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埼玉県 (09/04/23) 蓮田市 (3) 蓮田南地域 馬込/大字馬込

2023.04.10 01:49

蓮田南地区 馬込・大字馬込 (まごめ)



蓮田南地区 馬込・大字馬込 (まごめ)

馬込村は荏原郡馬込村の住民のひとりが、この地を開発し、住んでいた旧里の名をとって馬込と称するようになったと伝わるが少し疑わしい様だ。研究者によれば、込は「牧」の地名語で、「集まる」の意があるとし、馬が集まっていた場所という。別の説は馬込は地形語で狭隘を意味し「マゴエ」は狭間を越えると解釈し、馬込は綾瀬川の狭間を越える地としてその名がおこったとも考えられる。中世戦国期、1567年 (永禄10年) の太田氏資書状によれば平林寺の安主座の上洛の際、その寺領である「馬籠井四条之村」を安堵とある。1586年 (天正14年) の太田氏房判物には「馬籠井四条村」が安堵とあり、馬込は中世では馬籠と呼ばれていた。


大字馬込と馬込の人口推移は以下の通り。人口推移は先に訪れた大字蓮田・蓮田とよく似た傾向を示している。大字馬込も蓮田市の中では中心地にあたる。1980年代に人口は大きく増加している。この地域の人口増加により、1989年には大字川島と大字馬込の一部が大字桜台に分離し新しい行政区となっている。その後は2003年までは人口は増加し、ピークに達し、以降、人口は横ばい状態になっている。2012年には大字馬込の北の市街化地域を「馬込」として分離しし、残った大字馬込を農業系ゾーンと位置付けている。この大字馬込地域はほとんどが農地で、僅か40世帯しか住んでいない。農業系ゾーンと位置付けているが、農業促進対策が行われているのかは不明で、高齢化と後継者の不足により耕作放棄地の増加が見られる。


資料に記載されている馬込・大字馬込の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り


蓮田南地区 馬込・大字馬込 訪問ログ



馬込

馬込は二つの地域に分断されている。何故かは色々な資料を見たのだがその訳は見つからなかった。北側が馬込、南側は大字馬込となっている。北側の馬込は昨日4月8日の午前中に蓮田地域を訪れた際に合わせて巡っている。まずは馬込地域から。


馬頭観音 (1番)

ここには昨日訪れている。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれた馬頭観音で、近くに急坂があり、往復に馬が大変だったので労って建立したと伝わっている。建立時期を刻んでいるのだが、摩滅して嘉永□年10月吉日とまでしか読めない。1848年から1854年の間に建てられている。


庚申塔 (6番)

馬頭観音 (1番) の北側の住宅地の中に庚申塔がある。江戸時代の1793年 (寛政5年) 11月吉日に建立された笠付角柱形のもので、瑞雲を伴う日輪・月輪、餓鬼を踏む四臂の青面金剛立像、ニ鶏、三猿が浮き彫りされている。紛失物や家出人がみつかると言われている。現在でも無病息災を願って近所の人々が毎日、水を供えているそうだ。


庚申塔 (資料掲載なし)

馬頭観音 (1番) のすぐ南側に庚申塔を見つけた。瑞雲を伴う日輪・月輪、餓鬼を踏む四臂の青面金剛立像、ニ鶏、三猿が浮き彫りされている。蓮田市作成の石造物案内リストには掲載されていないので詳細は不明。


小川家屋敷林

更に南に道を進むと木々が美味しげった地域がある。鎌倉時代にこの地に移り住んできた小川原家の屋敷跡だそうだ。屋敷は堀で囲まれていたそうだが、現在は消滅している。林は屋敷の南側と北側にあり、南側の林は昭和20年代頃まで薪炭林として使っていたようだ。北側の林は、家の用材をとるためにスギが植栽されている。小川原家の子孫が2000年 (平成12年) に蓮田市に寄付して、現在ではさいたま緑のトラスト協会が管理している。


地蔵尊

小川家屋敷林を囲んでいる道路沿いに地蔵尊が置かれている。元禄の文字が刻まれているので1688年から1704年までの期間に建立された事になる。


庚申塔 (資料掲載なし)

小川家屋敷林の西側にある。人間総合科学大学蓮田キャンパスの入り口の所にも庚申塔があった。石塔正面には文字が刻まれているが、摩滅して判読不明。その下には三猿が浮き彫りされている。これも蓮田市作成の石造物案内リストには掲載されていないので詳細は不明。庚申塔の隣にも石塔があるのだが、正面は剥がれて何なのかは分からない。


