アルフレート・シュニトケ(Alfred Garyevich Schnittke)…天国の音楽、消え行く和音。
アルフレート・シュニトケ(Alfred Garyevich Schnittke)
…洗練された音楽美。
天国の音楽、消え行く和音。
Alfred Garyevich Schnittke
1934.11.24-1998.08.03.
例えば、アルフレート・シュニトケ、例えば、ブルーノ・マデルナ。
実際問題として、死後何十年もたって、当たり前だが、その新作のスキャンダラスな話題性によって注目されることもなくなったいま、この期に及んで、彼らの音楽を共感を持って聴く人が、どれだけいるのだろう?
いま、何の同時代的な話題性もなく聴くならば、時として、彼らの作品は、あまりにも病んでいる気がする。
いびつで、暗い、狂った音楽。
いずれにしても、どうしようもない暗さと痛みを、おそらくは、彼ら自身の個人的な理由によって、表現しなければならなかった、そのこともまた事実だったには違いない。
彼らは、どうしようもない《暗さ》を抱えた、最後の作曲家でもあった。
最後の悩める実存主義者、というか。
マデルナの音楽に存在する、いやおうのない暗さや痛み、それらは目を覆うばかりだし、シュニトケの、まともに笑った事がないかのような音楽の表情も、あまりにもいびつな、ゆがんだ音色も、聴いていて辛いときのほうが多い。
シュニトケ:弦楽四重奏曲第二番
第一楽章・第二楽章
にも拘らず、いまだい彼らの音楽を聴いてしまうのは、その暗さに共感するからではなくて、彼らの音楽が、驚くほどの洗練を持っているからだ。
特に、シュニトケ。
《多様式主義》を積極的に採用した彼の音楽に、一般的には、ごちゃ混ぜの暴力的な音響を鳴らす、美の対極にある音楽、という評価が下されるのが普通だが、私は、そうは想わない。
単純に言う。
アルフレート・シュニトケは、…その音楽は、ただひたすら美しい。
しかも、圧倒的な繊細さで。
シュニトケ:弦楽四重奏曲第二番
第三楽章
シュニトケの弦楽四重奏曲。
初めて聴いたのは、クロノス・クァルテットの二枚組みのCDで、だった。
驚いたのは、その音楽の、攻撃的なまでの暗さ、ではなくて、洗練されきった音楽美において、だった。
特に、その第二番は衝撃的だった。
いまさら、こんなに洗練されきった音楽があっていいものか、と。
第一楽章の、かすれる弦の響きからして、単なるノイズのようにさえ聞こえながら、対位法的な空間性から何から、時間的な組み立てから何から、実際鳴るべきときに、鳴るべき音が、鳴るべき音程で、確実に鳴っている。
何もかにもが、こんなにも完璧に計算され尽くした音楽は、なかなか聴けるものではない。
第二楽章のリズム感と間合いも見事だし、とにかく、なんて、正確な音楽なのだろう、と想った。和声が狂って行く、その狂い方にしても、まさに完璧な発狂の仕方をしていく。
私にとっては、シュニトケは、病んだ音楽を量産した退嬰主義者どころか、音楽の洗練を突っ走った、音楽美の達人、というイメージしかない。
ャン・シベリウスの音楽に対して、何の混じりけもない、純粋無垢な、混じりけなしの音楽だ、という評価が多い。
シベリウス・ファンはみんなそう言う。
たいして好きでもない人間までもがそう言う。
本当に?と想う。
シベリウスの音楽が美しく輝くとき、少なくともその交響曲においては、音楽以外の何かが見詰められている瞬間が、実は、多い。
僕は、そんな気がする。
シベリウスは、必ずしも、純粋な音楽美のストイックな作曲家、ではなくて、フィンランドを代表する世界的作曲家、そして国民作家、という、たぶん本人にとっては面倒くさいだけだったかも知れない肩書きを背負うことを決意した男の、決然とした国民楽派的音楽家だった、そんな気がする。
初期の二曲の交響曲が、ではない。
後期になればなるほど、僕は、その決意を感じるのだ。
音楽以外には、個人的な、あるいは政治的な、いずれにしても、アルフレートという一人の男の眼差しが捉えた《痛み》しか持っていなかった男の、弦楽四重奏曲。硬直した叫び声をを擦り付けるように、和音を鳴らし続ける第三楽章が果てた先の、第四楽章。
シュニトケ:弦楽四重奏曲第二番
第四楽章
音楽は、唐突に、この世の果ての純白の光の中に目覚める。
僕は、これほど天国的な音楽を他に知らない。
この、繊細な、…一度消えてしまった残響の記憶でさえあるかのような和音の向うに、僕たちが見るべき風景は、一体なんだったのだろう?
作曲家は、一体、何を見ていたのだろう?
音楽的洗練の極北を走った、しかし、無口な作曲家は、何も語らない。
2018.06.06 Seno-Le Ma