岩をも砕く伝家の宝刀
たった一人しかいない可愛い弟のどこが愛しいかと問われれば、その存在全てだと間髪入れずに答える自信があった。
親に愛されなかった自分を初めて愛してくれたのが弟たるルイスなのだから当然だ。
愛されることを知り、愛することを教えられ、ゆえに兄はルイスを大事に大事に慈しんできた。
だからその存在全てが愛しく尊いのだと断言できるけれど、ルイスが持つパーツのどこか一つを選べと言われたのなら、悩みに悩んだ末にそこを選ぶだろう。
真っ白で丸い、形の良い額。
兄は特別にルイスのおでこを気に入っていた。
「ルイスのおでこは可愛いねぇ」
幼いながらに愛らしく整ったその顔に笑みを浮かべて、兄は弟のおでこを撫でてはそっと頬を寄せる。
もっちりとした頬と違って弾力こそないけれど、滑らかな肌は触れていて気持ちが良い。
柔らかな髪と形の良い眉に囲われたおでこはルイスのチャームポイントだ。
ルイス本人はそう認識していないとしても、兄がそう認識しているのならばこれが真実なのである。
ふわふわ柔らかな羽毛に全身包まれたかのような、温かい保護。
兄はいつだってルイスに優しくて、まるで子猫を守る母猫のような過敏さでルイスを守ろうとする。
毛繕いの中心はいつだって丸いおでこだった。
けれどルイスを溺愛している兄は、それでも盲目的なわけではない。
「…ルイス」
「っぎゃん!」
兄は時として心に飼っている鬼を表に出し、ルイスの体の中でも特別気に入っているおでこをその指で弾くことがある。
利き手の中指を曲げて親指で反動を付けた末に放たれる、伝家の宝刀たるデコピンだ。
前髪に遮られることのないルイスのおでこは、そのデコピンの威力を真っ向から受け止めなければならない。
当然、弾かれたおでこは勢いよく後ろに流れていった。
「ぅ、ぅ…」
「僕、言ったよね?ルイスは体が弱いからちゃんとご飯を食べて栄養を取らないといけないよって、僕言ったよね?」
「…はい」
「それなのに、どうしてルイスは他の子にご飯をあげちゃうんだい?ルイスにだってご飯は必要なのに」
「……みんなお腹を空かせてて、可哀想だったから…」
僕はあんまりお腹空いてなかったから、それで、とぽつぽつ呟くルイスに大きなため息を吐いた兄は、小さく縮こまるその体を抱きしめた。
ルイスの食が細いのは今に始まった事ではない。
食べようと思えば食べられるけれど、他にお腹を空かせた幼い子どもがいるとなれば食欲も消えてしまうのだろう。
だからといって食べないままでは、病弱なルイスが健康になる未来はずっと来ないのだ。
そんな未来、ルイスが良くとも兄には許せない。
特別気に入っているそのおでこに怒りを込めたデコピンを喰らわせた兄は、中央が見事に赤くなっているそこへ指を添わせた。
「みんなのお兄さんをしているルイスはとても偉いよ。僕の自慢の弟だ」
「兄さん」
「でも、その方法は間違っている。ルイスが体調を崩してしまったら、あの子達だってきっと悲しむよ。僕も悲しいし、これから先にルイスが倒れてしまったらと思うと不安で仕方ない」
「…兄さん、ごめんなさい」
「うん。分かってくれて嬉しい。僕こそごめんね、痛かったよね」
ふるふると首を振って痛くないと主張する弟を見て、痩せ我慢しなくて良いんだよ、と兄は笑う。
怒りと不満のあまり思わず手が出てしまったけれど、後悔はしていない。
ルイスは後先を考えないところがある。
きちんと正してあげないと、今後ルイス自身にもっと大きな不幸が降りかかるかもしれないのだ。
兄として万に一つの可能性すら潰さなければならないのだから、時に痛みは必要である。
真っ白い肌の中央に真っ赤な跡が残ってしまった小さなおでこ。
それすらも可愛いなと、弟を盲目的に溺愛するばかりではないはずの兄は、いかにも盲目的なことを考えた。