ここまでは昨日8日に雨の中、見学したもの、これからが今日、快晴の中、巡ったスポットになる。



根ヶ屋戸公園

この公園も昨日訪れた。八重桜が綺麗に咲いていたので、今日再度訪れた。今日は快晴で桜を写すには最適だ。この公園はさほど大きくは無いのだが、空間が多くゆったりと落ち着ける公園だった。


白山様 (はくさんさま)

根ヶ谷戸公園の隅に、地元では白山さまと呼ばれている。元々はこの公園の周辺にあった天神溜と呼ばれる沼水の辺りにあり、その沼が周辺の稲作栽培用の貴重な水源となっていた事から水の神を祀っていた。1769年 (明和6年) に建立され、湧水池が日照りなどにより水が減少した時に、雨乞いなどを行っていたと思われる。白山様と呼ばれているのは、当時北陸にある霊峰白山から生まれてきた水に対する信仰をこの地域にも広まった事で、天神溜の御神体として祀ったと考えられる。この水の神信仰の他にも、歯の神様としても崇められ、楊枝と賽銭を供える風習もあったようだ。馬込下蓮田土地区画整理事業により、もとあったところに近い根ヶ谷戸公園に移設されている。



大字馬込


次は蓮田市の最南端の大字馬込に向かう。何故かわからないが、馬込地区と大字馬込の間には大字蓮田あり、馬込が分断されている。馬込地区は住宅が密集し商業施設もあるのだが、大字馬込は民家はポツポツで一面畑地帯となっている。



氷川神社 (岩槻馬込)

蓮田市大字馬込に向かう途中、蓮田市内ではなく、岩槻市馬込に大きな林があり、その中に氷川神社があるので立ち寄った。


庚申塔と石橋供養塔 (岩槻馬込) 

田圃の畦道を走り舗装道路に出たところに庚申塔 (写真右下) と石橋供養塔 (左下) があった。この場所も岩槻馬込なのだが、馬込ということでかつては同じ村だったのだろう。


綾瀬川、関橋

大字蓮田に向けて西に向かう。蓮田市の南の境界線はほぼ綾瀬川に沿っている。さいたま市の丸ヶ崎と上尾市の瓦葺に接している。自転車を走らせ丸ヶ崎との境の綾瀬川に架かる関橋まで来た。


耕地整理記念碑

関橋の馬込側の交差点にも耕地整理記念碑が建っていた。この辺り一面農地を整備した際のえ、それまでの苦労を忘れないため、また整備後の希望を込めて建てられた。


庚申塔 (7番、8番)

耕地整理記念碑の交差点から畑地帯の中を走る道路を西に進むと、道路沿いに墓地がある。墓地入り口手前に庚申塔が二つある。 

  • 庚申塔 (7番 写真右下): 江戸時代 1800年 (寛政12年) 霜月吉日に馬込村辻谷組講中により造立、駒角柱形の石材に庚申塔の文字が刻まれ、台石には三猿が浮き彫り彫りされている。
  • 庚申塔 (8番 下右から2番目): 江戸時代の1727年 (享保12年) に造立され、舟形の石材に瑞雲を伴う日輪・月輪が線刻され、邪鬼を踏む六臂の青面金剛立像とニ鶏三猿が浮き彫りされている。


地蔵尊 (2体)

墓地に入って所に石塔と地蔵尊像が置かれている。二体の地蔵について、資料に情報が載っていた。

  • 手前 (写真左) は1715年 (正徳5年) 10月24日に二世安楽祈願のために造立され、地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠を持った形で丸彫りされている。背面に地蔵菩薩を表す梵字「カ」、「奉造立地蔵菩薩為二世安楽也」の文字が刻まれている。
  • 奥の方 (右) には1824年 (文政7年) 4月8日に造立され、右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩立像が丸彫りされている。頭部が落下しています。台石に「奉建立地蔵尊」の文字が刻まれている。


寅子石

墓地の中には高さ4mにもなる板碑がある。地元では寅子石と呼ばれ、蓮田市の史跡では一押しのもので、埼玉県指定有形文化財になっている。鎌倉時代の1311年 (延慶4年) 3月8日に浄土真宗開祖である親鸞の愛弟子のひとりの真仏法師の報恩供養の為、弟子の唯願法師が造立したもの。表面には「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれる六字名号塔で、裏面には「銭己上佰五十貫」と刻まれている。

この寅子にはこの地域の馬込村辻谷だけでなく、馬込村全体、隣村の下蓮田村、綾瀬川対岸の丸ヶ崎村や深作村に内容は異なっているが幾つもの伝説が語り継がれている。鎌倉時代に造られてから長い年月と共に世相を反映した様々なバージョンができたのだろう。その内代表的な伝承は以下の通り。

