小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》上 ①…破壊する、と、彼女は言う。
読みやすくするために、内容を簡単に言ってしまうと、時間的には《その色彩》の、一年位前、ということになります。
ベトナム在住の日本人が、同棲しているベトナム人女性に連れて行かれると、隣の家では一家惨殺事件が起こっている。犯人は、どうやら、その家の一番下の子どもらしい…というのが、大体のアウトラインです。
とはいえ、そういうあらすじがどうでもよくなるほどに、周りの人物たちが、やがて、勝手な行動を始めていくのですが…
何かの刺激になれば、ありがたいです。
2018.0.07 Seno-Le Ma
シュニトケ、その色彩
上
アルフレート・シュニトケ。二十世紀の思い出。彼の弦楽四重奏曲の第二番、その第二楽章。花が散り舞うようなそれ。
美しい、と、例えばそう表現しようとした瞬間に、その表現の陳腐さに屈辱感を感じさせられる、そういう類のそれ。幽霊を見たことが在る。十四歳の頃、そして私の手は自分の血で穢れていた。その時、優輝や、真治、彼らの五人がかりのリンチが私を自分の血だけで穢した。一、二年先輩だった。森林公園の樹木の葉々の狭間に見いだされていた空に、やがて降り始めた雨が空間のすべてを白濁させ、それぞれに私たちは自分の息遣いを聞いた。記憶を白濁させた白の色彩、夏の大気の執拗な温度を思い出す。
最早想起し獲る鮮明さなど失われたその色彩と温度のために、私は新たな記憶を構築し、私は唾をはく。吐いた唾に血が混じっていたことが、身体の、いたるところに点在した痛みをふたたび自覚させた瞬間に、真治は私の腹を蹴り上げた。吐けずに詰まった息が喉仏を痙攣させたが、私はやがて彼らを一人ひとり報復して回ったには違いなかった。警察と学校の手出しが、それを実質的に不可能にしてしまうまで。「それ以上やったら」花田美香という教師が言った。「…犯罪だよ。」
真治が鼻の骨を折った時に「本当に、」どれだけの暴力にふれただろう?あの頃「逃げられなくなるからね?」あの、不愉快な「…本当に。」昂揚。穢らしい、みじめな内側だけの白熱。その温度。鉢植えの花のようなちいさな情熱がわたしを駆り、わたしは駆られていた。どうしようもなくちっぽけな、「ほんとに、こいつさ」優輝が言って、見苦しい、薄汚れてさえ感じられた、こんなにくだらないものだとは思いもしなかった熱狂の(そして私自身の)卑小さが「なめてるからさ」なぜか私を焦燥させた。聞き取られたその「くそじゃね?」文哉の声。ひざまづくように泥にまみれた私を見下ろして、彼は一週間後に私に小指をへし折られた時、報復の一瞬、その時には文哉は泣きそうな顔を持続させた。口の、う、のかたち。あ、い、う、え、お、…う。う、を持続させて、震えた唇。連鎖したいくつもの穢らしい情熱と、その発熱。
あの雨の中では、私に土下座をさせれば彼らは一応の満足をした。真治が声を立てて笑うのを聞いた。ひざまづいて、私は撥ねた泥に穢されて。彼らだって、満足などしていないにも拘らず。暴力の終点は、殺して仕舞うか、殺すことに怯えて、あるいは飽きて中断されるのか、それ以外にはない。私たちはどこかで私たちの卑屈な倫理を見つけ出し、すべてを中断させる。卑小な熱狂を。わかったろ?言われた。わかったろ?私は言った。やがて、鼻を折られた真治の頭を踏んづけたときに。想っていた。もういいよ。
…いい加減にしてくれ。
もう、たくさんだ。「わかったかよ?」わかるよな。「わかるよ。」十九歳の私は言った。「…まじで、」頭のおかしな「そういう気持ち。」二歳上の女に。豊満な「いたいくらい。」穢らしいほどに「…やばいくらい、」美しい彼女の「でも、さ、生きなきゃ。」身体。その手首の「絶対、生きなきゃ、駄目。」傷痕を撫ぜてやり「駄目だから。」一つの「…ね?」誘惑の流儀として。「駄目だって」由美子は瞳孔を開いて私を数秒見つめたが、私は自分の声さえもはや聞いてはいなかった。由美子が唇を突き出してくるのを、やがて私の唇が捉えて、雨が私を打つ。帰れよ。もういいから、そう言う優輝たちが、背後から襲われることを警戒しているに過ぎないことは知っていた。雨の中で、周囲の樹木の匂いが立つ。町の森林公園の中の腐った葉の臭気。由美子は私が知った初めての女だった。女のべたつく感じにふれるのが、どうしてもいやだった。「うそ。」
「なんで?」
「はじめてなん?」
「…そ。」あー、と、由美子のその長く伸ばされたささやく音声を聞いて、「いいかも。」彼女が言った。耳元にかかる息の触感を、意外だけど、感じた。意外すぎて、なんか、そういうの、いいかも。由美子の体温を感じた。押し付けられた執拗な生き生きとした熱源、「明日、」シュニトケ。「雨だね。」弦楽器のこすれて重なった音。彼は低いビルの屋上で手を広げていた。雨上がりの街路を歩き、すれ違う疎らな人通りは、忌避するように、ときに、私を汚した泥と血に眼を留めた。
