小豆島八十八ヶ所遍路 03 (24/04/23) 土庄町 渕崎地区 (2) - 要鉄/渕崎東/渕崎西
渕崎地区 旧要鉄村
- オリーブタウン/若潮部隊跡地
- 東洋紡績淵崎工場跡
- 土庄町役場
- カトリック小豆島教会
渕崎東地区
- 渕崎小学校跡/陣屋跡
- 水神
- 祠
- 第57番霊場 浄源坊
- 淵崎薬師堂
- 荒神社
- 弘法寺
- 和霊地蔵尊
渕崎西地区
- 天理教傳法川分教会
- 第53番霊場 本覚寺
- 第65番霊場 光明庵
- バスにて移動: 49.3km
- ウォーキング: 14.3km
今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場
第57番 浄源坊
- 本尊: 子安地蔵菩薩
- 真言:オン カカカビ サンマエイ ソワカ
第53番 本覚寺
- 本尊:五大力明王
- 真言:ナウマクサンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
第65番 光明庵
- 本尊: 阿弥陀如来
- 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
第64番 松風庵
- 本尊: 子安地蔵菩薩
- 真言:オン カカカビ サンマエイ ソワカ
渕崎地区訪問ログ
昨日に続き、今日は渕崎地区の史跡などを散策する。福田からオリーブバスで昨日終了時のオリーブタウンまで向かい、徒歩にて渕崎地区を巡る。
渕崎地区 旧要鉄村
オリーブタウン/若潮部隊跡地
案内板には当時の若潮部隊の訓練の様子の写真が載せられていた。
跡地は上の写真の様に公園や下の写真の様にショッピングセンターになっている。
東洋紡績淵崎工場跡
若潮部隊の兵舎は当時この地で操業していた東洋紡績の淵崎工場を接収して造られていた。この辺りは昭和初期までは塩田 (写真中左) が広がっていたが、昭和8年に塩田一帯を造成し広大な東洋紡績淵崎工場 (中右) が造られ、平成15年まで稼働していた。工場が閉鎖された後は事務所として使われていた建物が記念館 (下) となっていたが、それもオリーブタウン建設となり、現在では石碑が残っているのみとなってしまった。
土庄町役場
オリーブタウンの道路を挟んだ東側に土庄町役場が建っている。
現在、小豆島には土庄町と小豆島町の二つの行政区があるが、以前は土庄町、池田町、内海町の三町体制だった。1996年 (平成8年) の衆議院議員総選挙で自由民主党、新進党、民主党が市町村合併の推進を政権公約に掲げ、2000年 (平成12年) には、政府が市町村合併後の自治体数を1000を目標を掲げ、財政支援と地方交付税の大幅な削減方針を発表。これは各市町村にとっては大きな影響を及ぼす事から、合併年度後10年度に限定した合併特例債を設けた。これは合併市町村建設計画による事業や基金の積立に要する経費の95%を地方債から充当を可能とし元利償還金の70%を後年度に普通交付税によって措置される破格に有利な条件だった。この事で、多くの市町村が駆け込み合併を実施している。これは平成の大合併と呼ばれている。小豆郡の三町も小豆島市への合併を目指し協議を行ったが、町役場の位置をめぐって土庄町と残り2町が対立し、最終的に土庄町が離脱し、池田町と内海町の二町のみの合併で小豆島町が成立し、土庄町はそれまでの体制をつづける事となり、小豆島市はまぼろしとなった。小豆島の人口は戦後のピーク時の六割に減り、頼みの観光客も昭和48年から漸減傾向で、宿泊客は瀬戸大橋ブームから十数年で半減し、現在小豆島全体の人口は2019年では約2万6千人でそれ以降も人口減少が続き、今後現在の2町が合併を目指すとしても小豆島市の実現は難しいのではと住民の落胆は大きい。今回、小豆島を巡った印象では、小豆島の主要産業の観光では、玄関口の位置にある土庄町の方が充実しているとの印象を持った。観光資源は小豆島町の方が豊富なのだが、小豆島町の観光活動はそれまでの継続で斬新さに欠けている。島全体で計画すべきなのだが、それぞれが独立して行い統一性に欠けている。平成の大合併というチャンスを役場の位置に固執した対立で逃した事は残念だった。