「それ以来、兄さんは僕が悪いことをするとデコピンをするようになりました」
「ほう」
「ふふ、懐かしいね」
モリアーティ家の三兄弟が香り高いお茶とともに優雅なひと時を過ごしている最中。
末の弟であるルイスが、長男であるアルバートに振られて過去の思い出話を語っていた。
話題の始まりが何であったか覚えていないけれど、思えばルイスが成長とともに髪型を変えたことが発端だった気がしている。
アルバートもウィリアムも、幼い頃からその髪型を変えてはいない。
だがルイスだけは前髪をアシンメトリーに伸ばしてしまったため、昔の髪型を懐かしむ体で話がおでこに逸れていったのだ。
「知らなかったな。てっきりウィリアムはルイスの額を気に入っていると思っていたよ」
「ルイスのおでこはすきですよ。すきだからこそ、ここぞというときには自分の感情と分離させなければいけないと考えています」
「なるほどな」
きっぱり言い切るウィリアムを見て、アルバートは感心したように口角を上げた。
ルイスに甘いばかりのウィリアムしか知らなかったからこそ、ルイスの口から明かされたウィリアムの行動に驚いてしまう。
アルバートが知るウィリアムは出会った頃から今に至るまで、隙なくルイスを溺愛しつつ過保護な人だった。
それにプラスして兄らしく厳しい一面をも持ち合わせているというのはさすがである。
生まれついての兄なのだなと、アルバートはより一層ウィリアムへの信頼を上げていた。
「でも、ここ最近はめっきりそんな機会もありません。ルイスは良い子ですから」
「この歳になってまで良い子と言われるのは少々複雑な気持ちですが、そうですね。もう何年も兄さんのデコピンは受けていませんね」
そっくりな弟達が頷き合うように会話をする様は大層癒される光景だ。
向かいに座るアルバートはその仕草に釣られたと見せかけ、その実ただ目の前にいる弟達の存在を揺るぎなく肯定するために大きく頷いた。
今日も弟達が可愛くて何よりである。
こんな平和を国に住まう全員が享受出来る未来を信じ、ひとまずは束の間の安寧を堪能した。
「確かに、ルイスが悪いことをするなんて信じられないな。悪いことの内容を聞けば納得もするが…良い思い出だね」
「良い思い出…兄さんの気持ちは嬉しかったです。でも今だから言えますが、兄さんのデコピンは凄く痛いんですよ。思い出すだけでも額が疼きます」
「ごめんね、ルイス」
ルイスは何の跡も残っていない額に手をやり、綺麗な顔に渋い表情を乗せてそんなことを言う。
苦笑したウィリアムが隠された額を覗き込むように謝るが、ルイスは怒っている様子もなく「気にしないでください」と添えていた手を振った。
どうやら、ウィリアムのデコピンはルイスのトラウマになっているらしい。
それだけ本気のデコピンだったのだろうと推察出来るが、アルバートはますます持って興味を抱いた。
あのウィリアムが、あのルイスに、今尚痛みを記憶させているデコピンを放ったという。
アルバートの知るデコピンはそんなにも威力があるものではなかったし、ふと思い返してみればデコピンをしたこともされたこともなかった。
話を聞く限りは仲の良い者同士がする戯れのような印象さえあるというのに、ルイスにしてみれば「デコピンされないよう悪いことをせず頑張りました」とさえ言うほど強力らしい。
ほうほう、ふむふむ、なるほどそれは。
「そんなに強力だったのか、ウィリアムのデコピンとやらは」
「それはもう」
「お恥ずかしい」
真剣な顔で同意するルイスと、照れ臭そうな顔をするウィリアム。
二人を見たアルバートは湧いて出た興味を体験すべく、抱いた欲求を滑らかに口にした。
「私も経験してみたい」
「「え?」」
「私もウィリアムのデコピンを経験したい」
「「…え」」
