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葉隠

2023.05.01 07:19

Facebook相田 公弘さん投稿記事  【大事の思案は軽くすべし】

明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…

《大事の思案は軽くすべし》(葉隠)

大きなことを決めるときは、むしろ軽くやれ

普段から覚悟を持って事に立ち向かっている人は、人生の大きな決断もサッと決めてしまう場合があります。

特に、財界トップにいる人たちは、ちょっとした立ち話で「じゃあ君に頼むよ」と簡単に仕事を決めることがあると聞きます。

長年積んだ経験に基づく直観力があるので、確信があるのでしょう。

私自身も、ある人から「真っ先に頭に浮かんだのは齋藤さんです」と言われて、仕事を引き受けたことがあります。

言われたとき、相手の気持ちを受けて立とうと思いました。

こうして仕事がさっさと進んでいくのです。

結婚も、人生の大きな決断でしょう。

大きなことだからと考えてすぎていると、そのうち列車が過ぎ去ってしまいます。

私の知り合いの女性は、男性からずっと「好きだ、結婚してほしい」と言われていたのに、そのときは結婚に気持ちが向かなかったために放っておきました。

しかし、いざ自分がある年齢になったとき「やっぱりあの人がよかったな」と思って連絡をとったら「つい先日、婚約が決まったんだ」と返事があったそうです。

結婚というのは常に時間に追われるものなので、いい人はどんどん相手が決まっていきます。

少しでも気持ちが向いたなら、サッと決めてしまうのも一つの方法です。

私はテレビのお見合い番組が好きなのですが、第一希望の相手がダメだった人の動きをいつも見ています。

第一、第二希望が叶わなくても、軽やかに第三希望を選んでいく人がいる。

望みのないところで頑張ってもしょうがないので、大事だと考えすぎず直観を生かして「この人だ」と思ったところでパッと決めるくらいが、ちょうどいいのかもしれません。

家を買うことや、結婚など人生の大事な場面では、あるところで決断をしなければいけないし、その基準があまり複雑すぎると決断できません。

考えすぎると決断できなくなるので、「縁を大事にする」と決め、流れを切らないことが重要です。

将棋の羽生善治(はぶよしはる)永世名人は、大きく物事を見る「大局観」ということを言っています。

直観的にこれがいいと思ったら、検証しながら前に進む。

そのために時間を使うと語っていました。

プロサッカーの選手が移籍を勧められるのは、「大事の思案」と言えます。

「どうしよう」と迷っても、サッと決めないと時間切れになることがある。

FCバルセロナは世界的に強いチームですが、「バルセロナ行きの列車は一生に一回しか停まらない」という名言があります。

来たときに乗らなければ、二度とチャンスはめぐってきません。

ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンは、『ファスト&スロー』という本の中で人間の心理について書いています。

