吉田篤弘作品の世界
こんにちは。
ゴールデンウィークですね。
連休を堪能中の方も、連休だからこそ大忙しの方も、連休など関係がなく毎日お仕事の方も、いろんな方がいらっしゃると思います。お疲れ様でございます。
さて、早くも4月最後のブログの更新になります。
テーマはタイトルの通りですが、ちょっと某マツコさんの知らない世界風にさせていただきました。
5/4は、作家・吉田篤弘さんのお誕生日です。みどりの日に吉田篤弘氏、なんだかふふっと微笑んでしまいそうになります。
吉田篤弘さんは、5本の指に入るほど私が愛してやまない作家さんの一人です。
知る人ぞ知る、という言葉が特に他意もなくぴったり合うような作家さんで、映像化作品がなく、テレビなどのメディアに取り上げられたこともあまりないんじゃないかと思いますので、知らない方がいても不思議ではありません。ただ、新本古本問わずのセレクトショップ風の本屋さんに行くとかなり高確率で見かけますし、本好きの方が好きな作家として名前をあげることが本当に多い作家さんでもあるのです。
奥様の吉田浩美さんと「クラフト・エヴィング商會」という会社というより、ユニットで、本や雑貨のデザイナーとして活躍していることも有名で、小川洋子さんとの共作があったり、北村薫さんの人気シリーズ「円紫さんシリーズ」の最新『太宰治の辞書』の最後にクラフト・エヴィング商會と吉田篤弘氏が登場するなど、とにかくただ者じゃない作家さんなのです。
このブログでも既に『つむじ風食堂の夜』や『遠くの街に犬の吠える』、『おやすみ、東京』などを取り上げさせていただいていますが、お誕生日ということで、どっぷり吉田篤弘さんのお話をさせていただきたいと思います。
それでは3冊はりきって参ります。
『ソラシド』
吉田篤弘さんの作品にはたくさん好きな作品がありますが、その中でも一番好きな作品です。未読のものもありますので、塗り替えられる日は来るかもしれない。ただ間違いなく、吉田さんの文章を堪能でき、空想と現実のバランスが見事で、長編小説足りえるストーリーの巧さと主軸のぶれなさも完遂している、これこそ思える傑作なのです。
吉田篤弘さんの作品にはコンセプトを統一させた短編集や舞台を統一した連作短編集が多く、一人の主人公が目的を持ち、そこに到達するよう作品はあまり印象にないのではないかと思います。篤弘氏の短いながら、優しく可愛らしいあの短編たちを愛する読者であれば、彼にそんな冒険めいたものは求めていないと仰られるかもしれません。しかし、ですよ。読者が彼の作品に魅入られているのはファンシーやファンタジーではないわけです。ファンの方なら絶対に頷いてもらえると思うのですが、吉田篤弘作品の描く何がすばらしいって、生活、なんです。
私の大好きな『ソラシド』の冒頭はこちらです。
まずいコーヒーの話でよければ、いくらでも話していられる。
生まれ育った二十日町で、競馬狂のオヤジがやっていた薄暗い喫茶店のミルク珈琲=百八十円。西島平のドライブ・インで飲まされた、汗の味がする名ばかりのブラジル=四百円。新宿三丁目〈バルボ〉のどろっとした得体の知れないドス黒ブラック=二百五十円。
極寒の〈石山動物園〉の食堂で、「あたたかいコーヒーをどうぞ」の看板に期待した自分を瞬殺した冷えきったカフェ・オレ=三百二十円。池袋北口ソープ街のはずれ、エロ本屋の隣にあった客が一人も来ないサ店で飲んだ、味のまったくしないエスプレッソ=三百四十円。
きわめつきは、渋谷の果ての松見坂と山手通りの交差点近くにあった〈ヤマナカ〉の泥水みたいなブレンド=二百二十円。
固有名詞の羅列ですが、多くが篤弘さんらしい架空の固有名詞で、ぱっと見すごい情報量ですけれど、頭の中ではただ心地よいリズムが流れていくだけで決して忙しなく処理する必要はない。わかりやすいかと思うのですが、以降の文章に関わるのは「きわめつき」の<ヤマナカ>だけです。
こういった冒頭で始まり、語り手は「おれ」。まずいコーヒーだけの物語ではありません。
舞台は2012年、26年前に行方不明になった「ダブル・ベース」の女性デュオ「ソラシド」を当時の雑誌から見つけた主人公は、26年前に生まれた妹と、聴いたことのない彼女たちの音楽を探し始めます。「ソラシド」探しにそれほどの切実さはないのですが、聴いたことがない音楽を探すという行為が、過去の自身や出会った人々、26年前に妹を身ごもり父と結婚した同世代の義母との関係、いろいろなことに思いを巡らせることにつながります。聴いたかもしれない音楽、読んだかもしれない記事、選んだかもしれない選択、あらゆる分岐が層になって今立っている場所がある。
最初に私が読んだ吉田篤弘さんの作品は『つむじ風食堂の夜』でしたが、そのときから変わらず、何がどんな意味を持っているのか、もしくは、意味を持たないか、本質的なものを探す醍醐味があり、隅から隅まで存分に堪能できる作品です。
『月とコーヒー』
2019年発刊後、多くの本屋さんが表出しをしてきた一冊なんじゃないかと思います。
何がそれほどってもうとにかく、装丁が可愛いんです。
文庫を少しばかり大きくしたサイズのハードカバー、真っ黒で触り心地のいい紙質、(おそらく吉田篤弘さん本人が描いたものだと思うのですが)素朴なイラスト、素朴なタイトル。本屋で見かけたら胸の奥がきゅっとなり、とにかく持って帰りたくなるデザインでして、私のいま手元にあるのは「15刷」と奥付にありますのも、ハードカバーとしてはなかなか異例ではないかと思います。
