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man maru

『母なるもの』を求めて

2018.06.03 06:50


母との地獄めぐりの一年を思い起こすのは恐ろしい。


父が亡くなって3か月経たないうちに、祖母(父の母)も逝った。

その前後から母の足は坂道を転がるように、驚くスピードで悪化した。


父が亡くなる直前は辛うじて電車にも乗り仕事にも通えていたのが、

ほんの4~5か月で母は歩けなくなり、車いす生活になった。



父が亡くなった12月、祖母が亡くなった2月を超えて

4月、桜が咲いたころ

父が好きだった桜が咲いた季節のある日の朝

母が隣の部屋の私に、ぽつりと言った。


「愛ちゃん。 お花見に、行きましょうか。 


  行きたいわ。」


言われた直後、目眩で横になり、頭がぐるんぐるんしていた私の頭の軸が一筋すっとした。 

はい。行きましょう、お母さん。


他者から求められれば、私の身体も不調を忘れて動き出す。





ぽくぽくぽくぽく お散歩 痛い痛い足

同じ歩調で後を追い影になり 影になり日向になり、

木漏れ日のようにチラチラ光と影の間を行ったり来たり。

影と光の尺度で世界を見ると、朝起きてから寝るまでずっと、

まるで映画のシーンのような情景を生きる。

人間は時空、景色の上に生きる。  


公園で一呼吸入れて 図書館内で車椅子を借り、

「お父さんがいたらなぁ 桜見せてやりたかったなぁ」という呟きを聴き入り

共に家に帰ってお茶を飲んで、仏壇の前でお経を上げる。



母の喪失と痛みは恐らく、恐らく私の理解できる範囲を全く超えていた。

ただ、私はその存在の在りかを、24時間に渡って「感じる」ことになった。

彼女の胸の内の灰色の重い雲を、その歩みの重さを、痛みを、重い呼吸を、

大切な伴侶を失った心の空洞を、自分の力ではもう動くことができない不自由さを、

自己に刻印づけられた無力感を。


母に

寄り添おうと思ったのか思わなかったか、どちらにせよ彼女の波長に私の波長が合ってしまった。

同じ屋根の下、父の死後心機一転しようと引っ越して希望に満ちたはずだった家の中は、

目に見えて灰色の雲が渦巻き立ち込めるようになった。



壁に日本の振り子を並べて掛けると、振り子はしだいに一緒に揺れるようになる。壁を通じて伝達される小さな振動をキャッチして互いに同期するのである。

 似たような感覚で振動する二つの物は、互いに物理的に近い距離にあれば、徐々に振動が重なっていき、完全に同じ感覚で脈動するようになりがちである。物は怠惰なのだ。 相手に逆らって脈動するよりも、相手と協調して脈動するほうが、エネルギーが少なくてすむ。物理学者は、この美しく、節約的な怠惰さを、相互位相固定あるいは同調化(エントレインメント)と呼ぶ。

 全ての生物は振動している。わたしたちは震えているのだ。アメーバであろうと人間であろうと、わたしたちは脈動する。リズミカルに動き、リズミカルに変わる。わたしたちはリズムに合わせて生きているのだ。

