「宇田川源流」【GW特集 日本語論文のススメ】(4) プロットの作り方
「宇田川源流」【GW特集 日本語論文のススメ】(4) プロットの作り方
「日本語論文のススメ」ということで、屋っと文章の内容に入ってくる感じである。初めのうちは日本語とは何か、そしてその中の「膠着語」という事と日本人の性格や国民性、そして現代の日本語に主語が略されてしまうというような現状分析を記載した。今回から本格的に「日本語」の文章の書き方をしっかりと学んでゆくことにする。
★ プロット
さて、まずはその中で「プロット」を作るということを書いてみたい。まずはいつものように「プロット」の定義を、辞書で引いて調べてみよう。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロット」の意味
戯曲や小説で,展開するさまざまな事件を統合し芸術的効果をつくりだす筋の仕組み。 E.M.フォースターの定義 (『小説の諸相』 1927) によれば,物語や寓話の出来事が時間の順序どおりに並べられているのに対して「因果関係を意識して出来事を組立てている」ものとされる。
<以上抜粋>
基本的には、小説などの文章を書く時に作るのがプロットなのであるが、私たちは、基本的に長文を書く時は必ずプロットを書くようにしている。実際に、このプロットに関しては、しっかりとプロットを作るときと、そうではなく何かメモ書きのように内容を書く時がある。しかし、基本的には「どんな道筋の話にするのか」ということをメモするようにしている。要するに、どんなに簡単な文章であっても、短文ではない限りは「設計図」を作るのである。
さて、ではプロットの作り方と、その効用を考えてみよう。
まずはプロットの作り方。様々な人にプロットの作り方を聞いてみている。まずはプロットの作り方には大きく分けて二つの作り方がある。いや、それは方法論ではなく、基本的には、その人の思考の在り方に併せて二つのやり方になっているということになる。
まずは人間の思考というのは、「文字型」と「画像型」の二つになっている。人間というのは三次元で生きている。我々は三次元の中で生きているということに異論はない。もちろん読次元の人がいるなどオカルト的な話をする人がいても、特におかしな話であるとは思わないが、それでも、それは基本的には例外的な物であり、その例外的な内容を除いた多くの人は基本的には三次元の中で生きている。
人間そのものが三次元である場合、基本的には紙の上に表現できるのは「一次元」か「二次元」ということになる。基本的に三次元に生きている以上、その認識は三次元で行われるものになり、そしてそれを表現するのは「一次元」か「二次元」というような表現以外にはならない。自分の存在する次元を超えた次元は認識することはできないし、また、表現するのはその次元以下のものでしか表現できないのである。
さて、このような状況から、人間の多くは「一次元」つまり「文字列」で情報を認識するか、あるいは「二次元」つまり「画像(絵や写真のような感じ)」で認識することになるか、どちらかでしかありえないという話になる。人間の思考も同じで、基本的には人間の記憶やその思考に関しては、「一次元型」と「二次元型」という二つの内容になる。これはタイプなので、どちらが良いとかどちらが優れているとか、そういう問題ではなく、その内容それぞれに特徴がある。
「一次元型」の思考をする人は、全てを文字情報として頭の中に入れてゆくということになる。基本的には、ちょうど「小説の目次」のような感じでその内容を記憶し、また思考を行う。文字で行うので、常に客観性をしっかりと維持し、なおかつその客観性の中において、全てを表現するということになる。しかし、一方で文字で表現してしまっているので、再現性が二次元型の者よりも低い場合が少なくない。よく私が例に使うのであるが「黒い神の美しい女性」ということを表現した場合、その美しい女性の「像」つまり、具体的な女性のスタイルや顔、髪型などは、基本的に、全ての人にとって異なることになる。それは「美しい」という表現が抽象的であり、なおかつ主観的でしかないということになる。そのために、全く同じ人物像が、その文字から出てくるわけではない。その代わり、画像ではないので「心理描写」や「言葉の重み」などはかなり詳しくできることになるのである。要するに、見えないものを見やすくするとか、表現するということ、また、ある意味で「読者の想像させる」ということは非常に一次元の方が優秀であるということになる。
