不易流転
TAO 自分さがしの旅@ilchi_tao
存在するのは、今この瞬間しかない。いかに過去が美しかったとしても、それはすでに過ぎ去った。どれほど素晴らしい未来が想定されるとしても、それはまだ来ていない。今以外はすべて幻想に過ぎない。
マノマノ稲穂@manomano_farm
信じられないかもしれませんが、幸せに生きるのに必要なものはすでに揃ってます。あなたがすべきことは幸せを手に入れることではなく、幸せを感じることのできる心を手に入れることです。これは他人との比較ではなくて、あなたが感じる「楽しい」に気が付くことなのです。あ、おはようございます
一指李承憲@ILCHIjp
幸運体質になろうと決めたらどんなに大変な状況でも絶望に身を任せてはいけません。
いつも笑って明るい言葉遣いを習慣づけましょう。
余計な言葉は体のエネルギーを枯渇させ人格を落としますが 心のこもった愛の言葉は
大きな慰めとパワーを与え立派な人格を築く礎となります。
FacebookTakahisa Taniguchiさん投稿記事「子どもを叱りつけた後で自分を責めてしまう」
こういう相談をよく頂きます。
まず、感情は本能の領域で、理性の領域ではないそうです。だから、感情が生じるのは、生理現象みたいなもので、至極当たり前の事です。その感情がたかぶりすぎた時、脳は危機だと感じます。すると、攻撃性である「アドレナリン」が分泌し、「ドーパミン」も中枢神経に集まるそうです。同時に、理性をつかさどる脳はスイッチをオフにするそうです。
こういった事で脳と体の緊張がピークに達すると、脳は自分を守るため、無気力、自責の、いわゆる「うつ」状態になるらしいです。
つまり、脳の安全装置みたいなもので、興奮の後にうつを感じるのは「進化」だといいます。
これが、「子どもを叱りつけた後で自分を責めてしまう」理由です。
さらにいうと、感情には、コントロールが難しくなる状況があります。
飲酒時などは言わずもがな、「愛してる」時にも、理性はマヒしやすいといいます。
つまり、子どもを愛してるのに感情がコントロールしにくいのではなく、愛しているから自分の感情のコントロールが難しいのだそうです。
こういった事を理性的に知る事が、怒りがコントロールできるようになる一歩目です。
その上で、より感情をコントロールしたければ、「自分が怒りそうだな」と思った時、
つまり感情がたかぶる前に、「深呼吸をする」、「一旦離れる」などの行動をしてみましょう。
最初に書いた通り、感情自体は本能の領域なので、感情のコントロールがうまい人は、感情そのものを抑えているのではなく、そのメカニズムを理解し、たかぶる前に対処するか、表現方法を工夫しているだけなのです。
少なくとも、子どもを叱り自分を責めるのは、脳の当たり前の機能で、愛しているからが故のようです。
FacebookJAN トクナガさん投稿記事 【不易流転】(ふえきるてん)
こんにちはしゃちようの徳永です 「不易流転」・・・この言葉は、15年前ほどに私の父である先代の社長が作った言葉です。
私が、社内マニュアルを作った際に父から「経営理念」として差し出された言葉です。
意味としては・・・
時代の流れに乗りながらも不変的な人と人との繋がり、信頼関係、愛を大切にする仕事の在り方ということです。
で、最近・・・江戸時代の経済学者石田梅岩の本を読みましたがその中に似た言葉を見つけました。
「不易流行」時代の要請に応じて変えるべきは変えて守るべき伝統は残す・・・という意味です。
父は勉強熱心で歴史にも詳しかったのでおそらく「不易流行」という言葉も知っていただろうな〜と思うのですが「あのさ、あの不易流転って不易流行のパクリでしょ?」と聞いてみたいもんです。
今度、墓前で問いかけてみます(笑まあ、かなり私はこの「不易流転」を気に入ってますが・・・
https://norio373.hatenablog.com/entry/2019/01/12/213950 【空という自由】より
お金や物を増やすことに執着せず、
自らにとって最適な食事の量を意識のセンサーでビシッと認知して食べ過ぎぬゆえに身体は軽く、心が縛られることなく、どこまでも「空(じゆう)」となるならば、その自由は無色透明で他人には見えにくいもの。
あたかも空を自由に飛ぶ鳥の飛んだ軌跡は透明で目に見えぬのにも似て、
他人には見えもせず理解しがたいにしても、「空(じゆう)」となることで自分自身を乗り越える。
https://www.stresscare.com/info/keyword01_11.html 【「般若心経」と「認知心理学」】より
西洋で人気のある認知心理学は、東洋の仏教と極めて似た考え方です。例えば、「般若心経」の中に出てくる「色受想行識(五蘊)」は、脳の情報処理システムそのものと言ってもいいものです。また、「眼耳鼻舌身意」は人間の知覚を表しています。
認知心理学では、「眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)」による外部からの情報入力の研究が主体でしたが、今は、「ルミネーション」など、思い出すことによる、内部入力に焦点が当てられるようになっています。つまり、「眼耳鼻舌身意」の「意」に相当するものです。
東洋の瞑想には、体の感覚や、味覚などに意識を集中させるものがあります。おそらく「眼耳鼻舌身意」のうち「眼耳鼻舌身」の五感に意識を集中させ、それらの情報処理で頭の中を満たすことによって、思い出すことによる「意」の要素が入り込む余地をなくしているのだろうと思われます。脳の中で嫌なことを思い出す余地が減れば、気持ちは軽くなりますし、ストレスの慢性化を避けられます。
