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則天去私

2023.04.27 07:27

Facebook近藤裕子さん投稿記事  🍀🍀春の名残りに🍀🍀

「不雨花猶落 無風絮自飛」

雨ならずして花猶(なお)落つ 風無くして絮(いと)自(おのず)から飛ぶ

         ー趙州和尚ー

晩春の自然情景を叙したものです。

雨も降らないのに自らハラハラと散る花のたたずまい、風も吹かないのに、悠々と飛んで行く柳絮。

「自然法爾」という言葉があります。 「自然」はおのずからそうであること。 「法爾」はそれ自身の法則にのっとって、そのようになっていること。

「則天去私」という言葉もあります。漱石が晩年目指した心境です。

人為をよそに 時は廻り 去っていきます。

私は季節の変わり目が好きです。既に自然は新緑の時を迎えています。

〈日新〉日に新たな心を持ち続けたいと思います。


https://mochizuki.hatenablog.jp/entry/2018/09/18/162702 【「則天去私」からの「執私側天」 ―現代俳句から思う】より

はじめに

 「現代俳句」と名のつく句集をいろいろと読み漁っております。「現代」とはだいたい、明治後期から昭和中期あたりを指すもののようで、「現代」とは随分とモダンなものだと感じております。作者存命中の「現在」については一体どのようにくくられるものか甚だ疑問に感じます。「古代」「中世」「近代」「現代」なんぞは「現在」から振り返ったパースペクティブの視座なのですから、「現在」をずるずると後ろへ引き延ばしているような按配なのではないかと思われます。すると、もっとも短いはずの「現在」がもっとも「発散」しておるという、奇妙な逆転が生じてまいります。

 あと、十年、百年、三百年を経た「現代」においては、平成の尻尾なんぞは「中世」かと思われるのではないかと思われます。

明治から始まる

 日本には文明開化があって、それまでとはガラリと変わりました。今私たちのあるのはまさに「明治から」と考えてよいのではないかと思われます。

 今の私のDNAに、「江戸文化」は刻み込まれているのかと考えれば、到底、そのようなものは見つからないものと思われます。浮世絵は良い。曲げ輪っぱは良い。びいどろは良い。そういった懐古趣味は、もはや異国情緒と同工異曲。たとえば明治村、大正村と、京都太秦映画村、日光江戸村の両者を訪れたとき、どちらに「懐かしさ」を覚えるかといえば、圧倒的に前者であろうと思われます。

 それは私が、江戸っ子ではなかったからかも知れず、たんに趣味の問題であると一蹴されうるものとも思われますが、少なくとも、建築、町並みに関しては、圧倒的に明治期の洋館がもつ様式に、私はノスタルジーを覚えます。

記憶から始まる

 とはいえ、郷愁が幼いころの記憶に始まるのだとすれば、真の個人ノスタルジーといえばやはり、幼い頃に経験した環境に二重写しとなる風景、風俗、物品に、ということになるようでございます。

 大林信彦監督の映画や、二階堂酒造のCMなどについては、以前ブログに書いたような気もいたしますので、手を止めようと思います。

本題へ

 近代的自我というやつに、文学は軒並みやられているぞ、というのが今回書こうとしていた事柄でした。そして、やられているのは文学のみならず「人間」そのものなのだと思われたのです。これは大きな問題になりそうなので、まずは「雑記」の形で書いておこうと、そう思ったしだいです。

現代俳句

 俳句は正岡子規さん、高浜虚子さんを源流とし、村上鬼城さんと高野素十さんを規範とするというのが私の位置づけでした。その上で、「現代」俳句に手を伸ばしているわけですけれども、ことごとく「我」を表に出しすぎていると思われて仕方がありません。

 そして、この「我」俳句は、「短歌」に接近しているように思われます。

短歌下げではないのです

 平安の頃の短歌には、心情を自然に添わせて伝えるという奥ゆかしさを感じられたものでした。私には「万葉集」と「一握の砂」や「乱れ髪」はまるで違う文学表現のように思われ、それらから「サラダ記念日」などはすんなりとつながっているように思われます。いづれも私は好きです。

