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ヨハンネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)…残響が消え去った空間の名残りを書いた作曲家

2018.06.04 23:39








ヨハンネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)

…残響が消え去った空間の名残りを書いた作曲家








Johannes Ockeghem

1410? -1497.9.26.








むかし、音楽と言えばCDやレコードで聴くものだった頃、僕は本気でバッハが音楽の父だと想っていた。


それが、ちょっと違うんじゃないかと想い始めたのが、モンテヴェルディ(Claudio Giovanni Antonio Monteverdi, 1567.05.15-1643.11.29)の、有名な《聖母マリアの夕べの祈り(Vespro della Beata Vergine; SV 206, 206a)》などを聴くようになった時だった。


この曲は、宇野巧芳さんという、ちょっと前に亡くなった音楽評論家の本で知ったものだ。


この人は、いろいろな毀誉褒貶があるし、この人の本が好きだというと、いまどき、知性に欠ける人なんですね?と言われるに決まっているのだが、実際には、大量の無名な作曲家・演奏家を有名にした功績は大きいと想う。

それこそが、批評家の仕事なのではないか?


ほかの批評家は、特にクラシックについて言うと、たいてい、哲学・現代思想の受け売り論文を作曲家や演奏家論の形で垂れ流しているに過ぎない。


ともあれ、90年代。

大学生で、東京に住んでいたから、本から、それ以上の情報を得ることは、なかなかできなかったものの、なにがなんだかよくわからない輸入盤のCDだけはあふれかえっていた。


よくわからないCDをよくわからないフランス語だかイタリア語だかなんだかのブックレットの表記を手がかりになんとなく知っていけば行くほどに、その、モンテヴェルディさえもが、大量にあふれかえっているすばらしい作曲家たちのうちの一人に過ぎないことに気付く。


そもそも、モンテヴェルディはモノディという形式(…すさまじく単純に言ってしまうと、メロディがあって伴奏があるんだ、という形式。)を応用したオペラという新しい音楽を、時代の主流にあがなうかたちで、つまり、ビートルズやジェームズ・ブラウンや、あるいはピート・ロックやラキムたちのような、音楽の革命家として現れた人に他ならないのであって、その背後にも、さらに、巨大な鉱脈が眠っていたのだ。





もはや、単純に、バッハから西洋音楽が始まるなどとは、どうしたって言えない。


なんか、文章がごちゃごちゃしてきたが、いずれにしても、僕は、どうも、バッハはある時代が爛熟した挙句に生まれた、崩壊期の、ひとりの風変わりな実験音楽家だったにすぎないに違いない、と想い始めたのだ。


逆に、そう考えたほうが、バッハの音楽は分かりやすくなる。


バッハの3大実験的変態音楽というべき、《ゴルトベルク変奏曲》《音楽のささげ物》《フーガの技法》に代表される、ときに楽器指定さえされていない抽象音楽は、彼が過去に見てきた、そして収集してきた膨大な、いまや滅び行く音楽のための、最後の想い出として、ある風変わりな天才によってささげられたものなのだ。


では、そのバッハ以前の音楽とは、どんなものだったのか?

これが、知れば知るほどに、茫然とするほどにすばらしいものだ。


実際、例えばスティーブ・ライヒ(Steve Reich, 1936.10.03-)の初期の仕事の殆どは、この時期の音楽(モノディ音楽以前のポリフォニー音楽と言われるもの)の、現代への移植に過ぎないと言っていい。





とくに、最近はインターネットで、好き放題調べたり聴いたり出来るので、単純に《美しいもの》がすきなんです、という人は、一度、バッハ以前の音楽を、聴かず嫌いせずに聴いてみたらいい、と想う。


いま、絶対に味わえない、しかもどこかで懐かしい風景が、目の前に広がる。


もちろん、その殆どは宗教音楽だ。

…勘弁してくれ。宗教だけは無理なんだ、と、そういう声が予測できてしまうが、僕も徹底的な唯物論者で、宗教に縁もゆかりもないのだけれども、音楽だけは、別だ。


美しいものは美しい。

その美しさそれ自体に、打ちのめされてしまう。


今回は、オケゲムを紹介させて欲しい。





歴史的に整理すると、12世紀に、ノートルダム楽派を中心にして起こるポリフォニー音楽の流れが、ギョーム・デュファイ(Guillaume Dufay, 1400? -1474.11.27)を代表とする《ブルゴーニュ楽派》によって15世紀に花開く。


デュファイはカンブレー、つまり、プルーストの《失われたときを求めて》で出てくるあの町だが、そこでオケゲムに直接的な影響を与える。

オケゲムは彼らの多声的な方法論をより洗練させる。


故に、時として、人はその音楽を、数理・論理学の公式を解いているような雰囲気さえあると言う。

実際問題としては、ポリフォニーの方法論はオケゲムに於いて限界まで達したといっていい。


その弟子の、高名なジョスカン・デュ・プレ(Josquin des Prés, 1450 or 55-1521.08.27)あたりですでに、ポリフォニー音楽は解体期を迎えている。例えていえば、ハイドンがたった一人で構築した古典派音楽が、はやくもその後続世代のモーツァルト・ベートーヴェンに於いて、発展という名の解体期を迎えるのに事情は近い。


