-Label 4 Trac.2- -Last Album -
「サナちゃん……ね、サナちゃん……!!」
「ん……」
ルナの焦った声と、揺すぶられた声に目を覚ます。眩しさに視界を覆いながら、記憶を辿ってみても眠る前の記憶は思い出せなかった。あれ、どうして眠ったんだろう。さっきまで何をしていたのだろう。また意識を失ったのか、寝不足だったのか、そもそも……。
「ルナ、ここ、何処……?」
「わ、分からない……何も無いんだ」
珍しく歯切れの悪いルナの言葉に視界から腕を外す。眼の前がチカチカするのは眩しかったからではなかった。白い霧ばかりが立ち込めた、まるで雲の上のような……何もない空間に、私とルナがただしゃがみ込んでいるだけで他に何も見えない。この景色はどこか見覚えがあるようで、あの『白い世界』とはまるで別物だった。
「また……私の意識の中?」
「違うみたい……それに……人間じゃない……僕たち、『戻って』る……?」
そう言われてようやく私も自分の身体を見渡す。見た目にそう変化はないけれど、感覚が『戻っている』。あの日交差点でつばさと再開したあの世界、人としての人生を歩んでいた世界の記憶を最後に、人間だったはずの私たちはまた、天使と悪魔、島で暮らしたあのときの姿に戻っていた。
「……こんな事が出来るのは一人だけね。コエ!! 居るんでしょ!!」
目と頭が慣れたところで立ち上がる。こんな芸当が出来るのはただ一人、神を越えた存在。今の世界を統べる『コエ』の仕業だ。叫べばすぐ、すうっと霧の中から見慣れた顔が姿を表した。その顔もさっきまで見ていた人間の世界の顔とは違う。アメの姿により近づいて、その背には羽が重なっている。本来の、神としてのコエの姿だった。
「答えに辿り着くのが早い、サナの察しの良さには負けるね」
「冗談言わないで、場数なら幾らでも踏んでるわよ。で、何の真似?」
ケラケラと軽い表情で、ふざけたように笑うコエの顔を睨む。その背後に少しだけ苦い、でも澄ました顔で佇む青年が居た。どうやら部下かなにからしい。この上司に従えるなんて苦労もありそうね、なんて一瞬同情した。
「そうだね、お喋りは好きなんだけど今は時間がない、珍しいだろう?」
「私はそういう遠回りが嫌いだから助かるわ、せっかちにもわかりやすく説明して」
もったいぶったようなコエの態度に、ギスギスしていく私とその後ろで困惑するルナ。場の空気が悪くなっていく。催促代わりにコエを睨めば、コエは肩を竦めながらもその顔から一瞬で笑みを消した。
「……次の『神』を、あなた達の中から決めたい」
呟かれたその言葉に、二人揃って一瞬息を止める。周りの空気が一瞬で張り詰めた。
「ど、どういうこと……?」
「決めるも何もあなたが『神』でしょ?」
言っていることがわからない。私とルナは顔を見合わせるが、互いにコエの意図には気づけなかった。コエはその疑問に淡々と、でも、見たこともない苦い顔で答える。
「私は『神』の上を行っている。神様という言葉を当てはめて間違いは無いよ。ただ、君たちを呪った神が居なくなった今、暫定的に頂点に居るだけだ」
「……それを変える必要があるというの?」
「このままでは均衡が保たれない。私には荷が重い、とでも表現すればいいだろうか……現に私では君の呪いを処理できていないだろう?」
それは……確かにそうだ。コエが作った世界でも、中和すら出来たものの私の『呪い』は解けなかった。嫌われる事はなくなったにしても、悪目立ちは避けられなかった。
ただそんな人生も愛おしかったのは……やはりコエが創った世界だったからで……それを変えることを私は望んでいない。
「……結局、私は……『アメジスト』は、前の神のものでしかないんだ。自分に掛かった呪いを、自分で祓うことが出来ずに居る……カンの成長を止められなかった時にも触れたが……サナを……私達を呪った神の魔法は、同じ立場に居る神にしか解けない……」
そうして、コエは表情を変えなかった。ただ、静かにその腕に力が入る。
「私を助けて欲しい……」
「「……」」
二人揃って息を呑む。いつも、どこか一線を引いて私達をただ見守るだけの『神様』はそこには居なかった。きっと、私達が人間として過ごす中で考えて出した結論なのだろう。コエはいつだか、あの世界を神になる前の準備期間だとか、休憩時間だとか、ちょっとした遊びだとか……そんな表現をしていたのを思い出す。
私達にとっては昨日に等しい感覚でも、きっとその後にコエは神としての時間を過ごしたのかもしれない。どこか、疲れのような、諦めのような雰囲気がそこにはあった。
「……具体的には?」
ルナもその状況に、張り詰めた声色で呟く。その質問にコエが一層、視線を足元に落とした。
「…………」
「神様、」
後ろで部下らしき青年がコエを促す。分かっている、という風に頷いてから、コエは一息ついてから呟いた。
「闘って貰う。敵と一人残らず闘って、勝ち抜いた者の魂だけを残す。私にはそれしか出来ないんだ……7人を一度に産むだけで、立ち上がれなくなる程には力を失った……」
その言葉に自然と私は言葉を漏らす。
「……誰と?」
ここにはコエと、その部下と、私と、ルナしか居ない。敵なんて見当たらなかった。それ以外は敵どころか、ただただ白いモヤが渦巻くだけで本当に何もない。闘うどころか日常生活だって送れやしない。
「……『あなた達』と言っただろう……」
そうやって見渡す私の視線を、コエの指先が誘導する。私の鼻先から……指が止まったのはルナの眼の前。その指が往復する。
「っ!!」
その意味に気づいて息を呑む。思わず半歩、後ずさってしまった。ルナも状況を理解したらしく咄嗟に私から目を逸らす。
「……アメ、きぃ、サナ、ルナ、つばさ、よく、翅……皆、この世界にあのときの姿で呼び出した。記憶も今までの全てを……サナ、お前の消された記憶や忘れた記憶も全部返す形でな」
「何故、そんな事をしてまで決めようとするの……? 貴女が今までした事は結局ただの人形遊びでしかなかったって事……?」
勝手に声が震えていく。まずい、今の私は……あの時と同じ『泣いたら死ぬ』天使だ。こうして揺さぶられれば魔力の安定を失う……。やっぱり、神は神のままなのか。敵なのか。ショックを噛み殺しながら、コエの言い訳を訊く。
「……許してくれ!!! 自分じゃ決められなかったんだ!!」
「っ……!!」
そこで初めて、今まで神様として振る舞っていたのであろう、コエの表情が乱れた。私も、ルナもその気迫に息を呑む。いつも遠くから見守るだけだった、コエの心の内を初めて聞いたような気がして、気迫に押されてしまった。アメとカンとの秘密を話した時だって、ここまでコエは叫ばなかったのに……。
「幾らだって考えたさ。何年も何年も、神のまま全員を救う方法を考えた!! 人として生かすことだって考えたからこそ、あの世界を私は創った!! それで、結論が出なかったことは前も話した通りだ。でも私はその後も、神として生きながら考えた。君たちの次の世代……莢やつばき、更にその次の世代、もうひとつ次の世代……! 能力者は形を変えて『マジカリスト』という職業になり、禁忌であった『魔女』の存在が世界を救った例も出来た……でも違うんだ……違ったんだ……どんなにサナ達の歴史が綺麗なものになっても……私自身は救われない……!! 私が……私が誰かを傷つけた歴史は変わらないんだ……」
「……神様、それぐらいになさってください」
さっきまで嫌に冷静だったコエの言葉が強くなっていく。恐らく私達にも知らない時間が、考えていたよりずっと長くある……それだけは伝わってくる。ヒートアップしていくその言葉を、付いていた青年が引き止める。
「……自分勝手に聞こえるかもしれない。嫌ってくれて構わない。また『誰も泣かせない』という約束を破る真似をするかもしれない……。でも、私はこの決定を変えるつもりはない。私は誰かの願いを叶えることは幾らだって出来る。でも自分の願いは無理だ……。もしも……サナが勝ち上がって来た時に今と同じく思うのなら、私はその報復を受けてもいい……但し、そうなったら容赦はしない」
「ちょっと、待って、コエ!!!」
そういうと、コエはその桃色の羽と緩く畝る髪を翻して霧の中に溶けていった。勿論その腕を掴むつもりで駆け出したところで、私の腕を引いたのはルナだ。その眼光は動揺するこちらと違って妙に冷静で、その様子さえ腹立たしくて私は叫ぶ。
「なんで止めるの!? 戦う羽目になるかもしれないのに!!」
「……勿論僕も、納得はいかないよ。あまりに急な話だと思う。……でも、『神』がそう言うならそうなるしかないんだと、思う……」
そう呟いたルナの声色はこちらと違って全く揺らいでいない。一瞬、そのあまりの冷静さにたじろいだ。けど、しっかりしたルナの表情はもう……腹を決めた顔だ。
「…………なにそれ」
「……僕は従うつもりだって言ってるの」
もう一度、低いけどはっきりしたルナの意思を感じて思わず唇を噛む。久々に双子だからこその意思疎通の感覚を感じるのも、きっとここがコエの精神世界だからなのだろう。失われてたはずの力の大体は使えるらしい。これも、あの時コエが記憶を戻してくれたからだろうか。
「どうして……?」
「……コエに変えられなかったものが、変えられるかもしれないんでしょ?」
「……変えられないかも、しれないじゃない……いきなり神になれだなんて、簡単に『はい』って答えられるものじゃないでしょ……?」
私の否定に、ルナはイエスともノーとも答えない。
ただ、その意見が曲げられないことだけは、感覚と表情が物語る。
「や、やめてよ……変えたくないし、変えられたくない……」
嫌だ。そう思った瞬間、思考が曇っていく。恐怖に手足が凍っていく。不安に飲まれそうになる。
確かに神の思惑に振り回されて生きてきた。けど、それに抗って抗って、手に入れた全部を否定されなきゃいけないの? 簡単に救うとかなんとか言って欲しくない。
「ルナと、戦いたくもないし……」
折角、何千年とかけて打ち解けあったルナとまた戦う羽目になんてなりたくない! 心の内で叫ぶのとは裏腹に、消えそうな言葉しか出なかった。
ルナはそう言うとあっさり私の腕を離して、穏やかに首を振る。一瞬、いつものようにこちらの意見を聞き入れてくれたのだろうか……と肩の力を抜きかけた瞬間、ルナはするりと私に背を向けた。
「……じゃあ今日のところは引こう。僕、先に行くよ」
「ちょ、ちょっと……!」
「お互い無事だったらその時に」
そう言うと、ルナは宛もなく煙る視界の向こうに消えていく。解かれた腕は動かなかった。ただ、ルナがさっきまで握っていた感覚が鈍く残るだけで、姿はすぐに見えなくなる。
「……じゃあね」
「……っ」
遠くなった声だけが耳に残って、私は一人何もない空間に取り残される。
ルナは……最初に誰を倒しに行くつもりなのだろう。
「なにそれ……っ」
誰がこの近くに居るのだろう。誰と出会っても、家族だった、友達だった、きょうだいだった、恋人だった誰かと……魂を分け合った相手が闘うところを想像するだけで痛い。
「嫌だ……」
何も変えたくない。もう何も奪われたくない。
……コエ、いや、新しい神様……。
「……でも、このままじゃ話も聞いてくれそうにないわね……」
もう一度会わなくちゃ、ならないみたいね。
***
「……また会いましたね」
「……どうして私のところに来たの、お姉ちゃん……」
「……長く旅をしてると、方向感覚が付くんですよ」