カトリック小豆島教会
土庄町役場の東にはカトリック小豆島教会があり、敷地内に高山右近像が置かれている。高山右近 (1552年-1615年) はキリシタン大名として有名で織田信長時代は高槻城城主、豊臣秀吉からは明石も加増されたが、秀吉時代後期のキリスト教が禁教となり、棄教を迫られるが拒否している。その後、1587年に同じくキリシタン大名だった小西行長の領地であった小豆島に宣教師のオルガンチーノと共に身を寄せていた。小豆島でのキリシタンの歴史は小西行長が領主であった時代に始まっている。1586年 (天正14年) に小西行長の懇願によりイエ ズス会 グレゴリス・デ・セス ペデス神父と同会修道士ジアン森が宣教 のために来島し、1ヶ月で1400名が信者となり洗礼を受けたという。豊臣秀吉現が禁教とし、高山右近がこの地に滞在した期間にもキリシタンへとなった住民も少なからずいた。小西行長が肥後に移封されると高山右近は小豆島から肥後へと移り、その後前田家に預けられ、徳川家康の時代になると1614年 (慶長19年) のキリシタン国外追放令を受けてマニラに送られ、旅の疲れからマニラ到着後60日ほどで死去している。
渕崎東地区
旧要鉄村からその西の渕崎東地区に移動する。
渕崎小学校跡/陣屋跡
下の図は明治以降の土庄町の小学校の変遷だが、以前は各地域に小学校が置かれていたことが判る。初期の統合は交通手段の発達で校区が広がったのだが、近年は少子化の影響で小学校の統廃合が行われた。これはやむを得ない流れではあるが、画工のない地域からの転出が増加し、過疎化に一層の拍車をかける要因にもなっている。
この渕崎小学校の前庭は江戸時代には津山藩の代官所が置かれていた場所になる。住民は陣屋と呼んでいた。以下に小豆島の帰属の変遷を簡単にまとめたもので、陣屋は1828年に小海、肥土山、上庄、渕崎、土庄、池田の六村が津山藩領となってから明治までの期間になる。福田、大部、草加部の三村が天領のままに置かれたのは、津山藩が肥沃な土地だけを選び、残り三村を敬遠したことによる。
- 1347年 (正平2年) 佐々木信胤が細川氏に降る。細川領となる
- 1585年 (天正13年) 秀吉が小西行長に小豆島を与える
- 1615年 (元和元年) 天領となる
- 1707年 (宝永4年) 高松藩領となる (一次)
- 1713年 (正徳3年) 天領となる
- 1721年 (享保6年) 高松藩領となる (二次)
- 1739年 (元分4年) 天領となる。大阪代官による支配
- 1743年 (寛保3年) 倉敷代官
- 1765年 (明和2年) 笠岡代官
- 1768年 (明和5年) 倉敷代官
- 1828年 (文政11年) 生野代官
- 1831年 (天保元年) 生野代官 (小海、肥土山、上庄、渕崎、土庄、池田)、松山 (福田、大部、草加部)
- 1838年 (天保9年) 小海、肥土山、上庄、渕崎、土庄、池田の六村が津山藩領となる。福田、大部、草加部の三村は天領のままで倉敷代官支配をうける。
水神
第57番札所の浄源坊に向かう途中2か所に、井戸跡脇に水神が祀られていた。昔は多くの井戸脇には水神が祀られていたのだが、それも時代が進むにつれて少なくなっている。
祠
更に道を進むと、石の祠が置かれた拝所があった。詳細は不明。
第57番霊場 浄源坊
祠を過ぎて直ぐの所に本尊を子安地蔵菩薩とする浄源坊がある。ここに安置している子安地蔵菩薩は土庄町指定文化財で10世紀後半に活躍した天台宗恵心流の祖の恵心僧都の作と伝わっている。子宝、安産や子供の無事成人に御利益があるとされる。境内には県指定天然記念物の樹齢五百年のウバメガシの木 (写真左中) があった。真言はオン カカカビ サンマエイ ソワカ。
淵崎一畑薬師堂
浄源坊本堂の隣には淵崎一畑薬師堂があり、堂内にはは弘法大師、薬師如来、閻魔大王などいくつかの仏像が納められている。
一畑薬師堂の前には中央下に弘法大師、そのまわりに八十八ヶ所の本尊が浮き彫りされた石塔や、石碑などが置かれている。
荒神社
