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仙人温泉小屋

湯と夢と雪の山小屋

2023.05.05 11:17

黒部の仙人(高橋重夫) 2023年5月5日掲載 E-67

はじめに

 仙人温泉小屋のオーナーが所属する「新座山の会」が、創立30周年を迎えるに当たり、講演依頼が有り、2023年4月2日、OBも含めて47名の方々にオーナーの話を聞いて頂きました。その講演の台本を紹介させて頂きます。

 なお、講演の前段部分は、山の会の方々との数々の山行の想い出など、「山の会」の方々の個人名が多々出て来ますので、その部分は、プライバシー等の問題もあり、割愛させて頂き、「仙人温泉小屋」の経営に携わった経緯からの紹介となります。

 裏剣・仙人谷・仙人温泉小屋の運営などについての、悲喜交々の「山小屋生活」の一端を感じて頂ければ幸いです。

台本

 利根川の上流を3泊ビバーグして、新潟県に抜けるような釣りが好きでした。その状況を釣り雑誌に掲載して、謝礼金を貰ったり、一冊のガイドブックを書いて、原稿料を貰ったりしていました。イワナ釣りで、冷えた体を温めたり、山に登りながら、かけ流しの風呂に入ったりしているうちに、何時かは、温泉のある山小屋で暮らしてみたいと言う夢を見るようになりました。

 そんな時です、剱岳の下山路で、仙人温泉小屋に何回か、宿泊している時に、『高橋さん、あんたなら、山小屋を経営出来るよ!この小屋を譲るから、山小屋のオヤジにならないか。』と、経営者から誘われました。「山小屋のオヤジ」は、憧れでしたが、1Km上流の湧水から水を引くのも、対岸から100mの谷を越えて温泉を引くのも難しい作業です。雪崩で、小屋が壊れたら修理をしなければなりません!ヘリコプターでしか資材を運べないような所に大工さんも電気屋さんも来てくれません。全て自分でしなければなりません。

 幸いなことに、私は建設職人として50年の経験がありました。「山小屋のオヤジになれそうだ」と思いました。山小屋の権利は、1千万円でした。仲間からは、「高すぎるよ、騙されているんではないの」と、言われましたが、私は決断しました。女房に頭を下げて、銀行から1千万円借り入れました。私の夢は、実現したのです。

 女房は、『所沢で稼いだ金を山小屋に注ぎ込むことはしないでね』と、それが、私と女房の山小屋経営の約束でした。しかし、山小屋暮らしを始めると、アクシデントが多発しました。その度に、所沢の売り上げ金を山小屋の維持管理費に当てたことが、何回もありました。ですから、50年連れ添っている女房に、私は、まったく頭が上がりません。

 仙人温泉小屋のある黒部川支流の仙人谷は、とても雪深いところです。例年6mの積雪があります。雪の多い年は、7月にならないと小屋を開けることが出来ません。小屋は、中部山岳国立公園の中に有ります。土地は、国の物です。小屋の土地を借り受けるには、環境大臣の許可を得なければなりません、私が、許可を得た当時の大臣は、川口順子大臣でした。環境大臣から許可を得たら、次は、森林管理署から借地の面積と、建物の坪数を取り決めて許可証を交付して貰います。国は、許可するだけで、細部のことは、下部組織に丸投げするのが、常です。温泉も国の土地に沸いて居るので、国が「温泉成分分析表」を作るのですが、保健所としては、国に頼むことは出来ないと言います。結局、使用者が、「分析表」を作ります。10年に一度、更新する分析表が無いと、「温泉」と謳うことが出来ません。

 小屋の営業に関しては、簡易宿泊所として、小屋の所在地に有る保健所から許可を得ます。毎年行う飲料水の水質検査・温泉のレジオネラ菌の検査・調理場の衛生状態・トイレの手洗い器の設置など、細かい指導が有ります。保健所の人は、小屋シーズン中に一度は必ず来ます。登山者でも大変な仙人温泉小屋に職員の人が来るのは気の毒に思います。消防署からも、プロパンガスの使用規定・ガソリンなどの保安状況・小屋の火災に対する消火器の点検に対する指導を受けます。小屋の各部屋には、報知器の設置が義務付けられていますが、小屋の発電機は、夜9時の消灯後は、役に立ちません、それでも、設置だけはしています。プロパンガスのガス漏れ警報器も同じです。色々、さまざまな手続きが終わると、やっと山小屋を営業することが出来ます。