このタイプの人は、基本的には「論文の目次」を書くようにプロットが出来上がる。これを二次元に近づける形の場合、表などにするが、それほど多くの変わりはない。基本的には、目次が表化しただけというような感じになる。このタイプの人(私も含めてであるが)は、基本的には間違いなく、文章のプロットができているときには、論文や文章の大まかな筋道は出来ているということになる。基本的には、筋道ができているうえでプロットを作ったうえで、自分の道筋に漏れがないかなどを確かめるということになる。ある意味でその様に道筋をしっかりと作ることで、しっかりとした内容が書けるということになる。
一方「二次元」は、写真や図表のような感じで物事を理解する方法である。基本的には映画などを作るときにつくる「絵コンテ」のような形で物事が理解されている場合と、マトリックス的な図で理解されているパターンと二つ存在する。二次元の中には二つの種類があるというような感じで見ていればよいのかもしれない。
写真が連続するように物事を志向する人は、基本的には映像的に物事を思考するので、そのような形になる。ある意味で「物事を動く」というようなことや「その色や形」ということにこだわることができる。日本語にした場合に「擬態語」「擬音語」が多くなるのは、このような人々であり、なおかつ色や形などの思考に非常に大きなこだわりを持つ。一次元の人と全く異なるのは、一次元が「黒髪の美人」といっても、その人が全く異なるのであるが、二次元のこのタイプの人々は、描写が全く異なり「○○のような人」というような例示などで物事を行い、相手のイメージなどに介入をしてくる。そこに好みが藍るので「○○は美人なのか?」というような話からスタートしなければならず、主観をどのように客観性を持たせるかということが非常に大きな課題になることが少なくないのである。ある意味で漫画かなどのイメージに非常に多く、また、そのような形なので「オリジナルと異なる独自の解釈」ということを主張することが多くなる傾向にある。
さて、このような人のプロットというのはどのようになるのであろうか。実は基本的には漫画や絵コンテのような内容で出て来てくれればよいのであるが、基本的には「一枚の絵」に集約されるような形で、プロットが出てくる。基本的には、このような「絵」型の人は、「最終結論の絵」や「ポイントの絵」があり、その間が絵の描写というような形になる。また、一次元とは異なるので、その情景描写などが出てくることになるが、しかし、一方でそれ以外の内面描写などが「比喩」や「擬音語・擬態語」になる傾向が出てくるのである。
一方「図式型」の人は、ある意味で一次元型を図式化しただけなので、基本的には一次元化の図式化ということのように見える。しかし、この場合、「写真のような描写」ではなく、論理性がランダムに記載されるような形になるので、そのことから、なかなか異なる話になってくるのである。この系統の人は「すべてが図式化されている」ので「自分で漏れがない」と思ってしまい、自意識過剰になってしまうことがしばしば見受けられる。文章もそのようになりがちで「自分の文章」が完璧であって全てが網羅するような話であるというような感じになってしまう。そのような形では、なかなかうまくゆかない。
図式的なプロットを書く人は、「絵」と「文章」双方の「いいとこどり」をしているように見えて「悪いとこどり」になってしまう可能性がある。また穴が開いているときになかなかうまく埋めることが出来なくなってしまう。また、要点が全て図式化されてしまっているので、その内容がなかなか散漫になってしまったり、論理が一つにならなかったりする。何よりも「テーマを一つに絞ることができない」文章が出て来てしまう可能性が出てくることになるのである。逆に言えば、このような欠点をすべて排除できれば、最も良いプロットになる可能性がある。
★ プロットと文
プロットだけでは、文章にならない。プロットは、「あらすじ」出もないし、また、要点表でもない。プロットを「肉付け」して「文章化」する、ということが最も大きな内容になってくる。つまり「プロット」から「文章」にする技術がもう一つ必要になる。
このような「文章の書き方」のような文章の場合、だいたいは「プロットの書き方」が最も重要視されるが、しかしプロットだけでは文章はまだ三割というところである。そこでプロットをどのように文章化してゆくのかというノウハウが必要になってくる。底意は多くの技術や技法が必要になるし、また、論文と小説では全く異なるもののにある。
工作物でも同じであるが「設計図」がどんなにうまくできても、その設計図だけではモノは出来上がらない。その工作物を作るには、やはりそれなりの技術などをしっかりと行う必要があるのではないかその技術を様々に書く必要があるのだ。
まずはプロットで構成を書く。そのプロットで間違わないようにするところから、初めて、その時に文章の書きやすいプロットを作るようにしなければならないのである。そのようなプロットから分掌技術について、その内容を次回に見てみよう。