 ただ、プロレタリア的気風が入り込むと、文学はどうにも茶褐色を帯びてくるように思われます。これは、小説も俳句も同様で、プロパガンダ臭の強いものは私は好きではありません。

 ちなみに、「現在」短歌に関しては、「現代芸術」「現代音楽」というように感覚をもっています。「現在」俳句についてもそう思われます。私は、文学は、フィネガンズウェイクのように「言葉」そのものに向かいあう必要はなかろうと考えております。それはもはや、コンセプチュアルアートのように思われるのです。「言葉が伝える意味」と対峙する方法は、別にあると思っております。無論、そうした試みがあったから、こういう意見も生じるのだということも承知しております。

 短歌は心情を表す器としてとても適していると思われます。「自然」というものを排しても問題なく、「我」よりも「私」を震える声で伝えるのにぴったりだと思われます。むしろ、短歌は「自然」を捨てて「心情」に振り切ったところに活路を見出したような気さえいたします。寺山修二さんの短歌論など読んでおりましても、それは納得できるところです。

執私側天

 俳句の十七音で「我」を主張すると、いかにも狭く小さく感じられるのが不思議です。その表現は「私小説」に遠く及ばないように思われます。文学ならざる「日記」程度。つまりは、表に出すようなものでもなかろうに、と思われます。

 したがって、前書を持つものも増えてきます。作者の生活を理解してもらわねばこの句は理解できないのだという部分で、それは弱いなと感じます。ならば、小説にすればよいではありませんか。季語という共通認識と、極端な省略による自在な詠みのバランスが俳句であるのだとすれば、「悲しき玩具」を「俳句」にしようなどという試みはナンセンスだと思われます。

俳句というのは「則天去私」からの「執私側天」を旨とするのではないかと思われます。

近代的自我

「我」を表に出した現代俳句の狭さは、結局「近代的自我」の狭さに帰着するのだと思われます。俳句が狭いのではなくて、「我」が狭いのです。

社会的生物の個

 社会と家族と個人、というくくりについては以前書いた気がします。「我」というのは結局「他」との境界の軋轢によってのみ感じられるものだと思います。なので、「我」のみを立てよう、ということが、そもそも無理なのだと思われます。共同体内に埋没して生きながら立つ「個」というものこそが正しいようにも思われます。その場合の「個」とは「全体」との関わりにおいてのみ存在できます。「全体」にとって「個」は入れ替えのきく「一般的」なものでしかなく「個」は単体では「全体」に抗することはできない。同じ不満、考えをもつ「個」同士が「団結」することで「全体」を変化させる可能性が生まれる。それが「個」の力なのだと思われます。

個と全体

 一人の幸せより十人の幸せ。百人の、千人の、一万人の幸せの方が大きな幸せだ、というのは本当でしょうか。人は自分の満足よりも人を満足させることに満足を得る生き物だという研究があったように記憶しています。えてして、そういう人は身内を不幸にするようですが、社会性を第一ととらえる場合は、やはり「家族」は解体されるべきなのかもしれないとも思われます。「家族」が「国家のため」の組織であるのだとするなら、「家族」とともに「国家」も解体しなければ「我」から逃れることは難しいように思われます。だから、「出家」があるわけでしょうが、それらについても以前に書いたように思われます。

さいごに

「近代的自我」にこだわりだしたから、人は小さく窮屈になり、「漠然とした不安」に苛まれて「自殺」とかするのではないかと思われます。

「我」というのはごく一部の「天才」の運命なのだということを雑記として書きとめておきます。

 一般庶民は「自己」を確立する必要もなく、働き蟻のように生きればいいのか!