 役所の次は、民間会社との契約です。まず、ヘリコプター会社と契約書を取り交わします。小屋への荷物をヘリで運ぶためには、ヘリ会社が国土交通省にフライトの許可を申請します。その書類の費用が4万5千円、ヘリポートから山小屋に荷物を空輸する代金が、荷物1トン当たり30万円。仙人温泉小屋は、3ヶ月間の営業ですが、燃料・食糧・小屋の修理に使う材木などで、3トンになります。ヘリの代金は、消費税込みで100万円を超えます。米・味噌・醤油・野菜・アルコール類などの食糧費が70万円、発電機のガソリン・プロパンガス・ストーブ用の灯油が20万円、所沢から富山まで、会合や、なんだかんだで、230万円は、掛ります。電話機にしても、電話線は無し、携帯電話は圏外です。所沢の家族との連絡や、宿泊者の予約のために、連絡する手段として、「衛星電話」を使用します。5年前に、新しい機種に変更しましたが、税込みで、46万円しました。山小屋の費用は、町での生活費と比べると、段違いです。

 7月中旬でも谷には、10mを超える雪渓が残っています。そして、小屋閉めの10月20日頃には、初雪が降り出します。黒部の小屋は、雪に始まり、雪に終わると言っても過言ではありません。3ヶ月の営業期間では、売上は300万円に満たない年が殆どです。下山して私の手元に残るのは、30万円から40万円程度です。6月中旬から営業の準備をして4ヶ月働いた給料では、女房子供を養うことは出来ません。所沢に帰宅をしてからは、すぐに水道工事業を頑張ります。

 70歳を超えた現在でも現役で働いて居ます。流石に今日この頃では辛いと思うことが多々有りますが、静かな仙人谷に行くと町での苦労も忘れられます。仙人温泉小屋から見える山小屋は、唐松の小屋と、白馬の小屋だけです。建物でゴミゴミしている都会に居ると、心が汚れます。山小屋は、汚れた心を洗濯するのにはもってこいの場所だと思います。

 仙人温泉小屋には、立山の室堂から剱沢小屋・真砂沢ロッジ・仙人池ヒュッテのコースで来る人が殆どです。そして、阿曽原温泉小屋、黒部峡谷鉄道の欅平駅に下山します。逆からの登りコースは、2007年に付け替えられた「雲切新道」の標高査800mの急登が、登山者を悩ませています。もう、心臓が破裂するかと思う程の登りです。過去に、死亡事故も起きて居ます。「新座山の会」のWさんが登りのコースで来てくれたので、良く御存じです。ハイキング程度の体力では、雲切新道の登りのルートは歩き通せません。室堂から下りのコースは、剱沢の小屋から真砂沢ロッジまでの雪渓が、年によっては非常に危険な状況になります。15年前には、ツアー登山のガイドがクレバスに転落して死亡したことも有ります。白馬の大雪渓が、たびたび通行止めになるように、剱沢雪渓も閉鎖される時が有ります。そうなると、仙人温泉小屋は、開店休業状態です。夢のような山小屋生活も、赤字と言う現実に引き戻されると、心穏やかでは居られません。

 雪渓だけではありません、黒部峡谷鉄道のトロッコ列車も、大雨が降ると運休になります。室堂に列車運休の張り紙がされたり、アナウンスが有ると予約して居た登山者から、キャンセルの電話が有ります。一週間、誰とも会わず、誰とも会話の無い日が続きます。大雨の時には、トロッコ列車のレール上に大岩が落下することが有ります。線路が大破すると、そのシーズンは、列車の運行が途絶えます。山小屋においても登山者が全く来ないので、残った食材を処分して、泣きながら下山します。でも、そんな年は『高橋さん、赤字で苦しいでしょう!』と、言って赤字を補填してくれる人が3・4人居ます。心の通った友人は、有難いです。

