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練馬区 14 (19/04/23) 田中村 (1) 南田中

2023.04.20 14:44

旧田中村 南田中



旧田中村 南田中

南田中は練馬区の南中部に位置し、北は石神井川を境に石神井町と高野台、東は富士見台、南は杉並区井草、西は下石神井に接している。

この地は室町時代の半ばに田中村と呼ばれた集落が形成されたと考えられている。田中村は1590年 (天正18年) に徳川家康が江戸に入府した頃は、となりの谷原村とともに増島左内の領地だった。その後、幕府の直轄領となり、江戸時代中頃、谷原村の北 (三原台) に飛地を開墾し、田中新田が村に組み込まれている。石神井川両岸、今の南田中団地一帯は水田地帯で、その南側の台地から田中村はひらけていった。田中村の中には小名として薬師堂、供養塚、塚越、上久保があったとされる。

  • 地名の薬師堂は現在の高野台駅付近にあった薬師堂の旧地を指していたそうだ。
  • 供養塚は十善戒寺付近を指し、明治以降は本村と呼んでおり、田中村でも早くから開け、中心地だった。ここには昭和の初めまで、月待供養板碑をまつる祠があり、室町時代に関東地方を中心とする東日本で主に使用された福徳元年 (1490年) という珍しい私年号が書かれていたそうだ。
  • 本村の東が塚越といい、供養塚を越えたとところという意である。
  • 塚越の南を上久保といった。

享保・元文(18世紀初め)のころ、谷原村の北に田中村の新田が開墾され、田中村の飛び地となっている。現在の三原台の一部にあたる。

1889年 (明治22年)、町村制実施で石神井村大字田中となり、1932年 (昭和7年)、板橋区のとき南田中町となった。それまで同じ村であった田中新田は、分かれて北田中町となった。1971年 (昭和46年)、住居表示によって北田中町は三原台に変わり、南田中町でも新町名が審議されたが、結局、南田中を踏襲する案が有力で、1972年 (昭和48年) に住居表示が実施され、南田中に決定している。南田中は戦前まではそれ以前の集落がそのまま残っており、大きな変化はなかった。民家が拡大していくのは戦後になる。

南田中の人口は戦後増加し、高度成長期前半まで続いている。その後は横ばい状態が2010年頃まで続き、微増に転じている。近年は再度横ばい傾向になっている。1968年末の人口が前年末に比べて3,500人と43%の激増している。この理由は調べたがわからない。同じ年に隣接地域では大きな人口減少もなく、地域が編入された様子もない。考えられるのは南田中三丁目には1966年から84年にかけて建設された51棟、約1700戸の都営南田中アパートが人口急増の理由のような気がする。世帯数は1200戸程増加しているので、どうやらこの都営団地の入居がこの年だったのだろう。


練馬区史 歴史編に記載されている南田中地区内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 観蔵院、十善戒寺
  • 神社: 天祖稲荷神社、稲荷神社
  • 庚申塔: 4基  馬頭観音: 4基+2基 (未登録)
  • 地蔵: 南無地蔵大菩薩


まちづくり情報誌「こもれび」- 南田中


南田中訪問ログ



南無地蔵大菩薩

富士見台駅から千川通りを西に進み、千川通りの少し北の富士見台と南田中の境界あたりに建てられた祠の中に、丸彫の地蔵尊が祀られている。祠の扁額には「南無地蔵大菩薩」と書かれている。地蔵尊は仏教の菩薩なのだが、日本古来の民間信仰と集合して、村を守る道祖神やその地で亡くなった人の供養塔として建てられている。この地蔵の基壇に何人もの名や名のない人も記され、「男仏」「女仏」と刻まれている。おそらく、この地で亡くなった人と思われるので、この地蔵は供養の為と思われる。地元の人が1924年 (大正13年) に建立とも記されている。


馬頭観音 (2期 登録番号無し)、 道祖神

地蔵の手前のには2基の文字型馬頭観音と1基の双胎道祖神が置かれている。2基の馬頭観音は練馬文化財リストでは登録番号はふられていない。駒型のものは1853年 (嘉永6年) に造られたと刻まれているが、方形ものは年号が読めない状態だった。となりの双胎道祖神は練馬で見つけた二つ目のもので珍しい。


長命寺道 道しるべ

千川通りを井草方面に進み、笹目通り (環八) の手前に道しるべが残っている。「右長命寺道」と刻まれている。その道しるべから北へ分岐する道がかつての長命寺道で高野台にある長命寺へ通じていた。昭和15年頃の写真には手前に千川上水が流れ、三兵橋が架かり傍らに東を向いて道標が立っている。現在、この道標は道路の反対側に移されている。


八成水車

千川通りを進むと笹目通りと八成交差点で交わっている。この交差点のすぐ近くには戦前までは八成水車があった。千川通りはかつては千川上水で1696年 (元禄9年)、田中村の南端に千川上水 (現在の千川通り) が通じたが、用水は田中村を素通りしていたので、本格的に利用されるようになったのは明治になってからだった。八成水車が最初に千川上水から水を組み上げて使っていた。これ以降、10基程の水車がこの上水に造られ給水に活用されていた。水車を挟んで工場が2個所あり、中に挽臼4台、搗臼2台、杵12本、精米機などがあって、精米や麦の挽き割り、製粉を行っていた。