揃って目を丸くした弟達が理解しやすいよう、アルバートは丁寧に言い直して組んでいた足を揃え床に下ろした。
ルイスのトラウマになっているウィリアムのデコピン、何とも面白そうではないか。
「に、兄様それは…やめた方が良いかと」
「どうして?」
「兄さんのデコピンは凄く、凄く痛いんですよ」
「それは先程聞いたさ。だが、ルイスがウィリアムのデコピンを受けたのは子どもの頃だろう?昔のルイスは痛みにも弱かったはずだ」
「そうかもしれませんが」
「何より面白そうだ。ルイスがそう評価するウィリアムのデコピンがどんなものか、私は興味がある」
「……」
いとも簡単にアルバートに言いくるめられたルイスは困ったようにウィリアムを見たが、その彼も同じように困ったような顔をしている。
この場にいる三人の中で、アルバートだけが未知のものへの興味で浮ついていた。
「僕も、兄さんのおでこを弾くのはさすがに抵抗がありますね」
「何、気にすることはない。私が悪いことをした体でやってくれれば良い」
「兄さんが悪いことをしたところなんて見たことありませんよ」
「僕もありません」
「そこはお前達の想像力を働かせてどうにかしなさい」
「えぇ…」
「兄様…」
肝心な部分を丸投げしたアルバートは腰を上げてウィリアムの隣へと座り、ソワソワとデコピンを待った。
子どもの頃の記憶など当てにならない。
美化ではないが、羽が付くようにさぞ大きく誇大評価されてしまっているのだろう。
過去に一度もデコピンを受けたことがないために痛みの想像も浅いアルバートは、ただ幼い弟達が戯れている姿を想像しては、それに混ざるべく提案したのだ。
過去に混ざることが出来ないのであれば今試すに限る。
そんな興味を全面に滲ませているアルバートに気付いたウィリアムは、ここで頑なに拒否する理由もないかとそっと指を持ち上げた。
子どもの頃とは違うのだから大したダメージもないだろう。
兄達が共通して持つ想像を思い浮かべながら、ルイスだけがハラハラと二人の様子を見守っていた。
「では…いきますよ」
「あぁ」
「……」
ウィリアムが声をかけ、アルバートが了承し、ルイスが固唾を飲んで拳を握りしめる。
そうしてウィリアムの中指がアルバートの額中央目掛けて弾き出された。
バチン、と固いものが固いものに当たる音が響く。
「っ!?」
「え」
「に、兄様!」
瞬間、ウィリアムとルイスの視界からアルバートが消えた。
いや正しくは、ウィリアムのデコピンを受けたアルバートは衝撃そのままにソファ端に存在する肘置きへ、上半身丸ごと吹き飛ばされた。
ドサリという音とともにソファに横たわった兄を見て、ルイスは慌てて立ち上がってはアルバートのそばに膝をつく。
「兄様、大丈夫ですか兄様!」
「…あぁ、ルイス。大丈夫さ、大丈夫大丈夫…う」
「お気を確かに、アルバート兄様!」
「…!!」
何が起こったのか分からない様子で額に指をやったアルバートを支えるように、ルイスはその手に腕を添える。
甘く垂れた瞳を丸く見開く姿は年齢に削ぐわず幼く見えるが、今はそれどころではなかった。
起きあがろうとしては苦痛に顔を歪めたアルバートを「脳が揺れているはずです、起きてはいけません」と手慣れたようにケアするルイス。
そんな兄と弟を見たウィリアムは、驚愕した面持ちで自分の指を見た。
「そ、そんな、まさか…」
アルバートの額をさするルイスの指の隙間からは、赤く腫れた皮膚が見える。
まさかデコピン如きでアルバートの体が吹っ飛ぶとは思わなかったし、腫れ上がるとも思わなかった。
珍しくも考えていることが丸わかりな表情を浮かべるウィリアムは、デコピンを喰らわせた自らの右手を震わせている。
固まった体と思考は、時間とともに現状を把握していった。
「に、兄さんすみません!お体は無事ですか!?」
「大丈夫さ、ウィリアム…問題ない」