コエさん、いや、『神様のお告げ』を聞いて、私が一番に脳裏に思い浮かべたのはこの人だった。
一番に出会ったのは偶然に近いものだとは思うけれど、以外にも速く出会えたのは多分、何かしら運命か、それとも神様の願いを叶える力のどちらかが効いているらしい。
「単純に顔を見たいと思ったのもありますけど……」
「……そ、それじゃ」
「……一度勝った相手に負けるつもりもない、ってところですかね」
一瞬明るんだ翅の顔が曇る。手を取り合えると少しでも思ってるらしいのは少し意外だった。あそこまで争い合って、後世までその争いを引き摺って、まだ翅はあの時の絆を信じているらしい。
「ねえ、おかしいと思わないの……」
「思いません、神様のしそうな事だなと思ったので」
「なんでそんな冷静でいられるの!?」
翅は1トーン高い声を更に裏返して、わかりやすくヒステリックな叫びを上げた。こちらからしてみれば、幾度となく裏切った相手と戦わない羽目になる方が不思議なんですけどね……。
「場数の違いですかね」
「そこまで……そこまでする必要がお姉ちゃんにあるの? そこまでして……あんな噂のたった『悪魔』を庇わなきゃいけない何かがお姉ちゃんにある? その為に争う必要は?? 放棄して誰かに委ねる方法だって……」
翅はそれでも私を説得しているつもりらしい。……あれだけ、あれだけ私がサナさんの為に動いたことをまだ認めない姿に、もうため息しか出ない。改めて、情なんて無くなってしまったんだなと思ってしまう。
「それを説く義理が……翅にあるの?」
「…………」
最初は私が翅を裏切ったのかもしれない。確かに私は不誠実だったかもしれない。けど、最終的に翅も、姉さんも、プルームも、つばきも、私を陥れようとした事を、理由もなく許すつもりはなかった。
「『プレナイト』を……私を陥れたことも、対立したことも、アイオ……サナさん本人を襲ったことも、私の旅を止めようとしたことも……いや……そもそも貴女と」
「嫌だ、やめて……」
「結婚をしたことも全部、最終的な答えじゃなかった。悪く言えば間違い」
「やめてってば!!」
翅の叫びが足元を貫く。咄嗟に自分の能力でその足元をバネにして飛び上がって避けた。翅の風を操る能力は魔女による付随だったはずだ。けど、この世界ではどうやら肉体がないから、魔法を使っても身体は消耗しないらしい。
「……良く言えば過程です。私はそれがなくなるなんて許さない。永遠の語り部になれるなら願った機会とも言えます。貴女の手からサナさんを奪った誇り、どうせ貴女は奪うつもりなんでしょう?」
「悪いように言わないで……!! 私は……やり直したいの、魔女と契約して破滅に向かうだけの私を……悪魔に魅入られたお姉ちゃんを……!!」
みしり、と空気が圧縮される音を聞いて、私は即座に周囲の霧を無数の針に変えて周囲に打ち込んだ。見えない空気の壁がぱん、ぱんと破裂していく。
「っ!!」
「押しつぶそうたってそうは行かないですよ」
翅に向かって駆け出せば、翅は焦った様子でこちらに突風をぶつけてくる。勿論それも足元に反動をつけて全て回避した。失われた記憶を全て保持している今の私は、サナさんに教えてもらった戦闘方法の全てを扱える。私を探す為、潰す為だけに魔法を使ってきた翅とは実戦経験がまるで違っていた。
「……降参しますか? それともとどめを刺されたいですか?」
周囲に立ち込める霧の形を変えてロープ代わりに、翅を地面に縫い付ける。
翅は何も言わないまま、私から顔を背けた。
「……次があったら、もっと話し合える関係でありたかったよ、翅……」
そのまま、翅へと魔法で作った針を打ち込む。
翅は何も言わずに霧の中へと徐々に溶けていった。どうやら、勝敗がつくと負けた方は透けて消えるらしい。
「…………」
後に残るのは、なんともやりきれないため息だけだった。
***
「サナ……」
「…………きぃちゃん」
とりあえず、ルナが向かった先と逆側に歩き始めて、しばらくした頃だった。霧をくぐるように、正面から同じような歩調でやってきたのはきぃだ。その浮かない顔を見る限り、どうやらきぃも殆ど同じ説明をコエから受けたのだろう。私と目線が合うと、苦い顔をした。
「ええと、誰かに会った……?」
「ううん……サナが初めて」
表情を見る限りそうだろう。最後に会ったのはコエが創った世界の中だ。存在を知らせないようにしていただけあって、きぃは警戒心を抱いているようにも見える。仕方ない。嘘をつかせていたのは私だから……。
「……一応言っておくけど引く気は私にはないわよ」
「……分かってるわよ……」
むすり、と少し不機嫌そうにむくれた顔に、積極的な戦意は見えない。まだ戸惑いの方が大きいように見える。無理もない。いきなり戦えと言われてもいまいち対立してない相手とやり合うのは難しかった。
「……サナは……?」
「ルナと戦えって言われて、答えが出なくて……一旦休戦した」
「…………そんなの…………」
きぃは信じられない、といった風に言葉を濁らせる。第三者から見てもやっぱり残酷だろうか。脳裏にルナの、覚悟を決めたような表情を思い浮かべる。やっぱり、納得できないけど……戦わなきゃいけないのだろう。その為にもまずは、自分がやられる訳にはいかない。
「私は、ルナにもコエにも会わなきゃいけない、悪いけど退いて貰うわ」
「……私も、コエにはちゃんと話聞きたいから……負ける気は無いわよ」
私は懐から小さな剣を取り出す。振るうと同時に魔力を込めれば、大きくなるそれは私にとって戦いの相棒とも呼べる武器だった。きぃちゃんはアメが発明したらしい武器……名前をサウディと言っただろうか。魔法で変化自在のそれを、こちらと同じような大きさの剣に変えて攻撃を受け止める。
「ぐっ……」
互いの手に衝撃が伝わって、どちらともなく小さな悲鳴が上がる。スピードは私の方が上だけど、力はきぃちゃんの方が上。それを考慮しても私ときぃちゃんは元々オリジナルとクローンの関係だ。太刀筋の読み合いが続いて、お互いに痛手を負わせられない。……らちが明かない状況。
「やっぱり戦うだけ無駄なのよ」
「……っ、何言ってるの……?」
そんな攻防を繰り広げている間に、まるで独り言のようにきぃちゃんがぽつりと言葉を放った。その言葉に思わず呼吸を忘れる。『やっぱり』という言葉に、きぃちゃんが戦う意思をいまいち見せなかったのはなにか理由があるのだろう、と察した。
「コエは……未来の神様はクローンを禁じたの。オリジナルを不幸にするからって……」
静かに、きぃちゃんの言葉は続く。それでもお互い攻防の手は止まらなかった。刃と刃の重なり合う重たい音に、あまりに不釣り合いな静かな問答が続く。
「サナは不幸だった? 私が居て嫌だった? 」
「…………」
その質問に答えられない。勿論、自分との違いを見せつけられたり、自分が存在したからこその苦しみをきぃちゃんに与えてしまった後悔はずっと感じていた。苦しんだという記憶は確かだ。でも、それが『不幸だったか?』『嫌だったか?』と問われると違う。違うけど、違うと答えるのもまた違う気がして、私は声が出せなかった。
「アメもどうして私とちゃんと向き合ってくれなかったんだろう? カンもアメとどうして、対等じゃなきゃいけなかったんだろう。天使と人間のままで上手くやっていけなかったんだろう?」
きぃちゃんの攻撃は話すたびに鋭さを増す。まるで、答えの出なかった苛立ちをぶつけているようで、受け止めるのが一撃一撃重くなる。
「ずっと私はそう考えてた。コエが創った世界にいる間中ずっと……そう考えたら、コエみたいに世界を創りなおせるなら……最初から居ない方がよかったんだ、クローンなんて……!」
「!!」
がつん、とお互いの攻撃がぶつかり合う。じん、と痺れの響く感覚に思わず体制を崩した。瞬間、きぃちゃんの向けた刃が私の腕を静止する。完全な威嚇の状態がそこにあった。
「だって、私は元々はサナの敵だもの。『ライト』の造った天使だもん。カンだってアメの代わりにする為に作られた次の実験台……つまりアメの居場所を奪うはずだった身体だよ……」
……ライト。私の魔力を狙っていた悪の科学者集団だ。きぃちゃんはその研究室から生まれて、私の羽に残った魔力から生まれた人造天使だった。……ずっときぃちゃんはそれを気にして生きてきたのだろうか。
「そんなの、もう無い方がいい!!」
「そんな事言わないで!!!!!」
違う。私はきぃちゃんの言葉に強い否定を感じながら、きぃちゃんの叫びで緩んだ威嚇のすきをついて、きぃちゃんの武器を跳ね飛ばす。それを追いかけようと体制を崩したきぃちゃんに、次は私が刃を向けた。恨めしそうに、涙を浮かべた視線がこちらを睨む。
「……だって、だってえ……っ!!」
「貴女もルナもコエも勝手に、勝手に人の気持ち推し量って勝手に決着つけないで頂戴、私は絶対に変えさせない。これ以上何も変わらなくていい」
勢いからだろうか、勝手に口から滑ったこれこそが私の願いだった。これ以上、何も変わらなくていい。
「私の苦しみも、貴女の存在も、カンちゃんの覚悟も全部なかったことになんかさせない!!」
「い、っ……!!」
そのまま、容赦なくきぃちゃんを斬りつける。魂しかないこの世界で、血が吹き出るような傷を負うわけではなかった。ただ、決着はそれでついたと判断されたらしい。瞬時に跳ねた光とともに、きぃちゃんの身体は薄くなり、空間に解けていく。
「……貴女が私の為に、私の姿でしてくれたことには感謝してる。その功績もなかったことにされたくない。アメを想って貴女がしたこともそう……勝手に踏み躙らないで……」
「サナ……」
「さようなら、きぃちゃん……貴女の努力に応えてあげられなくてごめんなさい……」
するり、ときぃちゃんの影は消えてなくなる。
……勝ってしまった。戦いたくないとか言っておきながら、あっさりと……この手で友達を倒してしまった……。空虚に思わず膝をつく。魔力の供給が切れた剣は、手のひらに収まる小ささに戻ってからん、と真っ白な地面を転がった。
「人に、説教出来る程、私も偉くない……」
責任感に押し潰されそうになる。それでも、足を止めてはいられない。
早くルナに会わなきゃ……ふらつきながら立ち上がった。
***
「まさかこんなところで手合わせになるとは思いませんでした」
「……そうだね、僕も正直、君に一番に再会するとは思ってなかった」
サナちゃんと別れた後、しばらく何もない世界を歩いて、最初に出会ったのはよくだった。
あの時消されていた記憶は、今コエの力によって返されている。僕のことも、僕が教えたことも、僕たちと過ごした時間もしっかり覚えているようだ。
よくに遠回しな牽制は効きそうにない。そう僕が判断したのは、既によくが僕を警戒してか戦闘態勢を取っているからだった。しっかり状況も理解しているようで、戦うことを否定することもない。サナちゃんより飲み込みはいいな、なんて思ってしまってため息が出た。
「君が考えていることはなんとなく分かる。つばちゃんの為なんだよね?」
「……それが果たして、つばさの望んでいることと同じかどうかまではわかりませんけど……オレは……いや、私は望みすぎたんです。あの子を手に入れることを考えすぎた」
その言葉に少しドキッとする。……僕がしようとしていることも、もしかしたら望みすぎなのかな。一瞬出た迷いを噛み潰す。いや、ここで僕が引いたらきっと今まで通り、僕は後悔と心配だけを繰り返す。それはもうしたくない……!
