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KAWASAKI STORY その1.

2018.05.27 09:42

KAWASAKI STORY その1.

■中堅メーカーへのエンジン供給

 川崎重工業のルーツをたどると、明治11年に川崎正蔵によって東京に設立された川崎築地造船所に行き当たる。その社名が示すようにカワサキは当初、造船業を生業としていた。その後、我が国の覇権主義と歩調を合わせるように急成長したカワサキは、鉄道車両や海運業など、様々な分野へと事業内容を拡大していった。そして、大正10年には、自動車部門と航空機部門を開設して、陸、海、空を制する我が国屈指の巨大企業へと発展した。しかし、軍国主義とともに成長した川崎造船所は、先の大戦では空襲による大打撃を被った。さらに追い打ちをかけるように、終戦後に進駐したGHQの財閥解体策によって、川崎造船所は存亡の危機に立たされることになったのである。

 こうした戦後の混乱期に、川崎造船所の傘下にあった川崎航空機工業は、川崎産業と社名を変更して平和産業への転身をはかった。自動車用ギアの生産から復興への道を歩みはじめた川崎産業は当時、乱立していた急造オートバイ・メーカーを相手に高精度の歯車を納入して、急速にシェアを拡大していった。 こうした歯車の生産が軌道に乗った昭和24年には、高槻工場でオートバイ用エンジンの試作が開始された。翌25年に川崎産業は、川崎機械工業と川崎岐阜製作所に分かれたために、この戦後初のカワサキ製エンジンは川崎機械工業ブランドで発表されることになった。この148cc空冷単気筒OHVエンジンは、KE型として昭和27年から、やはり中堅オートバイ・メーカーに納入された。そして、KE型の成功に自信を得た川崎機械工業は、250ccのKH型エンジンを開発、これらのオートバイ用エンジンは高性能で信頼性も高く、市場では高い評価を得ることになった。


■2輪メーカー、川崎明発工業の設立

 4サイクル・エンジンの量産をはじめた高槻工場とは別に、歯車生産の拠点だった播州歯車工場でも、独自にエンジンの試作が開始されていた。そして、昭和28年に完成したのが、KB型と呼ばれた58.2ccのバイクモーター用小型2サイクル・エンジンだった。このKB型エンジンは大日本機械の東京・青砥工場に送られて、同社の「電光号」に搭載された。しかし、大日本機械はその後、経営に失敗、電光号は短命に終わることになった。一方、キック始動式に改良されたKB-2型エンジンは2800機が生産され、主に岡本自転車に納入されて「ノーリツ号」として人気を博すことになった。また、このKB-2型は当時、バスを生産していた川崎岐阜製作所にも送られて、カワサキ・ブランドの「カワサキバイクスクーターKB- 2型」として200台が生産されたのである。

 一方、昭和28年には、経営不振に陥っていた大日本機械から少人数の社員が独立して、東京の葛飾区金町に明発工業が設立されることになった。また、時を同じくして、戦時賠償指定が解除された川崎機械工業は、同社の都城製作所を川崎航空機工業と改称して、いよいよ航空産業に復帰することになった。

 この両社が結びついて、オートバイ・メーカーとして川崎明発工業が設立されたのは、昭和29年のことだった。川崎明発工業ではまず手始めに、松葉式ガーターフォークを持つ自転車タイプのフレームにKB-3型エンジンを搭載した「明発60」を発売、次いで本格的なオートバイ・タイプの「明発80」が発売された。この明発80専用に生産されることになったKB-83型エンジンは76ccに排気量アップされて3.3馬力を発生、キック始動の2型とペダル付きの3型が用意されていた。


■明発ブランドのオートバイ

 昭和30年3月の道路交通法の改正にともなって、原付二種のブームが到来すると、川崎明発工業は総力をあげて123.5ccのKB-5型単気筒エンジンを開発、一挙にシェアの拡大を狙った。神戸製作所で生産されたこのKB-5型は、ドイツのマイスター型車体に搭載されて、「明発125-500型」として昭和31年にデビューすることになった。この明発125型によって、オートバイ生産に本腰を入れることになった川崎航空機工業は、川崎明発工業にたいして増資を行い、生産設備の充実がはかられた。こうした川崎航空機工業サイドのテコ入れもあって、明発125型は“無故障、高馬力、耐久力”といった高い評価を得て、官庁や郵便局といった大口ユーザーの獲得に成功したのだった。急遽、量産に移された明発125はその後、次々と改良モデルを派生した。こうして新参入の“メイハツ”ブランドは、群雄割拠の125ccクラスで確実にシェアを伸ばしていくことになったのである。

 一方、昭和33年になると、KB-5A型を並べたような250cc並列2気筒のKB-25型エンジンが登場した。このKB-25型をプレスバックボーンとパイプ製ダウンチューブを組み合わせた車体に搭載した「メイハツクラウン」は、同年10月の自動車ショーに発表された。しかし、同時に発表された125ccクラスの「エース59型」の量産が優先された結果、少数が一部の地域で市販されただけで姿を消すことになった。実際、当時の125ccクラスの人気は想像を絶するほどで、川崎明発工業はその後も、同クラスの改良に追われることになったのある。

 セルダイナモ付きモデルの投入効果もあってこの時期、川崎明発工業の原付き二種モデルは、前年比で43パーセント増という大変な伸び率を示していた。事ここに至って、オートバイの将来性に確信を得た川崎航空機工業は、昭和35年に神戸製作所内に単車部を設立、いよいよカワサキ自身がオートバイ事業に乗り出すことになったのである。それにともない、川崎明発工業は東京工場を閉鎖して、以降は販売面を担当することになった。


■老舗メグロとの業務提携

 昭和35年9月を境に、“メイハツ”の名称はあらゆるメディアから姿を消すことになった。川崎明発工業の最終モデルとなった「メイハツ125ニューエース」は、新たに「カワサキ125ニューエース」と改名されて、製造元が川崎航空機工業、販売元が川崎明発工業と明記された。そして、10月に行われた自動車ショーには、空冷2サイクル49ccのM型エンジンを積んだセミ・スクーター・タイプの「カワサキペットM5」と、ニューエースの発展型「カワサキB7」が発表され、カワサキ・カラーが鮮明に打ち出されることになった。この時期、カワサキの総生産量は、月産1500台から2700台へと大幅に向上したが、その規模は、まだまだ中堅メーカーの域を脱していなかった。

 後発メーカーゆえに生産態勢、販売の両面で苦戦を強いられていたカワサキは、目黒製作所との提携によって、苦境からの脱出をはかることになった。昭和35年11月に結ばれたこの提携によって、カワサキは一挙に、50cc〜500ccをフル・ラインナップすることになったのである。その内訳は、従来のカワサキ製に、175ccの「メグロ・レンジャーDA」、250ccの「メグロ・ジュニアS7」、500ccの「メグロ・スタミナK1」といった、目黒製作所の既成モデルを加えたものだった。また一方では、川崎明発工業が改組されてカワサキ自動車販売が発足、販売面の強化も実施されることになった。

 しかし、旧態化の目立つメグロ車には既に競争力はなく、目黒製作所の業績は落ち込む一方だった。昭和38年には川崎航空機工業がメグロ株の半分を取得、伝統ある目黒製作所はカワサキ傘下に加わることになり、社名はカワサキ・メグロ製作所と変更された。しかし、こうした延命策も功を奏さず、昭和39年9月30日にカワサキ・メグロ製作所は、およそ半世紀にわたる歴史に終止符を打つことになったのである。