さまざまな匂い、体臭、大気の臭気、それらのかすかな束なりをそのまま鼻で吸い込み乍ら、彼は手を広げる。鳥のように?…では、なくて。死ぬ前の希美香は言った。「失恋、ではなくて。」鳥を模した人を更に模したような、彼の両腕の動きを見た。真新しい雑居ビルの屋上で、「新しい展開、ということで」彼は羽ばたいてみせる。「踏ん切りつけてみました」飛び立つ気もなくて?希美香の二日後の轢死体。「ないない」中央線沿線で。「失恋したからって?」自殺だったのか、「そんな女じゃないよ」事故だったのか?「ほかにも、男いたじゃん、あいつ」木村寛人はいつも、甲高く笑った。自分を含めたすべてを軽蔑しなければプライドを維持できないとでもいうように。なぜ?「でもさ…」飛ばないの?「かなしくない?」どうして?「喧嘩ばっかして…」好きだろ?私は言いそうになった。あのあと呼び出した知美が手当てしてくれる喫茶店の中で。口の中に手を突っ込んで血に触れた。同級生の十四歳の少女の乳臭い体臭。それが幼い体臭であることを私は知っていた。感じ取れない自分の匂いを疑い、彼女の昂揚した眼差しが私を捉え、おれも、こんな匂い、周囲の客の眼差しさえ、するの?彼女の昂揚をただ、…まじ?煽った。力と力が触れ合った切片に触れて、その暴力的な温度の名残を感じる彼女の時。飛ぼうとしない彼に向かって、私は懐疑に駆られながら、死んだはずだろ?声をかけようとする。何て?見つからない言葉を捜すのに飽きたとき、それは相変わらず羽ばたいて、私は指で作ったピストルで発砲した。ばん…っ、と、言った口元が、閉じないいうちに白い空に飛び上がっていく彼を見る。いま、天に召される。あんただって、と、思う。信じてないくせに。天国なんて。救済されて行く彼は宙吊りにされたように上がっていく。上原茂史という名の十四歳の少年の幽霊だった。一週間前に死んだ。私に眼をあわせさえしないままに。Chết rồi. …え? しまった。言って、私に眼をあわせさえしないままに anh có biết ささやかれた …ねぇ、あなたは言葉に Thanh ở đâu ? 私は 知っていますか? 振り向いた。Thanhさんはどこですか? 彼女の Thanh nào ? 褐色の肌。だれ? ベッドで Thanhって、どの? 素肌を曝した Đỗ Thị Trang ドー・ティ・チャン という名の、彼女は未だ若い。ベトナム、ダナン市の彼女の家のその寝室で、高い壁の高い上方に切り開かれた長方形の採風孔から朝の日が差し、瞬き、私は息遣う。十六歳の少女と四十歳の男の身体がベッドの上に折り重なって、彼女の息遣いの音をも聞き、それらは重なり合わないままにお互いの喉の近くで触れ合った。残骸のように経過した時間の集積。いまと成ってはすべては無駄だったと確信できる。シャワーを浴び乍ら、そしていつも私は鏡に映った老いさらばえた自分の顔を見た。眼を逸らす気にさえ為らずに、その見飽きた残酷な老醜。四十歳を超えて生きている現実など、予測することさえできなかった。日差しが Trang の、痩せぎすの躯体に過剰な凹凸を描いた、むしろ無様な身体に斜めの間接光を当てた。優しい光だった。お若いですね、と、年齢を言うといつも言われた。Trang の褐色の皮膚に、光はさまざまな影を推移させ、女たちの私を見る発情しかけた感情を無理やり押しつぶして醗酵させたような表情。Trang がスマホをいじりながら何かに夢中になっていて、…え?、と、そんな、全然。言われた。痴呆じみた表情を一瞬曝して、老いぼれですよ、もう。自分の年齢を言って、私が声を立てて笑った時に。私が昨日《愛した》そのままの身体だった。ベッドの上の Trang の《愛された》身体、それは、記憶しているだろうか?私の皮膚は、まだその体温を?そして、その身体は、私のそれを?まだ、記憶を捜すまでもなく、いまも、私の手のひらは Trang の素肌を撫ぜるが、一瞬、私はわたしの体の臭いをかいだ。馴れ合いの嗅覚の麻痺の不意の隙間に飛び込まれたそれ。かすかに汗ばんだ、その。「すごく、素敵な年の取られ方を為さってるんじゃないですか。きっと。すごおく、うらやましいです」媚切った眼差しで昨日そう言った久村恭子という名の女と、明日も Liên chiểu リン・チウ という町で会わなければ為ら無かった。買収予定の工場用地。叩き付けるように、ベッドの上にスマホを投げ出した Trang は、そして私を見つめ、言った。Anh à… あの、Chúng tôi phải …ねぇ。đi nhà Thanh và タンの家に行って、đi tìm Thanh. タンを捜さなきゃ。…ね?、Hiểu không ? …いい?