「私は家族としてつばさとやり直したい。貴方達の力を引き継がなかった世界に帰る!」
「……それは、つばちゃんをサナちゃんから引き剥がす結果になるってことだ」
よくの願いと、僕の願いはどうやら噛み合わないらしい。牽制のつもりで呟いたけど、よくは躊躇うことなく頷いた。……やっぱり彼女に言葉は効かない。僕も心を決める。この戦いで優しさは文字通りの命取りだ。
「なら認められないね」
「承知の上ですよ、それに」
よくは一触触発の場面とは思えないほどに、嬉しそうな笑みを浮かべていた。能力者を気味悪がった両親が、つばちゃんとよくを捨てた後、よくはつばちゃんを守る為だけに家を飛び出して武道を学んでいた経験もあるぐらいだ。元々、戦う事に興味はあったのだろう。
「師と戦える事なんてそうそうないっすからね!」
瞬間、先に飛び出してきたのはよくだった。一歩出遅れた僕の腕を掴んで、足を払う。簡単に体制を崩されて、慌ててよくの体側を蹴り飛ばした。拘束から逃れてよくの足元を爆発で崩す。
「……僕が教えた以上の事をしてくれるね」
少しはダメージを入れられたか、なんて思いながら顔を上げれば、そこによくの姿はない。よくの能力は天候を操る魔法だ。この環境に天候なんてないと思っていたから油断したけど……この空間を白く遠く見せている霧。いつの間にか指先さえ認識できない程に濃度を増していた。どうやら周囲の霧を圧縮しているらしい。
僕はその周囲を取り囲むように炎で焼き、霧を蒸発させる。瞬間、その霧に紛れて飛び出してきたよくを迎え撃った。よくも霧から雲を作り、そこから雷を生んだらしい。炎の塊と雷の塊がぶつかり合う。
「うっ……!」
「いっ……!」
悲鳴もほぼ同時だった。腕に痺れと熱が響いて、お互いに反動で一歩引く。
「……意外ですね、戦闘向きの魔法がそこまで使えないって言ってた気がするんですけど」
「向いてると実際出来るのは違うからね……」
にやり、と笑うよくはどうやら状況を楽しんでいるらしい。つばちゃんやサナちゃんとぶつかることはあったらしいけど、あの二人には流石に太刀打ち出来なかっただろう。圧倒的に二人は戦闘慣れしているし、策も巧い。本人が言う通り、諦めた過去もある。それが突然、自力で叶えられそうなチャンスと、互角になりうる相手が出てきたら喜ばしくもなるだろう。
「でも、あんまり舐めないで貰えるかな!」
「ううっ!!?」
また投げ飛ばすつもりだったのだろうか、まっすぐ正面からぶつかって来ようとするよくの背後に回り込んで、爆発を直接叩き込む。クリーンヒットしたよくは完全に体制を崩して、地面に叩きつけられた。瞬間、僕の放った炎によくは取り囲まれる。
「っ……くそっ……!!」
逃げ場を失ったよくは、僕を睨みながら強く舌を打った。言葉こそ丁寧だったものの、その敵意には既に一緒に過ごした時のものではない。
「お前たちが居なかったら、オレは……つばさは!! 何の苦労もせず、家族として、人間として暮らしていけたのに……ルナさんが! サナさんが!! 居なければ何も知らなかったのに!!!」
「…………そうだね。そうかもしれないね」
僕はそのまま、焼かれていくよくににじり寄る。炎が迫って、よくの魂は燃やされながら透けていく。勝敗は既についていた。
「君が思う正解を否定したりはしない。誰が評価を付けるのかも分からないけど、今言えることは、僕の思う正解はそれじゃない」
消えつつあるよくの目が、僕の言葉で静かに見開かれる。それがどういう意味なのか、僕は敢えて考えずに彼女の背にして、見届けることなく次の相手を……サナちゃんを探して歩き出す。
「……それだけの事だよ」
気持ちは捨てた。優しさも捨てた。僕は僕の目的以外忘れることにする。大丈夫、憎まれることも嘘を吐くことも、サナちゃんを救うためだったら幾らだってやってのけられる。
既によくの居た場所は遠く、炎すらも見えなくなった。あるのは霧と、うっすら感じるサナちゃんの気配だけだ。大丈夫、近づいてる。
「……サナちゃん、今何処に居る……?」
感覚を澄ませて、サナちゃんの気配を探ってみる。今、どうしてるだろう。何を感じているのだろう。どんな気持ちで居るのだろう。集中する。
「やっぱり、僕らは逃げられそうにないや」
一度、サナちゃんの目の前から去ったのは、サナちゃんもそうだったのだろうけど、僕も覚悟がなかったからだった。もしも、サナちゃんが他の誰かに倒されたなら……それはそれで、残念だけどきっと安堵したのだと思う。
「半身同士だからね……」
けれど、ほんのり、と、遠いけれど、確かにサナちゃんの足音が、鼓動が、視界が、感覚が……近づいてくるのが分かってしまった。
ここに時間は無い。どのぐらい経過したのかも分からない。
ただ、少し離れている間に、酷く懐かしい感覚は確かに近づいていた。
***
感覚から、ルナのいる場所に近づいているのは分かっていた。いよいよかと思うと同時に、なんとなくもう「戦いたくない」が通用しないことも……ルナの覚悟も感じ取る。
多分それはルナも同じなのだろう。
感覚を頼りに足を進め、姿が見える頃にはまるで待ち構えるようにルナは座っていた。
「やあ、来たね」
そう答えながらに立ち上がる姿に余裕も見える。けれど、これから戦うことを避けることは出来ない張り詰めた空気感もそこにあった。これはルナの見栄だ。私も大概だけど、焦りを悟られないように心を殺す姿は見に覚えがあって、やはり魂を分け合った存在なのだと思ってしまう。
その相手とこれからやり合うという状況は、覚悟はしていてもまだ現実味を帯びなかった。
「……もう一度訊いていい? 本当にその気があるの?」
「あるよ」
しかし、ルナのしっかりとした返答が、その感覚を現実の色に塗り替える。既に敵意の視線がこちらを向いていた。
「サナちゃんにその気が無いなら強制的にでも不戦勝にして貰うつもりでいるからね。この戦いを避けようだなんて思わないで欲しい。一度は見逃したよ? 君ももう誰かを潰してきたんでしょ? なら、戦いたくないなんて言い訳は通用しない」
「……貴方は、神になったその先で今までとこれからをどうするつもりなの……?」
その答えで私が手を緩めるつもりはなかった。けれど、このまま何も知らずに戦うことにも納得がいかない。ルナは本当に、コエに出来なかった私の呪いを塗り替えるつもりなのだろうか。今までをなかったことにするつもりなのだろうか。それとも、他に目的があるのだろうか。
「それを答えたらやり辛くなるよ?」
「……そういう駆け引きは悪魔である貴方の方が巧いわね」
ルナは脅しのつもりか、笑いを含めながら意味深な言葉を返す。言葉で人を惑わすのは悪魔の習性だ。そしてそれはルナの得意分野でもあり、世渡り術でもあった。
「でも忘れないで……魔法のコントロールも、戦ってきた経験も私は貴方の比にならない。戦いおける本能も天使の血が濃い私の方が有利よ」
こちらもそれが分かっていて騙されはしない。実戦の上ではこちらの方に軍配がある。
「どうかな。僕だってあの時のままじゃない。それにコントロールは手加減しなくていい、何もないこの世界では巻き込むものもないからさほど重要じゃないよ。そして僕は君の戦いの癖も苦手な動きも知ってるし、感覚の共有も普段より強く働いてる。君の戦い方は主に野外で追われて身についたもの。身を隠せる場所も無いこの場所でどうするつもり?」
「……わかった。貴方がフェアだと思うのなら、そういう事にしといてあげるわ!」
どうやらルナは本気で私に挑むつもりらしい。もう説得は無理だと諦めて、私も地面を蹴り上げた。確かにルナに見せてきた戦闘方法は、草木を巻き上げたり物陰で巻く野外戦闘が多かった。けど、その場が無いだけで詰むような真似はしない。周りに立ち込める霧を、魔法で固めて刃の雨をルナめがけて降らせる。
「……!!」
ルナはそれを間一髪、手元で爆発を起こして防ぎ切った。その煙と霧を巻き上げてルナの背後に回り込むと、次は私が足元の空気でルナを貫こうとする。
「……っ、つばちゃんの能力……!!」
これはつばさが使っていた武器化の魔法を真似たものだった。少なからず、私はカースティが使っていた口づけの擬態能力以外で、見ただけで魔法を再現出来る能力者を見たことがない。大抵は他の能力者や魔族に習ったり、魔力を分けてもらう過程が必要だ。
「あの時はまだ敵だった相手に、簡単に手の内を全て晒したと思わないで!」
空気を固めたシャボンでルナの動きを封じ、目の前にさっきルナが作ったのと同じ炎の塊で爆発を起こす。勢いで飛ばされたルナを追って、エネルギーで勢いをつけた剣を振り下ろしたところで、ルナが魔法で蹴り上げてその勢いを打ち消した。
「っ、僕の真似までしてくる……けど、真似だけで切り抜けられると思ってるの?」
ルナは飛んでこちらの拘束から抜けると、魔力で作った矢を打ち込んでくる。霧の影に隠れて壁を作って防ぎながら、何度も斬りつけては跳ね返される……互角の攻防は続いていた。
正直、ルナがここまで動けるとは思っていなかった……。
お互い、まだ知らないことがあるんだ。
なのに、これで……決着が付いたらニ度と会えないのに、どうして闘っているんだろう。
もっと話したいことあったはずなのに。ようやくすれ違わず生きていけると思っていたのに。
悔しさに支配されそうになるのを堪えて、ルナを割くつもりで放った花びらの光がルナの前髪を掠めた。
「サナちゃん……まだサナちゃんが国を出る前、国王が生きてた頃……僕が拗ねて城の倉庫に閉じこもったことがあったよね」
「……何の話?」
「思い出話。記憶喪失じゃないサナちゃんとしっかり話すの、最後だから」
ルナが私の攻撃を打ち消しながら、まるで戦闘中とは思えない穏やかな口調で話を始める。今の私はコエの力で、のえるとして存在し、サナとして生き、人間として暮らした全ての記憶を持っている。ショックや魔法で失った記憶のない状態だった。
「……空気を読んで欲しいわね」
コエも、貴方も……。もしもこんな機会じゃなければ、もっと話すことがあっただろう。そう感じているのは私だけじゃなくて、ルナもだったらしい。お互いの感覚がここまでぴったりと重なるのは久々で、何故か酷く心地よくて、それが辛くて嫌になる。
「僕はあの時、サナちゃんがなんでも与えられている人に見えてた」
記憶を辿る。まだ戦争も起きておらず、両親も生きていて……国に魔法はもう掛かっていたんだろうか。誰かに理由もなく傷つけられるような記憶はまだ少なかった。
双子で生まれ王位を継承した私は、皇女として厳しい躾と学び、そして到底一般家庭では手に入らないような多くの教養を与えられていた。歌を覚えたのもこの頃だっただろう。
一方で王位を継がなかったルナは、使用人として教育され勉強も大人の使用人達からその場にあるものだけで学んでいた。教材も先生も与えられることはない。扱いこそ『きょうだい』ではあったものの、その地位はまるで対等ではなかった。
「サナちゃんは僕と再会してから何度も、『恵まれていた僕には分からない』って僕に言ってたよね」
その立場が翻ったのは、戦争で庇い合って死んだ両親によって国が傾き……国の外からやってきた親戚にルナだけが引き取られた『あの日』だ。あの日から誰の力も借りずに追われて生きるようになった私と、きちんとした家庭で一般的な生活を送ってきたルナ……。私はその立場を恨むこともあったし、羨むこともあって……ルナに八つ当たりをすることもあった。
「……僕もそう思う。サナちゃんがどれだけ生きていくために悪いことをしたのか」
話の合間に放った私の攻撃をルナは魔法で跳ね返す。咄嗟に顔を庇って目を瞑った瞬間、間合いを詰められて目の前にルナの拳が飛ぶ。
