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Kazu Bike Journey

小豆島八十八ヶ所遍路 04/07 (25・28/04/23) 小豆島町 福田村 (2) - 福田・平間

2023.04.26 14:25

福田村、平間部落


今日は朝から雨が降っている。これでは遠出は出来ないので、今滞在している福田村を見て回る事にした。雨合羽を羽織って出発した。ここではこの日に訪れた史跡だけでなく、滞在中に巡った福田村の他の史跡も合わせて記載する。


旧福田村

福田は小豆島の北に位置し、戦前までは小豆島の北の果てと呼ばれ、賑わっていた南側の村に比べ発展が遅れていた。戦後人口も増えて、1959年 (昭和34年) に家島汽船が、福田-家島-姫路間に客船を就航、1967年 (昭和42年) に小豆島フェリーが就航し、北の玄関口にはなったが、相変わらず北の果てで近年は人口減少が著しい寒村となっている。小豆島巡りにはオリーブバスを使い、朝に目的地に向かい、夕方帰ってくるのだが、福田は南回り、北回りバスの終点になる。バスの乗客は朝は病院通いの老人数名、帰りは福田まで乗っているのは一人だけで、バスによる住民の移動はほとんどないようだった。下に福田に係わる行政区之変遷をまとめている。江戸時代は江戸幕府の直轄地の天領だった。何故、小豆島が天領であったのかは書かれていないが、幕府として重要と思われる地域は幕府直轄地となっていたことから、小豆島は石材業が盛んで大阪城の石垣はここで調達されていた。この石材の産地ゆえの天領だったのかも知れない。明治以降は政府を安定させる時期で、小豆島はたびたびその帰属が変わっている。

小豆島の過去の人口データはほとんど見当たらない。多くの市町村はホームページでここ10年ぐらいのデータは公開しているのだが、小豆島町のホームページには人口データは全く掲載されていなかった。福田村史にその人口があったので、それを編集したのが下のグラフになる。1952年をピークに人口は減少の一途をたどり、2000年には江戸時代の人口レベルまで落ち込み、それ以降も減少は止まらず2015年では757人でピークの1952年の30% (7割減) にまで減少、この傾向は今後も続くと予想されている。3区分別人口割合では65才以上の人口は51.4%の限界集落になっている。小豆島町全体ではこの比率は41.3%なので、町内でも高齢化が高い地域になる。15才以下の人口は僅か47人で、年に3人しか子供が生まれない状況で、さらなる高齢化が加速していくことは確実。

小豆島町内の他の行政区と比較すると、福田は北の玄関口としながらもそれに見合った人口レベルにはなく、人口減少率も他に比べ高い。

小豆島町は人口ビジョンを発行している。一回目は2017年、その修正版を2020年に策定している。それを見ると、高齢化は避けれないと認識し、衣食住に渡り高齢者の住みやすい町を目指した取り組みを重視し実施している。この点は評価できる。人口減少を抑えるための施策はITによるサテライトオフィスにより雇用機会を増やすとし、Iターンによる島編移住、子育て環境の充実で転出に歯止めをかけるといった内容で、悪くはないのだが、そのアクションはまだ見えない。産業育成については、伸びているオリーブを活用するとあるのだが、具体性はなく期待はできない。観光については瀬戸芸頼みが継続しており、真新しい方向は出されていないように思える。下のグラフは高齢化予測を表したものだが、2017年に作成したものは、ほとんど根拠がなく希望的な数字のみで造られていたように思え、それを2020年に修正しているのだが、この修正案も希望的な予測になっている。実効性のあるアクションプランはまだまだ柔らかいものにも拘わらず、高齢化がストップするとしたこの予測は疑問に思える。作成者はもっと厳しいと認識はしているのではと思う、役所幹部が喜ぶグラフにさせられたように思える。敢えて、小豆島町予測と大きくかけ離れている社会研の予測を併記しているのは、せめてもの抵抗と邪推したくなる。この邪推が正しければ、まずは役所の体制を変えるリーダが出現しないなら人口ビジョンは絵に描いた餅で終わる可能性が高い。


この期間に訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第84番 雲海寺 (5月5日訪問)

第85番 本地堂 (5月5日訪問)


旧福田村 訪問ログ




葺田八幡神社

この神社は内の家が代々神官を継承してしているもので、江戸時代末期に徳島藩の家臣だった先祖がこの福田村に移り神官を務めるようになったと聞かされているが、どのような理由でそうなったのかは不明。

葺田八幡神社の祭神は 品陀和気神 (ホンダワケノカミ、応神天皇)、帯中津比古神 (タラシナカツヒコノカミ 仲哀天皇)、息長帯比売神 (オキナガタラシヒメノカミ、神功皇后) の三神に加え、多伎理比売神を合祀している。神仏習合時代には阿弥陀如来も祀っていたという。


