を願って建てたものと思われる。富士山がよく見える場所にあったので、地元では「富士見の地蔵」と呼ばれていた。
  • 身代わり地蔵 (右下): 両手で天蓋を持つ地蔵菩薩立像。背面に「若有受苦我代受苦」と刻まれていることから身代り地蔵と考えられている。


庚申塔 (45番、46番)、百箇所巡礼塔、六十六部巡礼塔

地蔵尊の祠の裏手には庚申塔 (45番、46番) と百箇所巡礼塔、六十六部巡礼塔が移設されている。

  • 庚申塔 (45番 写真右): 1718年 (享保3年) 10月に建立された庚申塔で、笠付角柱形の石材に瑞雲を伴う日輪・月輪、餓鬼を踏む青面金剛立像及び二鶏三猿が浮き彫りされている。笠には桃を持つ猿が半彫りされています。本体左側面に胎蔵界大日如来を表す梵字「ア-ンク」と「奉造立庚申眞容大慈大悲之妙術二世安楽也」と刻まれていることから二世安楽供養の為に建てられたと考えられる。
  • 庚申塔 (46番 写真左): 1777年 (安永6年) 11月建立。45番の庚申塔と同様に笠付角柱形で瑞雲を伴う日輪・月輪、餓鬼を踏む青面金剛立像及び二鶏三猿が半彫りされている。本体左側面に「奉造立庚申眞容大慈大悲之妙術二世安楽也」と刻まれていることから二世安楽供養のためと考えられる。この庚申塔は道しるべを兼ねており、左側面に「右 ぢおんじ道 左 はらいち道」、右側面に「左 せうぶ道」と記されている。
  • 六十六部巡礼塔 (写真右):  1716年 (正徳6年) 10月15日に建立。笠付角柱形の石材に「大乗妙典六十六部日本回国供養成就」の文字が刻まれ、両側面と背面に六地蔵が刻まれている。
  • 百箇所巡礼塔 (写真左): 1831年 (天保2年) 8月吉日に建立された塔で、駒角柱上の石材に「奉納 坂東西国 秩父 百箇所供養塔」の文字が刻まれている。


六地蔵

庚申塔から本堂に向かう道に、お寺の定番の六地蔵がある。元々は1710年 (宝永7年) に建立されたが、その後、1813年 (文化10年) に再建されている。 左から右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵、両手で天蓋を持つ地蔵、両手で幡を持つ地蔵、両手で香炉を持つ地蔵、両手で数珠を持つ地蔵、合掌する地蔵なのだが、赤い涎掛けで覆われて肝心なところが見えない。といっても信仰心で赤い帽子や涎掛けを奉納しているので文句は言えない。

石造物案内には涎掛けを外した写真があった。


馬頭観音 (2番~10番)

境内の大師堂の隣には11基の馬頭観音がまとめて移設されている。ここに移設される前には栄町自治会館の敷地に祀られていた。昭和初期までは、栄町自治会館で馬や家畜の火葬を行なっていた。昔は馬は農作業には欠かせない家畜で、家族同様に扱われて、人々は六道輪廻の畜生道で苦しむ人を救うといわれ、馬の守り神である馬頭観音を信仰していた。平成14年に会館改築工事の際に、慶福時に移設された。

  • 馬頭観音 (2番): 1876年 (明治9年) 9月吉日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。東栄自治会館前から慶福寺に移動されたも。
  • 馬頭観音 (3番): 1846年 (弘化3年) 11月吉日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (4番): 1836年 (天保7年) 11月18日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (5番): 1906年 (明治39年) 5月25日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (6番): 1789-1801年の寛政年間に建立。櫛角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (7番): 建立時期不明。隅丸角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (8番): 1796年 (寛政8年) 正月25日建立。 駒角柱形の石材正面に、髪が逆立つ馬頭観音立像が浮き彫りされ、脇には「馬頭観世音菩薩」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (9番): 1784年 (天明4年) 2月吉日建立。舟形の石材に馬頭観世音菩薩立像と蓮座を浮彫りし、脇に「奉造馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (10番): 1764年 (宝暦14年) 2月吉日建立。舟形の石材に馬頭観世音菩薩立像と蓮座が浮彫りされている。

蓮田市ホームページにある石造物案内には紹介されていないものも二つあった。詳細は不明。


行き場の無い地蔵も無縫塔に集められている。20以上物仏像が置かれて、石造物案内ではそれぞれを説明 (といっても石仏に刻まれた年号などでそれ以上の情報は無い) しているのだが、地蔵は個人的興味は薄いので照合はしない。


子安明神

本堂階段の脇に子安明神の祠がある。この子安明神についての情報は見つからず。


諏訪神社

慶福寺の南側には諏訪神社がある。蓮田耕地の氏神にあたり、建御名方刀美命•八坂刀売命が祀られている。創建時代は明らかでないが、この近くに居を構えていた旧家で禰宜の垣戶の屋号で呼ばれていた斎藤家の氏神を祀り、所謂、邸内社として始まったと伝わっている。19世紀初頭には村人の信仰を集めていたと推測される。


天神社

慶福寺の北側の前口耕地には天神社がある。前口はかつての蓮田村の南端で、村への入り口という事で前口と呼ばれていた。また、この天神社がある事で、この場所は天神谷と呼ばれていた。先程の諏訪神社と同じく、境内地は、周囲よりも一段高い所である。石段を登り、鳥居をくぐって参道を進むと、周囲に瑞垣をめぐらした二間社流造りの本殿が置かれて、学問と農耕の神として菅原道真を祀っている。言い伝えによれば、当初は、この天神社が下蓮田村の鎮守社だったが、のちに名主の交替により八幡社の方が鎮守社に昇格したという。鎮守が入れ替わった時期については明らかでないが、吉田建家、関根一之家、金井栄治家の三家が往時名主を務めた家筋といい、名主の交替により村内の力関係が変わり、鎮守の交替を招いたと思われる。


ここで、娘の結婚相手の両親宅に向かう時間となった。相手の父親は明日の市議会議員を目指しての選挙戦の最終日にもかかわらず、丁寧に対応してくれた。一緒に昼食をとりながらの談笑で、娘もほっとしただろう。その後は、雨が降り続いているので、図書館に行き、蓮田市の郷土史の書籍で明日以降の史跡巡りの下準備となった。




参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)
  • 蓮田市史 通史編 II (2004 蓮田市教育委員会)