「そうしなければならなかったのか!」
「っ!!」
間一髪、避けたところで次は蹴りで足を取られる。まずい、体制を崩しかけたところを、咄嗟に羽で立て直して距離を取ろうとしたけど回り込まれた。
「それでどれだけ傷ついてきたのか、僕は結果しか知らない。毎晩魘されて、怯えて、苦しんでボロボロになった後の君しか知らない!!」
放ってくる炎を咄嗟に剣で斬りつける。気づけば、ルナの放つ魔法とこちらの魔法の押し合いが始まっていた。
「でも、君は僕が王位も、恵まれた環境の一つも与えられず、その場にあるものだけで育った景色を知らない!! 君が主として厳しい躾の中で学んだ事と、同じぐらいの知識を自力で得なきゃいけなかった気持ちを知らない!! 君に必死で食らいついていた僕を知らないよね!? なんで僕に王位が与えられなかったか、どれだけ考えても分からなかった夜を知らないよね!?」
「そ、それはっ……、うぐうっ!!!!」
痛い。長期戦に持ち込まれると、魔力の保たない私の攻撃は不利だ。骨が砕けそうな痛みに悲鳴を上げても、ルナの手は緩まない。ズキズキと全身が脈打つ痛みに、舌を噛んででも耐える。優しく、私を心配していただけの彼はもういなかった。それが怖くて、痛くて、苦しくて、辛くて……許されるなら狂ってしまいそうなほど悲しい。けれど、一瞬でも今油断したら、殺される。それだけでなんとか正気を保つ。
「……君は器用だし、頭も回る。どんな逆境でも生きる知恵もある。僕はどんなに頑張っても……それを見て苦しむしか出来ない……でも、今ならチャンスがあるんだ」
「っ、貴方、そんなっ……目的で……」
「……今この空間で、『そんな』なんて言われる筋合いないよ。……誰が正しいかなんて、今は誰にも分からない!! 誰にも答えなんて出せないし、出させない!」
……それは、そうかもしれない。けれど、お前の為だからなんて言われて、頼んでも望んでもいないことを聞き入れて死ね、だなんて言われてそうですかなんて納得がいく訳がない。ミシミシと勢いに押されて鳴る腕に悲鳴を上げまいと奥歯を噛み潰す。
「僕の腕で君の呪いをなかったことにしてようやく僕らは対等なんだよ、分かってよ……分かってよ、『姉さん』……っ」
「う、ぐ、ううっ……」
殆ど、地面に押し付けられる距離まで私の攻撃は押されていた。力の酷使で限界は近い。眼の前はチカチカと星を飛ばす。視界も歪んでもう長くは保たない。攻撃から逃れる為に、一度距離を取るにはあまりにも押されていた。結論、逃げられる状況ではない。
どうしたものか、そう考えているうちにも、押し負かされかけてついに片膝をつく。
「い゛ッ……!!」
攻撃の手はギリギリ止めることはなかったけれど、身体を走る激痛に思わず嗚咽が漏れる。一瞬で、この状況を切り抜けようと考えていた思考は吹き飛んでいった。とにかく現状維持が精一杯、少しでも殺られる時間を引き伸ばしている状態……。もう、何処まで保つか分からない。震えた息を整えてどうにか痛みを忘れようとする。
「……っ、ねえ、僕だって本当はこんなことしたくなかったよ! 魔法を使うのが辛いのも側で見てきて知ってるし、痛みだって伝わってきてる分でも十分痛いよ……お願い、もう負けて、分かってよ……!!」
その様子に、ルナも耐えきれなくなったらしい。今ここで情けを掛けようとするのもずるいな、と思うと湧いたのは怒りだった。これが悪魔の本能ならかなり意地が悪い。けど、そうじゃないと思ってしまうのは、ルナが睨むその目に涙が滲んだからだ。本気で、彼は私を楽にするためだけに私を負かそうとしている……。
「相変わらず馬鹿みたいに甘いのね……でもそんな勝手……分かってたまるか……っ!!!!」
その人の良さが好きだけど嫌いだったことを思い出して腹が立つ。軋む身体は怒りでまだ動いた。地面に突いた膝を強引に立ち上がらせて、ルナを跳ね飛ばす。まだ動けることに驚いたのだろうか、ルナはそのまま尻もちをついて、叫ぶ私の顔を一瞬、唖然と見つめる。
「あの倉庫の事件の時、あんたが居なくなったのを知ってどれだけの人があんたを探し回ったか、立てこもった馬鹿は知らないでしょうけどね、っ……!」
再度飛びかかってくるルナの攻撃を、剣を振るって弾き返す。ルナの背後を霧の壁で塞いで、思いがけずまだ私が動けることに焦った様子のルナを追い詰めてやれば形成逆転だ。
「国王……父様も母様も大人にいい顔するだけの造り物皇女の事なんかほっぽって大慌てだったんだから……ヘイヤもハルトも使用人達も総出でね……!! 私がいなくなったところであそこまで城をかき回されることなんかなかったでしょうね!」
「そ、そんな、ことないよ!!」
ルナも逃げ回ろうと必死に抵抗していた。私が乱立させる壁を、スレスレで縫うように飛び回る。しかし、それも叶わない。すぐに壁に突き当たって逃げ場はもうなかった。壁は……ルナと攻防を続けている間にも幾重に張り巡らせ既に隙間はない。霧に紛れて境目の分からない壁に阻まれ、ルナはまくし立てながら近づく私の隙を伺う。
「じゃあ、なんでそんなに大人たちが大慌てだったのに、私が一番最初にあんたを見つけたか知らないでしょ!?」
「え……?」
剣先をルナの喉元に突き立てて逃げ場のないルナを追いつめる。その様子はまるで、まだ小さかった自分たちが、大きな倉庫のドアの前で対峙したあの時の光景にそっくりだった。まだルナは諦めていなかったが、私の放った言葉で攻撃を忘れたらしい。次の手だったのだろう、ルナの手の中で渦巻いていた炎が、ルナの放った声と共に小さく萎んだ。
「…………私はしょっちゅうあの倉庫で習い事から逃げてたからよ」
国王は恐らく私の行く末を心配したのだろう。ルナの優しさは父譲りだ。出来ることは多いほうが良いと色々なものを与えてくれた。確かにルナの言う通り、私は器用なところはあっただろう。けれど、その多くはあの時の努力と苦労の方が大きい。魔法の手数の多さ、知恵、つばさと生き抜くために歌った歌さえも……元の興味や向き不向きこそあれ、きっかけは全て国王が充てがった学習の末のことだ。
それ故に指導は厳しく、私はあの頃、無邪気に城下を駆け回れるルナやヘイヤ、ハルト達が羨ましかった。あの輪に入るのにもしばらく掛かったし、ルナが誘ってくれなければ、あのままずっと孤独な一匹姫だっただろう。それでも、4人一緒に遊んだ時間は恐らくルナの半分もない。
そんな環境の違いに疲弊して逃げ出すこともあった。が、その理由を聞かれることも無ければ、あきられて終わるだけ。国王亡き後にシエル達が私を探さなかったのもきっと……私なら何処かで生きているだろうと思われたに過ぎなかったからなのだろう。
「……心配なんてされた事なかった。内側からドアが開かなくなって閉じ込められたことだってあった」
出来るからこそ、周りの大人達は私を子ども扱いはしてくれなかった。一人で出られて当然とすら思われていただろう。魔族なのだ、死にはしない。魔法でどうとでも出来る、と。
「私が暗いところが苦手になったのは人間たちに追われてた期間がきっかけじゃない」
それでも私が何も出来なかったのは。
「誰も来なかった時よ……」
あの時の孤独を思い出すと、少しだけ剣先が震える。やはり恐怖からだった。出来ない自分が見向きもされないと分かった時、何を唱えようが、何を祈ろうが……魔法をコントロールする精神は何処にも残っていなかった。震えて怯えて、偶然で見つけてもらうまでの時間でどれだけ絶望しただろう。
だからこそ、ルナが居ないことで大人達があまりにもあっさり慌て始めたのを見て、私はあの時にルナと対等なきょうだいである事を諦めた。姉として振る舞う事がその役割と身に刻むしか、生きる道が分からなくなった。『ルー』という呼び名は、多分、その線引きのつもりでもあったのかもしれない。今思えば、ルナは何も悪くないのに……。
「サナちゃん……」
ルナに向けていた剣先を下ろす。今のルナに戦意を感じなかったのは勿論、もうルナに倒されてもそれはそれで仕方ないかもしれないという思考があった。ルナが自分に対して、羨ましく思っていた感情は正しいと思ったからだ。何なら、ルナの怒りは正しくて報いを受けるべきだとも。
「だから、ルナが私を探しに来た時驚いたの。貴方は『シエルも待ってる』って言ってたでしょ」
「……うん、実家に戻っておいでって、言ったね……」
居場所を無くして島に追いやられた私を、諦めず迎えに来たのは誰でもないルナだった。幾ら突っぱねて、放って置いてと言っても、怪しいぐらいに人が良くて。それが酷くいい迷惑で。こうして今みたいにぶつかり合ってもまだ諦めなかった姿は一番記憶に焼き付いている。
「シエルがそんな事言うとは思えないの。なんなら多分貴方に「良くない噂がある方です、近づいては危険ですよ」って言ったとも思ってる」
「……そ、それは……」
ルナの言葉が濁るところを見れば図星なのだろう。自分の従者とは思えないセリフだが、恐らくその反応の方が正しいぐらい、あの頃の自分は生きるために他を簡単に殺せていたのだから。
「それでも迎えに来てくれた貴方は十分すぎる程私を救った。貴方は私をちゃんと救ってる。それが伝わらないように振る舞ってしまったのは私。……言うのが遅くなってごめんなさい。いつも来てくれてありがとう」
「……ち、違う、謝って欲しかったわけじゃない……!!」
ルナは剣先を向けられなくなった事でようやく立ち上がると、首を振って否定した。お互いの立場の苦労も、それがどうしようもないことだった、ということも分かってはいる。私も頷いた。
ただ、これが……本当に最期だから、言いたいことを言っただけだ。私は再度、ルナに向かって剣を構える。
「……でも、これが私が貴方に負けたくない理由でもある。貴方の願いで、貴方がくれた救いをなかったことにはされたくない!!」
「!!!!」
私はそのまま、ルナに今注げるありったけの力で剣を振るった。敢えて、逃げも隠れもしないまま、軌道が読める動きで、もう一度根比べのつもりで。勿論ルナもそれを捉えて、受け止める。反動でルナのつま先が滑って、背後に仕込まれた霧の刃に一歩近づいた。
「っ……う……っ!!」
「いっ……ぐっ……う!!」
ルナの魔力だって無尽蔵ではない。互いに譲らない威力で放ち続けて、お互いに限界だった。伝わってくる痛みも、自分が感じる痛みも身体が裂けるぐらい痛かった。痛いと泣き叫んでしまえたらどれだけ楽だろう。もうやめようと言える環境だったらどれだけいいだろう。同じぐらいに恐怖の警鐘を鳴らす鼓動が速すぎて胸が痛い。殺したくない。でも殺されたくもない。久々に感じる命の危機に懐かしささえ感じてしまう。
でも、こんなに、こんなに苦しいのに……何故だろうか。本気でやり合えたのが楽しい、と思ってしまった。戦いの本能なんかじゃない……本音でルナと、初めて向き合えた時間が、何故か嬉しくて、一瞬、口元が緩んだ。
「っ……」
瞬間、ルナの息を呑む音が、妙にはっきりと耳に届いて、ふっ、と、手に込めた力が抜ける。反発していたルナの魔法が途切れて、私の魔法がルナを貫いた。
「…………ルナ!!」
「っ……あーあ……終わった……そうだよね……勝てるわけないよ、サナちゃんだもん……」
決着がついた。そう判断した瞬間、咄嗟に剣を投げ出してルナに駆け寄る。ルナはその勢いのまま、地面に叩きつけられた姿勢のまま情けない吐息を零していた。
例に漏れず、敗者となったルナの魂は透けていく。にも関わらず、ルナはどこか達成感に満ちた顔で寝転がって笑っていた。
「っ……」
「……泣かないで、お願い……勝ったのに泣く顔でお別れなんて死んでも死にきれないよ」
