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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

🎼フレデリック•ショパン🇵🇱フレデリック青年と歳上の親友ヤショォとの友情

2023.04.22 05:00

時は1827年1月8日  フレデリックの誕生日には二つの説がある(1810年3月1日または2月22日、または1809年)そのため、フレデリックはこの時、

17歳だとすれば、あと2ヶ月程で18歳になるところだ、18歳だとしたら、19歳になるところなのだ。これは青年期の年齢では

17歳と19歳では大きな違いである。

ひとつや二つ、モーツァルトもそうだったように歳を偽ることは音楽家は古くからやって来てことだ。ショパンの父ニコラはモーツァルトのように息子を仕立て上げたかった、

ニコラの写真は現存しない。出生は謎に包まれているフレデリック。

フレデリックの教育のためにフレデリックにはいつもニコラが選び抜いた優秀な友人が

何人も付けてあった。

フレデリック青年はこの年推測17歳だった。四歳年上の親友ヤン・ネプオツェン・ビアウォブウォッキにいつも書簡を書いていた。

貴族の家柄だったヤショォ(相性)は、実家のあるゴラブ・ドブジン県ソコロボォで静養中だった。

フレデリックはワルシャワからヤショォに宛てて書簡で語りかけた。

「... あなたに何か面白いものを買って送って差し上げたいと思います。恐らく...。

ロッシーニのオペラ《アルジェのイタリア人》から、あなたに何かおしゃれな曲をお届けしたいのです。

今のところ、印刷がまだ出来ていませんでした。

僕は4日前からブジェジナ(音楽店)に行っています。

できれば明日、ジェワノフスキー氏が持ってきてくれるように何かを手に入れようと思います。

非常に良い解決策ですが、音楽の包みを開くとあなたは結果がわかりますよ。

あなたは今、僕と同じように過去についても、未来についても好奇心を持つべきですよ。

さらに、僕はあなたに私の作品マズルカを送りたいと思います。

あなたが知っている私のマズルカも後で送ります。

そうしなければ、あなたは一度に多くの喜びを味わうことになりますから。」

フレデリックはロッシーニのオペラ《アルジェのイタリア人》をワルシャワで聴いたのか、ヤショォに何か新しいものを送って来るように頼まれていたからだ。それと、

フレデリック自身の作品を。

マズルカは一曲送ると伝えるフレデリック、楽しみは少しずつと伝えた。

「これらのマズルカはすでに出版されているが、より古い私の✳︎ロンドは、世界を見る権利があるので、すべての私の作品の中で息苦しく押し込められたままです。

その運命はむしろ私の運命と同じなのです!」

✳︎ロンドとは《ロンド・ア・ラ・マズール》のことだ。1826年に完成したこのロンドは、

出版が何故だか遅れていた。

フレデリック青年は将来を既に何らかの働きかけにより閉じ込められているような感じを

受けていた。恩師エルスネルはフレデリックを天才と褒めながらも、「あいつは放っておけ」と言っていた。この二面性が怪しまれた。

書簡は続けてワルシャワの様子をリポートしたフレデリック…

「道路はソリに適しており、この4日間、ソリは鐘を鳴らしながら走り続けています。この季節にありがちな事故もいくつかあって、たとえば、馬車のシャフトが女性の頭を直撃して死亡したこともありました。馬が逃げたり、ソリが壊されたりと、この季節にありがちな事故もありました。

大晦日の仮面舞踏会は大変な賑わいだったそうですが、私はまだそのような催しに行ったことがないので、今年はぜひ行ってみたいと思います。

バルジンスキーとの共演です。今週は金曜日にシマノフスカ1世のコンサートがあり、値段も高く設定されています。ピット席はどうなるのでしょう。

半デュカ、屋台を1デュカ、その他はそれに比例する。もちろん私も参加しますし、彼女がどのような演奏だったかまた書簡をあなたに書きます. . 」

フレデリックは、また手紙を書くと締めくくった。フレデリックはこの頃、妹エミリアの病に心を痛めていた。ヤショォもまたそれほど悪いとはフレデリックは知りもしなかった…。



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『アルジェのイタリア女』

ジョアキーノ・ロッシーニ作曲

2幕からなるオペラ。序曲は演奏会で取り上げられることで有名な曲目である、

《アルジェのイタリア女》はアンジェロ・アネッリの台本によるジョアキーノ・ロッシーニの2幕のオペラ・ブッファ(19世紀フランスのオペレッタ、喜劇・風刺・パロディ・コメディ)である。

ロッシーニが最初の作品『タンクレディ』の直後に書いた最初のオペラ・ブッファである。

このオペラは1813年にヴェネツィアのサン・ベネデット劇場のために書かれた。

1813年5月22日に初演された。

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( 1806—1828 年 3 月 31 日) 

ポーランドとフランスの作曲家、フレデリック ショパンの幼なじみで文通相手

貴族の家柄

1816 年にワルシャワのリュセウムで学んだ。作曲家ショパンの父ニコラス •ショパンの教え子。

ビャウォブウォツキはショパン一家の下宿に住んでいた。

1823 年ワルシャワ大学に入学した。

彼はフレデリックの親しい友人になり、フレデリックはビャウォブロツキの愛称Jasio

と呼んでいた。

1828年結核でソコロボの貴族の実家で亡くなった。

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《マズルカ風ロンド 》ヘ長調 作品5 

フレデリック・ショパン

1826年作曲

原題「ロンド・ア・ラ・マズール」

アレクサンドリーヌ・ドゥ・モリオール伯爵令嬢に献呈。

1828年2月16日ワルシャワのブジェジナ社出版。

1836年6月ドイツ ライプツィヒ

1838年2月16日イギリス ロンドン

1843年フランス パリ

にて出版された。


ショパン青年が予感したようにワルシャワで出版してからパリで出版されるまで15年かかった。

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