西洋で、マインドフルネスという仏教を基にした対応法が盛んに研究されているのは、仏教の知恵には、認知心理学や脳科学を包含したような深い概念が存在していることが影響していると考えられます。認知心理学の研究が進めば進むほど、マインドフルネスなどの東洋系の知恵が注目されるはずです。
https://www.youtube.com/watch?v=F5GyTGmDs3Y
【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」
■講座動画の補足情報
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中村 元、紀野 一義『般若心経・金剛般若経』 (岩波文庫)
舍利子。是諸法空相。不生不滅不垢不淨不増不減。
是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。
無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明盡。乃至無老死亦無老死盡。
舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。
無明もなく、また、無明の尽くることもなし。 乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。
シャーリプトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、) 迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、) 迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。
禅文化研究所『般若心経』山田無文老師
盤珪禅師は、ここのところを次のように示しておられます。
「人間の本性というものは本来、鏡のように清浄なものじゃ。 鏡の中には何もない。物が前に来れば映るし、物が去れば消えるだけだ。しかも後には何も残りはせん。物が映ったからといって、鏡の中に生じたものは何もないし、去ったからといって、鏡の中に滅したものは何もない。これを、『生ぜず滅せず』と言う。 きたない犬の糞を映したからといって、鏡の中は汚れはせん。きれいな花を映したからといって、鏡の中はきれいにはならん。これを、『垢れず浄からず』と言う。 鏡の中に物が映ったからといって、鏡の目方は増えやせん。物が去ったからといって、鏡の目方は減りはせん。これを、『増さず減らさず』と言う。般若心経に不生不滅、不垢不浄 不増不減とあるのは、まったくこの鏡のように清浄無垢な人間の本性をうたわれたものじゃ」
五蘊 色受想行識
十二処
十八界
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、
色・声・香・味・触・法の六境の十二処。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識を合わせて十八界とする。
十二因縁
一無明 無知。二行 潜在的形成力。三識 識別作用
四名色 名称と形態 五六処 六入。六感官 六触 接触
七受 感受作用 八愛 渇愛妄執 九取 執着
十有 生存 十一生 生まれること 十二老死 老い死にゆくこと
私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。私どもは皆仏心の一滴である。(円覚寺 朝比奈宗源老師)
http://rinnou.net/cont_04/zengo/170701.html 【身是菩提樹、心如明鏡臺 みはこれぼだいじゅ、こころはみょうきょうだいのごとし】より
『無文全集』第6巻「六祖壇経」
(山田無文著・2004.1 禅文化研究所)より
偈に曰く、身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭(ほっしき)して、塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむること勿かれ
これは今日、六祖の詩に較べてつまらない詩だと、非常に劣っておるように皆が申すのでありますが、これはなかなか立派な詩だと私は思うのであります。この詩のとおりに修行をすれば、確かに悟りが開けるわけであります。
「身は是れ菩提樹」、お互いの体は悟りの樹だ、悟りの花を開く大事な菩提の樹である。お互いはこの体というものを大切にしなければならんわけであります。命というものを大切にしなければならんわけです。しかも、「心は明鏡台の如し」、心は鏡のような美しいものである。心は本来、明鏡のようなきれいなものである。そのとおりだと思うのであります。私どもがお話をいたすのにも、このとおりに申すのであります。
先日も山陰の方へまいりましたら、青年が是非とも座談会をしてくれと言うので行ってみますと、いろんな質問が出ました。その中に、「有り難いということはどういうことですか。有り難い、有り難いと私どもは申しますが、有り難いとはどういうことですか」と、こういう質問があったのであります。有り難いという言葉は、仏教の言葉だと私は思うのであります。『法華経』の中にも「有り難し」という言葉はあります。『法句経』などにも、「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し、正法を耳にするは難し、諸仏の出世に会うこともまた有り難し」という言葉があります。有り難いということを普段使いますが、多くの場合、物をいただいた時、「ありがとうございます」と申します。自分の生活の上に何かがいただけた時に有り難いと申すのであります。物が「有り難い」ということは、「滅多にない」ということであります。滅多にないものは有り難いのであります。戦争中でありましたら薩摩薯(さつまいも)一ついただいても有り難い、米一升いただいても貴重品だ、有り難い。物が有り難いということは、物が少ない時に有り難いのである。今日のように物が出廻ってきますというと、物がちっとも有り難くなくなる。
