Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

MEGURO STORY その2.

2018.05.30 10:21

■近代への模索、そして挫折

 戦前からの伝統ともいえたZシリ−ズとは別に、1950年(昭和25年)に目黒製作所は、250 ccのJ型を発売、大いに話題を集めた。目黒製作所初の中型モ−タ−サイクルということもさることながら、当時期のクラス分け(1200cc 、750cc 、500cc 、150cc 、100cc)からすると、250cc という排気量は150cc と500cc クラスのギャップを埋める国内初登場の中間排気量クラスだったのである。

 この通称ジュニア系はJ2型を経て昭和28年10月にS型に発展した。S系では、エンジンのポ−ト形状が変更され、出力は7馬力から10HPに向上、ミッションも4速ロ−タリ−に変更された結果、トップスピ−ドは90km/hに達することになった。ジュニア系ではその後、S3型という目黒製作所最大のベストセラ−・モデルが誕生している。そして、その後も連綿とマイナ−チェンジを繰り返して、S8型を最期に昭和38年デビュ−のカワサキ・メグロSGに道を譲ことになったのである。

 この250cc クラスのジュニア系と500cc クラスのスタミナ系を軸にして、目黒製作所ははやくも、1955年(昭和30年)には、650ccのT1型から、500cc のZ6型、350cc のY型、300 ccのJ3A型、250cc のS2型までをラインアップするに至っていた。しかし、市場では圧倒的に小排気量クラスに人気が集中していたために、販売実績はけっして芳しいものではなかった。

 そこで、目黒製作所も遅まきながら、昭和30年6月に125cc クラスのレジナE型の生産を開始することになった。量販車種として期待されたレジナ系の生産にあたって、目黒製作所は本社工場内に車体組立工場を増設、烏山工場でもエンジン生産設備の強化がはかられた。しかし、こうした目黒製作所の期待は裏切られ、レジナの売上は伸び悩むことになったのである。理由は、すでに明白であった。性能追求に心血を注いでいた後発メ−カ−に対して、伝統に縛られた目黒製作所の各モデルは、絶対的な性能で遅れをとっていたのである。

 商品構成から見れば、目黒製作所のラインナップは充実したものだった。しかし、性能的な面での劣勢は如何ともしがたく、後にOHCエンジンなども投入されたが、経営は凋落の一途をたどることになったのだった。さらに、こうした傾向を決定的にしたのが、昭和35年の創始者・村田延治の死去であった。求心力を失った目黒製作所は、営業不振にともなった人員整理をきっかけに、泥沼ともいえる労働争議に突入することになり、翌36年2月にはストライキによる操業停止に追い込まれることになったのである。

 川崎航空機との業務提携は、こうした危機的な状況の下で締結されることになったのである。以来、目黒製作所は、生産に専念することになり、カワサキはメグロの販売網を活用して販売面の拡充をはかることになった。この間、目黒製作所は東京の本社工場を閉鎖して横浜市港北区に新天地を求め、新たに横浜工場で生産を開始することになった。しかし、事態は好転の兆しを見せることはなかったのである。社員数は全盛期の700 余名から150 名足らずに減少していた。そして、昭和38年に再度、カワサキから増資を受けて、社名はカワサキ・メグロ製作所と変更されることになった。だが、こうした再三にわたる建て直し策も功を奏すことなく、ついに終焉の時が訪れることになったのである。1964年(昭和39年)9月30日、老舗・目黒製作所は、我が国のモ−タ−サイクル史からその名を消すことになった。