葺田八幡神社の縁起については様々な伝承がある。

  • 第15代応神天皇 (4世紀後半から5世紀初頭) が阿豆枳島 (あずきじま=小豆島) 巡幸の際 (日本書紀に記載) に、小豆島の橘より船で吉備に還幸の途中、風波のため福田の里に寄港した。福田の里人が急遽、丸木で仮行宮を建て、秋の刈穂で屋根を葺き、応神天皇に休息所を提供した。その後、この行宮の跡地に小祠を建て祀ったのが、神社の縁起としている。この事からこの地を葺田と呼ぶようになったという。
  • 村本家口伝では、福田村の四の坪の田の畦に金色の玉の八幡神が出現したのを、孫太夫が三の坪の受田に奉祀し、その後、現在の地に奉移されたとしている。 これがいつの時代であったかははっきりしないが、17世紀半ばと推測されている。
  • 小豆郡誌では、小豆島全土が敦実親王 (宇多天皇の第八王子) の領地だった時代、926年 (延長4年) に富丘別宮八幡宮と同時期に創立されたとしている。 
  • 内海町誌では富丘八幡宮以外の八幡宮は、12世紀に源頼朝が鶴岡八幡宮を信仰してから武家よりさらに庶民一般にも信仰され、全国に広く勧請された鎌倉時代以降に創建されたとなっている。
以上の伝承から、推測できるのは、応神天皇の小豆島巡幸の際の福田での休息所に小祠が建てられ、小豆島各地でも応神天皇所縁の地も信仰の対象となり、その後数百年を経て富丘八幡宮が926年 (延長4年) に京都岩清水八幡宮より勧請し創立した後、葺田八幡神社含め他の神社も同様に勧請したと考えられる。


参道、馬場

参道はかつては伊豆川から伸びていたが、現在はバス道路となっており、石の大鳥居から参道が始まって八幡宮の下の馬場まで続いている。

この馬場では夏祭り、秋祭りが行われている。10月の例祭ではかつてはこで流鏑馬が奉納され、芝居も催されていた。現在では少子化、過疎化で規模は縮小されたが、大正初期に始まった獅子舞、御神輿の御旅、各部落での太鼓台奉納。夏祭りでは子供相撲が行われていた。


随身門

馬場から階段を登ると随身門があり、向かって左側に神社の守護神である矢大臣神像、右側に左大臣神像が置かれている。ここに置かれている狛犬は1839年 (天保10年) に奉納されたもの。


拝殿

神社の中心となる建物で参拝者が、本殿に向かい拝む場所になる。


幣殿

拝殿内の奥は一段高く幣殿となっている。この幣殿は宮司が祭儀を行い幣帛を奉る場所になる。


本殿

幣殿から渡り廊下が伸びて本殿に繋がっている。この本殿に御神体が祀られている。

本殿玉垣内には古い灯籠が残っている。写真左の二つは1774年 (安永3年) 三宅善助 永田彦兵衛、1776年 (安永5年) 当村上庄組 のもので、横たわっている2基の灯籠は1878年 (明治11年) 春日灯籠一对で浜・吉田若と刻まれている。


祓戸神社 (はらえどじんじゃ)

境内には祓を司どる神の祓戸四柱大神を祀る祓殿が1937年 (昭和12年) に建造され、1996年 (平成8年) に 再建されている。祓戸四柱大神とは

  • 瀬織津比売神(せおりつひめ): もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
  • 速開都比売神(はやあきつひめ): 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
  • 気吹戸主神(いぶきどぬし): 速開都比売神がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
  • 速佐須良比売神(はやさすらひめ): 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う


稲荷神社

拝殿横には1986年 (昭和61年) に再建された稲荷神社がある。いつ頃からあったのかは不明。


磐座 (子授け岩)

稲荷神社の奥には大岩が横たわっている。八幡神社の御神体で磐座 (いわくら) と言う。村ではこの岩を陰石として拝むと子が授かると言い伝えがあった。その事から子授け岩と呼ばれている。陰石の裏にある祠は稲荷神社を新調した際に古い祠を移したもの。


水神之神、地主大神、地主之神、地神之神、海上霊神

子授け岩の前には幾つかの石柱と石の祠がある。福田村内にあったが、放置されていたものをここに集めている。井戸や水汲み場に祀られる水神之神、その土地を守る神を祀った地主大神 (おおとこぬしのかみ)、地主之神 (じぬしのかみ) や地神之神と呼び方は様々、大漁祈願や海上安全を願う海上霊神などが置かれている。


豊受大神、祭神不明自然石、多賀神社、伊勢大神宮

幣殿から本殿への渡り廊下の両側にも様々な神が祀られている。向かって左側には、左には衣食住や産業の守り神としての豊受大神 (とようけおおみかみ) を祀った自然石がある。村内の二の坪の田の畦にあり「虫神さん」と呼ばれていたものをここに移している。その隣には自然石を祀っているのだが祭神は不明。向かって右の祠には、伊弉諾命 (イザナギ) と伊弉冉命 (イザナミ) を祀った多賀神社と天照大御神を祀った伊勢大神宮が鎮座している。