 そして、他の人間のリズムがある。プロセスはもっと複雑だけれども、二人の人間は、二つの振り子おように相互に位相を固定することができる。

――― 『ファンタジーと言葉』 アーシュラ・K・ルグウィン ―――




同期してしまったようである。私は。

母が歩けないのならば、車いすを使えばいい。

そして私が車いすを押して、母を連れ出してあげればいい。

母を支える、母を支えながら自分を生きる、そう意識の上では日々願いつつ、

私の身体は私の意図に反して極限的に弱っていった。

持病の副腎疲労は悪化し、母の車いすを押すと10分もしない内に腰が痛くなり、

とても母が乗った車いすを押すどころの力がなくなってしまった。

車いすどころか自分の身体を運ぶだけでも精一杯になり、

帰宅するとくたくたに疲弊しきって言葉も発する力もなく、半日から一日寝込むのだった。

母はそんな私を見て、猶更外に出たいという自分の願いを口にしなくなった。


母の通院のために病院へ付き添うと、同調する母という存在に加え、

病の人が集まる場所柄の重い「気」に心身共に影響を受け、

ふらふらになってやはり、直後の2~3日私の身体は寝込んでしまうのだった。


都立の総合病院で母を診てもらった結果、足の痛みは股関節から来るもので、

手術をすれば歩けるようになるといわれた。

ただし左右2回の手術が必要で、一回目の予約すら半年先まで埋まっており、それまではただ痛み止めを投与して待つしかないと

病院の先生に言われた。その半年が、とてつもなく長い時間に思えた。


私にとって、父の死というものは衝撃であったけれども、

ある意味それは決定的に父への感謝の念が深くなった瞬間的な貴重な体験で、

心の深層に一枚近づいたような出来事だった。一種の晴れ晴れしさがあった。

そして四十九日が過ぎたころには、私にとって「父の死」は恐らくほとんど喪が明けていた。

私は新しく、自分の人生をスタートしたい気持ちだった。


けれど、母にとっては違った。当然のことながら。

父はある日突然、予告なく自宅のトイレの前で心不全で逝ってしまった。

母にとっては数十年付き添った伴侶をある日突然失ったわけで、

加えて足の痛みは日に日に増し、母は自分にも自信を失っていった。

元々誰かのために尽くすことを生きがいとする優しい性分の母は、

誰かのために働くことができず、それどころか自分のことさえままならず

ただ人の世話になるしかない状況は、恐らく想像も経験もしたことがなかったのだろう。

まるで人が変わったように、悲観的でふさぎがちな母になった。

ただ、背中を丸めたままじっとし、伏目がちにぼんやりと虚空を見つめることが多くなった。


母には一つひとつできないことが増えていった。

外に出て仕事をすることが。電車に乗ることが。買い物に行くことが。

好きな図書館に行くことが。自分の足の爪をきることが。お風呂の湯舟につかることが。

料理はしばらく台所に立っていなかったから、

自信を無くしたか、実際に手の動かし方も忘れてしまったか、

自分にはできないと言って、自信がなく、やりたがらなかった。

みるみると小さくなり弱っていく母を見て、

老いるというのは、小さな子どもに還っていくようだなと娘の私は感じた。

世話と愛情をかける必要があるその子どもを、世話してあげなければと…

最初は私の中の母性が刺激されたか、せっせと食事を作り、母が過ごしやすいように介添えをした。

介護保険を申請し、福祉用具を揃え、母が通えるリハビリのデイサービスに申し込み、

母の生活周辺を整えた。

私は母を支える「しっかり者のいい娘」でいたかったのかもしれない。

日々、口を開けば父の思い出を語り、涙する母の言葉に、じっと耳を傾けた。

母の悲しい気配を24時間感じながら過ごした。

それは部屋を隔てても、壁の向こう側からも伝わってきた。

母にとっては目覚めた直後が一日の中でも一番物悲しいらしく、

朝に一人で、私に気づかれないように気を使いながら、台所ですすり泣きをしていた。

私は毎朝それに気づき、その声で目が覚めた。


母に寄り添い、母を支えながら、自分は自分の人生を生きる。

