アロワナの描き方(0:0:1)
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:【アロワナの描き方】
:(あろわな の えがきかた)
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語り部:時折絵の具をぶちまけたくなる人生だ。
語り部:
語り部:今日、区役所に行った。
語り部:
語り部:余りにも待ち時間が長く、エントランスで自販機のアイスミルクティーを買い、喉に流し込む。
語り部:
語り部:ペットボトルではなく、紙コップの自販機で飲むとどことなく美味しく感じるのはなんでだろうなんて考えていたら、不意に後ろから声を掛けられた。
語り部:
語り部:「はじめくん、だよね。」
語り部:
語り部:柔らかく、でも決して高くないその声は紛れもなく中学生の頃に付き合っていたあやちゃんの声だった。
語り部:
語り部:僕を呼ぶ時の少し笑ってしまってるような独特の話し方が、何一つ変わっちゃいない。
語り部:
語り部:中学三年生の時に付き合い、初めてキスもそれ以上も一緒に体験をした、忘れることもできないただ一人の相手だ。
語り部:
語り部:「ひ、ひさしぶり。」
語り部:
語り部:腹の底の蛇が震えるみたいな、身の入らない声で答える僕をあやちゃんは笑いながら見据える。
語り部:
語り部:「変わってないねえ。お腹やわらかそ。」
語り部:「ま、まあね。」
語り部:
語り部:
語り部:彼女とは一年も一緒に居なかったけれど、別れた後もなんとなく会っては遊びに行ったり、ご飯を食べたり、付かず離れず不思議な距離感で過ごしていた時期がある。
語り部:
語り部:そんな彼女と疎遠になったのは、高校三年生、進路を決める時期だった。
語り部:僕も彼女も、互いに絵を描くことが好きで、よく上野の美術館に足繁く通うほどだった。
語り部:
語り部:彼女も、僕も、狙うは美大。ただそれだけだった。
語り部:しかし、美大なんかに入ってその先どうするのだという両親の反対と。
語り部:その反対に同意した担任を目の前にして、臆病にも反発出来なかった僕は簡単に美大への道を諦めてしまったのだった。
語り部:
語り部:なぜ美大に行かないのか、あやちゃんは激しく僕に感情をぶつけて来たのをよく覚えてる。
語り部:泣きながら、一緒に行くと約束したと、僕を罵倒する彼女を見て、何度も不甲斐ないなと思ったものだった。
語り部:とはいえその時の臆病で、勇気もない、だめな僕は親のいうままの学校を選び、
語り部:「なんとなく」の毎日を過ごしてしまったのだが。
語り部:
語り部:そうして、美大に行き、暫くはアロワナの模写や、到底理解のできない彫刻などの写真が携帯に送られてきていた。
語り部:僕の心を少しでも美術に寄せようと、彼女なりに必死だったのだろうが、なんとなくその彼女の熱意が鬱陶しく感じてしまい段々と返事をしなくなっていった。
語り部:
語り部:そうして僕のはじめての相手とは、距離を置いていってしまったのだ。
語り部:
語り部:「今なにしてんの?」
語り部:「まあ、介護やりながら、シナリオとか書いて生活しとる。」
語り部:「まじ?シナリオ?絵は?」
語り部:「まあ、たまに。」
語り部:「へえ。」
語り部:
語り部:彼女の手には、お弁当とペットボトルの飲み物が握られている。
語り部:
語り部:「……あやちゃんは?」
語り部:「私?私はここで、事務。」
語り部:「絵は?」
語り部:「絵?」
語り部:「うん、絵。」
語り部:
語り部:描いてないよ、そんなもの。
語り部:
語り部:そう言って乾いたように笑う彼女の奥歯の反射を見ながら、
語り部:僕が思い出して居たのは、何度も何度もうざったいくらいに送られてきた油絵のアロワナのことだった。
語り部:
語り部:「ねえ、今度飲もうよ。連絡先教えてよ。」
語り部:「いや、ごめん、ちょっと行くわ。」
語り部:「え?ちょっと!」
語り部:
語り部:そのまま彼女の差し出すスマホを無視して、その場を去る。
語り部:
語り部:アロワナが、僕の胸のど真ん中で暴れている。
語り部:
語り部:美術ってなんだ、絵ってなんだ、表現ってなんだ。
語り部:
語り部:本当は行きたくて行きたくて堪らなかったその場所で、僕は何になりたかったんだ。心の中に無限に敷かれていたはずのキャンバスは、いつの間にか表計算ソフトと年末調整のことで埋め尽くされている。
語り部:
語り部:どこだ、アロワナはどこだ。
語り部:
語り部:
語り部:くしゃくしゃに丸めた紙コップから、たらりと水滴が落ちる度に手のひらをひんやりと濡らしていく。
語り部:もう拭えない汗を過去に全て置いてきてしまった、二度と向き合うことのできない古代魚は、時間の湖畔を滑るように逃げていく。
語り部:芸術はどこだ、芸術はどこだ、芸術はどこだ。
語り部:悲しいのはこれがすべて、
語り部:
語り部:
語り部:現実ということだ。