 という点につきましては、今のところ、働き蟻という生き方の「意義」とその「私性」について考えてみようかなと思っているところでございます。


https://note.com/shuoffice/n/n2f746147ab8d?fbclid=IwAR1ES967-r4T-iII9w2GWR1XqalzDtBM-RbHZZ0LNYruvwIbQTbqxGlMkQM 【因果関係が逆転する【日本人特有のサトリ】】より    Dr.Shu 五島秀一

南から光が射す日本

困難を乗り越え回復する力「 レジリエンス」

神様は与えられたもので、いきいきと生きなさいと教えています。

与えられたものが、まだ残っているはずです。

どれだけ難病であっても、今、生きています。寿命がまだあるのです。

M ・Fさん

最近は五島先生のセミナーに参加すると、自分が思っていることの答え合わせ的に、何となくなってきています。

久しぶりに新月のお願いごとを書いてみたら、今までは、自分はこうなりたいとか、こうしたいとか、こういう人と出逢いたいとか、欲望ばかり書いていましたが、今は、自分のメンタルと向き合うことを書くようになっている自分がいて、穏やかに暮らすとか、いつも幸せな気分でいたいとか、感謝の気持ちを忘れない、というのを書くようになっている自分に気がつきました。

先生が今日話していた「お任せしなさい」と言う言葉ですが、私は抗がん剤を2021年の7月から8回やりました。全身に転移していましたから、恐怖の気持ちの方が強かったのですが、副作用で寝ている時に、ある時もうお任せしなきゃいけないと思って、「お任せします、お任せします」とよく言ってました。これも五島先生のセミナーに通って、得た智慧というか、感情だと思いました。

どんな不幸なことが起きても、それをむしろいいことだと、とらえられるリカバリーというか、すごい精神力を持っています。

これをレジリエンスと言います。

困難をしなやかに乗り越え回復する力 レジリエンス(resilience)とは、「回復力」「復元力」「耐久力」「再起力」「弾力」などと訳される言葉。元々はストレスとともに物理学の用語である。

睡眠中に働く無意識の領域

「満足するためには執着を捨てるしかない」ということが、お釈迦様の極限の悟りです。それを色即是空と言います。

僕は数学の研究をして解けない問題があったら考えずに寝ます。

岡潔も「難問があったら夜に方程式に目を通してそのまま寝る」と言っていました。

そうしたら不思議なことに睡眠中に解ける。

睡眠中に無意識の領域が働いて解く。

朝起きたら答えが浮かんでいる。

つまり人間は無意識を使わなきゃいけない。

お任せしなきゃいけない。

放置すること。

僕の場合は10分間考えたら無念無想に入ります。

10分以上考えたら執着です。

執着というのはぜったいに良い結果を生みません。

やっぱりお任せするということが必要です。

小さな生命体の偉大な働き

無意識になった時に何が働くのでしょうか?

実は自分よりも小さな生命体が働くのです。

人間は、腸の中に棲む腸内細菌の働きがなければ有益な免疫は作れません。

セロトニンも9割は腸でつくっています。

つまり、人間が計り知れない偉大な働きを、無数の生命体がしているのです。

イエス・キリストは言いました。

幼子のような心でなければ、天国の門は入れません。

大いなるものになろうとするな。

微小なるものに感謝しなさい。

いまその波がきています。

スピリチュアルでも、大天使に守ってもらおうとか思わない方がいい。

小天使に守ってもらった方がいい。

そうした時に、初めて天界の扉が開くのでしょう。

アセンションというのは、天に上がることではありません。

小さなものに感謝するということです。

柔和なる心と腸内細菌

自分の限界を知らずに、もっとできるはずだと思うから不満が起きるのです。

それは自分に対するとらえ方が「物質的、この世的、量的、金銭的」なのです。

ガンも自分のわがままなエゴです。

だからそれと戦ってはいけない。

ジーッと自分の身を低くして、腸内細菌に意識を向けます。

そうすると、微粒子というか、微小な生命体が何億と協力して、私たちを健康に導きます。

つまり柔和なる心で、そして驕り高ぶる心を捨てて、そんな気持ちになったら無数のものが協力してくれるようになります。

喜びを見出す能力が「美意識」

個人のことも国家のことも根本は同じです。

今あるものの中に喜びを見出す感性を身につけること。

その喜びを見出す能力のことを「美意識」と言います。

いかなる環境でも美意識です。

勝ったものも美しいが、負けたものにも美しさがあります。

「不確定性原理」とはお任せの世界

量子力学で「不確定性原理」というのがあります。

位置を決めて、そこに絶対にボールを入れようとすると、ボールのスピードや流れる方向が変わります。

要するに、「不確定性原理」というのは、執着し過ぎたら失敗するという意味です。結果にこだわり過ぎたら失敗するということを、プランク定数を使って「不確定性原理」は教えています。

