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「宇田川源流」【GW特集 日本語論文のススメ】(2) 膠着語とは

2023.04.29 22:00

「宇田川源流」【GW特集 日本語論文のススメ】(2) 膠着語とは

 今年のゴールデンウィークは、「日本語論文のススメ」ということを書いている。まあ、日本語の論文というのは、本当は「文章」を書いてほしいのであるが、なかなかそのような形にはならない感じである。文章というような形にしてしまうと「文章くらいは書ける」とみな思ってしまう。もちろん、その内容に関して、日本人であるからこそ日本語の文章うまく書けているかということを自問自答しなければならないのではないか。

昔、翻訳家、映画の字幕などでおなじみの戸田奈津子さんが語るテレビ番組を見ていたことがある。私が感心したのは、「翻訳の作業でもっともよく使うのは、日本語の国語辞典である」という言葉である。翻訳をするということは、当然に英語を日本語に代える作業なのであるが、しかし、その日本語というのは常に、大学受験のように「直訳」をするのではなく、実際には意味が伝わり、なおかつ前後の関係でストーリーがわからなければならない。その為には、間違いなく直訳をする英和辞典ではなく、日本語が通じるようにする国語辞典が最も重要になるのではないか。改めてプロがそのようなことを行っていてくれるということが、我々の励みになるのではないか。英語と日本語の橋渡しのプロが、日本語が通じるように英語の意味を知るのではなく、日本語を通じるように努力するということを怠らないということが、最も重要になっているのである。

その意味では「改めて日本語を日本人が学ぶこと」が重要である。

さて、その日本語に関して「膠着語」という言葉が出てきた。このような言葉自体を知らない人が少なくないのではないか。実際に「膠(にかわ)」で様々な所に様々なものを着けることによって全く異なる意味、場合によっては正反対の意味にしてしまうことができるのが日本の言葉である。つまり、語の順序や語形変化でなく、助詞・助動詞などの付属語によって文法的機能を示す言語ということになる。

つまり「膠で付けたように物事の結論が変わる」ということを意味する。日本のクイズで「○○は○○ですが~」という設問にして、早押しでお手付き回答を誘うというようなクイズが出る。基本的には「最後まですべて聞かなければ設問がよくわからない」というような形になっていて、「膠着語」の特徴が出てきているということになるのである。

さて、人間というのものは、言語、つまり自分の使っている言葉で物事を考えるようになっている。つまり「思考」は「言語」に支配されている。当然に日本人は、「膠着語」的な物事の考え方をする。つまり「いつでも自分の結論を先送りにし、そのうえで、その結論をいかようにも変えられる」ということをしている。現在の日本の思考というのは、完全に「膠着語」的な内容になってしまっており。その内容が「結論の先送り」「先例主義」ということになっている、私などはこの特徴を否定的に考えているが、しかし、実際には、そのような考得方であるから、最後まで考えられるし、また、その間に多くの考えが集まる。相手を言下に否定するようなことが無くなるのである。この事が「和」を産んでいるということは間違いがないのではないか。その意味では日本の力の源は、渡いsが否定して悪い部分ばかりを見てしまっている「先送り」の能力のおかげであることは間違いがないのである。

さて、もう一つは、「装飾語を着けることができる」ということになる。これも「膠着語」の性質の一つだ。日本人の思考は、その状況卯を着けることから「情緒」的になるということと同時に、数量的な内容を着けることなく、オノマトペや擬音語・擬態語で物事のレベルや程度を示すことができるということになる。この事がまさに大きな内容になっており、まずは一つに「厳密な数字を必要としない」ということで、ある程度の共通認識ができるのと同時に、暗黙の了解というようなことができるようになったのではないかというような気がしたのである。

擬態語、擬音語などを付けた装飾語を点けられる日本語であることから、情緒を重視するだけではなく、風流を愛することができるようになる。つまり、「効率的」「機械的」ではなく、ある意味で心理的な内容ができるようになり、また、その情緒的心因的な内容を行うことから「心から納得することができる」ということが可能になる。論語などぢう「徳による政治」ができるようになるというのは、まさに、心から納得させることができるからであり、それは、数値的に寸分たがわないということを行うのではなく、心で納得させるということができるからではないか。

同時にその辺が情緒的に行うことから、逆に「細かい作業」ができるようになる。日本の細かい世界の注目する技術というのは、まさに、この情緒的な言葉から「こだわり」ということが重視されるようなことが出てくるからである。ある意味で、情緒を強く持つということは、そのまま「生物以外にも生命や魂を感じる」ということにつながる。何しろ、擬態語・擬音語は、擬人化ということなどすべての疑似で物事を進める能力が高くなるということを意味しており、そのことは、そのまま「モノや技術に対して、魂を込めることができる」ということになる。仏像の開眼供養などだけではなく、例えば茶道や剣道などのように自分の志すものを「道」に例えて、その道を辿るというような、修行の擬人化がそのままできるようになるというのが、まさに膠着語から装飾碁を着けることのできるようになった盗聴ではないかと考えられるのである。

このようなことが、日本の「膠着語」という性質を持った日本の言葉の特徴である。そしてその特徴を持った日本語を使った日本人の特性であるということになる。

この日本人の特性を考えて、明後日から(明日は私の誕生日なので、毎年恒例ですが、ブログはお休みします)日本語の文章の書き方について考えてみましょう。