「さ」の季節。
Naoyaです。
今日は二十四節気の9番目、芒種(ぼうしゅ)です。芒とは、穀物の種子の先にある毛のことを意味して、芒種は穀物を植えるという意味です。梅雨が近づいてくる今の時期は、田植えのシーズンというわけです。
旧暦だとこれからちょうど皐月(旧暦5月)を迎えるところなのですが、耕作や田の神を意味する古語の「さ」から、稲作の月ということで「さつき」になったとか、早苗を植える「早苗月」が略されて「さつき」になったという説があります。ちなみに皐月の皐という字には「神に捧げる稲」という意味があります。
うちの近所に小さな水田があって、教育の一環として近所の小学生を中心に、田植えをさせるためのものらしいのですが、町内会のお知らせのボードにちょうど今年の田植えのお知らせが告知されていました。
最近は機械で田植えをするところがほとんどなので、手植えの田植えができるのは貴重です。かつて知人の取材の手伝いで、手植えの田植えを一度だけ体験したことがありました。泥を手や足で触れる感覚は、都会で暮らしている人にとってはなかなか味わうことができないと思います。単なるガーデニングや土いじりとは違う感じ。まるで自分の体を使って田の神とコミュニケーションをする儀式のようにも思えます。苗を植え終わった水田は水鏡のように美しく尊い光景です。
現在、すでに梅雨入りしているエリアもありますが、関東の梅雨入りはもう間もなくでしょう。実は五月雨(さみだれ)とは、梅雨の雨のことを指します。旧暦の5月の雨ということです。五月雨の「さ」も、田の神の「さ」です。田の神の恵みの水が、天から滴り落ちるという意味。そして、五月晴れとは梅雨の晴れ間のことを指すのです。日本人にとって稲は必要不可欠な存在だからこそ、「さ」の月の今の時期は、一年の中でも重要なタイミングと言えるでしょう。
気づいたら、街のあちこちには紫陽花が咲いています。純白のものもあれば、ほんのり緑色のものもあるし、マジェンタに近い赤もあれば、濃厚なブルーから水彩画のような淡い水色もある。あるいは、濃い紫や薄い紫もあって、色の美しさにハッとさせられます。でも、あの花びらのような部分は花びらではなくて「がく」に当たり、実際の花は中央にあるとても小さな部分なんです。
紫陽花という表記はもちろん当て字。かつて「あづさゐ(あぢさゐ)」と言われていて、「あづ(あぢ)」は小さなものが集合した様子を意味して、「さゐ」は真藍(さあい)という意味。つまり、小さな青い花の集まりというのが語源なのだそうです。
ちなみに、紫陽花の学名はhydrangea。西洋アジサイのことを「ハイドランジア」と表記されることも最近は目にすることも多いですが、実はこのハイドランジアとはギリシャ語が語源で、水の容器という意味になります。紫陽花はたくさん水を吸うというのがhydrangeaの由来です。
5月に熊野へ行ったとき、大峯山の登山は大雨でした。レインコートを羽織って、雨を肌で受けながらの登山。普段の生活では濡れないようにする雨を自分の体すべてで感じて、まるで雨と一体化するかのような時間になりましたが、いらないものや穢れを洗い流す禊のようにも思えました。
翌朝の下山は雨がやんでいましたが、かなり霧が深く、山道が川やせせらぎのようになっていたり、普段はない山肌に滝ができていたりして、気づくと水というものを強く意識させられている自分がいました。
雨は降らなければ降らないで水不足になってしまうし、降りすぎてしまうと災害に繋がることもあります。水は命を支えるものでもあるし、奪うものでもあるという、真逆の要素を持っているものなんだと、改めて実感しました。
流れているときは順調で、滞るとたちまち濁りを生んで、腐敗してしまうこともある。それが水というものなのです。
梅雨の時期、雨が多くて嫌な気持ちになりがちです。そんなときこそ、鬱々としたものや負の要素を抱えてしまわず、さらりと流せる柔軟さが大切です。
自分の中にある水の要素を意識して、滞らせることなくスムーズに流して過ごしたいですね。