荒魂神社、春日神社、天満神社、祭神不明自然石、荒神さん

渡り廊下の反対側にも同じように三つの拝所が置かれている。左側の祠には素盞鳴命 (スサノオノミコト) を祀った荒魂神社、武甕槌命 (タケイカヅチ) を祀った春日神社と菅原道真を祀った天満神社が鎮座している。その隣の自然石の祭神は不明、右端の石の祠では竈三柱 (かまどみはしら) 大神の火の神の奥津比古命 (おきつひこのみこと)、奥津比売命 (おきつひめのみこと) と火産霊命 (ほむすびのみこと) を祀った荒神さんがある。

ここには寄進された4基の灯籠が残っている。江戸時代に造られたもので、写真左から

  • 1820年 (文政3年) 庚辰歳八月吉日 當村平木 塩屋利平治
  • 1832年 (天保3年) 大阪天満吉田の女
  • 1855年 (安政2年) 三木弥治左門
  • 1820年 (文政3年) 庚辰歳八月吉日、當村前濱 塩屋又兵衛

と刻まれている。


毘沙門殿

正式には言代主命毘沙門天 (ことしろぬしのみことびしゃもんてん) といい、かつては毘沙門岳に置かれていたが、祭祀には高い山を登って行かねばならず大仕事だった為、1977年 (昭和52年) に八幡神社境内の神輿殿横に遷座している。1997年 (平成9年) に観光事業者が小豆島にある神社で七福神巡りを企画した際に現在の毘沙門殿を再建している。 毘沙門堂の中には1626年 (寛永3年)に小部部落から奉納された 葺田八幡神社最古となると木製朱塗りの獅子頭 (写真右下) が置かれている。10月11日の秋季例大祭には小部獅子若十数名による獅子舞の奉納が続けられている。


神輿殿

福田村には現在では御神輿が三基残っている。古いものは1798年 (寛政10年) に造られ、それ以降、秋季例大祭で神輿渡御 (神幸祭) を斎行していた。1854年 (嘉永7年) に改修し、1966年 (昭和41年) まで神輿渡御を行っていたが、1967年 (昭和42年) に神輿 (写真右上) を新調し、現在はこの神輿で神輿渡御を行っている。2015年 (平成27年) に残っていた古い休眠中の神輿三台を解体し、その部品、部材を使い女神輿として再生している。この三台のうち一台 (左下) はのこり、現在では神輿三基が残っている。女神輿は別の場所に保管され、2基がこの神輿殿に保管されている。秋祭りでは神社で例祭、馬場で奉納行事を行った後、神幸祭では港の御旅所まで向かいそこで小部の獅子舞を奉納し祈願を行い、村内を通り神社に戻ってくる。


護国神社

境内には1967年 (昭和42年) に太平洋戦争で犠牲となった福田村と吉田村の119柱の慰霊のため護国神社が建造されている。これとは別に、戦前の1935年 (昭和10年) には忠魂碑が建てられていたが1946 (昭和21年) に取り壊されている。


金刀比羅神社

八幡神社の東側に鎮座しているのが大物主神 (おおものぬしのかみ) を祀る金刀比羅神社がある。1921年 (大正10年) に拝殿を建造し、御殿をおさめたとあるので、それ以前から御殿が存在していた様だが、いつ頃からあるのかは不明。階段を登った拝殿前には古い石灯籠1対が置かれている。


箸藏宮(はしぐらのみや、金比羅大権現)

金刀比羅神社の隣には箸藏宮 (はしぐらぐう) が置かれ、金比羅大権現を祀っている。神宮寺があった時からの名残ではないかと思われる。祠は1922年 (大正11年) に奉納され、 1997年 (平成9年) に改築されている。


以上が葺田八幡神社とその境内末社で、次に場外末社やその他スポットを見ていく。



社務所

八幡神社の隣は社務所があり、そこに隣接して神官の兄家族の住居がある。古い家で裏には土蔵、墓もあり、ここにも地主神 (右下) が祀られている。


旧バス道路

兄の家の脇には急な坂道が山へと続いている。この上には誰も住んでおらず、この道は使われておらず、途中で寸断されている。この道は1923年 (大正12年) に福田から隣の吉田村にバスが開通した際に造られた道路で、それまではバス通りは1915年 (大正4年) に開通した安田から福田止まりで、福田から吉田へは4月23日に通った山越えの遍路道の吉田道しかなかった。今、この道を見ると、道幅もバス一台がギリギリ通れるぐらいだ。当時は福田が小豆島では北の果てで「福田、吉田から嫁にこいというたら、死んで ないなというておくれ」という俚謡まであったそうだ。ようやく未開通だった小部-吉田間のバスが開通したのは1938年 (昭和13年) で、福田から小部、大部へは相変わらず山越えの遍路道が唯一の道か、海路の渡し船が交通手段だった。


