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MIHARU OSINO

存在価値は一定のまま

2023.04.15 15:00



わたしたちには、存在価値がある。 

存在している、という絶対的な価値。


ただ、わたしたちの多くは、もたらされる歴史や情報、教育によって、その個人の存在価値が上下する、条件を満たした上での評価から決まる、ような気がしてしまっている。 


それは、形ある財産や資産を得たり、社会的地位・信用を得たり、(他人よりも)容姿を綺麗にしたり、人に感謝され、人の役に立つことで、ゼロの存在価値に、ポイントとして加点されるような。

または、借金や逮捕歴があったり、社会的地位・信用を失ったり、(他人よりも)容姿が劣っていたり、老いたり、人に迷惑をかけることで、ゼロの存在価値に、さらにポイントとして減点されるような。


もちろんそれは決して「何をしてもいい」という無責任な話ではない。

この世界には、投げたボールが自分に返ってくるように、自分のしたことが自分に還るという、至極当たり前の仕組みがある。

もし誰かを傷つけて、その報いを受けることになったとしても、それは自分自身の価値が減ったからではない。

ただ、自分が起こした波風が、自分のもとへ戻ってきただけ。

それを引き受ける責任は、すべての存在にある。





「わたしたちの多くは、もたらされる歴史や情報、教育によって、その個人の存在価値が上下する、条件を満たした上での評価から決まる、ような気がしている」と言ったが、存在価値に対して、わたしもそうだと思っていた時期も長かったし、わたしを育てた親も、そのまた親も、そう信じていた。


価値を、認めてもらわなければ。

価値を、感じてもらわなければ。

減点されないように。

加点されるように。


わたしたちは、無意識に、世間が認める条件を満たし、承認といった評価を得てこそやっと生きられる、と思いこんでいた時代を、長く長く生きていたのかもしれない。



けれど、今のわたしが感じる存在価値は、なんらかによって、上下なんてしない。動きなんてしない。変わりなんてしない。


肉体として生まれてから死ぬまで、そして、生まれる前と死んだ後の魂の状態であっても、存在価値というのは一定である。ということ。


存在価値とは、この変わりゆく世界のなかで、唯一の不動。


最初から最後まで、

生まれる前からずっと、

死んだ後もずっと、

存在価値は、崇高な位置で、永遠に保たれている。



わたしは「優しい」と言われることがある。


特別意識しているわけではないし、もちろん無理しているわけではないけれど、「優しさこそが、わたしの価値」だとも思っていない。


ただ、「優しさこそが、わたしの価値だ」と、わたしが思いこんでしまえば、人にNOを伝えるとき、人に怒りを向けるとき、余裕がなく自己中心でしか在れない状態に陥ったとき、罪悪感が沸いてしまうだろうし、わたしの存在価値として支えている理由である「優しさ」に執着し、手放せずに、無理してしまうだろう。


優しさは、わたしの一部・一面、ではあるかもしれないけれど、わたしの価値の理由ではないのだ。

だからこそ自由に、どんな人の前でも、どんな状況でも、NOと思えばNOと言えるし、嫌われる可能性があったとしても、自分がしたいと思った対応や行動ができる。



ある日、親友が「わたしは挑戦することができないから、色んなことをしているあなたを凄いな、と思う」と言ってくれた。

そう言ってくれた気持ちは嬉しく、よく分からないけれど有難い気持ちになった。

それに、そうは言ってくれたとしても、「わたしが何の挑戦もしなくても、彼女はわたしに価値を感じてくれるだろう」という信頼が先にあったというのもある。

長年付き合ってきて、一度も外側で評価されていると感じたことがなかった。


実際、わたしは「挑戦しているわたし」に重きを置いているわけではなく、ただ思いつくままに動いているだけの人間であるため、正直、そこに全く価値を感じていない。

けれど、それはネガティブな意味ではなく、わたしという存在を一番近い他人として扱っていて、そして、その近しい他人に対して、無条件に存在そのものに大いなる価値を感じている。



だから、他人が挑戦していようがいなかろうが、どうでもいい。

「挑戦したり、様々な経験・経歴・キャリアがある人だから」という形で価値を感じることはない。

同様に、生い立ち、数字、学歴、経歴、経験、努力、苦労、容姿、持ち物、などの外側のなにかを通じて他人の価値を感じたことがないのだ。

笑ってしまうほどに、惹かれたり憧れたり、魅力としてそそられたことがない。

それらとは無関係に、外側の奥にある存在そのものに輝きや魅力、価値を感じる。


好きな人がどんな洋服を着ていても素敵だと思うように、好きな人がどんな生い立ち、数字、学歴、経歴、経験、努力、苦労、容姿、持ち物をもっていようが、その人だから全てが素敵に、そして、魅力的に感じるのだ。

存在そのものが好きであれば、苦労なく大切に育てられていても魅力的に感じるだろうし、苦労して這いつくばるように生きていても魅力的に感じるだろう。



他人に対しても、価値を感じる部分は、〈Aさんが「起業した」〉であって、〈Aさんが「起業した」〉ではない。

Aさんそのものに愛や尊敬がなければ、何をどうしたかということについては「そうなんだね!」と否定も肯定もない、ニュートラル。0の地点で、一人の人間として尊重をするだけだ。


深く繋がらない他人とは、互いに尊重する気持ちさえあれば、十分に平和的に過ごせるものだ。






わたしの存在価値に、理由なんてなくていい。

存在価値となる理由に、不自由に囚われたくないから。


わたしは、わたしであることに価値がある。

あなたも、あなたであることに価値がある。

わたしたちは、わたしたちであることに価値がある。


存在価値に理由を求めるならば、ただ存在している、だけで充分だ。



わたしがどんな選択をしようとも、

わたしがどんな姿で在ろうとも、

わたしがどんな状況にいようとも、

わたしがどんな物を数を所有しようとも、


存在価値は、上がりも、下りも、しない。

崇高の位置のまま、永遠に変わらない。


わたしは、この存在価値を感じるとき、絶望にも似た、限りない安堵によって、わたしを縛ろうとする条件や理由たちが肩から荷がおり、脱力する。



そして、こうして自分の文章をまとめながら思ったのが、人間観察をしながら得た知見ではあるが絶対とは言い難い危うさはあることは自覚している。

日々の研究物として残しはするが、考えは更新していきたいからこそ、素直に改める箇所があれば改め、変わっていきたいと思う。

この心理学や文筆、あらゆる活動すら、わたしの価値そのものではない。


努力をすること、向上心をもつこと、成長していくこと、改善していくこと、これらは、点数稼ぎのために必要はないが、内から溢れる本能に従った先に、「それらの過程を踏んでいた」と、結果論として振り返ることはできるのかもしれない。


それに、加点や減点で上下する存在価値の世界線も悪いわけではないし、存在しないわけではない。

この世界とは、個人の意識の選択によって創造できる、自由そのものだから。 


わたしが選んだ世界は、〈存在価値は常に一定である世界線〉というだけの話でね。