永仁の頃とかや、遠い遠い昔の話である。綾瀬川のほとりに開けた辻谷の里に、在郷きっての長者があった。さながらお城のような構えをもったお屋敷を、里の人たち は稲穂御殿と呼んでいた。寅子はここの一人娘として生れ育った稲穂姫であった。幼いころから大の器量よしで、十四の春を迎えるころには咲きにおう花のごとくいよいよ美しい乙女となっていた。春の朝の野辺の摘み草、秋の夕べのもみじ狩りと侍女にかしずかれての外出は美しくことさらに人目をひいた。
やがて近郷近在からは仲人を立てて縁談を申し込む者が次から次とあとをたたなかった。両親も始めのうちこそわが子の果報を喜んでいたけれども、十五、十六と寅子の歳が嫁入り盛りともなると、申し込みが余りにも多いので婿えらびに胸を悩ますよ うになった。
月日の経つうちに、寅子を思う若者たちの間に争いごとさえ起きかねない有様にな った。そのあいだに身を置いて寅子は小さい胸をいためていたが、やがてこうと決心したものか、寅子はある日、自分の部屋にとじこもって悲しい自害をとげてしまった。 寅子がいまわのきわに書き残した書き置きには、自分の体を料理して自分を望んだ若者たちに馳走し、わたしを望んだすべての男たちの希望をみたしてもらいたいというものであった。
長者夫婦は、娘の死で気も転倒せんばかりであったが寅子の気持ちをあわれに思い、娘の死を秘して求婚してきた若者たちを招き酒宴をはるという招待状をだした。招きを受けた若者たちは、自分の願いが今日こそはかなえられるものと喜び勇んで馳せ参じた。山海の珍味の供応で酒宴もようやくたけなわとなったとき、主人の長者は 「只今差し上げました馳走は、娘が心からお進めするしなでございます。どうか心おきなくご賞味願いたい」といいながら、一皿ずつの膾を銘々に配った。恋しい寅子がすすめるものとあらば何がなんでも頂かねばなるまいと、若者たちはその生肉をあまげに噛み食った。皿のものがなくなった頃に長者は涙ながらに、「さて皆様、只今差し上げました膾の肉はまことを申せば娘の腿の肉でございます。寅子は余りにも皆様方のご執心がきついのでいずれの方へ参ったらよいのか迷い、とうとう先夜悲しい自害をしてはてました。そのいまわの願いに、せめて自分の肉なりと皆様に馳走して皆様のお心の、等分に 立つようにして頂きたいと言って死んでいったのでございます」 と物語った。若者たちの驚きは大変だった。それと同時に激しい後悔にさいなまれた。 やがて、若者たちは寅子の後生を慰めるために大きな供養塔を建てた。それが寅子石であるという。寅子逝ってから二十年後のことである。

別バージョンでは

その後、若者たちは出家して僧となり、供養塔の見える場所にそれぞれの名前を号した源悟寺、慶福寺、満蔵寺、正蔵院、多門院を建てて、寅子の冥福を祈ったといわれています。

いまでも寅子の命日とされる3月8日には、辻谷地区の婦人たちが中心となって好物の団子やご馳走をつくり、この寅子石の前で手あつい供養祭が執り行われているそうだ。



馬頭観音 (2番)

寅子石から更に道を西に進むと民家が集まっている場所がある。この辺りがかつての辻谷部落になる。その一画に馬頭観音がある。江戸時代 1824年 (文政7年) 造立のもので、駒角柱形の石材に、馬口印を結ぶ馬頭観世音菩薩立像が浮き彫りされている。馬の供養のため建立したもので、現在は交通安全祈願で道ばたに祀っている。


これで馬込の史跡巡りは終わったのだが、先に訪れた岩槻馬込の氷川神社から南の方に大きな集合住宅が見えた。馬込の南は畑だけかと思っていたら、開発されている様だと興味が湧き、寄り道をする事にした。

馬頭観音から綾瀬川に出ると八幡橋がある。この橋を渡ると上尾市になる。この八幡橋は橋の重量を減らすためか、橋が網目状になって川が見える。橋幅も狭く自動車や人が交互に渡っていた。この綾瀬川にはこれと同じ橋が幾つもの架かっている。

綾瀬川川縁の畦道を通って目的地の集合団地に着いた。ここは蓮田市でも岩槻市でもなくさいたま市の春野という所だった。住宅街が開発されている。綾瀬川の北は畑だらけだが、南は風景が一変し住宅街となっている。ここからは東大宮駅も近く、住宅地としては人気あるように思えた。


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)