そうしたかったが、私の全てが「母」で埋まってしまった。

私は、私を失った。



自然、ひずみが生じ始める。



歩けない母、どんどん塞ぎ茫漠とした虚空を焦点を合わさずぼんやりと見つめる母の側にいるうちに

不思議なことに、私の健康的な足にもまるで纏足がなされたように足がどんどん重くなった。

私の体調は目に見えて悪化し私は動けなくなっていった。文字通り私までもが「歩けなくなった」。

母が落ちていく底なしの蟻地獄に、私も共に引きずり降ろされていく。

母は食が細り、ただでさえ華奢な体がさらに3〜4キロほど落ちた。

私も必死に食べながらも、胃腸の栄養吸収率が悪いのか、3キロ落ちた。

特に私が不在にすると、ほとんど何も食べないのだった。

母は、私が食事を作って一緒に食べてあげないといけない存在だった。


この頃から連続して夢を見るようになった。

山姥に追いかけられる恐ろしい夢を。


山姥。

老いぼれて髪はぼうぼうと荒れたまま伸び切り、自らが醜い姿であることをも知らず分からず、

ただただ盲目に「娘のわたし」を追いかけてくる。

「あなたがいなければ生きてゆけない」と言って。

私はぜいぜいと息を切らしながら力のあらん限り必至に走って、山姥から逃げる。

走って走って、後少しというところで腕をつかまれそうになりながら、

すんでのところで振り切り、逃げる。それでも山姥はつかず離れず追いかけてくる。

嫌だ、私は逃げるんだ、この人に捕らえられてたまるものか私の人生、

私はこれから、幸せになるんだ、仕事をして恋愛をして結婚をして家庭を持って、

幸せに生きるんだ、

この人に捕まえられてなるものか‥‥


山姥はある時は日本昔話風の老女、ある時はグリム童話に出てくる西洋の醜い魔女の姿だった。

とにかく醜い老女が追いかけてきて私が必死に逃げるという夢の構図は変わらなかった。


元々不眠がちだった自分は、ますます眠れなくなり、

眩暈や低血糖、動悸で体調は悪化の一途をたどり、自分の身体の生存だけで必死になっていった。

仕事は劇的に減らさざるを得ず、結果として、ほぼ家の中から出れない状況になった。

四六時中、足の悪い母と一緒に家にいることになった。

私が家以外の生きる場所を無くしたというのが、さらに状況を加速させた。


そうこうしているうちに、「物の怪」が出現するようになった。


「物の怪」が憑依した私の身体は、突発的にイライラし、

泣き、叫び、家の中のモノに当たるようになった。

皿を割る。物を壊す。夜中の2~3時に衝動の嵐は予測不可能なタイミングで起こり、

時に深夜2時に椅子を床にぶつけ、「わああああ」と叫ぶこともあった。

母の前で、そして心配して駆けつけてきてくれた姉たちの前で、

私は人格が変わったかのように、悪口雑言を浴びせた。呪いの言葉を。

イライラは抑えようがなかった。なんとかイライラするまいと、

必死に眠れるよう気分が安定すると言われるトリプトファンのサプリメントを取ったり、

リラックスできるお香を焚いたりしたが、効果はほとんどと言っていいほどなかった。

イライラしてはいけない… なんとかイライラを抑えなければ…

毎日必死にそのことだけを考えた。

でないと、ますます母も自分も苦しめることになる。

なんとかイライラが表出しないように、イライラの泡がふつふつと生まれないように、

私は日々自分の内側に細心の注意を払って過ごすようになった。

なんとか、今日は穏やかでいたい…。

朝目覚めた瞬間からそう願いながら、できる日も、できない日もあった。

私の願いに反して、物の怪は私の奥底から私のコントロールを超えて、私を苦しめるのだった。


イライラを母にぶつけてはいけない。

そう思っても抑えきれないイライラで、まず私はモノに当たるようになった。

けれど徐々に、言葉でも母を直接傷つけるようになった。

「私がこんなになったのはお母さんのせい」と‥


そしてついには、

「お母さんなんかいなくなってしまえばいい」

と…


・・・・


違う、私はそんなことを思ってるわけじゃないんだ、

本当はお母さんが大事で仕方ないんだ、傷つけたくなんかないんだ、

でもどうしてこんな自分になってしまったのだろう?