 令和2年からは、新型コロナウィルスによる、感染症のために、保健所からの指導が厳しくなりました。シーツや、枕カバーは使い捨てにする、宿泊者は、定員の半数にする、発熱した人が出た場合に備えて、隔離出来る個室を確保することなど、営業するにはハードルが高く成り過ぎました。そのため、仙人温泉小屋は、全面休業することにしました。登山道整備のために、3・4人が、入山しましたが、登山者のためのお手伝いは出来ませんでした。休業しているのだからと、小屋の修理を少し怠りました。すると、3年間で、小屋は全壊しました。毎年の雪崩に小屋が耐えられなかったのです。

 小屋の被害は、雪崩だけではありません、動物による被害も有ります。山小屋は、人間が下山すると、動物たちの楽園になります。赤ネズミ・オコジョ・テン・ヘビの棲家になります。赤ネズミは、高所山岳帯にも多数居ます。町の家ネズミの半分位の体型です。ちょっと、油断をすると、米の入れ物に入って、米を食べます。食べる量は、僅かですが、ネズミは、食べながら糞や小便します。ネズミの入った、米の入れ物は使用出来なくなります。テンは、小屋に棲みつくことは有りませんが、オコジョは、小屋をネグラして居ます。ネズミ取りのシートにオコジョが、張り付いていたことが有ります。体長20cm位で、耳が小さくて、腹の毛が白いオコジョは可愛いいのですが、肉食獣ですから気性は、荒いです。小屋で、釣って来た岩魚の処理をして、内臓をゴミ箱に入れていたら、テンが9時頃に室内に入って来たことが有ります。生の魚が大好きなようです。ヘビは、夜、ネズミを追ってきます。ヘビを見つけると、女性の宿泊者は、外に飛び出します。室内にヘビが居ては、気持ちが悪くて寝られません!私が、手で掴まえてビニール袋に入れて、朝まで保管して置きます。小屋に棲みついて居るヘビは、「青大将」ですから、害は有りません。

 登山道には、マムシが棲息しています。雨上がりの登山道には、日光浴をしているマムシが居るので、注意しなければなりません。以前の私は、マムシを掴まえて来て、希望する宿泊者にマムシ料理を提供して居ましたが、8年前に、「蛇年」の娘が、蛇年の孫を産んでからは、蛇を殺すことを止めました。サルも小屋の周囲に来ますが、黒部のサルは、人間の食物を一切食べません。一番困るのは、熊の害です。月の輪熊は、冬眠をするために、秋になると、食欲が旺盛になります。雌クマは、冬眠をしている1月中旬に、雄・雌の2頭の仔を生みます。その仔を暗い穴の中で授乳して、育てるのです。12月に冬眠をして、3月中旬まで、穴の中で、飲まず食わずで、仔育てをする母熊は、その体力を維持するために、皮下脂肪を厚く貯えます。山に、ブナの実、ミズナラのドングリが、まったく実らない年が、7年に一度くらいの周期であります。その様な年は、飢えた熊が、壁を破って小屋の中に侵入します。来年の小屋開け用に残して置いた食糧を全て食い尽くします。アルコール類も全て飲み干して、酔っぱらうと、押入れの布団を引きずり出して、冬眠をしてしまいます。冬眠明けのクマの糞は、日本酒の紙パックが、未消化のまま残っています。新座山の会の会員Kさんが小屋開けを手伝ってくれた年もそんな状態でした。  

 アクシデントで、休業したり、クマの被害で、内部を滅茶苦茶にされたり、登山道の整備の時に転落して、一週間寝込んだりの苦しい思いをしても、山小屋を嫌いになることは有りません、仙人温泉小屋の露天風呂で、20年を超えて、ビールを飲んで居ると、『ここで、死んでもいいや!』と、本心から思います。こんな、雪深いところで、湯のあるところで、夢を実現したことの満足感でいっぱいです。

 皆さんも、夢を大切にして下さい。
 夢を育んで下さい。
 夢が有れば、死ぬことが怖くありません。

 御静聴有難う御座いました。