大地主神

金刀比羅神社の隣、ちょうど旧バス道 (第一期) の崖下には民家があったのだが、このあたりは背後に山が迫り、以前は土砂崩れの被害も出ていた。その為、砂防壁などが造られたが、今だに危険地域で住宅は再建不可となっている。ここにあった民家はその為引っ越しを余儀なくされ、村の別の場所に移っていった。その跡地はまだその方の所有で昔から祀られていた土地の守り神の大地主神を修復して、今後もこの土地をに置かれるそうだ。地域住民に地主神に対する信仰の根強さを表している。この民家跡地の前の道路が1940年 (昭和15年) に第二期の福田-吉田間の海岸沿い道路になる。旧バス通道路は崖の上を走り危険だったから変更されたのだろう。


中宮 (なかみや)

八幡神社の大鳥居の前には境外末社として中宮大権現を祀る中宮がある。廃仏毀釈で消滅した神宮寺時代からの名残ではと思われる。

この中宮は辻に置かれ悪霊を退け災厄を防ぐと云われる八衢比古命 (やちまたひこのかみ) で塞の神 (さいのかみ) を祀っていると思われる。塞の神 (さいのかみ) と言う事で南北朝時代に小豆島にいた佐々木信胤の妻のお才の局を祭神とする文献もあるがこれは塞の神 (さいのかみ) との混同したことによる。現社殿は1928年 (昭和3年) に再建されたもの。大鳥居の外に鎮座されているが、境内の中程にあるので中宮と呼ばれていたと推測される。


恵美須神社

伊豆川河口の北側の港の中に恵美須神社がある。これも葺田八幡神社の場外末社に位置付けられている。1931年 (昭和6年) までは八幡神社の馬場脇、前公民館東側に鎮座されていたものを戎橋北側に移し、1980年 (昭和55年) に埋め立てられた現在地に新殿が造営されている。

この辺りは浜と呼ばれる地域になる。海岸沿いに民家がぎっしりと立ち並んでいる。人が一人通れる路地が入り組んでいる。昔のまま残っている。海風を避けるためにこのようにぎっしりと家が密集している。


福田港

伊豆川を渡るとフェリー船着場になる。福田村は小豆島の中では比較的水に恵まれた地域で、福田にはこの伊豆川と森庄川が、吉田には吉田川が豊富な水を運んでくる。

福田の港は現在では整備された北港と南港の二つあるのだが、以前、大正から昭和初期にはまだ港は無く、台風の時は漁船を隣村の吉田の港に避難させていた。

昭和3年に南港が完成。

昭和8年に北港が完成している。それ以降、何回か整備され、1959年 (昭和34年) に家島汽船が、福田-家島-姫路間に客船を就航。

1967年 (昭和42年) 小豆島フェリーが就航し、福田は小豆島の北玄関となり、観光ブームもあり、利用者は土庄港に次ぐ程になっていった。しかし、現在は以前程の観光客が見込めず、以前は1日7便あったのが3便まで減り、利用客も激減してフェリー経営は苦しい状況だ。


遠出浜、田中河内之介漂着地 (4月28日 訪問)

南港の南の海岸は遠出浜で海水浴場になっている。昔はここで観光客や地元の子供達が泳ぎ、海には飛び込み台もあった。

ここに田中河内之介漂着地の碑が置かれている。昔に建てられた碑は、雲海寺に移されている。

田中河内之介 (1815~1862 名は獣 [やすみち]、恭堂または臥龍と号す) は 但馬出身でもともとは小森氏だったが、大納言中山忠能の家臣 田中家に養子として入り田中家を継ぎ、諸大夫 (家老) となり、祐宮 (明治天皇) の養育係だった。祐宮が親王宣下を受けた後は、河内之介は職を辞し、田中家を出て川端丸太町の臥竜窟に隠棲している。当時、幕政に批判的であった河内之介は公武合体派の忠能と意見が対立した事と言われている。

幕末期には尊王攘夷運動に奔走し、1862年 (文久2年) の寺田屋の変の中心人物として捕らえられている。寺田屋の変に参加した他藩士はそれぞれの出身藩に引き渡され、引き取り先のない浪士田中一党と、鹿児島行を選んだ秋月藩士海賀宮門の5人は、薩摩への帰国を命ぜられた薩藩の生き残り組と共に2艘の帆船に分乗大坂を出帆した。河内介父子は柴山景綱以下10名と、 他の3人は西郷従道や大山巌もいる三島通庸等11名と同船している。海路薩摩に護送される途中、一子左馬介と共に柴山景綱により殺害された。殺害を指示したのが後の大久保利通とも言われている。田中父子は海に打ち捨てられ、この地に流れ着いた。

福田村史にその時の様子が書かれている。当時医師で村役人だった三木貫作 (明治以後貫朔に改名) が、没後30年後となる明治25年に漂着時の状況を訪ねて来た遺族の北村嘉猷に話した内容が記録になる。

北村嘉猷は漂着当時の福田村の元庄屋の三木権左衛門の屋敷に着くが、三木権左衛門は既に没しており、その息子で村長の三木但一郎が後を継いでいたが、田中河内之介之の検死を行った医師の三木貫朔の方は健在で、彼から当時の様子を聴取している。(この三木貫朔と三木権左衛門との関係は書かれていないのだが、私の母方の三木家は福田村で母の父親まで代々庄屋、村長をしているので、三木権左衛門が三木家本家で三木貫朔の曾孫は遠縁で交流が今でも続いているので分家にあたる。この様な事情でこの事に興味を持ち調べ、ここに少し詳しすぎるのだが記載している。)


