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MEGURO STORY その1.

2018.05.29 11:57

メ−カ−・ヒスト−リ− MEGURO

■国産モ−タ−サイクルの黎明期

こんにちヴィンテ−ジ・モ−タ−サイクルの雄として知られるインディアンが誕生したのが1902年( 明治35年)、その一年後には、はやくもモ−タ−サイクルという新手の乗り物が、日本にも紹介されたと言われている。横浜在住の外国人貿易商によって輸入されたト−マス号とミッシェル号と呼ばれた、これらアメリカ製の初期型モ−タ−サイクルは、たちまち新し物好きの日本人の注目を集めることになった。とはいっても所詮は庶民には高嶺の花、モ−タ−サイクルは華族社会の子弟といった裕福な嗜好家の間で、静かなブ−ムを巻き起こすことになった。

しかし、その後、元号が明治から大正に変わる頃になると、石川商会、伊藤忠の前身の野沢組といった大手貿易商が、ノ−トン、トライアンフといった当時の最新鋭モ−タ−サイクルの輸入業務を開始、それにつれて国内の舶来モ−タ−サイクルのシェアも、年間数千台規模にまで急成長していった。

一方、こうした新市場の誕生は、モ−タ−サイクルの国産化にも拍車をかけることになった。先ず、国産化の先鞭を切ったのは大阪の島津楢蔵で、独力で開発した4サイクルの397ccエンジンを自転車フレ−ムに搭載したNS号が1909年(明治42年)に発表され、国産第1号モ−タ−サイクルとして注目を集めることとなった。そして、その後も、アサヒ号で知られる宮田製作所の宮田栄助、サンダ−号の渡辺士(たけし)、SSD号の宍戸兄弟といったパイオニア達によって、次々と国産モ−タ−サイクルが誕生していったのである。

後に目黒製作所を興して、わが国のモ−タ−サイクル史に確固たる足跡を残すことになる村田延治も、こうした国産化のパイオニアの一人であった。村田はこの時期、東京・赤坂に居を構える勝伯爵(あの海舟の孫だ!)に請われ、邸内の工房でハ−レ−をモデルにした1200ccエンジンのジャイアント号を完成させていた。しかし、この大型モ−タ−サイクルはパトロンである伯爵の意向で、当初から量産の予定はなかった、といわれている。そのため、村田の処女作ともいえるジャイアント号は、たった3台が製作されただけで、脚光を浴びることもなく勝家の邸内で生涯を終えることになった。

■目黒製作所の設立

 本格的なモ−タ−サイクル、ジャイアント号を完成させた村田はその後、関東大震災の翌年にあたる1924年(大正13年)8月に、鈴木高治と共同で東京の品川区大崎本町(現住所)に目黒製作所を設立、焦土と化した東京を舞台に順調に業績を伸ばしていった。創業当初は、従業員数10名足らずで歯車の切削加工を生業としていた目黒製作所だったが、やがて既成のモ−タ−サイクル・メ−カ−の求めに応じて、ミッションやエンジン(500 ccOHV単気筒)といった高度な製品を供給するまでに成長していった。

こうして着実に2輪メ−カ−への業績を積み重ねていった目黒製作所が、自らの名を冠したモ−タ−サイクルの生産に踏み切ったのは、1937年(昭和12年)のことであった。ことモ−タ−サイクルに関しては一方ならぬ知識の持ち主であった村田は、新たにモ−タ−サイクルの生産を開始するにあたって、スイスのモトサコシMGAのエンジンとベロッセットのフレ−ムをコピ−ベ−スに選んだ。そして、完成したのが、498 ccの4サイクル単気筒エンジンを搭載したメグロZ97型だった。

 目黒製作所の豊富な技術的蓄積に裏付けられて製作されたZ97型は13HP/3800rpmのパワ−を誇り、3速手動右チェンジを介して最高速度は76km/hに達し、先発メ−カ−の重量級モ−タ−サイクルと比較しても、けっして見劣りする物ではなかった。いや、むしろ性能的にはライバル車を凌駕していたZ97型はその後、各地で開催されたレ−スでは、無敵を誇ることになったのである。やがて、こうしたZ97型の優秀さは警視庁も認めるところとなり、1989年(昭和14年)にはZ97型は白バイとして正式に採用されることとなった。こうして、警視庁のお墨付きを得た目黒製作所は、陸王内燃機とともにわが国を代表する大型モ−タ−サイクル・メ−カ−として君臨することになったのである。