その姿に涙が溢れてしまう。いつものルナ。戦う恐怖から開放されて、プレッシャーも何もなくて、いつもならきっと『ごめんね』で終わるような関係なのに……いつもの明日はもう来ない。
今まで、死んだって生き返るのだからお別れのようなお別れなんてしたことがなかったのに。
「嫌だ……二度と会えないなんて嫌だ……怖いよ……」
「……僕も寂しい、けど……僕は何度も死んだ君を見送ってきたよ、でも何度も奇跡はあった……きぃちゃんやつばちゃんやコエがそうしてくれたように……だから今度もきっとそうだ」
ルナの透けていく腕が頬を拭う。もうそこに質量はなく、それはフリでしかなかった。
苦しむ自分にいつでも手を差し伸べてくれたルナの手を思うだけで……半身が居なくなる苦痛を思うと押し潰されそうになる。
それは多分、ルナと戦うことそのものよりもずっとずっと辛い。
「……サナちゃんが神様になったら、会いたいって思ってくれたら嬉しい」
「…………」
もう殆ど質量の無い手が、私の手を握る。まるで蒸気に触れたみたいな、ふわっとした熱だけを感じた。嫌だ、嫌だ、嫌だ……胸の内が悲鳴を上げるのを、堪えて口元を緩ませる。これ以上、最期までこの優しい人を困らせたくない。だってそうしたのは自分だ。それを望んだのももう半分の『自分』だ。言っちゃいけないことぐらいわかっている。
「またきょうだい喧嘩しよう?」
「……うん」
眼の前は涙で歪んでいた。でも精一杯、笑ってその影が砂のようにさらさらと溶けていくのを見守る。
張り裂けそうな胸の痛みで本当に心臓が真っ二つになったら、また会えるんじゃないかと馬鹿なことを考えながら、いつまでもその空間を見つめていた。
***
そこからどれほどの時間が経っただろう。時間がないこの世界で呆然としたままの時間は過ぎた。結局、ルナが私より先に誰と戦っていたのかを知らない。他は誰が、誰を倒したのだろう。空っぽになってしまった指先を摩りながら、私は次に行く気力を失っていた。
「……見てたよ」
その背後に、不意に気配が訪れる。ルナに近づいた時のような予感は一切しなかった。
「!? 貴女は……!?」
咄嗟に振り返って見た顔に、驚きで立ち上がる。そんなはず……という言葉を飲み込む。最初にコエがこの世界に呼び出したと言っていた名前の中に、彼女の名がなかったからだった。
……いや、あの神様のことだ、きちんと裏を返せば確かにあの言葉の意味は正しいのかもしれない。けど、あまりにもサプライズが過ぎた。
本気なんだ。今更ながらコエの意図を改めて汲み取って奥歯を噛む。
「ずっと、アメの意識の中から」
「のえる……まさか貴女と顔を合わせるとは思わなかった」
……のえる。アメの前世。私が呪われる原因となった、神に逆らった人間。神を裏切った神父の父親と、その父親を怪しんだ人間にいじめられて、その人生を悲観して身を投げた。その行為が前の神の名誉を傷つけ、その罪を償わせる為に実験台として天使に生まれ変わらせられ「アメジスト」として生まれ変わった人間。
のえるの自死が無ければ、アメは生まれなかった。私たちは生まれなかった。コエが救えなかったこの歴史はなかったことになるだろう。
「……貴女の願いは、聞かなくても理解る」
「そう、私は……私で始まったこの歴史を全部、なかったことにする」
のえるは静かに、視線を伏せながら……でもはっきりと言い放った。それこそ、恐らくコエの本音、本当の意思なのだろう。私の願いとはまるで真逆の願いだった。コエは私達を救いたい、と表現したけれど、心の奥底、本音の本音では……全てリセットした方が良いと分かっている。それが出来ないから、コエは私達に決定権を与えたのだろう。
「……認めると思う?」
「…………」
のえるはそれ以上話さない。掛けていた眼鏡をなぞるように触れて、そのレンズの向こうからじとりとこちらを睨むだけだった。
「貴女の足音も気配も直前までしなかった。コエがわざと私に仕掛けたのよね」
「…………」
分かっている。多分、彼女に対して答えを出すことが……コエの言う『私は私を救えない』へのアンサーになる。私はコエに試されているらしい。コエの本心を打ち砕いて、身体でそれは間違いだと、一番この運命に苦しんだ私が否定すれば……きっとコエは納得するのだろう。コエの迷いはなくなるのだろう。
この場所と機会が用意された意味を改めて体感して、ルナが最期に触れた指先を握りしめる。
「……貴女の罪は私の罪、だからこそ許さない……人間の貴女に何が出来る?」
「…………」
のえるは未だ、だんまりを決め込んでいる。話すことは他に無いらしい。
「これ以上誰も殺させない。過去の私も、貴女自身も全部……」
まだ脳裏にルナの姿が焼き付いている。その戦いで負った傷もまだ痛い。
「その為に今は死んで貰うわ!!」
そんな状況で正々堂々、売られた喧嘩を買い逃す訳はなかった。ルナの仇とも言わんばかりに私はのえるに拳を振り下ろす。同時に、己の武器である剣を投げ捨てる。魔力を込めなければ小さいままのそれは、カランカランと何もない空間をあっけなく転がっていった。
「貴女に魔法は必要ない!!」
「もう使えないだけでしょ、ルナとの戦いで消耗しているのは分かってる」
「じゃあ話は早いわ……」
のえるも伊達に殴られたり蹴られたり、追い回されたりという、短いなりに戦ってきた人生を送ってきている。こちらが振り下ろした拳を咄嗟に避けて、私の腕を振り下ろした。
「よくも私に……私に家族を、友達を、きょうだいを殺させたわね!!! この手で直接、逃げの無い死がどれだけ苦しいか思い出させてやる!! 許さない、今更逃げようなんて許さない!」
それでも私は力の限り、のえるの喉をめがけて腕を伸ばす。足を払おうと膝を蹴り上げ、すり抜けられる。
「貴女のその怒りだって、私がなかったことになれば全部なかったことになる。貴女は普通の人間で、誰も殺さず、普通の生活と普通の苦労と普通の喜びを感じて生きていける。わざわざ苦しむ必要なんて何処にもないでしょう!」
「いっ……たっ!!」
それでものえるを捉えようとする私の腕にのえるが噛みついた。怯んだ一瞬に腕を捕らえられて、押し付けられる。突き放す形で抜け出した。
「普通普通うるさい……」
「……何?」
「私が人一倍苦しんだから可哀想だと思うのなら正直勘違い! いい迷惑!! 自分に酔ってろこのナルシスト!!!」
私はのえるに噛まれた傷を庇いながらも、思いっきり舌を出して親指を振り下ろしてやった。『地獄に落ちろ』を実際に地獄に落ちた側にやられたケースが幾つ存在するだろうか。私のくだらない煽りの姿勢に、眼鏡の奥でのえるの表情が明らかにはぁ?とひっくり返った音と共に歪む。
「悲しくて怖くて痛くて……信じても何度も裏切られて……そんなことの方が勿論多かった!! けどね、ずっと私の帰りを待っていたシエル、ずっと心配をし続けてくれたルナ、翅たちから奪っててでもつばさと一緒に居た時間……きぃちゃんが私の為に努力してくれた時間、コエとアメとカンちゃんといた時間、その全て、全部……貴女に要らないもの扱いされる筋合いはない……!! 完璧だけが全てだとが思わないで!!」
既に先の戦いでガクガクの膝でのえるに突進する。こちらの叫びに圧倒されたらしいのえるは逃げることもなく、私の下敷きになって身動きが取れなくなる。逃げ出そうと藻掻いて仰向けになったところで、首元を締めてやった。満身創痍な上に魔法も無いといえど、身動きを封じられれば人間なんて倒すのは、能力者には簡単なことだ。
「ぐ……なん、で」
のえるの眼鏡が勢いで転がっていく。その向こうにあった歪んだ表情は、アメにもコエにも、自分にもよく似て見えた。
「貴女の言い分も一理あるかもしれない……でもね」
これで決着はついたのだろう。のえるの魂が透けていく。けど、私は完全に質量がなくなるまでその手を緩めたりはしなかった。最期の最期まで、楽になどさせてやりたくなかった。
「私はもうそんな事で満足できるほど生温くない」
これが今、コエの本音への自分なりのアンサーだった。
「せめて今だけでも逃げられない苦しみを味わってみなさい」
「…………」
のえるは最期まで、私を睨んだまま消えていく。
ただ、もう抵抗は一つもなく、どこか納得したような顔をしていた。
***
「つばさっ……!!」
ゆらゆらと霧の中を歩いていると、向こうから見慣れた人影が近づいてきた。
「サナさん!?」
どん、と胸に飛び込んできたのは、誰でもない、サナさんの姿だ。はずみで受け止めた身体は既にボロボロで、サナさんはへとり、と間髪入れずにその場に崩れ落ちてしまう。
「さ、サナさん……!?」
「つばさ……私、私、ルナを……あ、あぁ……」
「あ、あぁ……そうでしたか……」
そのまま涙するサナさんの断片的な言葉で察してしまう。ルナさんは……サナさんにとって文字通りの半身だし、一番大きい心の支えでもあった。その存在を自分の手で消してしまった……。その痛みを想像するとあまりにも痛くて辛い。
「……怖かったですね、痛かったですよね……辛かったですね……」
「う、ううっ……あぁあぁ……」
その背を擦って抱きしめてやる。震えた身体から、その激闘が見て取れるようだった。改めてコエさんの命じたことがあまりにも残酷だという事を感じ取ってしまう。自分もボロボロだったけれど、こうして目の前に、あの打たれ強いサナさんが崩れ落ちるほどの残酷さを体感してしまうと、言葉には出来ない。あんまりだった。
「つばさは……? つばさは誰かと戦った……?」
「……翅と」
「…………貴女も家族と……」
「私はいいんです、一度は縁を切った身ですから」
サナさんは泣き腫らした目を擦りながら私の戦況も耳にする。サナさんはきぃちゃんと、アメさんの元の姿である『のえる』という女の子と戦ったことも口にした。
「ルナさんが誰と戦ったかは不明ですが……私、ここまで大分歩いて来ました。姉さんに会っていないところを見ると姉さんと戦ったんでしょうね」
サナさんもルナさんが誰と戦ったかは聞いていないらしい。状況から察するに多分姉さんと戦ったのだろう。ルナさんと姉さんは師弟関係だし、巡り合せになんとなくコエさんの意思も感じている。多分わざと、戦いにくい関係の相手にマッチングさせているように感じていた。
「……じゃあ、後は」
「私達だけ、でしょうね」
……どうしよう。出会ってしまったものはしょうがないと思っては居るけれど、やっぱり……という感覚と、やりたくない感覚が交わる。
サナさんと戦って勝ち目はあるだろうか。サナさんは憔悴しきっているように見えるけれど、こちらも余力があるとは言い切れない。それに追い込まれたサナさんは本当に、どんな力を出すか分からない。ルナさんと姉さんがそうだったように、私とサナさんも師弟関係だった記憶も今はある。こちらの戦い方は知られ尽くしているだろう。
内心冷や汗に生唾を呑んだところで、サナさんは静かに口を開いた。
「……つばさ、貴女の願いを聞いてもいい……?」
「……いいんですか?」
サナさんはこくり、と子供のように頷いて、そのまま蹲ってしまった。
……どうしよう。回答次第では一触触発も免れないように思う。サナさんはどうするつもりでルナさんを倒したのだろう。この様子だとかなり不本意だっただろうと思うのだけれど、それでもルナさんを倒してしまったということは……ルナさんの願いに背いたのだ。
サナさん以上に掴みどころの無いルナさんの本心がどうだったのか、想像がつきにくいけれど……きっとコエさんが出来ない『サナさんを救う』ことを選んだように思う。
それにサナさん自身が抗ったのだとしたら……やっぱりサナさんの為に祈るつもりでいる、私の願いもサナさんが願うものじゃないかもしれない……?