浄源坊のとなりには荒神社があり、この地域の氏神の荒神が祀られている。境内には稲荷神社も置かれている。この地域の行政区は東渕崎なのだが、昔は何という部落があったのかはわからなかった。
弘法寺
荒神社から旧遍路道を進むと真言宗の弘法寺という小さな寺があった。戦後にできたお寺で八十八ケ所には含まれていない。弘法大師から弘法寺と名を付けたそうだ。
この寺の住職と話すと、この寺には檀家はいないそうで、先代が兵庫県の竜野から小豆島に移住して布教し始めたそうで、竜野にある弘法会などの団体から援助で維持しているという。
和霊地蔵尊
訪れた順番は異なるのだが、東渕崎地域内、土庄の河口に和霊地蔵尊という地蔵を見つけた。説明板があり、それには「今から遡ること百五十数年前の弘化年間に、世のため人のために尽くした剣の達人 (氏名不詳) が闇夜の中、蚊帳の四隅を切られて、身動きがとれ ないまま殺された。その供養のために嘉永元年に全国の各地に建立されたと言い伝えられている。なぜこの地にあるのかは定かでないが、信じて祈願すれば必ず聞き入れられると伝え聞かされており、地元の皆様に 信仰されて、今日に至っている。」とある。後で調べると和霊とはこの世に怨みを残し霊となったもので、その起源を江戸時代初期に、宇和島藩主伊達秀宗に刷新充実に勤め、産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮し大きな功績を残していた筆頭家老の山家清兵衛公頼現が、いわゆる和霊騒動で、奸臣大橋右膳らによって (仙台伊達藩の父政宗との確執により仙台藩の命によるとされている) 元和6年に襲撃を受けて、3人の子他数名と共に蚊帳の中で非業の最後を遂げ、その後、その殺害に関与した者が次々と海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊だと恐れ、その霊を慰めるために宇和島の和霊神社に祀ったという。その後、和霊信仰として各地に祀られたのだが、その祭祀の性格は変化し、漁業を中心に広く産業の神として拝まれる様になっている。
次は渕崎西地区のスポットを見ていく。次のスポットには弘法寺の遍路道で向かう。
天理教傳法川分教会
道沿いに天理教傳法川分教会があった。この後も幾つもの天理教の施設に出会うことになる。小豆島では地元住民や寺院、神社と天理教信者との関係は良好の様で、天理教信者は地域の祭祀行事には宗派にとらわれず参加しているそうで、地元住民も好感を持っている人が多い様だ。
第65番霊場 光明庵
本堂の下には幾つかの石仏や壁面には仏画が描かれている。
第53番霊場 本覚寺
光明庵から階段を降りていった所に第53番の札所の本覚寺がある。
ここは裏道なので寺の下まで降りて、薬医門の山門から見て行く。
吉祥山華長院
石段を登ると左に手水舎と右に鐘楼がある。鐘楼の奥には吉祥山華長院と書かれた堂があるのだが、詳細不明。
鎮魂之碑
生駒正俊の死去により幼少の小法師 (後の高俊) が跡を継ぎ、外祖父の藤堂高虎が後見役となり、藤堂家家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。高虎は生駒家の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、高虎が派遣した前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。高虎の後を継いだ高次も生駒家後見も引き継義、前野と石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、前野派への反対派筆頭で奸計で家老から降ろされた将監の死去後、藩政を牛耳るようになった。藩主の生駒高俊は暗愚で藩政に無関心で、前野、石崎両人に任せきりで、もっぱら男色にふけっていた。高俊の正室は父の利勝に高俊の行跡を訴えるも高俊の乱行は一向に収まらず、前野と石崎は専横な行いをするようになり、これに不満を持つ生駒家一門譜代の家臣たちと対立するに至り、将監の子の家老生駒帯刀をたてて、前野と石崎の非違を藤堂高次に訴え、高次は土井利勝と脇坂安元と相談し、帯刀を尋問し穏便に済ますように説諭、また、前野と石崎を藩邸に召して尋問の上で厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。