稲荷神社

笹目通り (環八) を北に進むと観蔵院入口交差点がある。この付近が薬師堂と呼ばれた地域になる。この付近には薬師堂があり一帯はその旧地だった事が名の由来。後に薬師堂は観蔵院に移されているが、寺と笹目通りの間の道の民家の横にに稲荷神社があった。この神社の情報はないのだが、かなり精巧な彫刻の飾りが施された祠が中に納められていた。祠の前には「谷冶」と書かれた石が置かれている。谷冶はこの地域には多い姓で観蔵院の有力檀家になる。


二宮金次郎像

この道沿いに二宮金次郎の石像が置かれている。近年は何故か敬遠され、学校でもあまり見かけなくなった。昔ながらの薪を背負って本を読みながら歩くスタイルだ。南田中には三つも小学校があり、通学路に頑張りなさいという意味で造られたのだろう。


榎本家長屋門

稲荷神社、二宮金次郎像の道を少し北に行ったところに練馬区登録文化財の榎本家の長屋門が保存されている。榎本家は旧田中村の名主役でこの長屋門は江戸時代末期の建築と推定されている。門の入口は観音開きの板戸が建てこまれ、脇間右側に潜り戸が付いている。外壁は漆喰仕上げで、腰の位置より下の部分が板張りとなっている。門の両側には部屋があり、下人の住居や納屋として使われていた。屋根は母屋を切妻造とし、その四方に庇をふきおろして一つの屋根とした入母屋造りになっている。門の中には土蔵もあった。


馬頭観音像 (登録番号無し 南田中3-28) (未訪問) 

資料では観蔵院入口交差点の北側に馬頭観音が記載されていた。この馬頭観音は1823年 (文政6年) 建立の駒形タイプで道しるべを兼ねていたそうだ。道しるべとあるのでこ周辺の道沿いを探すが見つからず。ここにある公園の中に拝所だったと思われる場所はあった。

 

観蔵院

観蔵院は不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺で山号を慈雲山、曼荼羅寺と号し、豊島八十八ヶ所霊場第81番札所になっている。創建年代は不詳だが、室町時代中期の1394年から1477年までの間にとされ、元々は三宝寺の塔頭寺院として建てられ、1477年 (文明9年) に三宝寺が現位置へ移転した際に、薬師堂は観蔵院に移って来ている。1941年 (昭和16年) に三宝寺から離れて総本山智積院に属したが、1947年(昭和22年) までは無住のときもあり、三宝寺住職が兼務していた。現在の現在の本堂は1985年 (昭和60年) に建て替えられたもの。


客殿、薬師堂、日出薬師尊

本堂脇の薬師堂の前には石塔 (写真右下) があり「日出薬師尊」とある。薬師堂 (写真左下) は元々は日出薬師と呼ばれ、現在の高野台駅付近にあり、駅の前にはその名残のに薬師堂橋がある。1892年 (明治25年) にまだ山林の中にあったこの観蔵院に移転し、その旨の由来を記した石塔がが背面に刻まれている。造立年は1893年 (明治26年) に建てられた。堂内には薬師如来像が安置され、薬師如来を信仰する人を衛護するといわれる十二神将も祀られている。現在の薬師堂と隣接している客殿 (写真上) は平成4年に改築されたも。


筆子供養塔

境内に小さな堂宇の中の2基の石仏が置かれている。これは筆子供養塔と呼ばれ、かつて、観蔵院では寺子屋が開かれ、教えを受けた生徒が亡くなった恩師の菩提を祈り建立したもの。二基の供養塔にはそれぞれ1762年 (宝暦12年)、1808年 (文化5年) の年号の筆子中という施主名が刻まれている。これは練馬区では最古の史跡だそうだ。


北門、曼荼羅美術館、馬頭観音 (62番、未登録2基)、庚申塔 (98番、99番)