「……つばさ、お願い……もう疲れちゃった……」
「さ、サナさん……」
私がしばらく言い淀んでいると、サナさんはそう言ってまたボロボロと泣き始めた。その言葉は殆ど子供のそれのように不安定で、いつもの凛としたサナさんの姿はない。よほど怖い思いをした時のサナさんはこうなってしまう。……やっぱり、ルナさんとの戦いの間、かなり辛かったのを我慢していたのだろう。
「貴女をこの手で殺せる覚悟は流石にもう持ってない……」
「ま、待ってください、そんな事言わても……私も納得できませんよ!!」
私は慌ててサナさんの腕を無理矢理に引っ張った。けど、サナさんは立ち上がってすらくれない。いやいやと頭を力なく振るだけだ。戦意は全く持っていない、こちらの回答次第で負けを認めるつもりなのだろう。
「……や、やめてください。戦ってくださいよ……」
諦めて欲しくない。けど、確かにサナさんと戦うなんて残酷だ。強く言えない。どうしよう。迷っているとサナさんの方からぽつり、と願いを話してくれる。
「……私は、何も変えたくない……」
「ルナさんは、そうじゃなかったんですね……?」
「……ルナは、私を自分で救えるチャンスが欲しかった、って……」
サナさんはそれだけ言うと、口を噤んだまま膝に顔を伏せる。ルナさんは多分、サナさんの呪いを消そうとしたのだろう。サナさんはそれを拒んだ。だから……戦ったのだ。
「……サナさん、私が、きぃちゃんが過去に消した歴史を書き残した事は知ってますよね」
サナさんは蹲ったまま、頷きだけで返事をする。サナさんが一度この世を去った時、『サナ』という悪魔の名前を、きぃちゃん……年齢を重ねてサナさんに近づいた『二世さん』が歴史から消したことがある。その時に二世さんから記憶を受け次いでサナさんを記憶していたのは私だけで、その私がおとぎ話として本に残したのが『うたごえ』の本だった。
「私は、あの時と意思は変わっていません。貴女の人生を無駄にしない。貴女の生きた証になる。例え名前が無くなっても、貴女の歴史を消させたりはしたくないからここまで来ました」
私はサナさんの力ない手を握る。殆ど熱はなく、冷たい指先だった。
「……ただ、私には物語を綴ること、歌うことしか出来ない。貴女のように器用ではありません。サナさんなら守れるものを、私は守りきれないかもしれません。貴女が完璧を望むのなら戦うしか無いと思っています。……どうですか、サナさん……」
サナさんはまだ答えない。迷っているようだった。もしかしたらもう、考えられないのかもしれない。無理もないと思った。流石のサナさんでももう……キャパシティはとっくに越えているのだろう。
「疲れたのなら貴女が戦えるようになるまでずっと待ちます。その間にコエさんが邪魔をしてくるのなら歯向かいます。何処までいけるかわかりませんが、貴女の記憶を私に託したきぃちゃんも、それを残した私自身も、多分、そうはしないと判断したルナさんも……サナさんの意思と向き合った結果を大事にしたかったと思いますし、思ってます」
そう言って私はサナさんの目の前に座って、まだ嗚咽に跳ねる肩を擦った。
「……きぃちゃんが私の為にしてくれた努力も、ルナが守ってくれたものも……過去の私が消したかったものも、残したかったものも、その後の世代が私達を見てどう思ってくれたのかも……全部変えたくないの」
「はい」
「憎んだり憎まれたりした事でさえ、残ってて欲しい……今の、今の結果でいいの……」
「はい」
そうしているうちに、ぽつぽつとサナさんが話し始める。とても静かな時間だった。魔法も拳も交わさなかったけれど、恐らくそれは戦いだったのだと思う。痛みの比で言えば、今までで一番『痛かった』。
「…………貴女が、つばさが残したおとぎ話が私の歴史であって欲しいの…………」
「……ありがとうございます」
そうして、握り続けていたサナさんの手に、力が入る。いつの間にか、冷え切っていた指先は力強く私の手を握り返していた。
「貴女で始まった人生を、貴女で終わらせてはいけない?」
「私を選んでくれます?」
「……勿論」
そうして、サナさんがようやく上げた顔は、泣き腫らしてこそいたけれど笑ってくれていた。あまりに愛おしくてその指先にキスを落としたところで、それはサナさんの降参を受け入れる合図でもあったらしい。サナさんの身体が透けていく。勝負はついた。
「ルナ、ごめん……」
その光景に、サナさんは自分の指先を見ながら、ゆっくり静かに呟く。なにかが滲む言葉に反して、どこか安心した表情だった。
「……サナさん」
今度こそサナさんの腕を引く。サナさんは立ち上がってくれた。そのまま向かい合ってちぐはぐな背丈を見て、いつか二人で並んだステージの事をふっと思い出す。サナさんは消えちゃうけど……大丈夫、今までと変わらない。これまでもこれからも多分、二人並んで戦うことに変わりはなかった。
「未来でも、過去でも……また」
「…………うん、またね」
サナさんはそうして、何も変わらずに手を振り返す。
見えなくなるまで、二人の指先が離れるまで……ずっと、手を握りながら、また明日も明後日もあるみたいに振り返した。
***
「決着はついたようだな……つばさ」
「貴女がラスボスになるような真似がなければ、そうなりますね」
しばらく、サナさんの居た場所を見送っていた。油断したら狂いそうな程悲しかったけれど、泣くにはまだ早い。結果はこれからだ。
何処かから様子を見ていたらしい。コエさん……神様がすうっと現れた。その顔は普段の軽いお調子者という雰囲気はなく、ただただ言葉が重たい。
「サナさんの為にもその顔、やめてもらっていいですか? 誰も泣かせないという約束を破った貴女にそんな顔をする権利はありません」
「……悪い。気分のいいものでもないからな」
神様は苦笑いでため息を吐くと、頭を掻きながらに声のトーンを上げる。それでも皮肉やジョークで返してこない辺り、やっぱり余裕はなかったみたいだった。
「……ごほん、では行くか」
「行く?」
「約束の地、ってやつだな。なんかのキャッチコピーみたいだろう? ドラマチックだろう?」
……前言撤回します。この人本当に反省してるのかな。
そう言って神様が指をぱつん、と鳴らすと、霧に囲まれた世界は一変……小高い丘の草原へと景色を変えた。サラサラと葉が擦れる音に、背の高い草が顔をくすぐる。遠くに波の音と潮風……。
「……サナさんが住んでた島、ですよね……?」
「そうだな。かつてそうだった島、と言うのが正しいか。サナが居た時代よりずっと後の世界だ」
ふわふわと先頭を神様の桃色の羽根が指す。それを辿って少し歩けば、目の前に大きな一本の樹があった。サナさんが居た頃は魔法で成長をとめられていた樹。何十年?数百年?? 経過時間は分からないけれど、私がプレナイトとしてサナさんを追った頃……2世さんが私に見せてくれた記憶……それより随分と立派に育っていた。
「幾ら未来の世界とはいえ、こんなに樹木の成長って速いんですか……」
その大きさに圧倒されたところで、不意に背後からこの静かで厳かな環境にはやたら似合わない元気な声がステレオで耳をつんざいた。
「どうもー」
「どうもー!」
「ひいえっ!!?」
私はあまりの不意打ちに悲鳴を上げ返す。
目の前にはふわふわとした黒髪を一本にくくって長く伸ばした女の子が一人、黒いワンピースに黒いケープ、赤いネクタイという姿でふわふわ浮いていた。目の前に同じくふわふわ浮いている神様が居るぐらいなので浮いているそれ自体には驚かない。更に隣には、白衣とも襟付きワンピースともとれない不思議な服装の女性が立っている。
どうにも人気があるようには見えない土地で、突如漫才でも始めるのか? といった風なノリで声をかけられたら誰だってビビるだろう。呆気に取られる私をよそに、二人はなんか……こう、食通の街で見る大きな看板みたいなポーズで挨拶を続けた。
「世界樹の精、朔と~」
「じゅ、樹木医のサキでーす」
「…………」
何が起きているのかわからず、神様の方を振り返る。完全に目線を反らして、明らかに顔には『教育を間違えたな』と書かれていた。
「ウケ、悪かったですね!」
「……ねえ、無茶はやめようって言いましたよね」
「えー、だって!! だってあの伝説のアイドルでしょ! スノーフレークソルベの片方でしょ!! アイドルっぽい挨拶したかったんですよ!」
そうして朔と名乗った方の女の子は、スベったとは思えない笑顔でサキと名乗った方に詰め寄った。サキさんとやらは乗り気じゃなかったらしい。肩を落とすも、朔さんとやらは私を指さして空中をじたばたしていた。
スノーフレークソルベ……アイオライトとプレナイトのユニット名。こんな未来にあの名前が残っている事実に、サナさんを思い出して少しだけ胸が痛くなった……けど、そんな感傷に浸る暇はない。
「せ、世界樹? とは?」
「平たく言えば神社というか御神木というか樹木というかツリーというかなんじゃもんじゃというか!!」
「最後ただの樹ですね……」
とりあえず疑問をぶつけてみる。精、は精霊、妖精のことだろう。知り合いに妖精は居なかったと思うけど、サナさんが従えていたメイドさんは妖精だし、魔族としての妖精は存在するんだろうし。
樹木医……は文字の通り、樹を管理する専門職の名前ですが……神事に関わるかといえばそうでもないのでこの場に居るのはよくわからない。けどそれはまあスルーだ。
「……この世界の中心地、と言えばいいだろうか」
神様は二人の会話を魔法で物理的に口を塞いで遮ると説明に入る。単体では話にならないけど、こういう時話を進めてくれるのは正直助かった。
「彼女らは君の時代でいう能力者、この時代で言う『マジカリスト』から天の者になった者達だ」