しかし家中の不和は収まらず、かえって激しく対立し、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。高次は、再度、安元および利勝と相談し、生駒家取り潰しを回避の為、喧嘩両成敗として、双方の主だった者5人に切腹を申し付けた。当事者双方は承諾するが、生駒家中の帯刀派の家臣たちが不満を抱き、藩主高俊に、帯刀らの助命を訴えた。高俊は藤堂高次に抗議しするが、両者もの別れとなり、藤堂家は高松藩の藩政から手を引くこととなった。前野と石崎は事の始末を幕府に訴え、同時に讃岐から前野・石崎派の家族や家来を含め2300人が鉄砲や刀槍で武装して讃岐から立退く大騒ぎになった。幕府は両派を江戸城に召喚審議を行い、帯刀はその忠心を考慮し出雲松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。前野・石崎派に対しては石崎、前野冶太ら4人は切腹、彼らの子供のうち男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となった。藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽国へ流罪とし、堪忍料として由利郡矢島に1万石を与えた。高俊の没後、所領は子供たちで分割され、生駒家は大名の資格を失い改易となった。
ここにある碑は帯刀の「讒言」により犠牲になった者達への慰霊碑なので、前野/石橋派の立場を擁護した形になっている。慰霊碑は比較的新しく、何故今になって、なぜここに建立されたのかは不明。色々と調べたが分からなかった。寺に聞くしかないだろう。吉祥山華長院が何か関係があるのかも知れない。
層雲園
鐘楼の前は層雲園という小さな庭があり、幾つかの歌碑や石柱が置かれている。大正時代の俳人で尾崎放哉の師である荻原井泉水が夫人とともに小豆島を訪れ霊場を巡拝している。その夫婦の歌が刻まれている。「ほとけをしんずむぎのほのあおきしんじつ 井泉水 (下左から2番目)」「夕となれば風が出る山荘よともし火 桂子 (下左から3番目)」
この他、井上一二の句碑も置かれている。「杖を洗うてくれかかる月 (下左端)」
本堂
参道の脇には「東洋運命易学鑑定所」と書かれた建物があった。要するに占いなのだが、寺の案内では寺の住職が東洋運命易学で宗教哲学を用いて鑑定するとし、姓名判断、結婚相性、出生児命名、社名命名、改名、家相図面鑑定を5千円から2万円と料金表まで出ている。これには少し違和感を覚えた。参道の奥に本堂がある。本覚寺は本尊を五大明王としている。五大明王とは不動明王、降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王、大威徳明王の五体の明王のことを指している。ということになる。当初の本尊は不動明王で、この寺の開基の御本尊不動明王を行基菩薩と伝えられ、明徳年間に増吽僧正が残りの四体の尊像を彫刻して、不動明王とともに五大明王として開創している。
護摩堂
護摩堂の前には石造の不動明王像がある。ここでは毎月28日の夜に護摩行が行われている。
大師堂
護摩堂と本堂の間二派小さな大師堂があり、中には大師像が祀られている。
観音堂
大師堂の奥には池があり、地蔵や不動明王像が置かれている。池にかかる太鼓橋の向こうに観音堂が見える。階段を登ったところにあり、昭和30年に造られ、一髪観音堂と呼ばれている。この観音堂の中には、インドの故ネール首相をはじめ、十万人の頭髪で刺繍した聖観世音 (右下) が祀られている。
まだまだ渕崎には見たいスポットがあるのだが、今日の渕崎村巡りはこれで終わりとして、この後、渕崎地区から土庄地区に移動し、そこのスポットを巡ることにした。昨日も旧土庄村を巡っているので、その時の写真やコメントも含めて別レポートとする。
参考文献
- 土庄町史 (1971 香川県小豆郡土庄町)
- 小豆島お遍路道案内図