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Baby教室シオ

偉人『小野小町』

2024.03.01 00:00

ひな祭りと貝合わせに関する記事を書いてきた今週は平安時代に生きてきた女性をと考え小野小町か巴御前にするのかと考えつつ、やはりここは優美な歌人であり唯一女性で六歌仙に選ばれた小野小町を取り上げる。前回の偉人『マザッチオ』に続き資料が少なく、偉人の人生を紐解くのは残された作品となりその作品から人生や幼少期を想像することができるか挑戦してみる。拙い想像になるかもしれないが暫しお付き合いいただきたい。

小野小町といえばクレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界三大美女の一人として名を残しているが、何よりも和歌の才能に恵まれた謎多き平安時代を代表する女流歌人である。名前からも分かるように遣隋使として活躍した小野妹子や昼は役人夜は閻魔大王に仕えていたとされる小野篁の孫と言われ、小野小町はその一族でもあるのだ。生まれは秋田の湯沢市が有力とされ、幼い頃から和歌や書に琴に踊りと両家の子女として何でもこなした。13歳で天皇から声が掛かり都に移り住んで当時の教養を身に付けたとされている。

彼女の名につく小町の町は女官である事を指し、当時の女官の名前は父親の役職が関係していることが多くその状況からしても家柄が良いことが十分察しがつくのである。また小町には姉がいたとされ小は妹という意味であるとも言われ、親兄弟に関しての情報も名前からの推測の域にとどまっている。紫式部や清少納言と同様に家柄は貴族に近く恵まれた環境であったが故に和歌を身につけていたということだ。しかし数々の繊細な彼女の和歌は彼女だからこその作品である。美貌を持つ小町は美しきものの儚さに憂いを感じていただけはなく、時にその美しさの裏にあるものに恐れさえ感じていたことが彼女の和歌から読み取ることができる。13歳にして故郷を離れ華やかで美しい京の都に移り住み、その反面故郷の生活とは異なる生活に不安も抱えていたであろう。そしてその不安を打ち消すかのように教養を身に付けることに勤しんだのではないだろうか。よって見た目の美しさもさることながら目の前にあることばかりではなくその裏合わせにある奥深いものを見通す力で女官の中でも類稀なる才能を発揮したのであろう。

もう一つ彼女を語るときに欠かせないのが謎大き人物だということだ。彼女のミステリアスは彼女の出生だけではなく女官として活動時していた時代にもある。彼女が活躍した平安初期は十二単を着ているような時代ではなくどちらかというと唐風文化が色濃く残り、十二単を身につけている国風文化がもたされるまでには百年の時間差もあった。しかし彼女の和歌を見れば唐風文化よりも国風文化の影響が大であることは明らかで本当に謎めいている。そして彼女が女官を辞め故郷に戻ってからの人生にはさらに大きな尾鰭がどんどん付いていくのだ。男性を袖にした女性として不遇の晩年を送った、晩年は亡くなった男性を弔い続けて92歳で人生を終えた、はたまた親兄弟の死亡により後ろ盾がなく乞食になったなど全国各地にその人生の末路について多くの説が残されている。当時女性として名を残せるほどの女性は大変少ない時代に活躍し、今もなお彼女の作品が愛され読み継がれているにはやはり彼女の持つ千里眼が大きく意味を持っているのだ。彼女の代表作とされる和歌から彼女の才能を読み解いてみよう。

『 花の色は移りにけりないたづらに  わが身世にふるながめせしまに  』

上記は彼女を語るには有名な和歌である。花が長雨に打たれ色褪せていく様を自分自身が物思いに耽っていくうちに自らの容姿も衰えていくという意味を持ち、言葉一つ一つに深い情趣と言葉の余韻が美しすぎてこの感性の豊かさはどこから来るのか考えさせられる。美しいものが儚く変化していく様を目の前にあるものの美しさと俯瞰して自分自身の衰えに置き換える繊細でいて現実を直視する鋭さにハッとさせられる。私が勝手に想像するに小野小町は生まれ育った故郷の雪景色の美しさとその雪が溶けていくお世辞にも綺麗と言えない状態を想像することができる環境にあったからこそ美と正反対の儚さや衰えるもの、時間の移ろいを感性で捉えることができたのではないだろうか。雪にまつわる季節の移ろいそれだけではないだろうが、季節の花々が咲き乱れやがてその美しさがやがて散り枯れていくその無情さも上流歌人だからこそ鋭く観察していたであろう。