目黒製作所の2輪メ−カ−としてのスタ−トは、順風満帆といえた。こうした成功は、目黒製作所の工作技術の高さと、エンジニアとしての村田のモ−タ−サイクルに対する造詣の深さを如実に物語っていた。

だが、好調な立ち上がりにもかかわらず、目黒製作所の未来はけっして楽観できるものではなかった。第2次世界大戦の戦火は、すぐそこまで迫っていたのである。結局、目黒製作所はその後、軍需工場への転換を余儀なくされ、畑違いの軍用航空機の部品を生産することになったのだった。この辺りの事情は、

ライバルの陸王97式、くろがね号97式が陸軍に採用されたのとは対象的であった。目黒製作所は、後発メ−カ−ゆえの辛酸をなめた、ということだろうか。ともあれ、好評を博したZ97型は、1940年(昭和15年)にメグロZ98型に発展したのを最期に、生産中止の憂き目にあうことになったのである。連合艦隊のZ旗と皇紀2597年から命令されたと言われる目黒製作所の戦前の傑作車、Z97/98 型は結局、300 台余りが生産されたに止まった。

■終戦後の再スタ−ト・Zシリ−ズ

敗色が濃厚となり、日増しにアメリカ空軍機による爆撃が激しさを増すに至って、昭和19年7 月に村田延治は工場疎開を断行することになった。そこで、選ばれたのが都下五日市と村田の故郷の栃木県那須烏山だった。村田のこうした機転は間一髪で功を奏し、目黒製作所の工作機械の大半は、あの昭和20年5月の東京大空襲の戦火を逃れることができたのである。

こうした事情もあって、終戦後の目黒製作所の生産拠点は、烏山工場に移されることになった。そして1946年(昭和21年)2 月にははやくも、この烏山工場を拠点にして、三井精機のオ−ト三輪用トランスミッションの受注生産が開始された。その後しばらくの間、この烏山工場はミッション専門工場として、目黒製作所の発展の一翼を担うことになる。 一方、東京の本社社屋は、東京大空襲で全焼してしまっていた。この焼け跡に残ったパ−ツ類と、沼津市の昌和製作所に保管されていたため難を逃れた部品を活用して、目黒製作所がモ−タ−サイクルの生産を再開したのは、1948年(昭和23年)のことだった。こうして、戦前の在庫部品を活用して、Z98型の再生産は立ち上がることになったのである。しかし、皇紀にちなんだ車名は流石に変更され、戦後に生産された98型は、単にZ型と呼ばれることになった。

また、モ−タ−サイクルの再生産にあたって目黒製作所は、新たに販売網の拡充を図ることになった。先ず、昭和23年にKK神山商会が全国総代理店に指定され、その下に県単位の総代理店が採用されることになった。この各地の総代理店組織は「メグロ会」と呼ばれた。しかし、この初代メグロ会は翌年、目黒製作所と直接取引をする代理店制度に改められて、代理店会としての「メグロ会」に再編成されることとなり、その後の目黒製作所の躍進の基盤となったのである。

戦前モデルを踏襲したZ型にはその後、各部に改良が加えられて、”高品質のメグロ”というブランド・イメ−ジが定着していくことになる。先ず、過渡期モデル的なZ2型(Z型と並行して昭和26年1月から翌年4までの短期間生産)を経て、昭和27年4月には特徴的なフィッシュテ−ル型マフラ−の最終モデルとなったZ3型がデビュ−、フロント・フォ−クは強化されてリアにもプランジャ−が採用され、乗り心地の向上がはかられていた。次いで昭和27年12月に登場したZ5型(4は欠番)では、世界初の4速ロ−タリ−・ミッションが採用され、エンジンにも大幅に手が加えられていた。

こうした度重なる改良作業の結果、もはやMGAやベロセットといったベ−ス・モデルの面影は払拭されていた。その後、伝統のZシリ−ズは、エンジンの出力アップがはかられたZ6型(それまでの15HP/3900rpmから20.2HP/4400rpm)を経て、Z7型がデビュ−したのは昭和31年4月のことであった。このZシリ−ズの完結モデルともいえるZ7型は結局、昭和36年5月まで生産されて、4000台以上が市場に出回るというシリ−ズ最大のボリュ−ム・セラ−となったのである。

公募によって”スタミナ”と命名されたZ7型は、目黒製作所のフラッグシップという大役を立派に全うした、といえるであろう。”高品質のメグロ”の伝統はその後、新設計の重量級モ−タ−サイクル、Kシリ−ズに受け継がれることになった。