ファストとはファストシンキング、スローとはスローシンキングのこと。

ファストシンキングは、直感を生かした考え方です。

われわれは写真を見ると、その人が怒っているのか笑っているのか直感的にわかりますね。

これがファストシンキング。

一方、ゆっくり考えて分析して決めるスローシンキングもあります。

それを組み合わせるといいというのが、カーネマンの考え方です。

直感的によいと思うほうに行き、チャレンジしてダメなら戻ればいい。

失敗してダメならまた次を考えたらいいのです。

そういう意味で、大きなことを軽くすべしというのはよい考え方です。

『図解 葉隠』ウェッジ

「 大事の思案は軽くすべし」の後には、「小事の思案は重くすべし」という言葉がくる。

そして、「武士は何事も七呼吸で決断せよ」という。

およそ十数秒だ。

大事の思案を軽くできる人は、普段から、肚を練って、自らを高めている人だ。

大事は思わぬときにやってくる。

大災害だったり、今回のようなコロナ禍だ。

突然の災難や疫病にもうろたえないで、速やかに判断し決断できるのが、肚ができている人であり、覚悟ができている人。

また、ささいなこと、とるに足りないようなことという「小事」をおろそかにしたばかりに、屋台骨が傾いてしまうということはよくある。

「千丈(せんじょう)の堤(つつみ)も蟻(あり)の一穴(けつ)から」

という言葉の通り、大きくて頑丈な堤防も、蟻がつくった小さな穴から崩れることもある。

ほんのわずかな不注意や油断が、大きな失敗につながるという戒めだ。

だからこそ、常日頃、小事の思案は重くする必要がある。

その積み重ねが、非常のときの覚悟につながる。

覚悟ができれば、あとは、損得は関係ない。

自分の直感や縁のあるなしで考えずに決められる。

たまたま来た話(大事)や頼まれごとを、ニコッと笑って、「ご縁だから」「あなたに言われたらしかたない」「世のため人のため」と即断し、グズグズ言わずに引き受ける。

大事の思案を軽くできる人でありたい。

■【人の心に灯をともす】のブログより


http://k-r-c.cocolog-nifty.com/takuwa/2007/10/post_db0c.html 【葉隠魂】より

葉隠研究家  中村 仁氏  

2007823_001 先日行われた夏の高校野球で、私の郷里である佐賀県の佐賀北高校が優勝しました。野球の名門校でも何でもない地方の県立高校が成し遂げた大挙を見て、あれは葉隠魂ではないかとおっしゃる人もいますが、『葉隠』とは、鍋島藩の藩士である山本常朝が話したことを田代陣基が筆記してできたものです。

 これは1710年から口述筆記を始め、でき上がったのが1716年ですから、実に7年を要しています。また、『葉隠』の語源は定かではなく、西行の『山家集』にある歌から採ったという説のほかに、木の葉隠れの草庵で聞いた話だからという説等があります。現在、有力視されているのは西行説です。

 これは全11巻で構成されていますが、思い出した順に脈略なく書かれている上、俳句や和歌が非常に多く、逆説や誇張、極論、比喩、反語などが多用されているために、非常に分かりにくいものになっています。

 通常こういうものは藩侯の命令によって書かれる場合が多いのですが、これは藩侯とは関係なく書かれていまして、むしろ仏教的な色彩が強く出ています。これは、常朝が師と仰いでいた、鍋島家の菩提寺である高伝寺の湛然和尚の存在が大きいと言われています。

 後年、三島由紀夫は『葉隠』について「行動哲学、恋愛哲学、生きた哲学の三つの哲学からなる」と簡単に言いましたが、私はそれを含めて疑問を感じる解説が結構あると思っています。

 『葉隠』には四つの四誓願が書かれているため、これも武士道の書であると言われるようになりました。有名な「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉を「武士道とは死ぬことである」と解釈して、「『葉隠』はどこを読んでも赤い血がほとばしっている」とけなす人もいます。しかし、実際にはそんなことを言っているわけではありません。「武士道においては遅れをとってはいけない」「主君の用に立つように」「親に孝行せよ」「人のために尽くせ」と言っているのみで、序文にあたる部分には、「問題に直面したときは、これら四つを念じることで解決することができる」と書いてあります。

 第1巻の「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉は、死ぬ気でやれば何でもできるという意味であって、死ぬことが武士道であると言っているのではありません。『葉隠』と同じ時期に、武士道の規範として広く読まれていた大道寺友山著の「武道初心集」でも同じようなことを言っていますが、これを「死ぬ事と見付けたり」という言葉で表しているのは『葉隠』だけです。武士道とは、例えて言うなら忍ぶ恋のようなもので、「好きだ」と言葉に出して言ってしまっては終わりです。主君に対する奉公も「隠れてしなければならない」と言っていることから分かるように、私は『葉隠』とはまさに実の心を述べたものだと思っています。

 さて、私は2004年に佐賀新聞社から『心の花~葉隠暦~』という本を出しました。実は『葉隠』の中でも、「葉隠とは心の花である」と書かれています。私が調べたところ、『葉隠』の中には「花」という言葉が37カ所で使われていました。同様に、「死」は316カ所、「生」は276カ所で使われています。これが、多くの人に『葉隠』=死と受け取られている理由なのだと思います。

 ただし、長年の研究を通じてそうではないことを確信していた私は、『葉隠』の中に「心」という言葉がどれだけ使われているかを調べました。その結果、驚いたことに「死」の2倍近い614カ所で使われていることが分かったのです。これは、『葉隠』が単に「武士道とは死ぬことである」と言っているのではないということを証明する事実です。そういうこともあって、私は本のタイトルを『心の花』としました。

 実の心で行動することを教えている『葉隠』は、現代にも通用する、時代を越えた人間形成の本です。また、意外に思われるかもしれませんが、常朝は『葉隠』の中で、「人生は短いのだから、やりたいと思ったことを存分にするように。私など、寝て暮らしたいほどである」とも言っています。このように、実際に読んでいただくと面白いこともたくさん書いてありますから、これを機に、皆様にもご一読いただければ幸いに存じます。