そして諸説いろいろあるが小野小町が残した和歌から読み取れることは平安時代の温雅な日本貴族の文化の影響があり、仮名文学の出現により話し言葉のまま自ら感じたことを表現することができる時代も彼女の魅力を最大限に花開かせた所以であろう。そして何より小町の幸せとは想いを和歌にすることに魅了されたことにある。多くの男性に言い寄られても固辞し続けたのは和歌の魅力を超える男性がいなかったのか、はたまた恋に恋してその想いを和歌に託し現実世界を見据えることができなかったのか、それとも理想を追い求めすぎて真実の愛とやらを逃してしまったのだろうかと想像が膨らんでしまうが、決して男性を片っ端から袖にしていた鼻っ柱の強い女性ではないと確信している。残念ながら玉造小町哀書には絶世の美女として生きてきた小町の悲惨な晩年が描かれているが、真実は深草少将を弔って残した下の句から読み取ることができる。

深草少将が小野小町に熱い想いを伝えると、百日片道5キロの道を通い続けたらあなたの思いを考えましょうとして条件を出した小野小町。一日10キロの道のりを100日となると気が遠くなるが、深草少将は百日目の大雪の日に凍死したとか、99日目に川に流されて死んだという有名な百夜通いのエピソードに残る。当時は和歌を二人で完成させる連歌があった。上の句である和歌『あかつきのしじ端書き百夜書き』は深草少将が読み、意味は「百に近寄って牛車の置くところのしじに毎夜通った回数を書き付けておいた」しかし深草少将は亡くなってしまい、小町はその下の句に『君の来ぬ世はわれぞ数書く』と読んだのである。最初は断りを入れさせるために百日と条件を出したのかもしれないが、残り一日二日となり悲劇が起こるとどのような思いを小町は感じていたであろう。男性を寄せ付けない女性であればこのような下の句を書くことができたであろうか。相手の死を悼んでいるからこその下の句であったと信じたいものだ。

そしてこの百夜の通いが成立したら36歳前後の彼女はどのような結論を出していたであろうかと想像するのも興味深い。もうここら辺りで身を固めようかと考えたであろうか、それとも何か知恵を出して断りを入れただろうか、それとも通い婚の和歌を詠んでみようかと考え直したかもしれぬ。今となっては古の平安絵巻の恋愛事情を堪能するチャンスを失ってしまたかもしれぬと口惜しくもあるが、いずれにせよ独身を通したのであるから恋愛よりも歌を愛し自由に生きることを望んだのではないだろうか。歌を詠んでいるうちに自分自身の想いを表現するという魅力に操られ、物事を深く考え和歌に想いをのせていくうちに男性に頼ることなく生きていける芯のある強い女性になったかもしれない。事実恋の歌をたくさん詠んではいるが自然や人生などさまざまなことを読んだものも存在する。1000年以上も前に生きていた小町の作品が読み継がれているということは、彼女にしか詠めない繊細で感受性豊かな表現力が現代の評価に繋がっているだろう。

今も昔も男性に頼らず自分自身の力で身を立てる人生は存在し、その才能で後世に語り継がれる女性は頼もしい。家庭に幸せを求めるのも人生、仕事も家庭も両方築いている人生、シングルで子供を育てる人生も人の数だけ人生があるようにどのような道を選んでも本人が、自分の人生はこれで良いのだと思えばそれでいいのだ。小野小町のように全国各地に伝説や逸話が残るほどの才能が残るということは自分自身の人生を謳歌してきたからこその生き方である。

貴族社会の中で生まれてきたチャンスを最大限に活かし、男性社会にのみ込まれることなく小野小町は自分自身の人生を歩んできたと信じて晩年の悲しい逸話を吹き飛ばしこのブログを締めたいと思う。