鈴木大拙博士がよく言われるのでありますが、「アメリカへ行って一番困るのは、まったく物が多すぎて、われわれには勿体なくてかなわん。われわれのように日本の禅宗の教育を受けた者は、物が勿体なくてかなわん。買い物に行けば大きな紙に包んでくれて袋に入れてくれるが、そういう物を取っておけば邪魔になるし捨てんならんが、勿体なくてかなわん。そういう物を処置するだけでも、また人を頼まんならん。そうして物はどんどん使っていかんというと生産者が困る。どんどん使っていかにゃいかん。禅宗の教育みたいに包んであるものの紐をきれいに丁寧にほどいて、それをからげて取っておく、包み紙はしわを伸ばして取っておく。そういうことなんぞしておったら物が余って困る。どんどん使わんことには生産者が困る。消費するほど生産者が助かるのだから、消費しなくちゃいかん。そういう生活はわれわれにはどうもぴったりせん」ということを言われております。物が豊かになればなるほど、物はちっとも有り難くなくなる。
お経には有り難いという言葉は使ってありますが、これは決して物には使っていない、物が有り難いなんて書いていない。「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し」、有り難いというのは人間に生まれたこと、今日生きておることが有り難い、命だけは有り難い。これはどんなに物質が豊かになってもそのとおりだ。アメリカだってそうだ。命というものは一つしかないのであります。かけがえのないものであります。無常迅速である。この命だけは有り難い、二度とない、滅多にない。「人間に生まるること難し、死すべきものの命あるは有り難し」、その命が有り難いだけでなくして、この命が本当に生きていく、本当の人生を生きていく道を教えてもらうということが有り難い。「正法を耳にするは難し、諸仏の出世に会うこともまた有り難し」、そこで仏法の方で有り難いということは、法が聴けるということが有り難いのだ。法を体得した仏、自覚者に会えるということ、仏法を聴けるということ、法の体得者に会えるということが有り難いことだと。まさにそのとおりであります。
そこで、「身は是れ菩提樹」でありますから、体は悟りの花を開く樹である。命あって初めて悟りが開けるのであります。この命というもの、体というものはまさに菩提の樹であって、これは大切にしなければならんものである。しかも「心は明鏡台の如し」。これはもう私どもが始終申し上げることで、われわれの本性というものは鏡のようなものだ、一点の曇りのない大円鏡智という大きな円い鏡のような智慧、そういうものがわれわれの本性である。鏡のようなきれいな心が本性である。経験以前、知識以前の心というものは鏡のように何にもないものだ。自性清浄心であります。人間の本性は清浄無垢だ。あるいは中国の言葉で申しますならば、聖人の心は明鏡止水(めいきょうしすい)だ。きれいな鏡の曇りなきがごとく、池の水が澄んで波が立たんような澄みきったものが聖人の心であります。日本の神という言葉、神さまの神という言葉も鏡がつまって神になったと申すのでありますから、神さまも鏡のような心である。「此の宝鏡を視(み)まさんこと、当(まさ)に吾れを視るが猶(ごと)くすべし」と天照大神は御孫、に鏡を渡されたと申しますが、それはこの鏡が私の持っておった記念の品だという意味ではなくして、鏡のごとく曇りのない心が神の心だぞと、こうお示しになったものだと受け取れるのであります。御神前にはどこでも鏡が供えてありますが、「心は明鏡台の如し」、われわれの生まれたままの心は鏡のごとく清浄無垢なものであります。その鏡のような清浄無垢な心に雲がかかると、塵(ごみ)がかかるとその鏡が現われないのだ。その鏡の光が現われないのだ。妄想の雲がかかって煩悩の塵がかかり、そうして心を晦(くら)ましておりますから、そこで、「時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること勿かれ」、常にその塵を払い、埃を払い、曇りを拭(ぬぐ)い、そうして塵や埃がその心の本性にかからんように努力していかにゃいかん。坐禅をするということは、その塵を払うことである。念仏を唱えるということはその曇りを拭うことである。そうして、いつも本来の清浄無垢な鏡のような心で、毎日、日暮らしをしなければならんと、こう示されておるのでありますから、これは決して悪い詩ではなくして、大変結構な詩であります。
Facebook近藤裕子さん投稿記事
5月7日《天何言哉 四時行焉》百物生焉
天何をか言うや 四時行われ 百物生ず ー論語ー
私が何も語らなくても 四季は巡り、生命は誕生する。天が何を言おうとしているかを考えなさい。これは 孔子が、孔子の教えを請い願う弟子、子貢に仰った言葉です。
無言で語りかける自然の営みの中からその真理を 自分自身で学びなさい。という意味です。
人は与えられるだけでは成長しません。常に自らの目と心で学ぶ姿勢を持ち続けたいものです。
https://www.youtube.com/watch?v=bs4ey5O2aLc
https://www.youtube.com/watch?v=3qNxy8y4QrM
般若心経 4/4「見えない力を信じる」
ゲストとして、僧侶で作家の玄侑宗久さんを招く。玄侑さんは、般若心経は「生きる勇気を与える呪文」だと語る。人間は言葉によって世界を認識している。しかし言葉には、実は限界がある。そこで人間の生命力に、直接働きかける「呪文」として生み出されたのが、般若心経だと言うのだ。最終回では、生きる力を取り戻す方法について語りあう。