ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud)、プロヴァンスの光。…弦楽四重奏曲第1番
ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud)、プロヴァンスの光
Darius Milhaud
1892.09.04-1974.06.22
ダリウス・ミヨー。フランスの作曲家だ。
ミヨー、発音してみればいい。
みよー。
…ミヨー。
ダリウス、ミヨー。
とても、綺麗な響きだ。
その、名前の響きどおりの、とても美しい音楽を書く。
しかし、日本では、人気があるとは言えない。
僕は、それが残念で仕方がない。
こういう、音楽とか、絵とか、趣味的な話は、興味がない人には、とことん興味がない話なのだが、ぜひ、一度聴いてもらいたい。
絶対に、好きになるから。
この人の曲で、聞きにくい曲はない。繊細な、震えるような感性が、こまかく、やさしく、響きあう。
すごい、芸術的なクオリティだと想う。
こんなに、やさしく、ささやくような、しかも、多弁な音楽を書ける人は、めったにいない。
例えば、この、弦楽四重奏曲第一番を聴いてみてください。
これは、彼が20歳のときの作品だ。
瑞々しい。しかも、ちゃんと、悲しみを知っている。
第一楽章。掻き毟るような第一主題、最初の一音が鳴り響いたときから、悲しいほどに繊細な、けれども明るい風景が一気に広がる。
第二主題。疾走する心の歌。《いま、空は悲しいほどに晴れていた》そう言った、梶井基次郎が見た青空と、同じ風景が、たぶん、広がっている。
展開部、心のひだの震えが、何重にも重なって、にも拘らず難解にならない。いや、むしろ波乱万丈、とても高度な音楽が構築されているのだが、あまりにも高度すぎて、その高度なテクニックを一切感じさせないのだ。
よくも、こんな音楽が書けたものだ。
再現部、僕はいつも、この短い再現を聴くたびに、真っ暗い宇宙に、孤独に浮かんだ、青く光る地球が見える気がする。そんな、純粋な悲しさが、一瞬の間に、走り去るように描かれる。
この音楽が見せる風景は、なんて、懐かしくて、悲しくて、いとおしい風景なのだろう?
彼の故郷、プロヴァンスの光の表情が見せた幻なのだろうか?
シンプルな書法で、しかも、心のひだと、存在の、存在する悲しみを十全に描き出す。
第二楽章。ことばもない。ただただ美しい。翳りをおびた、心の歌が流れ出す。
マーラーまで派手ではない、移り気なポリフォニックな歌が、千路に乱れる。実際、副旋律までもが美しいのだ。
音空間をうがつ、低音の単純な音響さえもが、ミヨーの心の歌になって、僕たちの心をふるわせる。
いくつもいくつもの、繊細な悲しみと微笑みが重なる。
ここには、無駄な音、意味のない音など、一切存在しない。
そして、何かを諦めながらつぶやくように、音楽は消え去って行くのだ。…
第三楽章。自由な魂の、厳かなダンス。陽だまりの歌。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番や、同第13番の短いほうの最終楽章(改稿のため、最終楽章が二つある。その、後年書き改めた、短いほうの楽章)の世界を発展させた、結晶化された音楽美の世界。
特にトリオ(中間部)の、微妙な表情が多声的に移ろう表情には舌を巻く。こんな音楽が、よくかけたものだと想う。天才の、心の歌が自由に躍動しているのだ。こういう音楽こそが、天才の仕事だと想う。
全曲が、あっという間に終わる。だれる瞬間など一切ない。モーツァルトよりも、むしろはるかに結晶化しきった音楽美が、息つく間もなく、一気にとめどなく流れ去ってしまうので、涙を流す暇さえない。
まさに、疾走する悲しみ。疾走してやまない、儚く繊細な悲しみ。
一度聴いていただければ、どんな人でも好きになると想う。
ぜひ、聴いていただきたいです。
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ダリウス・ミヨー。
20世紀の作曲家の中で、たぶん、もっとも才能に恵まれた人物の一人。
壊れやすいモーリス・ラヴェルなどよりもむしろ、繊細な感性を持ち、病魔に生涯苦しみながら、新鮮で、鮮度の色あせない、美しい音楽を書いた。
南フランス、プロヴァンスで生まれた。
生まれつき小児麻痺をわずらっていた。後年、リウマチにも苦しむ。
だから、子どもの頃から、決して幸福だったとは言えない。けれど、この人の魂には、世界の美しさを、ちゃんと理解する純粋さがあった。
苦しかったに違いない。にもかかわらず、この人の眼差しには、いつも、明るさがある。
それは繊細で、震える空気のような、そして、空気のかすかな震えに揺れる花のような、そんな、こまやかな明るさだ。
なんて、美しい音楽なのだろうと、この人の音楽を聴くたびに、想う。
きっと、好きになります。ぜひ、一度、聴いてみてください。