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十字軍物語 一

2023.05.01 01:06

  塩野七生さんによる十字軍遠征の物語です。十字軍というのは、11世紀終わりにヨーロッパ・キリスト教国において編成された、イスラム教勢力から聖地エルサレム奪還を目的とした遠征軍で、その大規模な軍事遠征は、11世紀の終わりから13世紀の終わりまでの2世紀間という長期にわたり都合8回(見方によっては7回)行われました。


  7世紀にアラビア半島のメッカから勃興したムハンマド率いるイスラム教勢力は、瞬く間に近隣の国々を勢力下に収めていき、当時のキリスト教圏の大国・東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土であったシリア、パレスティーナ、エジプト、北アフリカといった地域を侵略していきます。この現状を憂いた当時の東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世は、カトリック教会の長であるローマ法王ウルバヌス二世に、兵力派遣を要請します。


  この要請に対し、法王ウルバヌス二世は、1095年11月クレルモン(現フランス・クレルモン=フェラン市)で、カトリック教会の重要事項決議を決める公会議を開き「異教徒であるイスラム教徒が地中海に勢力を拡大し、キリスト教徒の土地に住む兄弟姉妹を殺し、あるいは拉致して連れ去り奴隷とし、教会を破壊しモスクに変えている、」と説教。「今こそキリスト教徒は立上がらねばならない、」と力強く聴衆に訴えます。そして、次のように続けます。この異教徒との戦いに参加するものは、どのような罪でも完全に許され、盗賊や兄弟・縁者と争っているものもキリスト戦士として生まれ変わり、この戦いにおいて永遠の報酬を得ることになる。つまり、過去に罪を犯したキリスト教徒でもこの「聖戦」に参加すれば過去の罪は完全に許され、この戦いでイスラム教徒を殺しても罪にはならず、むしろ神から報酬を授けられる、と話したのです。


  この演説を聞いた聴衆は一人残らず感動し、彼らの中から自然と「神がそれを望んでおられる。」の声が沸き上がります。このウルバヌス二世が唱えた異教徒との戦いは、聖地エルサレム奪還を目的とする「十字軍派遣」という形に具体化していきます。この遠征軍の参加者は衣服の上に赤い十字の印を縫い付けることが義務付けられますが、この「十字の印」とはもちろん十字架を、そして、赤色は、キリストの為に血を流す覚悟を持つことを意味します。 


  十字軍の編成ですが、主要リーダーはクレルモンの公会議に出席しなかったにもかかわれず、誰よりも先に十字軍参加の意思表示をしたトゥールーズ伯サン・ジルと法王代理の司教アデマール。十字軍遠征の過程で総大将として認められるようになるロレーヌ公ゴドフロアとその弟ボードワン。そして、ノルマン人で南イタリアのノルマン騎士を従えて遠征に参加したブーリア公ボエモンドと、甥のタンクレディ。そして、それら諸侯たちに率いられた騎兵、歩兵から成る軍勢が、それぞれ数万人といった規模で構成されていました。また、これら ”正規軍” とは別にフランスの説教師・隠者(*1)ピエールの十字軍参加の呼びかけにより集まった農民、民衆や下級騎士で構成される「民衆十字軍」もこの遠征に参加することになります。


  当然ですが、これらの軍隊は、現代国家の組織下の軍隊や傭兵軍とは異なり、軍務についたからといって、給金が契約で保証されるわけではありません。また、飛行機や汽車のない時代、せいぜい地中海の沿岸都市から船でいく他は、基本馬に乗るか、徒歩になるわけです。まだ見たこともない異国の地への行軍です。当然、長期間になり、もしかしたら自分の土地に帰ってこられないかもしれません。そのため、この聖戦に参加する人々は、自分の土地や、家財道具など金目になるものは全て売り払い、帰ってくる意志がある場合でも、残された土地・財産の管理をキリスト教会組織にお願いして この ”巡礼” に参加したのです。