自分でもどうしようもなく、皿を割ったり暴言を吐いた後で、泣き崩れた。


母のすぐ側で皿を割ることは母を怯えさせ、恐怖で震わせ、

母が「自分はいてはいけない存在」だと全身全霊に叩き込ませた。

母はとにかく泣いて怯えるようになり、母が悪いわけでもないのに

「ごめんなさい」とひたすら私に謝り、私の顔色を伺うようになった。

弱気になった母の心は、ますます自己卑小と私への服従、追随に傾いた。

「私がこうして生活できるのは、愛ちゃんのおかげ」

「愛ちゃんがいなければ、私は生きていくことができない」と…

猛々しく猛威を振るう私の物の怪も、

痩せ細った母に直接手を出すことはさすがに押しとどめた。

でも母の目前で皿を割り家の中を傷つけることは、母の心身を傷つけることとほぼ等しかった。

母はイライラのひどい私のため、余計に精神が委縮していった。

日々びくびくと何かに怯え、痴呆まではいかないが、記憶力もぐっと衰退した。


一番ひどい時期には、人格が崩壊した私の代わりに母の病院へ付き添おうと、

家に来てくれた姉の身体を蹴りつけたこともあった。

弱った母にはぶってはいけない、それなら姉ならば、と

家族への甘えが無意識で出たのだろうか。


それは虐待というものに近かった。構造的にはDV、妻に暴力を振るう夫の構造、共依存に近い。

物の怪の憑依は、断続的に訪れる。

一旦台風の嵐が過ぎ去れば、後に苦々しさと後悔と悲しみと自己嫌悪が一気に押し寄せる。

母が私を恐れて気を使ったり、精神的にも弱る姿を見ると、

「私が一層母を弱く悲しくさせている」と感じ、猶更やり切れず、

また物の怪がやってきては突発的な猛威を振るうのだった。


苦しすぎて今すぐにでも逃げ出したかった。

毎日泣き、眠れず、始終体調が悪くふらふらしていた。

そして自分が不登校だった14歳の頃を思い出していた。

あの頃も私は似たような危機的状況にあった。

学校に行けなくなった頃、自分でも何が起こっているか訳が分からない感情の激動の嵐の中にいた。

私は、日々荒れ狂って家の中のモノに当たっていた。突発的にカレンダーを破り、物を壊し、

そして、ある日、母を叩いたことがあった。

「私がこうなったのはお母さんのせい」と言って、泣き叫びながら。

母は抵抗せず、涙を流しながら私の暴力をただ受けていた。

その記憶は苦々しく、けれどずっと私のこころの奥底に刻まれていた。


いろんな人に状況を相談をした。

母のケアマネージャーの方、介護の仕事をする知人、姉、精神科、カウンセラーの友人。

10人の人に相談をし、9人の人が「離れて暮らした方がいい」と言った。私もその通りだと思った。

「もう一週間、一日も持たない」と思うほど、母のいる牢獄のような家で過ごすことは息が詰まり、

私の精神は緊迫した状態にあった。

離れて物理的な距離を取ることでしか、道はないと思われた。

どんな心理学者もセラピストも、そのアドバイスを取るだろうと思った。

もうこれ以上母を傷つけたくなかった、自分を傷つけたくはなかった。

私は私のためだけの安全なスペースが必要に思った。

母は、「一人ではとても生きていけない、愛ちゃんがいなければ生きていけない」と、しがみついてきた。

離れて暮らすことは最初相当な痛みを母に(そして私にも)もたらすことは自明だった。


けれど、信頼するある一人の人だけは、「母と別居した方がいい」とは言わなかった。

ただメッセンジャーで泣き言を呟いた私の言葉をそのまま辿りながら

こう言った。





「愛子。


『攻撃的になってもいい』

『思いっきり傷つけてもいい』 って、声に出して言ってみて。


『優しくなくてもいい』

『イライラぶつけてもいい』

って。


『~してはいけない』、ということはないから、

ありのままが (愛子の今のありのまま、は)