1862年 (文久2年) 5月1日早朝、小豆島福田村前浜に漂着した父子の死体は海藻に巻かれ、後ろ手に縛り上げられたうえ、足かせをかけられ、両者には刺し傷が残り、特に左馬介の脇腹の抉り傷からは、腸が露出するという無残なものであった。河内之之介は従容として眠るがごとく、子の左馬介は歯を食いしばり、両眼をむいていかにも無念げであった。激しく薩藩の不仁非道ぶりを罵倒する左馬介と、逆上した薩藩士との間にすさまじいやりとりがあったという。三木貫朔は被害の場所は海岸から12丁突き出た金ヶ崎で、通常の潮の流れではそこから北方の岡山の沖に出るのだが、当日は北東の暴風で南方へ吹き寄せられ前浜へ漂着したと推測している。


駆けつけた庄屋三木権左衛門と年寄は死体を前浜から墓地に近い遠出浜に移し、倉敷代官所に報告し (漂着地を前浜ではなく遠出浜として届出)、出張して来た代官所の手代の検死の後に埋葬し、墓標として大きな自然石をそこに置いていた。後に北村がこの自然石を墓石として形を整えさせ 銘文を刻んでいる。遠出浜のすぐ近くに昔からの墓地がある。ここが田中河内之介父子の墓が置かれていた場所だろう。墓を造った後も村民により北村が発見するまで30年間立派に幕を守り続け、その後、1919年 (大正8年) に雲海寺に墓を移し、昭和36年に河内介父子100回忌慰霊と殺害下手人罪業消滅の法要が雲海寺において執り行われ、現在の場所に墓 (後述) が移されている。


小島、厳島神社 (4月28日 訪問)

遠出浜の砂浜の東に小島と呼ばれる無人島がある。

この島の西端には厳島神社が置かれていると資料にあった。地元では弁天さんと呼ばれ、琵琶弁天を祀っている。1949年 (昭和24年) に再興され、1992年 (平成4年) と1997年 (平成9年) に鳥居が福田漁業会により再興されているとあるのでいってみる事にした。この時は満潮で海岸沿いは進めず、一度バス道を上り、そこから島近くまで降りて行く。島に向かうと目の前を猪がゆっくりと横切っている。一瞬びっくりしたが、幸いにも、突進してこず、悠々と森の中に消えていった。他にも猪がいるかと見渡し、いないのを確認して島に向かう。昔は島へは今の様に防波堤で繋がってはおらず、この島に行くのは初めて。防波堤は途中まではコンクリートで歩きやすいのだが、それ以降は大石が置かれているだけで、注意しながら進み島に到着。

島に着くと崖の上に登る為のロープがある。ここは厳島神社のあるとなっていた島の西端なので、ここをよじ登った所にあるのだろう。

上に登ったのだが、祠は見当たらない。これ以上は登れそうなところは無い。祠は無くなってしまったのだろうか? 資料では鳥居を再考してから5年で造り直しているので、台風などで壊れ、現在では作り直していないのかもしれない。昔は村では祭祀の際に船でこの小島に向かい、船から拝んでいたそうだ。まだ、福田に小学校と中学校があった時は、高学年になると、北港からこの小島まで遠泳が行われていた。距離がかなりあるので、全員でなく、事前に選ばれた生徒だけで、男子はフカ (鮫) よけのため、赤い6尺ふんどしを締めて泳ぐ、小舟が並走し、太鼓を打ち鳴らし、それに合わせて泳いで小島に泳いだそうだ。


日金神 (4月28日 訪問)

この小島に降りる為に旧バス道を通った際、遠手浜から西に入り込んだところに巨石があり、八大竜王を祀っている。google map では白金神社とあるが、地元では日金神 (ひこんじん) さんと呼んでいる。google map で「日」を「白」と読み違えたのかもしれない。

日金神の裏には藤堂高虎が大阪城の石垣を採石した際か、港に運搬する途中で放置したのか、残石がある。大きな岩には石を割る楔の跡も残っている。


福地蔵 (4月28日 訪問)

旧バス道を進むと道沿い崖の上に鳥居と祠、その隣に地蔵尊があった。福地蔵と呼ばれているが、何を祀っているのかは不明。一説には城崩れ (じょう崩れ) と呼ばれている落武者を祀ったとある。


金神神社 (4月28日 訪問)