理不尽なことが起きるというのが、宇宙の仕組みです。

「不確定性原理」とは、お任せの世界です。

人間の想念を噛み砕くという働き

人間が念じた想念を宇宙にお任せすると、宇宙はどんな働きをするでしょうか?

それは、ものすごい大きな人間の想念を噛み砕くという働きをしています。

それを行うのが「守護霊や指導霊」です。

噛み砕いたものは、次に人間の腸内細菌に送られます。

(噛み砕かれないと腸内細菌に届かない)

そして噛み砕かれた想念を叶えていきます。

「神様じゃねーの」劇団の天鈿女

天照大神が岩戸開きで出たきた時は、お笑い芸人が活躍しました。

天鈿女という、日本初の「神様じゃねーの」という劇団があって、そこから選抜されたのが天鈿女です。

その天鈿女が踊ったわけです。

昔、天鈿女とコンタクトしたことがありました。

どんな踊りをしたのですか?と聞いたら、

「私の踊りはサッサ踊りと言います」

サッサ踊りなんてあるのか?と思って調べてみたらありました。

天鈿女笹の葉を持って踊ったらしいのです。

そうしたら理屈抜きで、みんなが腹を抱えて笑った。

その笑いとゆとりの中に、神様が登場してきます。

まとめ

ーーー私たちの願望を細かく消化するのが守護霊、指導霊の役

ーーー消化とは小さな部品に噛み砕くこと

ーーー今度はそれを微小生命体に送る

ーーー霊的にいうと微小生命体とは眷属のこと

ーーーそうすると眷属たちが一生懸命良い方向になるように働いてくれる

南から光が射す日本

やがて日本は東南アジアの国々から慕われて、支持されて復活していきます。

南の方から、あるいは太平洋から、日本に光が射してきます。

それが日本の在り方です。

人間の力で宇宙文明がはじまる

当然宇宙文明がはじまらなくてはいけないのですが、それは宇宙人がやるのでなく人間がやるのです。

私たちがやらなければ、新しい文明は築けません。

感性が能力に変化する発明発見の心構え

私は今でも毎日発明発見していますが、発明発見する時の心構えというのがあります。

みなさん能力でやっていると思っていますが、能力ではありません。

神の世界は能力ではありません。

神の世界は「感性」です。

感性が「能力」に変化します。

感性とは清々しさのこと

その感性とは何かというと、「清々しい気持ち」のことです。

清々しい気持ちになったら、自ずと病というのは消えていくでしょう。

病気の時は清々しくない、重々しい気持ちです。

しかし血液検査が少しでも良くなれば清々しくなります。

ポイントはここにあります。

日本列島は因果関係が逆転している

血液検査が良くなると清々しくなるなら、清々しくなれば血液検査が良くなるはずです。

気持ち(心)を大事にして生きるということは、因果関係が逆転します。

私たちはこの罠にはまっています。

因果関係というのは、いいことがあると清々しいという、出来事の後に気持ち(心)がきています。

人々は明治維新以降、物質文明が発展するにしたがって、出来事ばかりと先行して求めてきました。

日本列島は時間軸が逆に流れています。

因果関係が逆転しています。

この不思議な働きがあります。

出来事により気持ちが良くなって幸せになるのではありません。

「日本人特有の悟り」というのがあります。

それは、気持ち(心)が先にあることです。

https://www.youtube.com/watch?v=8JTH_r0JQvg