「兄様、まだ起きてはいけません!」
「まさか、僕のデコピンがこれほどの威力を持つなんて…すみません、知らなかった僕の落ち度です」
未だ衝撃で目を丸くしているアルバートを見やり、ウィリアムは想像以上の破壊力を持った己のデコピンに恐怖を抱いた。
子どもの頃と違い、今のウィリアムは体を鍛えて力も強くなった。
だがそれはウィリアムだけでなくアルバートも同様で、むしろ軍人であるためウィリアムと同等以上に体幹が優れているはずだ。
確かに頭という部分はデリケートで、一瞬の隙が致命傷となる箇所ではあるが、普通のデコピンならばアルバートともあろう人間がこうもダメージを負う訳がない。
ウィリアムが持つ力とデコピンの技術、脳を揺さぶるだろう部分を無意識かつ的確に狙ったことが要因だろう。
力と技術と知識を持つ者は、たかがデコピンでさえ致命傷を与えることが出来るのだ。
それ自体は喜ばしいことではあるが、その被害者が敬愛する兄というのが何よりもの誤算であった。
「さすがウィリアム…指一本で、これほどのダメージを与えることが出来るとはな…」
「兄さん、すみません!まさかこんなことになるなんて…!」
「兄様、クッションとタオルケットを持ってきました!十分に休んでください!」
ウィリアムのデコピン経験者たるルイスは慣れた様子でアルバートのケアをする。
そのルイスでさえも、まさかウィリアムのデコピンがこれほど威力を増していたのは想定外だった。
少なくとも昔のデコピンは、幼いルイスでも気を確かにすれば座っていられる威力だったはずだ。
体格の良いアルバートを吹っ飛ばして起き上がれなくするほどとは、さすがウィリアムである。
ウィリアムへの尊敬とアルバートへの心配で、今のルイスは混乱状態だった。
「…ふ…私が愚かだったようだ。鍛えられたウィリアムのことを甘く見ていたよ…私もまだまだ、だな…」
「兄さん…!」
「兄様、もう目を閉じてお休みください。目眩がするでしょう」
「…さすがルイス、経験者はよく理解しているな。ふふ…」
「本当にすみません、兄さん…!」
ウィリアムの指を視界に入れた直後、脳が揺れる感覚がした。
ほぼ同時に頭に引きずられるように体が動き、そのままソファに倒された。
未だ定まらない視界と思考だけでなく、じわじわと額に痛みが生まれてくる。
アルバートは初めて経験するデコピンという行為を、子どもの遊びだと舐めてかかっていた数分前の己を深く反省するのだった。
(そういう訳で、兄さんのデコピンはモリアーティ家では禁じられた行為なのです)
(はー…ったく、お前もアルバートも鍛え方が足りねぇんだよ。情けねぇな、全く)
(ム。モランさん、兄さんのデコピンを舐めていますね?兄さんのデコピンは凄いんですよ、岩をも砕くんです)
(それは言い過ぎだろ。兄貴を美化してんじゃねぇよ)
(事実です!ねぇウィリアム兄さん!)
(んーどうだろう。さすがに岩は砕けないかな)
(謙遜するでない、ウィリアム。きっと出来るさ)
(ほら、兄様もこう言っています!)
(大袈裟なんだよ、ルイスもアルバートも)
(では大佐。あなたもウィリアムのデコピンを受けてみてはいかがですか?あれは体感するのが一番早い)
(そうですね、モランさんも体験してみれば兄さんのデコピンが岩をも砕くことが理解出来るはずです)
(はっ、上等だぜ!おいウィリアム、やってみてくれ)
(良いのかい?)
(あぁ、全力で来な)
(じゃあ遠慮なく…)
(マジでヤベェわ。あれは確かに岩を砕く)
(そうでしょうそうでしょう。兄さんのデコピンは凄いんですよ)
(気の抜ける言葉の響きからは想像できない威力でしょう。ウィリアムならばデコピンで人の命すら奪える)
(さすがウィリアム兄さんですね)
(お前がドヤってんじゃねぇよ、ルイス)