旧バス道を更に進むと「歳徳金神本部斎場」と刻まれた石柱の奥に階段が見える。ここは地元では金神 (こんじん) と呼ばれている神社があった場所になる。土砂崩れて拝殿、本殿は流されてしまい、その後は再建されていない。これは香取金光教の神社で金光教の開祖の赤沢文治の実弟の香取繁右衛門が1857年 (安政4年) に岡山の亀山で金神の神懸かりで立教し、亀山の金神様と呼ばれていた。方位神の1つの金神を祀る金神信仰は平安時代から存在し、特に岡山では庶民信仰として根強く、香取繁右衛門がその神官を継承したとされる。兄が教祖の金光教と多くの共通点がある。跡地には三つの碑が置かれている。「天真教會開祖中教正須計志那姫命碑」「故大教主須計琴美姫命霊」「玉姫霊神」とある。大真教ともあり香取金光教との関係は不明。この地域で神官をしていた方が亡くなられた後はその後継者については不明だそうだ。


地蔵尊 (4月28日 訪問)

旧バス道から現在のバス道に出ると、その先に地蔵尊が置かれていた。こちらが福地蔵かもしれない。


第85番霊場 本地堂 (5月5日訪問)

福田には札所が三つある。第53番の福田庵には4月22日に訪れた。そこから遍路道があり雲海寺に通じている。雲海寺には54番の雲海寺と55番の本地堂が置かれている。寺の前は墓地になっている。墓地の中に参道があるのは珍しい。通常は寺の裏に墓地がある。ここの住職と話をした際には、古くはこの墓地はなく、後に造られたという。寺の裏はすぐ山になっており、墓地を造る場所がなかった。墓地の中に無縁塔があり、そのてっぺんには立派な地蔵尊が置かれている。この地蔵尊は私の祖父が作り、第一期の福田-吉田間バス道となった道端に安置していたものをここに移している。

階段を登ると鐘楼があり、正面には本地堂が雲海寺に併設されて置かれている。元々は葺田八幡神社の別当寺で八幡神社の隣り、福田小学校の裏手あたりにあったとされている神宮寺で、第55番霊場だった。1869年 (明治2年) の神仏分離令により、神宮寺は廃寺となり、本地仏をこの雲海寺に移遷され、本地堂として霊場となっている。神宮寺の開基時期については不明だが、残っている文献では1505年 (永正二年) のものにこの神宮寺が登場しているので、これ以前から存在していた。当時は本尊として行基 (668 - 749年) 作の薬師如来を祀っていたとされているので、雲海寺と同じく、奈良時代に行基により開基された可能性がある。現在では元の薬師如来は祀らず、本地堂には恵心憎都作の弁財天を本尊としてが安置されている。これについては住職もその経緯はわからないそうだ。昔あった神宮寺については遺構などは見つかっておらず、正確な場所も不明のままだそうだ。


第84番霊場 雲海寺 (5月5日訪問)

本地堂の隣には如意輪観世音菩薩を本尊とする雲海寺の本堂がある。雲海寺は天平年間 (729~749年) に行基菩薩が風浪をこの地に避け、不思議の霊瑞を見て智波羅密菩薩の尊像を刻み開基したと伝わっている。寛永年間には、法印堪然の時、本尊を作り、前の本尊を秘仏として、この体内に納め、顕密二体より成る一本尊にして「孕み観音」と称されたという。今回の遍路は出来るだけ昔の遍路道を通りたく思い、それが記載されている「小豆島お遍路道案内図」を購入しようと色々と探したのだが、新版発行の準備中でどこにも売っていなかった。たまたま、ここの住職が一部持っており、それを借りて参考として遍路道を歩いた。そのお礼を兼ねて、この雲海寺を尋ね、住職から昔話などを伺った。兄が神社の神主なのだが、ここの住職とは交流もあり、住職も神道に理解があった。神道や地元信仰についての住職の立場を尋ねると、この寺でも氏神を祀っているといい、家の中にある神棚を見せてくれた。そこには菅原道真の天満宮、福田村の氏神、そして八幡宮が祀られていた。住職が説明してくれたのは、真言宗で鎮守社を造って、地元の氏神を祀っているという、これは弘法大師の教えで、高野山でも高野明神を祀っている。という事で、村の中では神社と寺は良好な関係を保っている。

本地堂と雲海寺の本堂の間には閻魔堂兼護摩堂が置かれており、閻魔大王と十王の彩色された木造が安置されている。小さい頃にはこの閻魔堂に来るのが怖かったのだが、その時を思い出して閻魔堂を見たくなった。当時と建物が変わっている様で、この堂がそうなのかはわからなかったが、扉を開けるとそうだった。

閻魔大王を代表に横には人頭杖と九王を含めた十王が置かれている。十王のそれぞれには名称と裁きを行う日が記載されていた。ここの閻魔十王像はいつ頃作られたのかは分からないがかなり立派なもの。インターネットでは全く紹介されていないのだが必見のもの。十王には日本では本地仏が割り当てられている。

