「家康ピンチ」6三方ヶ原の戦い
家康最大の脅威・武田氏興亡 ①三方ヶ原の戦い ②長篠の戦い ③天目山の戦い
三方ヶ原は静岡県浜松市の北西部、北区三方原町にある。家康は多くの犠牲を払いながら、浜松城へ逃げ帰った。この戦いで武田軍側は名のある武将が討たれた者はなく、まさに家康の生涯で2度とない完敗であった。「姉川の戦い」で、自軍の酒井忠次が、横合いから朝倉勢に攻撃を仕掛けた事により、辛くも浅井・朝倉勢を退け、勝利に結びついた。逃げのびた彼らはは比叡山に逃げ込み、叡山の僧兵らと結びついた。これに怒った信長は叡山焼き討ちを命令、その軍事物質のルートを確保する為、またも家康は駆り出された。反信長勢力はそれに抗うように、毛利などは石山本願寺と連携を強め、信長の動向を注視していたが、信長本来の最大の強敵、脅威は、甲斐の武田信玄であり、越後の上杉謙信であった。
家康と信玄のの因縁は深い。永禄11年(1658)家康は信玄と盟約を結び、今川氏真の領内に侵攻を始めた。しかし、信玄は家康の取り分である遠江国まで入り込んできた。それ以来、家康は信玄に不信の念を抱くようになった。そうしたことがあり、元亀元年(1570)謙信と盟約を結び、信玄と断交、敵対関係となった。家康この時29歳であった。翌2年、信玄に強硬な態度を示していた北条氏康が死去、父氏康を継いだ氏政の正室が信玄の娘であった関係から、外交路線の転換が図られ、武田、北条は和睦となった。東の北条からの攻撃の恐れを払拭した信玄は、西上作戦を開始、兵を二手に分け、遠江・三河への侵攻を開始した。 元亀3年(1572)10月3日、信玄は2万2千(うち北条の援軍2千)の本隊を率いて、甲府を出発、伊那から青崩峠を越えて南下、天方、一宮、飯田と徳川の城を落していった。一方の別働隊は5千の兵を率い、信濃から三河へ侵攻していった。これには別説があり、信玄の本隊は信濃から南下してきたのではなく、駿府から西進、遠江に入ってきたという。いずれにせよ、信玄は事前に、家康領国の地形を調べ上げての侵攻であった。武田軍総勢2万7千、対する徳川勢1万5千、圧倒的な数の違いがあった。
10月半ば、信玄、二俣城を包囲、12月攻略。この城は浜松城北方、わずか20㌔の地点であった。信玄は考えた。浜松城を落とすには、数ヶ月を要する。ならば家康を城からおびき出し、野戦に持ち込もうと作戦をたて、浜松城を素通りして、その先、北方三里の三方ヶ原へ向かっているようにうかがわせた。家康は誘いにのって、城を出て追撃に出た。信玄上洛の情報を知った家康は、己の居城浜松城の脇を通り過ぎていく信玄を、黙って見逃す訳にはいかなかったのである。家康の我(が)、武士の一分である。城から出て迎撃戦に向かう家康の言い分は「我が国をふミきりて通るに 多勢なりというて などか出てとがめざらんや。兎に角 合戦をせずにしておくまじき。陣(いくさ)ハ多勢、無勢にハよるべからず。天道次第」であった。斥候に出た鳥居忠広や渡辺守綱はこの決断を諫めたが、家康は聞き入れなかった。守綱は「君常は持重に過ごさせ給ふが 今日は何とて血気にはやらせ給ふぞ 心得ぬ御事なれ」と席を立ったという。実戦においては、人数の多寡、兵器の装備の多少が勝敗を決する。太平洋戦争ではその結果が、はっきりと現れた。神風や精神力、ましてや個人の意地などでは、戦いは絶対に勝てない。
信玄は三方ヶ原台地が途切れ、地形が下りに代わる地点直前にピタリと進行を止め、魚鱗の隊形をとった。家康は慌てて鶴翼の隊形をとらせた。自軍の兵力を大きく見せるためである。結果は兵力の差と地形的高低差で、徳川軍は潰走した。戦いは申の刻(pm4時)から日没にかけての約一刻(2時間)、この間の戦いで双方の死傷者は、武田軍200人に対し、徳川軍はこの10倍の2千人、この時間帯と本多平八郎忠勝の働きで、信玄は家康の首を討ち取れず、家康はからくもピンチを抜け出した。家来たちの防御の後ろで、家康は馬の口を取られて、浜松城に連れ逃げ込まれた。城に戻った家康は湯漬け三杯たいらげて、いびきをかいて眠りこけたという。この話は後世のお抱え歴史家が創作した物語であり、事実かどうかは疑わしい。この時の家康の容貌を描いたのが徳川美術館にある、いわゆる「しがみ像」である。家康のでっぷりとした老人のイメージとはほど遠い、憔悴しきった中年男性の肖像画である。この肖像画も、最近になって後世の作り話だったというのが、明らかになっている。 ともあれ、信玄は上洛の為か、徳川家を潰す為か、いづれにしても浜松城に接近してきた。守る側としては先ずは城から出ていかず、こもって守りを固め、信長の援軍を待つか、謙信の後方撹乱をもってすれば、のこのこ最強の軍団に立ち向かうというリスク、最も危険な賭けに出ていかなくとも良かった筈である。攻撃は守りの3倍の戦力を要するという。この戦いで、徳川家が消滅した可能性は充分にあった。老獪と評価される家康も、何を狂ったか分からぬ行動に出ることがある。何故家康は算盤に合わぬ行動に命を懸けたのか?後世の推論によれば、同盟者信長に対する対等な地位確保のため、遠江の武将たちの離反を防ぐためなどがあげられている。或いは単なる家康の個人的な武士の意地、面子をたてるためだったかも知れない。
家康が命からがら逃げ帰った浜松城を開門し、陣太鼓を打ち鳴らし続けるように勧めたのは酒井忠次である。この兵法は三国志で有名な、蜀の宰相諸葛孔明が用いた秘策であった。この如何にも破天荒な無防備なやり方に、不審を抱いた信玄は浜松城を見過ごし遠江で越年、翌元亀4年=天正元年(1573)正月、三河国野田城(愛知県新城市)を攻略した。しかしこの頃から武田軍の進撃速度が鈍化、やがて停滞から退転、領国甲府へ戻っていった。信玄が危篤に陥っていたのである。肺結核、胃がん、脳梗塞ともいわれる。陣中で狙撃された銃弾が、化膿したためだともいわれた。4月12日、ついに伊那駒場で死亡。53歳。己の死は3年間口外無用と勝頼に遺言した。7月18日、信玄という後ろ楯を失った将軍義昭は追放され、室町幕府滅亡。8月になって信長は一乗谷に朝倉義景を攻め、小谷城に浅井長政を攻め、それぞれを自刃させた。これらの戦いから2年後、天正3年「長篠の戦い」が始まる。