内容も24編のすばらしい掌編たちです。
一冊目で『ソラシド』を熱っぽく紹介しましたが、吉田篤弘さん入門としてはこの『月とコーヒー』で間違いないと思います。
あとがきには、「一日の終わりの寝しなに読んでいただく短いお話」とあります。温かく優しく可愛らしく、ぴったりだと思うのですが、「気になって眠れなくなるわけではない」とのご本人談には、楽しさのあまり憑りつかれたように読んだ身としてはちょっと疑問があったりもします。
確かにどれも短いですが、登場人物たちの細かな生活の一つ一つがぐいっぐいっと読み手を引っ張っていくのでとにかく飽きません。
「カマンザの朝食」の冒頭にある部分を抜粋します。
朝は六時に起き、やかんでお湯を沸かすと、白湯を一杯だけいただき、それで朝の食事は終わりです。
昼には〈よくできた食パン〉を一枚、赤いジャムを塗っていただきます。
〈よくできた食パン〉というのは、カマンザの家から歩いて十五分ほどのところにある〈いいパン屋〉という名前の店から買ってくるものです。
その店のパンはどれも〈よくできたロールパン〉であるとか〈よくできたバケット〉など値札に書いてあるのですが、〈うまくいかなかったクロワッサン〉という失敗したパンが販売されることもあり、これは〈よくできたパン〉の、じつに四分の一の値段で店に並ぶのです。
<いいパン屋>、読みながら最高かよと呟いてしまっておりました。どこが最高という説明が難しいのですが、あったら絶対に行きたい。こんなふうにそこかしこにさらっと発想が光っているのだから、ずっと楽しいのです。<いいパン屋>に魅せられ過ぎて見逃しそうになりますが「赤いジャム」というのも、おっとなりますよね。いちごのジャムなどとは言わず、赤いジャム。
このような空気感で、可愛らしくほんわかした掌編集ではあります。
ただ私が吉田篤弘さんに惚れ込む奥深さも満遍なくあるのです。
ぜひこの一冊を堪能した方とはどの作品が好きだったかというので語り明かしたい。とりあえず私の悩みぬいた末の5選をお伝えしますが、「映画技師の夕食」「隣のごちそう」「鳴らないオルゴール」「空から落ちてきた男」「つづきはまた明日」です。何か一つでも重なった方、いつか握手をしましょう。
『ブランケット・ブルームの星型乗車券』
2017年刊行、既に文庫でも発刊されていますが、『星とコーヒー』以上に装丁へのこだわりがすごく、手に取れば持って帰らざるを得なかったのが書影にあるハードカバーのものです。
正方形に近い形で、それほど分厚くはありません。表紙に書いてありますようにイラストは全て吉田篤弘さん本人のもの。開けば上下に分かれていて、上は夜空をモチーフにした黒色の背景に素朴なイラストが並び、下が文章になります。
小説なのか、と一見疑問を持たれるかと思います。
疑問に答えると、連載コラム風小説です。
<ブランケット・シティ>という街の<デイリー・ブランケット>紙の専属ライターである、ブランケット・ブルーム君(27歳)が街について書いた連載コラムが、<ブランケット・ブルームの星型乗車券>です。なぜ「星型乗車券」なのかは、冒頭にイラスト付きで説明がされますので、それがまぁ可愛らしいので直接読んでみてください。
27歳、というのが程よくて、ちゃんと一人で形作っている生活があります。蚤の市で安く見つけた「使い物にならない」古カメラを修理する、というなかなか篤弘さんの作品らしい粋な趣味を持っていたりします。
街の描写にも永遠に浸っていたい吉田篤弘さんらしさがあり、「世界一火事の少ない街」の消防士たちが<閑をもてあました消防隊>というコーラス・グループを結成し、月2回コンサートをしている話や、「走ってもいない列車の乗車券」や「上映されるあてのない芝居の座席指定券」のような「純粋な(意味のない)チケット」を発券する<発券所>が巷で注目を集めている話など、終始にやにやしながら楽しめます。
さらに巻末です。これでもかと全体の装丁に凝っていながら、巻末には<デイリー・ブランケット>がクラフト紙でついています。しかもそれがちょっとあとがき風の役割にもなっているという、驚きの仕掛けが待っています。
どこまで楽しませてくれるんだ、吉田篤弘さん。となる、おすすめの一冊です。
以上です。
どっぷり吉田篤弘さん特集をしたいという私の願望を叶えるための回になってしまいましたが、どのようにか伝わって、読んだことのない作品があれば、読むきっかけにしてもらえれば幸いでございます。
本当に、いろんな作家さんと一線を画す、誰にも真似のできない作品を書いている作家さんです。魅力を伝えようとすると、一言でいうのは困難で、こうして長文をつくりながら何らかが少しでも伝わればという弱気なことを言ってしまうのです。
高い発想力をもって存在しない街や職業を描いていくことに定評がある方ですが、空想的、幻想的などとふんわりした印象が伝わってしまうとしたら、それは何だかもったいない心地がするのです。生活を描く魅力、についてこの記事で何度かお伝えしているように、私はどちらかというと、「現実」に対する視点に惹かれながら読んでいます。
別の世界でありながら別の世界ではない、私の日々もまた、大きな、それこそ毛布のようなもので包んでくれる温かさがあります。
いろんな方に読んでほしい作家さんです。ぜひ手に取ってみてください。