  1. 秦広王 (しんこうおう) 不動明王 初七日
  2. 初江王 (しょこうおう) 釈迦如来 二七日
  3. 宋帝王 (そうていおう) 文殊菩薩 三七日
  4. 五官王 (ごかんおう) 普賢菩薩 四七日
  5. 閻魔王 (えんまおう) 地蔵菩薩 五七日
  6. 変成王 (へんじょうおう) 弥勒菩薩 六七日
  7. 泰山王 (たいざんおう) 薬師如来 七七日
  8. 平等王 (びょうどうおう) 観音菩薩 百か日
  9. 都市王 (としおう) 勢至菩薩 一周忌
  10. 五道転輪王 (ごどうてんりんおう) 阿弥陀如来 三回忌

全部は写真に撮れなかったが、一部は下の写真の通り    

寺の墓地にある参道沿いに、田中河内介父子の哀悼碑 (写真右) がある。これは先に触れた三木始め村人が造立したもので、1892年 (明治25年) に田中河内介父子の墓参に訪れた品川弥二郎の碑文になっている。当初は墓があった遠出浜を見下ろせ山の中腹に置かれていたが、県道沿いに移され、更に遠出浜海水浴場入り口に移され、2011年の田中河内介父子150回忌でここに移されたもの。雲海寺奥には遠出浜から移された田中河内介父子の墓 (左下) もある。今でも村で大切にされているそうで、花が供えられている。

墓地の一画には太平洋戦争で犠牲となった福田村出身の兵士の慰霊碑が置かれている。父の兄、生きていれば叔父にあたる方の名前も刻まれていた。


玉姫神社 (4月25日 訪問)

4月25日に雨の中訪問した。森庄川沿いには八幡神社の境外末社の玉姫神社がある。この神社については1395年 (応永2年) の備前国神名帳に小豆島郡座2社として鹿島従五位上玉比咩明神とともに正五位上玉比咩明神と記載されており、1395年以前からこの地にあり、祀られていた事が分かる。現社殿は明治25年のものである。福田村ではこの玉姫神社への信仰は根強く、江戸時代には既に組織され、近年まで玉姫講が続いていた。玉姫信仰の有志により6グループに分かれ、当たり籤の家に集まり、伊勢講や金比羅講等の他の講より派手な振るまいを競うように行われていた。

境内には玉比売旧跡石碑 (写真左上) が置かれ、玉姫神社の由縁が刻まれている。それによると、備前国に鎮座の三神のうち一神が洪水のため流失し、当浜よりの浜に漂着したが、神とは知らずおし流したところ、再び福田側の浜に漂着した。馬右衛門、助右衛門は、これは只事ではないと思い拾い上げて、これを背負い尾崎庄の現在地に小祠を建て祀ったと伝わっている。それ以降、この神体を押し流したところを外明神 (とちめんじ)、再び寄ったところを内明神 (うちめんじ) と呼んでいる。


筆者の生家 (4月25日 訪問)

玉姫神社の横を流れる森庄川の上流側の尾崎庄 (おさきしょう) 部落の端山の麓の民家がまだ残っている。ここで生まれ、明石に引っ越すまでここに住んでいた。半世紀が過ぎたが昔のままだ。玄関前の砂場ではよく遊んだ。庭の井戸の側には大木があり、枝にロープを掛けブランコがあった。大木は無くなったが井戸はまだ残っている。ここは親戚からの貸家で、今はその人が住んでいる。外から眺めていると、台所や風呂場などの間取りも記憶に蘇ってくる。懐かしく、今でも昔のままになっているのはありがたい。


阿多羅志さん (4月25日 訪問)

森庄川沿いの北岸に神社がある。八幡神社の場外末社ではなく、何を祀っているのかは不明だがかなり古くからあるという。一説では城崩れの神とも云われている。小豆島にはこの城崩れ (じょうくずれ) の神を祀った祠がいくつかある。そこでは南北朝時代に細川氏に責められ敗北した佐々木信胤軍の落人とか平家の落人を祀っている。これを城崩れと呼称している。現在の社殿は1986年 (昭和61年) に修復されたもの。


森庄川、森庄ダム、分水堤

幼少期にはまだ海で泳ぐことは危険という事で、住んでいた家から少し上流で水遊びをしていた。懐かしくそこを見に行った。これより上流には行った事がなかったので、どのようになっているのか興味があり、道を登るとダムになっていた。

道はまだまだ上に続いていた。道を登って行くと森庄川分水堰があった。この分水堰からは吉田ダムまで分水トンネルが敷設されており、吉田ダムと森庄ダムの水量の調整を行う仕組みになっている。

道は森庄川分水堰で行き止まりになっていたが、その奥に平は山の中に山道がある。雨が降っており、山の中は足元が不安何だが、山道を見ると行ってみたくなる。思い切ってこの山道を登って行く事にした。山の上まで三分の2程進んだ所で山道が分からなくなった。強引に木々をかき分けて上にある自動車道路を目指して山を登って行く。

山道が見つかりようやく自動車道路にたどり着いた。標高400mだった。ちょっとした低山の山登りだった。

そこで見つけたのは、猪捕獲のための罠が仕掛けてあるので注意とあった。後で聞くと時々足を挟まれる事故があったそうだ。以後、注意する事にしよう。


平間部落

自動車道路から福田村に属している平間部落への道が分岐している。ここまで登ってきたので、平間部落に寄ってみる事にした。平間部落の共同墓地を過ぎると谷に降りる下り坂になる。そこを降りると民家があり、家の前には井戸があり、水神が祀られている。