…え? Tai sao ? どうして? 私が言い終わる前に「たいへんですから。」言って、何が?「タンさんをかぞくをたいへんですから。」Trang が鼻にかかった笑い声を立てたまま、なに? ...Why ? なんで? Tai sao ? 私の声を聞く、Giá đình của Thanh chết. その企んだような媚びた笑顔に、「…え?」Hiểu không ? 日が差す。タンさんの家族、 Tai sao ? 死んだのよ。半身をもたげた Trang の重ったるい乳房を、なんで?どうしてだよ?**じみた重量。乳首を「Why ?」 指先ではじいたとき、Không biết. 知らない。…知らないわよ。ふしだらなほどの嬌声を鼻でだけ立て乍ら không sao. …いいよ。行こうよ。やがて、Trang は声を立てて笑った。Có sao, có sao, có sao quá. 大袈裟に乳房を隠して、大変よ。言った。「たいへんです。とてもたいへん。」
「もう、歳、お父さんのほうが近いのに…」言って、昨日、恭子は慎重に、さとられないように内側に、ある潤んだ感情を押し込んで何重にも張り巡らした檻の中から、私への発情した体臭を必死に外へ掻き出す。匂いを嗅ぎ取らせるために。かすかな上目遣いの、うつろに、目線を合わせることをためらった、そして鮮明な眼差しが、私を捉えた。「お父さんとのほうが、話、合うかもね。」それはないです。言い終わらないに否定されたが、女性特有の獣じみた犬のような眼差し。恭子は声を立てて笑い、私はシャワーを浴びる。Trang が朝の Bún ブン という麵料理を買って来て、シャワールームの外で用意しているはずだった。穢らしい、老いさらばえた私の体を澄んだ水が流れ落ち、亜熱帯の温度。誰もが言うとおりに、私は、(…穢らしい、)美しい。(生得的に)ベトナム中部の(老いさらばえた)ダナン市の夏の(…肉体。)大気。(私の、この。)Thanh のことを Trang は My Brother と呼んで私に紹介したものだったが、夢を見た。彼らに血のつながりなどない。その日の朝に、私は。Thanh は近所の子どもに過ぎず、眼を覚ます寸前に、面倒見の良かった Trang に、夢を見ていたのだった。なついていただけの少年だった。桜が舞っていた。Thanh、十四歳の少年、小柄な、その樹木は向こうにあった。視界を埋め尽くすほどの巨大なそれ。やけに低い Thanhのアルトの声。美しい Thanh。私は見上げた。太い幹は当たり前のように身動きもせず、花々の乱舞。坊主頭の冴えた眼差しで、きみは、樹木の枝の拡がりの範囲を埋め尽くした花びらの無数の群れが、何を見るの?Thanh。何を?桜色に染め上げて、私の足の下に草の緑があった。笑ってみろよ、たまには。やがてふたたび見上げられた視線は花々の散乱を捕らえたが、そんな顔ばかり、せずに。花々に支配されなかった緑と制圧された桜色の、世界が終わる時を一人で待っているような。花々の汀に私は歩み寄る。花の匂いがした。それはうるさいほどに。私は息遣う誰かの音声を背後に聞いた気がし乍ら、接近していたのだった。汀に、それは本当の桜色の水のように揺らめいていて、私がそれを踏み外した時に、思った。思ったとおりだった。花びららの水溜りの中に落ち乍ら、花々は私の全身をぬらした。いつか、どこまで落ちていくのだろうか?いつまでも?息さえできないままに見開かれた目が、水際に立ち止まったまま、向こうの樹木を見つめる私の存在を自覚させていた。もう、手遅れだった。やわらかい風の中、足元で、花々はこまかな波紋をさえたてて沈黙していた。