『今、優しくしない』『イライラぶつけてる』

だから、それで、いい。


愛子の涙が出るのは、自分への赦しや許可。

ありのままの自分を、お母さんに甘えている自分を、

赦してあげることじゃないかなぁと思うのよ。


そう、愛子は、『どうせ愛されてるし』って、

知ってる。


お母さんの愛に触れながら、学校行かなかった時と同じく、

愛子の中に噴出してくる膨大なエネルギーがマグマみたいに存在しているんだなぁ。


それは、使命や、命、この世で愛子がどうしても体験したい、見たい、

宿題みたいなものの根源じゃないかなぁ。


お母さんは、

それをいつも、噴出するまで関わってくれる。

愛を注いで、噴出する圧を、愛子にくれている。


だから、愛子がどんな接し方をしようと、いい。


お母さんの実態に、

愛子の実態が迫っていて。

今を、お互いに、生きているんだなぁ…


四苦八苦しながら。


それはね。

とても 生きているなぁ

と、

思わせられるよ…







この限られた『家』という空間の中で、

母と娘という、この世に二つとない縁をもらい

変化し合い接近し合い、思い切り傷つけ合う中で

学びたかったことがある。

その他では経験しようもない、噴出するまでの『圧』を、母は私にくれているのだと…


どうもその時、それらの言葉が私の心の一番やわらかいところに触れたようで

温かい涙が止まらなかった。



生まれてきてから30もゆうに過ぎた今に至るまで

私が何をしようとも、たとえ暴力をふるおうとも傷つけようとも、

母は決して私を見捨てることがなかった。

「何をしても、どんな酷いことをしでかしても、母は私をゆるしてくれる」

確かにそうだった。

私が深夜の2時に目が覚めて苦しくなり、

椅子を床に叩きつけて、驚いた母が起き上がった時。

私は泣きながら、母に

「苦しい、とにかく苦しい、

こんな夜中にまで叫んで起こして、迷惑をかけてごめん」といったようなことを言った。

母はそうして泣きじゃくる小さい子どものような私の姿を見て、

「もし苦しかったら、夜中の何時でも起こしてくれたらいい、それで愛ちゃんが私に話して気持ちが楽になるなら、全然構わない」

と言ってくれた。

その時の母は、弱った母ではなく、

目の前の弱った娘のためには自分の苦しみを忘れて、ひたすら私のために自分を差し出そうとする、背中がすっと伸びた母だった。

母は純粋に私を心配し、それにより、「母」として存在していた。



それは絶大的な愛だった。

そんな母だった。

その愛の深さを、知ったつもりで、今だに私は分かっていなかったと思うくらい、

私に知らしめるためにそこにいてくれたのではないかと思った。

結界が張られた家という空間の中で徐々に高まった『圧』は、

最初物の怪として顕れ、極点まで達した時に、

一点して見たこともない美しい、溢れる愛の花々に変化した。

涙が止まらなかった。


不思議なことに

その頃から、徐々に、私の「物の怪」は収束するようになった。

完全に消えるまでは数か月の時間がかかったが、

その後に幾度イライラの嵐が吹き荒れても、私は、「だいじょうぶ…」

と、自分をゆるすことを知った。

これは自分をゆるすレッスンなのだと知った。

私は、私をゆるし続けた。


それは、私が

どんな自分もゆるし、全てを受け容れる「母」の像を、

自分自身のものとして取り込み

統一していく、プロセスだったのかもしれない。


母と娘という関係を生身の身体を使って生ききる、地獄めぐりの時間がなければ、

到達できない場所だった。



母の1回目の股関節の手術の数日前、

思いついて母に手紙を書いた。


「私の夢は、お母さんみたいなお母さんになることです」


静かに落ち着いた自分の心から、

そんな素朴で純粋な願いが発見された。

優しくて、いつも全て受けとめ愛してくれる、

そんなお母さんのような母親に、私もいつかなりたい。

私はいつしか心の中の一番純粋な場所で、そう願っていた、ということに気づいた。

そして、とにかく、母に、元気になってもらいたい、と痛いくらいに願っていたことも。

その願いが強すぎて、自分は壊れたのだった。




人間の心は二重人格という異常な現象を呈してまで、その全体性を回復しようとする傾向をもつということもできる。

―――『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』 河合隼雄 ―――



同一化の程度が強いときは、ひょっとして裏切り以外には分離する方法がないのかもしれない。これが先にも述べたように、これはと思うような人が思いがけない裏切りをすることの秘密なのかもしれない。~