平間部落は戦後開墾が行われて一時は30世帯ほどが入植したが、現在では数世帯しか住んでおらず、民家も点在している。道沿いには吉田ダム建設時に導水菅敷設に協力した事の感謝の碑が置かれていた。この導水管敷設の際には、平間住民の反対もあった事からこの碑が置かれたのではと思われる。


平間神社

平間部落の上方の山には平間神社がある。この神社は、戦後こに地に入植した人達により、1947年 (昭和22年) によって葺田八幡神社の境外社、村の氏神として作られ、八幡大神、天照大御神、大物主神、大山津見神、 水波能売神、 五十猛神 (イソタケル) が祀られ、5月3日に例祭が行われている。現在の平間神社は1987年 (昭和62年) に石の小祠に改築、1996年 (平成 8年) に石鳥居が建立されたもの。


吉田川

集落の中に吉田川が流れ、集落の下流には平間ダムが造られている。


瀬戸芸sd55 「そこにいた」

平間集落を後にして、谷から道を登り自動車道に出て、その道で福田に帰る。もう山道を降りる気力は残っていない。自動車道路脇には二ヶ所金色に塗られた大岩があった。瀬戸内芸術祭の「そこにいた」という作品だそうだ。韓国のイ・スーキュン (李秀京) のもので、解説には

石は宇宙の誕生の神秘と歴史の証
古来より大きな石は神聖なものの象徴で、それにまつわる儀式も多く伝えられてきた。しかし現代では開発工事などにおいて石は逆に障害物として見られ、取り除くべきものとなっている。作家は、韓国で仏像を作る材料のひとつである金箔を石に貼り、仏陀が悟りを開き体が光っている様子を作品に落とし込む。

とある。自動車で移動している人はほとんど気づかず通りすぎてしまう場所に置かれているのは、ちょっと残念。ここを歩く人はほとんどいないだろう。ただ、この道を歩いて降りて来たが、自動車にも一台も出会わなかった。

道を降りて行くと長い橋になる。まだまだ福田村への道は長い。

山の谷間に架かっており、大きくカーブし、微妙な傾斜がある高所恐怖症としては落ちないと分かっていても苦手な場所。自動車が走っていないので出来るだけ橋の中心部を歩いて通過する。


道徳霊神

福田村に近くなった所に道徳霊神と刻まれた拝所があった。何を祀っているのかは不明だが、ここで交通事故があったようで、それに関連して造られたという人もいる。


これで雨の中の散策を終わり、疲労困憊して家に到着。当初は雨なので軽く済ます予定が移動12km、標高400mの山登りになってしまった。




金ヶ崎

旧福田村の中の金ヶ崎と呼ばれる岬がある。旧吉田村と旧福田村の境界線になっていた所で、この岬の突端に神社があるというので、5月3日に吉田村に向かう途中に寄ってみた。


金ヶ崎観音堂

バス道から、岬方向に道が開いていたにでそこに入って行く。暫くすると祠が建っている。これは金ヶ崎観音堂で昔は神宮寺が管轄していた堂になる。中には観音菩薩が祀られている。資料では遥拝所と推測されているとあるが、どこを遥拝しているのかは書かれれいなかった。この辺りの住民が神宮寺を遥拝していたのか? ただ、この辺りの民家であれば、荒浜か吉田だが、それでも幾分距離がありわざわざここに来て神宮寺を遥拝するとは考えにくい。多分、金ヶ崎の岬の突端にある御崎神社を遥拝していたと思う。


御崎神社

金ヶ崎の岬突端にある御崎神社を目指して道を進むと崖となり、海岸に降りるためのロープがある。それにつたって降りる。岬はまだまだ先だ。

海岸を歩くとまた登り坂の道が森の中に通じている。そして、また海岸に降る。

海岸を進むとむき出しの岩肌がある。採石場の跡だ。この金ヶ崎は一つの台地ではなく三つ四つの小山が凸凹状になっている。これが自然にそうなったのか、採石の結果そうなったのかのか? 

この先への道を探すが、山方面は木々に覆われて道らしきものは見当たらない。もう少して突端までなのだが、海岸の岩場にロープが張られていた。このロープで岩壁をつたって進むと思われるのだが、ここでギブアップ。この先にあるだろう御崎神社の祭祀は村人が船で岬の沖まで行き、そこから拝むので、海岸沿いには道は無さそうだ。先に訪れた小島の厳島神社も同様な祭祀で、鳥居や祠は無くなっていた。この御崎神社も残っているかわからない。




これで滞在中に訪れた旧福田村の史跡はほとんどここに記載した。まだまで、見たいところはあるのだが、それは次回、小豆島に帰ってきた際にみようと思う。




参考文献

  • 福田村誌 葺田の里 (2005 福田地区自治連合会)
  • 小豆島お遍路道案内図