アンフラマンスの旅
人が去り、ギャラリーはまた静寂の水平線へと返る。
個性的な、けれど整然とした面持ちで、作品達はまだ来ぬ誰かを待っている。
それらに見守られながら、私は「静寂と色彩:月光のアンフラマンス」と題された展覧会の図録を捲る。
そして、“アンフラマンス”について思い巡らす。
デュシャンが生み出したこの造語を明確に理解する事、言葉で説明する事は難しい。
多分、そうできないものをアンフラマンスというのだろう。
掴めない、実体のないもの。でも微かにそこに漂う何か。
ほんの一瞬姿を現し、すぐに消えてしまう儚いもの。
デュシャンはこんな例を挙げている。
「たばこの煙がこの煙を出す口からも匂うとき、二つの匂いはアンフラマンスによって結びつく」
「ビロードのズボン-/(歩いているときの)二本の足のこすれ合いでできる軽い口笛のような音は、音が示すアンフラマンスな分離である。」
「(人が立ったばかりの)座席のぬくもりはアンフラマンスである」
以前ラジオでユーミンが「フライト中機内で鳴るベルト着脱サインの音」について語っていた。
そうそう、あの“ポーン”という音。
薄く柔らかな膜に包まれたような音。
薄暗い時空の中、ふいにその音が鳴ると、地上ではない何処かに今私はいるんだ、と感じる。
でも不思議と耳に心地よい音。
あの感覚は、音の示すアンフラマンスなのかもしれない。
そして、ある映画のワンシーンを思い出す。
「パリ、ジュテーム」という18人の監督がそれぞれのパリを描いたオムニバス作品。
その最終話に登場するごく平凡な中年女性。
デンバーで郵便配達員をする彼女は、趣味でフランス語を習い、こつこつと貯めたお金で初めて憧れのパリへとやって来る。
彼女は特別贅沢をするでもなく、パリの街並を歩き、景色を眺め、美術館へ行き、ささやかな食事をする。
すべて一人きりで。
旅の終盤、彼女は偶然見つけた公園のベンチに腰掛け、買ってきたサンドイッチを頬張る。
彼女の目には、平穏なパリの日常が映る。
やわらかに降り注ぐ光の下、思い思いに時を過ごす人々。
芝生に寝そべる恋人達、熱心にお喋りするマダム達、散歩をする老夫婦、子供の駆け回る声、小鳥のさえずり、風にそよぐ木々。
その時、一瞬彼女の中で何か不思議なものが湧き起こる。
嬉しいとも悲しいとも少し違う、でもどちらも含んだような気持ち。
少しセンチメンタルで、ほのかに希望も漂うような…。
そのシーンを観て、はっとした。
私もこれと全く同じ体験をした事があったからだ。
同じようにベンチに座り、同じような光景を目にし、そして同じような気持ちになった。
やはり、たった一人。
私の中だけでそれは起こっていた。
その感覚をどうにか他の人に説明したくて、言葉を探したけれど、なかなかしっくりくる言葉は見つからなかった。
けれど、ひょっとしたら、これも旅という一つの移動の中のアンフラマンスによって生まれる感情なのかもしれない。
それは余情というものなのか。
多くの歌人達も、きっと旅先でこの微かな気配や揺らぎを感じ、詠まずにはいられなかったのだろう。
気が付くと、いつの間にか日も暮れ外は暗い。
アンフラマンスを巡る旅は、明日に持ち越そうか。
いや、きっとアンフラマンスは日々至るところに浮遊している。
このギャラリーにも、あのいつもの帰り道にも、変わり映えのないように見える光景にも。
地図のかわりに、ほんの一かけら“旅人のこころ”をポケットに携えて。
アンフラマンスの旅はつづく…。