通用門になっている北門には庫裡を改修した曼荼羅美術館が置かれている。この北門の前にはいくつかの石仏や供養塔が移設され並べられている。

美術館では観蔵院両部曼荼羅を中心に、日本やネパールの仏画などを展示している。

道路側から見ていくと。

  • 馬頭観音 (62番)1891年 (明治24年) に建てられた櫛型角柱文字型の馬頭観音で左側面に「鴨下▢五郎」と施主銘がある。
  • 五輪塔 - 馬頭観音 (62番)の後ろには五輪供養塔が置かれている。
  • 庚申塔 (99番) - この庚申塔は1705年 (宝永2年) に造られた方形 (山状角柱型) で正面には「庚申供養 奉待 一結成就所」と文字が刻まれ、その下に三猿と種子の浮き彫りが施されている。側面には「田中村」、「武刕豊嶋郡」とある。基壇には願主名が列挙されている。
  • 墓石 - 1823年 (文政8年) の造立の笠付角柱型の僧侶の墓
  • 庚申塔 (98番) - 1704年 (宝永元年) 造立の方形笠付庚申塔で正面には「奉待庚申供養所願成就所」と刻まれ、三猿の下の基壇に三猿が浮き彫りされている。側面には「武刕豊嶋郡田中村 本願」とあり、三猿の下の基壇には複数の願主名が刻まれている。
  • 六地蔵 - 中央には田中村の地蔵講中46人により1737年 (元文2年) の造立寄進された六地蔵が並んでいる。その中心にはで基壇には「奉造立 地蔵菩薩尊像六躯」とある。六地蔵の中央には1727年 (享保12年) の造立で六地蔵の10年前に造られたのに。元々このように造られたのか、後年にここに移設された時にこのように配置されたのだろうか?
  • 馬頭観音 (未登録) - 1823年 (文政6年) 造立の角柱だが折れてしまい修復している。上部には馬頭観音が浮き彫りされている。
  • 馬頭観音 (未登録) - 小さな櫛型角柱型で1924年 (昭和17年) に造立とあり、正面に「馬頭観世音」と文字が刻まれている。

庚申塔 (101番、100番?)

本堂裏手は墓所になっている。いつの頃か、近辺の畑地、山林、宅地等所々に点在していた墓この墓地に集約しているので、同宗派の他寺院や日蓮宗寺院の檀家、中道寺系の墓、真言宗、法華宗の墓石も入りまじっている。

墓地に入ったところに供養塔や石仏が集められている。庚申塔が二基並んで置かれている。向かって左は101番で登録された1833年 (天保4癸巳年2月吉日) につくられた方形型で正面には「庚申供養塔」と刻まれている。隣に密着して側面は見れないのだが、資料では、「天下泰平 日月清明」と刻まれているそうだ。右の角柱型も庚申塔なのだが、摩耗して殆ど文字は読めなくなっている。この観蔵院には101番で登録されている庚申塔があると資料に載っていたが、この塔以外に庚申塔はにつからなかった。消えかけた文字の上部は梵字になっている。資料の100番庚申塔は方形、梵字となっていたのでこれがそうかも知れない。そうであれば1762年 (宝暦12年) に造られた庚申塔になる。


戦争者之慰霊碑

墓地には戦争で亡くなった犠牲者を弔う慰霊碑も置かれ、「戦争者之慰霊碑」と刻まれている。


天祖稲荷神社

観蔵院の北、石神井川近くに南田中稲荷天祖神社がある。田中稲荷神社と天祖神社が合併したもの。田中稲荷神社は1615年 (元和元年) に村民が勧請し始まっている。天祖神社の創建年代は不詳だが、元田中村358番の八成のお伊勢山に鎮座し、田中村の鎮守として祀られていたが、社殿朽損により1880年 (明治13年) に田中稲荷神社があったこの地に遷座した。1975年 (昭和50年) に天祖神社の移転前の土地は稲荷神社に贈られ、稲荷神社の境内地となり、両社が合併し南田中稲荷天祖神社となり、宇気母知命と大日孁命を祀っている。境内にはその歴史を示す天祖神社納地碑 (明治33年)、神域拡張記念碑 (昭和4年)、社殿建設奉賛名碑 (平成6年) が置かれている。境内には1881年 (明治14年) の狛犬があり、現存している石造物では最も古いもの。本殿は1852年 (嘉永5年) に再建、拝殿は1856年 (安政3年) の改築でされたが平成6年に社殿建設を中心に鳥居、水舎、水盤、狛犬等の境内整備が行われている。

境内末社として御嶽神社 (写真上)、稲荷神社 (写真下) が置かれている。


十善戒寺

観蔵院の西には不動明王を本尊として祀る十善戒寺がある。真言宗東寺派寺院で雲照山吉祥院と号する。比較的新しい寺になり、明治時代、近衛篤麿等の要請によって東寺から上京した雲照律師が1886年 (明治19年)に小石川の高田老松町建立した僧侶養成の目白僧園として始まった。明治27年頃は目白僧園を雲照寺と呼んでいる。当時は、弘法大師の綜芸種智院にならって仏教精神に基づく庶民学校をつくり、十善徳教学校とする予定であったが、朝鮮や満洲への布教し、1897年 (明治30年) には西那須野に雲照律寺を興すなど多忙で学校を開くに至らなかった。その後、目白僧園を吉祥院として正規に寺院の登録をし、1943年 (昭和18年) にこの地へ移転し1952年 (昭和27年) に、仏弟子として守るべき戒の十善戒から十善戒寺と寺の名を改称している。

寺の敷地には保育園があるのだが、それ以外の本堂などの建物が見当たらない。古い塀や長屋門があり、江戸時代末期から明治にかけてのものだそうだ。資料では本堂はこの付近の名主屋敷を移築したものと載っていたが見当たらない。インターネットで調べても本堂は出てこない。航空写真を見ると、塀の内側にそれらしき建物がある。多分この塀の中が寺があるのだろう。公開していないのだろうか?

境内には仏像、供養塔、句碑などがあった。目を引いたのはこの地域にでは初めて見る亀趺で、墓なのか、碑なのかは不明。



これで南田中村の史跡巡りは終了。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)