「……人間だったのに、神様のものになった、ということですか?」
「諸事情があるんだ……私の力不足で……」
そういうと神様はまた少し覇気を失う。私達が居なくなった後にも、色々あったのだろう。
「元は天界をホームとして地上の願いを聞いていた私だが、過去の神に呪われた魔力は膨らむばかりだった。その力を押さえながらも神を越えた私は祈りを聴き、たくさんの若い芽と出会い話をした。つばさ、君に憧れたアイドルも居た」
「え、いやぁ……はは、若気の至りですよ……あんなの」
「……同じように回答した元アイドルも居たが」
うっ……。思わず息を呑んでしまう。後ろで朔さんが「へんへーへふえ」って言ったけどよくわからない。
「だが、やはりどう努力しても私は過去を収束することが出来ずに居た。アメジストを、サナとルナを、そこから始まった全てを幾度となく救おうとした。アメとカンの時間も、莢とつばきのことも……君のことも、その後に続く後の世代のことも」
「…………」
私はその言葉に、返す言葉が見つからなかった。莢とつばきは……サナさんと私の意思を継がせた子供と、翅とプルームの子供。二人は私達の為に代理戦争ともいえる対立をさせてしまった。その因果はそこで終わったと思っていたけど……後世に繋いでしまったのだろうか。それを終わらせようと消耗していった神様の事を思えば、今回のことは起きるべくして起きた、と言っても正しいかもしれない。
「そのうちに、この朔が人の身を捨てて魔法を売る願いを私に叶えさせた」
「そ、それって……」
「君の世代では禁忌の『魔女』だな」
神様が指差す方向を振り返る。まだ口を塞がれたままの朔さんは、頬を膨らませたままなんか威張っていた。
「君の、って、今の世代では合法なんですか?」
「うーむ……グレーゾーンというところか? 破滅しない手法でなら可能という条件で特別取り締まることはない……ぐらいの認識だと思ってくれ」
時代って変わるものですね……と言おうとしたけれど、恐らくそれは神様の功績なのだろう。黙って続きを聞くことにする。
「だが、彼女に魔女になる素質はなさすぎた。恐らく魔法を切り売りした時点で力尽きてしまうだろう……だから、この島の樹を依り代として命を繋ぎ、ここに願いを集めている」
「願いを集める……」
「それを私が叶える。そういう意味でここは『神社』なんだ」
なるほど。私は頷いてから一度その説明を反芻した。朔さんは神様のお願い事を仲介するシンボル……という訳か。
「今の話にサキさん出てきませんけど……」
「サキ、お前は自分の口で説明できそうだな」
神様はそう言うと、サキさんだけ開放を許す。サキさんははい、と口を塞がれたことに文句は告げず頷いた。偉い。まだ朔さんもごもご言ってるのに。
「サキは元々、サナの城下に住み着いていた旅人だった。悪魔の血を継いだ能力者でな。幼いながら植物の知識に長けて…………」
「た、とも言い難くてすみません」
「……すまん、言葉選びを間違えた」
な、何があったのだろう。サナさんに聞いておけばよかった。いや、そもそも今存在を知った人の話は出来ないか……。何処かで見覚えがある気もするにはするし、サナさんの城下という事は多分、私がサナさんと修行の為に暮らしてた頃に会った可能性もなくはない……。とはいえ、多分あの頃の私なんてサナさん以外の人の顔をちゃんと認識してた自信もなかった。気になる。気になるけど空気的に突っ込んじゃダメなんだろうな……。
「私、ルナさんのことが好きだったんですけど……」
「どぅっ……!!!!!!」
なんて考えを巡らせつつ、サキさんの話に耳を傾けた所でとんだ爆弾発言にぶち当たる。衝撃に思わず失礼と分かってて吹き出してしまった。
「き、聞いたこと無い!!! 見たことない!!!?」
「い、いや、多分ルナさん全然意識っていうか見向きしてくれなかったので……」
「あ、ああ……そうですよね、ルナさん恋愛感情ないしサナさん一筋ですもんね……」
その一言で納得しつつ、私は胸を撫で下ろす。私の知らないところでとんだ三角……いやこれ私も含まれてるな? 四角関係に驚きが隠せない。
「……そうなんです、全然勝てなかったんです!」
そう言いながらも、何故かサキさんは嬉しそうに笑う。愛情とは別の絆がルナさんとの間にあったのだろうな、とその一言で察して、少し誇らしく思った。ルナさんがもしかしてサナさんの庭の植物を手入れしていたのは、きっとこの子の言葉が何かしら作用したのだろう、とも思う。
「ルナさんと約束したんです。ちゃんと世界を見るって……ルナさんはきちんとサナさんと向き合うって……」
「そうだったんですか……」
そしてその感覚はどうやら間違いじゃなかったらしい。サナさんとルナさんの関係を変えたのは、間違いなくこの人だった。ルナさんがサナさんを最期まで追い詰めたのもきっと、サキさんの言葉がルナさんを変えたからだろう。でなければ、ルナさんは自分の願いを、サナさんの願いを押し切ってまで叶えようとなんて思いもしなかっただろうから。
「……ルナさんはどうでしたか?」
サキさんは心配そうに、私を見つめる。私もルナさんの全てを見たわけでなかった。けど……。
「真剣に、向き合ってましたよ。自分のお姉さんの為に」
「良かった」
私の記憶するルナさんは、サナさんが困っていれば駆けつけるし、サナさんの事を第一に考えて仕事をして、サナさんの為になればと研究を続ける科学者で。サナさんのわがままには振り回されたり叱ったり、喧嘩もするし後悔もするけど、そこに逃げを感じることはなかった。
その一言でサキさんも安心したらしい、ふわっと笑う姿は花のようで可愛らしい人だ。なるほど、ルナさんこれに落とされたんだな。ほっとけなさそうな感じもどこかサナさんに似ている。
「……私は私で、魔法と植物の関係について旅をしながら研究を重ねました。ハーブを魔術に使うこともありますし、朔のように精霊が樹木を依り代にすることもあります。花と魔法は繋がりが深いんですよ。なので、私は『魔法樹木医』というマジカリストの職業を作り、一時期は教鞭も取りました。知り合いの先生から紹介され、今は使いとして朔の使役……というよりはお世話係兼巫女って感じですね」
ひえ、なんかすごい人が揃っているんだな……と私は圧倒されてしまう。いや、これから私もその神の仲間入りをするのかと思うと実感がない。先生やってた方がすごくない? 自分で研究を完成させるほうがすごくない?? 頭が痛くなってくる。
「……大丈夫か? 思い出話はついつい長くなるな」
「さては分かってて言ってますね、それ」
ニヤニヤ顔の神様を見るとどうやら知っててわざと心配したらしい。睨んでやればこわこわ、と言いながらスイスイ逃げていった。
「で、本題だ。つばさ、お前の願いはこの樹と朔の力を通じて作用する」
「そこにもう、貴女の邪魔は入らないんですね?」
ここでようやく朔さんの口も開放された。神様ひどすぎない? とかぶつくさ言っているのを横目に、神様は話を進めていった。
「……入れないさ。約束する。というか出来ないんだがな。私に届くのは私以外の願いだけだ。それでも、私の力の行く先、私が産んだ人間の一人が願うならそれが私の願いだ……覚悟を決めたよ。君たちの戦い、見せてくれてありがとう」
そう言って、神様は、コエさんは笑って、大樹への道を開けた。白い石の階段が数段続き、その先で朔さんが待っている。
「……分かりました」
私はその階段を一歩、一歩踏みしめる。
階段は全て7段あった。全て祈るような気持ちで歩いていく。
アメさんから始まった物語、きぃちゃんから聞いた真実、サナさんから託された願い、ルナさんが叶えたかった祈り、私が望むもの、姉さんが取り戻したかったもの、翅が羨んだもの……。
「私は……」
階段を登りきると小さな神殿がそこにあった。静かに、朔さんと、樹の前に膝をついた。
***
まるで私の呼吸に合わせるように木々の枝葉が風に震えていく。朔さんも願いを聴くかのように、ふわふわと静かに私を見下ろしていた。
私は。私は、今ある物語を……サナさん達の物語を永遠に……。
「……いや、違うな?」
「は???」
口を開きかけて、思い直す。もっと良い策があるのでは、と組んだはずの手が腕に変わった。
「おいおいおいおい、待てつばさ、それは無いんじゃないか?」
「約束破った人に言われたくないです」
「あれ? もしかして根に持ってる???」
折角覚悟を決めた神様が明らかに私の路線変更にオロつく。確かにこの物語を消されたくない。サナさんもそれを望まないと言った。とはいえ、これじゃあ現状維持を祈っただけで、神様は救われない。神様の努力は続くだけだ。実際コエさんがアメさんとカンちゃんの為に同じ時間を繰り返したって話もあったし、また無限ループが続いたら、それこそ歴史は変わらない。
「…………神様って一人じゃなきゃダメなんですか?」
「……え?」
考えを巡らせて、辿り着いた結論はそれだった。そもそも全てをコエさんが背負う必要が最初からなかったんだ。だって『アメジスト』は悪くない。サナさんもルナさんものえるも、ただ生きてきただけ。
「国によっては米粒一個に神様居るんですよ! トイレにまで居るんですよ!」
「な、何を言ってるんだ!? どうした、謝るから落ち着け!!」
お互い、正義と正義でぶつかり合った。それを一つにまとめるなんて無理だってはっきり分かった。ぶつかり合うことは無くせない……けど、例えば最期の私とサナさんみたいに。一番の願いは叶わなかったけど、お互いの願いが通じ合ったサキさんとルナさんみたいに。正義が他の正義を救うこともあり得るはず……。
神様に祈りを届けるのではなく、祈りが神様を作ることは出来るはず……!