  そうまでして、彼らを「巡礼への旅」に駆り立てたものは何だったのでしょう。。。もちろん己の信仰が第一ですが、やはり、当時遠方の国にあると信じられていた金銀、財宝、それに遠征で武勇をたてた後に与えられる莫大な恩賞、褒美や所領などであったのです。当時の農民、庶民の毎日の生活は大変厳しく変化にも乏しいもので、また貴族にしても、この当時すでに諸侯へ分配される土地がなってきていて、父の所領を相続する長男はまだしも、他の兄弟たちには、その恩恵に預かることはできなくなっていたのです。こういった人々にとって、ローマ法王が唱えた「聖戦」とか「永遠の報酬」といった言葉は、彼らの夢を大いに掻き立てるものでした。


  先に紹介した十字軍勢の中でも最初に行動を起こしたのは、フランスの説教師・隠者ピエールに率いられた男女、農民、民衆や下級騎士からなる総勢 4万人に及ぶ民衆十字軍です。彼らは封建領主が組織する正規十字軍の出発に先立つ1096年、エルサレムを目指して出発。地理的な知識も乏しく、また本格的な軍事訓練を受けていないためか、彼らは、行軍に必要な物資や食料がなくなると、いく先々で暴徒化し、ユダヤ人を各地で殺したり、旅先のハンガリー王国や東ローマ帝国では、衝突を起こしながら進軍するのですが、ついには、イスラム勢力のセルジューク・トルコの軍隊の攻撃にあい敗走を余儀なくされます。ピエール他の少数はなんとか敗走し、後からくる正規の十字軍と合流しますが、その他ほとんどの人々は、殺され、または奴隷となり民衆十字軍は壊滅します。

  一方、「正規軍」であるトゥールーズ伯サン・ジルは、フランス、トゥールーズからミラノへ行き、バルカン半島の沿岸部に沿って進軍、ロレーヌ公ゴドフロワとボードワン兄弟率いる軍勢は、ドイツからハンガリー、ブルガリアを抜け、ブーリア公ボエモンドと、甥のタンクレディは、南イタリアからギリシアへ渡り、彼ら正規軍は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを目指します。東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世は、彼ら十字軍の到着後、自分の臣下として行動するよう忠誠を誓わせ、シリア・パレスチナ地方において占領した土地はすべて東ローマ帝国に引渡すことを求めます。当然のことながら十字軍指導者もそれぞれの思惑がありますが、互いが互いを必要としていることから双方であいまいな妥協が成立し、十字軍は、東ローマ帝国の案内役の軍隊と共に進軍、ついにボスフォロス海峡を渡ります。


  1097年春、イスラム勢力の支配する小アジア(トルコ)の地に足を踏み入れた十字軍は、古代ローマ時代からの古都ニケーアでセルジューク・トルコの軍勢と対峙。約二千人の犠牲を出しますが、この戦いに勝利。このあと、正規軍を二つに分けて進軍し、プーリア公ボエモンドとタンクレディを中心とした第一軍はドリレウムでトルコ軍勢と相対します。多量の矢を放ってくるトルコ側の戦法に苦戦するボエモンドですが、あとから十字軍の第二軍が到着。鎖かたびらや鋼鉄製の甲冑で武装し、大槍と長剣で攻めてたてる十字軍の前にセルジューク・トルコ軍は二万三千の犠牲を出し敗退します。


  この戦い以降、トルコ軍は戦い方を変えます。十字軍の行軍先の村々を焦土化し、十字軍の必要物資の補給を遮断するゲリラ戦先に出ます。しかし、なんとかイコニウムへ到着した十字軍。次なる難関であるタウルス山脈も制覇し、要衝アンティオキアを目指しますが、ロレーヌ公ゴドフロアと行動を共にしていたボードワンは、そこから東方に軍勢を進め、ユーフラテス河の上流地域の都市エデッサへ到着。後に領主となり以降「エデッサ伯国」として統治します。


  一方の十字軍本体は、1097年10月、ついにシリア北部のアンティオキアに到着。アンティオキアはかつてのアレクサンダー大王の将軍の一人セレウコスが建設した古都。この地方の要所として栄華を誇ってきた由緒ある大都市です。そのため昔から戦いの舞台になってきたところでもあり、高く聳え立ち頑丈な城壁が街を囲み、十字軍を威圧します。