大人になるということは大変なことである。ひとつの境を越えるにふさわしいだけの傷を負わなければならない。しかし、それが本当に意味をもつときは、その傷が創造の源泉にもなる。あるいは、真に、創造的な行為によってのみ、その傷は癒されていく、と言うことができる。

―――『青春の夢と遊び』 河合隼雄 ―――





こころとは不思議なものだ…

一面的な価値を押し付けられると自然「影」は浮上し、全体性を回復しようとするはたらきを持つ。

しかし顕れた「影」、その「影」の圧がぎゅっと高められることにより、

さらに一回り大きな自己として、やわらかくたおやかな器とも変容し得るとは。



しかしながら、この「物の怪」もしくは「影」、

一体何だったのだろうと、落ち着いた後も考え続けた。


出会ってハッとしたのは、この言葉だった。

『母ロス』


『母ロス』とは、

母親を亡くした時に襲ってくる、深い苦悩や悲しみのこと。

日本人は特に母と娘の密着度が高いといわれており、特に女性が深刻な母ロスに陥りやすいという。


私はまだ母を亡くしたわけではなかったが、

「これがお母さん」と呼べる私の中の『母像』を父の死後急速に失っていったのは確かだった。

いつも穏やかにニコニコして、甲斐甲斐しく娘や孫たちのことを気にかけて世話をし、

私が海外に行って病気をして帰ってくる度に、心配して優しく食事を作り布団を敷いてくれる母。

大事な人を世話することで溌剌とし、生命力が漲る母。

その『母』が、失われていったのだった。


父の死後、母の病状悪化の前には、

どれだけ私が何をしても注ぎ込んでも、それはザルの目から水が流れ落ちるように

一向に虚しく、母の回復には役立たなかった。

私には、父の死よりも、生存していても老いて弱りゆく母をみることが、

真綿で首を絞められるように緩やかな、しかし決定的な大打撃だった。


母に優しくできなかったと思う時、決まって仏壇の父に話しかけた。


お父さん、ごめぇん。また、お母さんを、悲しませてしもた・・・


父亡き今、母を元気づけ支えるのが自分の役目であるだろうに。


父はいつも何も言わず、ただ私の言葉を聞いてくれた。

額縁に飾られた写真の父は、いつも穏やかな笑みをたたえていた。

父に話しかける時だけは、私は心が穏やかでいられた。

人に言えない酷く醜い自分のありさまも、全て、父はゆるしてくれた。




私は父を亡くしたのではなく、母を亡くしたのだった・・・

母なるものを亡くした恐怖が、こころの海底から火山のように沸き起こってきたようだった。

そして、仏壇の父や阿弥陀如来に語りかけるのは、

それがすべてをゆるし包んでくれる「母なるもの」だったからだ・・・

亡くなった父は、即ち、全てをゆるしてくれる「母」だった。

そしていつも、心の中で私の側にいてくれた。

それほどまでに、やはり私は「母なるもの」を必要としていた。



全てのいのち、母より生まれいずる。



地母神の土偶、神話時代における女神イシュタール。

偉大なる母は不変ながら、人間としては「母」→「娘」という継承がなされ続ける。

世界どの神話にも通じる普遍性。

赤子として生まれて出でてから、成長して心の器を広げ続けるには

何度も何度も、「ゆるす」「愛する」母の像を、

自分のものとして取り込んでいくことが必要なのかもしれない。



そして、

大切な人の老いや下降への変化も、

万事「自然なもの」として受け入れ、

見つめ続けていく心の智慧を深めていくことも。





(↑後日談)