本物の努力のあり方。
努力というのは、やったことが
ない人にとっては、まず
物理的に、強制力を持って
毎日させることが必要です。
毎日毎日やっていると、
必ず毎日毎日つまずくポイントに
同じように出会い、なぜ自分は
こんなにできないのか?と
考えるようになります。
それを、どうできるようにするのか?
というのが本物の学問であり、
勉強のあり方でもあります。
ある子がとりあえず1週間、
自習をスタートさせて、
10時間以上を学びました。
塾の日を合わせると20時間弱に
なりますか。
そもそも、この子にはどう勉強するかは
教えてきたつもりでしたが、
どう努力すべきか、ということに
ついては、要領が割とよかったので
教えそびれていたのかもしれません。
ようやく繰り返し学習が成立し始め、
覚えにくいところが特定され始め、
学習のいろはの、「い」くらいは
分かるようになってきました。
しかし、まだ自分と向き合う
機会を得たに過ぎず、
どうやったら効率的に自分の
ものにできるか?という方法は
内面化されてはいません。
というか、効率的であろうとするほど
実は余計な動きや思考が
必要になるのが学問です。
何が何でも、という時に、
人はありとあらゆる手段を持って、
それぞれの課題に最も適した
方法は何かと考えて
解決できるようになります。
まだ、真面目に問題集を解いているだけ。
関心を持って読む、なぜなのかを考える、
歴史であれば、具体的な人物像を
調べ、余計な情報と共に知識を
具体化してゆく、そんな
頭がまだ足りてません。
真の意味でのめり込むためには、
もう少し、対面の指導で、
どう思うか?どう考えるか?
といったコアな質問も
してゆかなければ
ならないかなと思います。
しかしまあ、日に4時間ぶっぱしても
平気そうなので、弟子としては
十分な素質を持っています。
ある程度習慣化してから、
学びの方法、というよりは、
楽しく語れるための疑問の持ちかたの
技術?といいますか。
そんなのを教えてゆけたらと
思っています。
将来、子どもたちはたくさんのことを
学んでゆきますが、結局最後は
人を指導する立場になってゆくでしょう。
企業を牽引して行く立場にも
なるかもしれませんし、ひいては、
最先端技術、自治体をも率いる
存在になるかもしれません。
そんな時に必要なのは、
身につけたことがどう価値があり、
どう面白いかを語れると共に、
どうやってそう考えられるようになったか、
どう身につけたか?それを後世に
語れて初めてリーダーとしての
素質を持つことができます。
具体性がとても大切です。
だから、一旦は不器用にのめり込み、
できるようになったと思い込んだところで、
できてないと思い知らせるきっかけが
必要になるのです。
身につけ、心底理解し、
人に教えられるレベルで
習得するとはどういうことか?という
ことまで考えられるようになると
本物です。
一度はどうして完璧にならないんだ?と
挫折に似た経験も必要なんですね。
努力というのは、よい指導者や、
よい先駆者との出会いとダメ出しが
ワンセットになることが多いです。
私もそんな指導者でありたいと
いつも思っています。