本当に美しい音楽だから、とりあえずは先入観を抜きにして、聴いてみてほしい。

全曲は、

キリエ

グローリア

クレド

サンクタス

アニュス・デイ

の四部からなる。

それぞれに、5分程度しかないし、音楽が結晶化されて純度が高いので、上質な緊張感を強いられながら、しかも、全身に心地よさを感じながら聴くことになる。


あっという間に、全曲は終わる。


1.キリエ(kyrie)

入祭歌。主よ、哀れみたまえ…と歌われる。





2.グローリア(Gloria)

天のいと高いところでは、神に栄光が輝く、と歌われる。

ときどき、なぜか知らないが、懐かしくて仕方ない、例えれば夕焼けの空の旋律が、聴こえてくる。

なんて、懐かしい音楽なのだろうと想わずにいられない。





3.クレド(Credo)

信仰告白、と訳される。

さまざまな声の連鎖が構築する響きの明るい音色が、とにかく美しい音楽だ。そして、ときに一瞬の翳りさえもがさす。

晴れた空の下に、雲が描く微妙な影の移ろいを聴くような音楽。





4.サンクタス(Sanctus)

感謝の歌。聖なるかな、万軍の主よ、と歌われる。

どれが伴奏音型と言うわけでもない、緊密な声の群れの響きあった残響が、ひたすらな、懐かしい美しさを構築する。

せつせつとした第二部、第四部あたり、とにかく、好きだ。

切れ目なく、細やかで抽象的なまでの、魂の揺らぎ、繊細な空気感のようなものが、さざ波をうってやまない。





5.アニュス・デイ(Agnus Dei)

直訳すれば《神の子羊》。神の子羊=イエス・キリストに魂の救済と平安を願う。

このあとに、教会ミサ本体が始まるので、すっと消え去るように終わって、儀式の始まりを準備する。





曲には、当時の俗曲《武装した人( l'homme armé)》の主旋律がそのまま使われている。


俗曲、つまりは、ポップ・ヒット曲というか。


この当時、教会という場所は、ある意味に於いて、音楽をするための口実として使われていた、ということがなんとなく理解できる。


また、一つの旋律を使って全曲を統一するという意味ではすでに、ハイドン=ベートーヴェンの統一モティーフに近い、…というか、それそのものに他ならない理論・感性が完成されていた、ということにもなる。



l'homme armé

武装した男


L'homme, l'homme, l'homme armé,

L'homme armé

L'homme armé doibt on doubter, doibt on doubter.

On a fait partout crier,

Que chascun se viengne armer

D'un haubregon de fer.


男、男、武装した男

武装した男

武装した男に注意せよ

誰もが叫ぶ

武装せよ

鋼の鎧で武装せよ





オケゲムは、今ではルネサンス期の、数理・理論に凝り固まった、ちょっと変な作曲家だというのが、評価の主流だ。後のジョスカン・デュ・プレの師匠だった人としてのみ有名、と言うべきか。

そのあたりも、ハイドンと良く似ている。


けれども、ジョスカン・デュ・プレでさえ、オケゲムを真剣に聴けば、むしろ雑味の多い作曲家にすぎなく感じられるし、デュファイでさえ、通俗音楽にしか聴こえなくなる瞬間がある。

ましてや、退廃期の作曲家、パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525? -1594.02.02)をや。もっとも、パレストリーナに関しては、その退廃味をこそ聴くべき、なのかもしれない。


オケゲムを聴くとき、変な話だけれども、僕はヤニス・クセナキス(Iannis Xenakis, 1922.05.29-2001.02.04)を想いだす。





今やだれもその音楽を、音楽として聴こうとはせずに、むしろ数理的・論理的に音楽を電卓上で構築した人として、いまならA.I.にやらせれば、クセナキス以上の音楽などいくらでも作成できてしまえるに違いないとさえ揶揄される作曲家だが、とにかく、響きが美しい作曲家だった。


オケゲムとクセナキスは、残響としてしか体験できない音楽、という意味で、非常に、その美しさの質が近いと想う。


クセナキスに於いては、それは、あまりにも多声的過ぎて、聴き取れてはいても、もはや正確には同時認識しきれないが故に、であり、そしてオケゲムに於いては、メロディ、としてではなく、声の連なりの響きあいの色彩として音楽が捉えられているので、何度聴いても、しっかり聴き取れているにもかかわらず、つねに、失われてしまったものの記憶としてしか、その音楽が体験できないからだ。


知性は、音楽を《聴き取る》、つまり、音楽が鳴り終わった後に、それをそれとして認識するものだから、オケゲムのように、いま、まさに鳴っている響きそのものにこそ意味を持たされてしまったとき、音楽に触れているいま、たったいまの音の実存、その瞬間にしか、音楽が意味を持たない以上、それは、知性にとっては、常に喪失体験としてしか、認識できないのだ。


どうあがいても追いつけない、痛みさえ伴った喪失体験に、オケゲムの至純の、美しすぎる響きの音楽は、誘ってやまない。




2018.05.06 Seno-Le Ma