  このアンティオキア攻略のため、1097年10月から1098年6月まで攻防戦が繰り広げられました。始めは十字軍が城内の都市攻略に成功しますが、その後、守勢にまわった十字軍をイスラム勢が攻める展開となり、最後は都市城外でイスラム勢と対峙。ついにアンティオキアを征服します。法王代理の司教アデマールはこのアンティオキア陥落後、街で流行した疫病により死亡します。また、十字軍指導者の一人、ブーリア公ボエモンドはこのアンティオキアの地に留まり、その後領主となります。


  ヨーロッパを後にして3年の月日がたち、戦力も当初の 5万から1万3千程度にまで減少した十字軍ですが、1099年6月、遂にエルサレムを遠望できる丘に到達します。聖都を見つめる十字軍勢。この時ばかりは、さすがの兵士たちも従順な巡礼者になりきり、誰もが感動に震え、感涙にむせんだと伝えられます。この後、聖都エルサレム奪還の準備をする十字軍ですが、なにゆえアウエィの地での不利な条件の戦い。その準備においても暑さや食糧・水の不足などに見舞われます。その上、エルサレムの守備隊により、郊外の農村の井戸には既に毒が投げ込まれていて、飲むことはできません。意気消沈する十字軍メンバー。しかし、十字軍に従軍していた一人の司祭の夢の中に、アンティオキアで死んだ司教アデマールが出てきます。夢にでてきたアデマールは次のように告げます。「三日間断食し、全員でエルサレムの城壁の周りを裸足で祈り、贖罪の気持ちを神に示せば、神は九日の間にエルサレムを陥落させてくださるだろう。」


  このお告げに十字軍の士気が蘇ります。十字架を持つ聖職者たちを先頭に、甲冑を脱いだ諸侯と騎士、その後に兵士と巡礼者が続き3日間贖罪を行います。そしてついに総攻撃を再開、7月15日、ゴドフロア率いる軍勢が攻城用の塔を使って、エルサレムを取り囲む城壁に降り立つことに成功。続いてタンクレディ等が続きます。この後、十字軍の軍勢が市中へなだれこみ、ついにエルサレムは陥落。キリスト教徒にとって、聖都エルサレムは遂に十字軍のもとに「解放」されたのです。。。たしかに、キリスト教徒にとっては、十字軍のエルサレム陥落は「解放」という意味になるのでしょう。しかし、実態は「虐殺」という言葉がよりふさわしいものでした。。。エルサレム市内へなだれ込んだ十字軍兵士たちは、エルサレム市内にいる住民はすべて異教徒だと思いこみ(中にはユダヤ教徒もいた)、女性や子供も関係なく殺しまくったのです。彼らにとって、聖なる都には一人たりとも異教徒がいてはならなかったからです。


   エルサレム陥落後、十字軍指導者はエルサレムの今後を決めるため聖墳墓教会(*2)に集まります。話し合いの結果、ゴドフロアが「イエス・キリストの墓所の守り人」という名称で、エルサレム王に就任することが決まります。また、トゥールーズ伯サン・ジルは、トリポリ伯となります。こうして第一次十字軍遠征の成果として、中近東ではエルサレム王国(ロレーヌ公ゴドフロア)、エデッサ伯国(ボードワン)、トリポリ伯国(サン・ジル)、アンティオキア公国(ブーリア公ボエモンド)という4つの十字軍国家が建設されました。


  キリスト教圏とイスラム教圏の対立という図式では、近年2001年9月11日のニューヨークのワールド・トレード・センタービルへのテロ攻撃が思い出されます。イスラム教団アルカイダの攻撃により約3千人の死者がでましたが、「ローマなき後の地中海。。」でのイスラム教徒によるキリスト教徒の拉致・奴隷化、そして今回の十字軍の話を知ると、物事はまったく単純に進まない、、、、と痛感します。塩野さんによるこの「十字軍物語」には、この後イスラム側にはサラディン、対するキリスト教側には獅子心王リチャードが現れ、お互いにとっての現実的な妥協点を探る努力をするのですが、しばらくすると、周りの人々がその話し合いを反故にしてしまう。。。このような過去の歴史を知るにつけ、現代という時代は過去から連なる時間の延長にあることを実感します。。


隠者(*1) :一般社会との関係を絶ち生活する宗教者 。

聖墳墓教会(*2):キリストの墓とされる場所に建つ教会堂。