「決めました! 私は、神様を廃止させます!!」
「ちょ、あっ、えっ??? えー!!!!!!!」
再度両手を合わせて、私は叫ぶ。
その叫びより大きく、光に包まれていく神様……コエさんの困惑の悲鳴が小さな島に響き渡った。
***
「……ここは……サナの家……?」
「すみません、やっぱりここが収まり良かったので、ここに帰らせて貰いました」
次に目を覚ました時。私の爪先は……コエさんが創った人間の世界。そのサナさんが暮らして、私を迎え入れたあの部屋にあった。1テンポ遅れて、私のよく知る姿に戻ったコエさんが、絨毯の上で目を覚ます。願い通りの結末になったらしい、一先ずその結果に私は安心する。
「一体何をしたんだ……」
「今日この時点から、コエさんの『神様の権限』を奪わせて頂きました」
「……夢じゃなかったか……どういうつもりだ?」
強制的に眠らされて、まだコエさんはぼんやりしているらしい。もしくは、私がやらかした事にめまいでも覚えたのだろうか、頭を抱えてため息をついた。
「安心してください、魔力までは奪ってません。ただ、コエさんは能力者……いえ、ここは魔法のない世界ですから、『ただのちょっと魔法が使える人』にさせて頂きました」
「な、なんでそんな事を……?」
コエさんの困惑は尚も続く。それもそうだろう。コエさんは神様を探していたのであって、神様をキャンセルしてくる人を探すつもりはなかっただろうから。
でも、私は考えなしにそれを願った訳じゃない。その説明責任は果たすため、未だ驚きからかしゃがみ込んだままのコエさんに視線を合わせてやった。
「コエさんも、サナさんもルナさんも……他の皆も……天使だろうが悪魔だろうが妖精だろうが、全員『神様のもの』ではなくしました。願いなんてお互いがお互い、誰かが出来る人が叶えればいい。特定の誰かひとりが頑張って叶えるシステムなんてなくしてやりました。貴女はもう誰かを泣かせない為に願いと戦う必要はない。過去の神様の呪いの連鎖は断ち切られました。この先に、私達に起こる事象の全ては、今までの経験、その時の偶然、必然、立ち回り……まあ稀には運もあるでしょう。誰のせいでもない、そういうものです。」
「…………」
コエさんは黙って、私の目を見ていた。ぽかんとした表情からは、まだよく現状が飲み込めていない様子が見て取れる。それは、私がコエさんから魔力を削って予知能力を奪った証拠でもあった。
「天使や悪魔という肩書きは犬か猫かぐらいの違いしかない、ただの種族名にさせて貰う代わりに、私やサナさん達も、この世界に人間じゃなくて『ちょっとだけ魔法の使える人』という形で再配置しました。それ以外、記憶も含めて変わったところは何もありません」
「…………」
未だに返事のしないコエさんが私をどう思っているかは分からない。けど、私は説明を続ける。今までコエさんがやっていた事と大して変わらない、一方的な説明。ちょっとだけやり返した気持ちもあって、内心面白くなってきていたのも確かだった。
「戦うほどの力はもう誰も持っていません。まあ能力者の身体能力はそのままなんで、まあ戦おうと思えば戦えるとは思いますけど……それこそ、犬のほうが嗅覚があるとか猫の方が聴覚があるとかそういう話です」
私とコエさんが話すその横では、この家の家主であるサナさんがソファに横たわっている。まだ起きる気配はなさそうだった。私が説明を果たすまで、眠っていて貰うつもりで眠らせていた。
「その変わり、『神社』に残りの力を奉納させて頂きました。朔さん達の元に願いを集約し、再分配する。誰かが可能な限りでそれを叶える。先程、この先の事象は全て神様が決めた運命以外のものになる、と説明しましたが、あとひとつだけ自分の行く末を変える方法があります。『誰かの手助け』です」
「助け……」
繰り返すように、コエさんが言葉を漏らした。神様だったコエさんが、自分の意志で手に入れられなかったもの。それこそ、私が願ったものだった。
私達が今までを生きてきた中で、サナさんが一番大切に思っていたものを考えた時……やはり、サナさんは誰かが差し伸べてくれた手を誰より大切にしていたように思った。サナさんも、私に手を差し伸べてくれた。一番酷く傷つけられたサナさんがコエさんの救いを拒んだのは、その手を忘れたくない一心だ。
「とはいえ、能力者の魔法を均一化しましたが、必要ならばその時にだけ助けてくれる方へ、必要な魔力を付随することも例外的に有りえます。魔法を職業にされている方たちへお仕事として依頼をするという形も可能です」
私は尚も説明を続ける。最初は大人しく聞いていたコエさんの顔色が、段々なんだか苦くなってきた。あれ? と思うけど、何も言わないので続ける。
「天使が中心になっていた『シネン』への脅威もこれで対応します。魂と戦うという役割そのものを、天使の方々から無くして、神様がそれを管理する必要性を奪いました。…………すみません、喋りすぎました?」
「……なんだろう、大型アップデートのお知らせを読んでいるような気分になってきた……ダウンロードコンテンツの案内をするつもりは無いか?」
完全にコエさんがこめかみをマッサージし始めたので、一旦説明の口を閉じる。チュートリアルを用意しておけば良かったんですかね? 編集者の悪い癖が出たらしい。まあ、言ってることが間違いないとすれば、そのうち覚えることもあるでしょう。
「言ってることはつまりそういう事ですよ。システム改革ってやつです。誰でも神様システム、ですかね。これでもう、天使なんていません。」
「…………天使なんて、いない……」
「ん……」
コエさんがそう呟いた後、後ろのソファで眠っていたサナさんが目を覚ます。どうやら時間切れ、これで説明は完了したようだ。コエさんもなんとなく、納得したのだろうか。そうか、と呟いて、どこか安心したような表情だった。
「……つばさ? ……コエ……??」
「おはようございます、サナさん!」
私は振り返って、サナさんの手を最期のお別れの時と同じように握る。瞬間、サナさんはすっかり状況を理解したらしい。帰ってこれた。咄嗟にその手を握り返して、わっと泣き出してしまった。
「うわぁぁ……うわぁあああぁん!!」
私はそっとその背を撫でつつ、唐突なサナさんの号泣が意外だったのだろう。呆然とするコエさんの方にゆっくり向き合う。
「……コエさん、サナさんに謝って頂けますか?」
コエさんはその言葉に、サナさんに視線を合わせるようにソファの前にしゃがみ込んだ。サナさんも必死に泣き止もうとしゃくりあげながら、じっとコエさんに向き合った。
「ごめん。ごめんなさい、サナ……酷い思いをさせてしまった」
「い、痛かった……怖かった……ルナと戦うの辛かった!! コエの馬鹿、本当に貴女って人はろくなことを考えない!!! 前も言ったわよね、本当のことを話せって、また黙ってたなんて信じらんない!!」
「……すまない」
サナさんはそのまま涙も構わず、コエさんに怒鳴り散らす。普段冷静を装っている状態からは想像できない程、18歳の少女、そのままの言葉だった。それだけ怖い思いをさせた、という状況の説明には十分すぎて、コエさんはどんどん萎縮しながら頭をペコペコ下げ続ける。そこにもう神様の威厳はない。
「ぐすっ……この先も逃げれるなんて思わないでよ……」
「うん、私の願いを否定してくれてありがとう……」
そのままむくれるサナさんを、コエさんは宥めるように撫でる。そのサナさんの態度こそが、サナさんの許しだった。この二人の間に大きなわだかまりは残らなそうだ。
「そうですよ、神様……いえ、神越さん」
「!!?」
そうして一通りの仲直り……という和やかなムードを、静かな声色が突き破る。ほっとしたコエさんのその背後から現れたのは……神様のお付きの天使だ。
「つばさ、元に戻したんじゃなかったのか!」
「サナさんと私、ルナさん、コエさんアメさんカンちゃんきぃちゃん、ハルトさんヘイヤさんまでは前と同じでーす。ただどこか遠くに翅と姉さん、ご近所さんにお付きさんをお連れしましたァ~」
「この度はうちの『馬鹿』がとんだご迷惑をお掛けして、付き人としてもお詫びしきれず……」
「いえいえ」
お付きさんは慣れた手付きでコエさんの頭を引っ掴むと、まるで悪さをした中学生を叱るみたいな勢いで無理矢理に頭を下げさせた。コエさんはさっきまでの素直さも何処へやら、不満爆発でお付きさんを睨む。
「う、嘘だろ……幾ら天使が部下じゃなくなって権限を失うといきなり馬鹿扱いか?」
「いえ、従事していた元から思っておりました、これから監視を逃れられると思わないでくださいね」
「ひえっ……!!」
お付きさんがにこり、と笑うとコエさんが震え上がる。どうやら相当弱みを握られているらしい。側にずっと居ただけあって、いろいろなやらかしも知ってるみたいだし……とにかくこれで摩耗は少し減らせそうだ。
「い、居た……サナちゃん!!!!」
「っ、ルナっ!!」
すぐに突如として割り込んできた声に振り返れば、ルナさんもすぐに目が覚めたらしい。恐らく飛び起きてすぐサナさんの家を目指して駆けてきたのだろう。チャイムも押さず、サナさんの家に飛び込んでくると、真っ先にサナさんに抱きつく。サナさんももうコエさんの事など微塵も構わず、ルナさんに飛びついた。
「ごめん、サナちゃん、本当にごめんね……ごめん」
「よ、良かった……ルナ、ルナと戦うの、怖かった……痛くて、苦しくて……おかしくなるかと思った……怖かった……怖かった……」
サナさんはルナさんの顔を見て、また思い出し泣きに涙を零す。相当辛かったのだろうな、と思うとちょっと胸が痛い。押し殺していた感情を取り戻すかのように、ルナさんにしがみつきながら繰り返し怖かった、と呟いた。
ルナさんもその責任は重いぐらい感じていたらしい。何度もごめん、そうだよねとサナさんの訴えを受け止める。
「本当に、私……取り返しのつかない事をしたって……お、も……っ……」
「さ、サナちゃんっ!? ちょっ……!」
瞬間、サナさんの身体から一気に力が抜けて、間一髪、倒れ込みそうになるところをルナさんが支えきった。そのままぐたりと動かなくなって、ルナさんは目を白黒させる。その身体をそっと抱き上げて再度ソファに寄りかからせると、聞こえてきたのは静かな寝息だ。
「……サナさん、ルナさんと戦ってから相当参ってましたから……私と会ったときにはもう憔悴しきってましたし、ルナさんの顔見て気が緩んだんだと思います。休ませてあげましょう」
「……そっか、サナちゃん……僕と頑張って戦ってくれたんだよね……これでまた苦しむようになっちゃうかな……?」
「……わかりません、けど、それを乗り切れるまで支えてあげるのがルナさんの役割ですよ、きっと……」
私は敢えて、サキさんに会ったことは伏せて、約束を思い出させるような口調で誘導する。ルナさんはその言葉を察しただろうか。少し考えてから頷いた。
「……そっか、そうだね、サナちゃん……」
ルナさんが愛おしそうにサナさんの髪を撫でる。このふたりの間も、変なわだかまりは残らなそうで、私も安心する。二人が戦う所、私も見たくないですもん。
さて、これで私が望んだ新しい世界は、大方形を取り戻すことが出来た。一件落着と見ていいだろう。神様になれなんて言われて一瞬焦ったけど、それも無事回避して肩の荷を下ろす。
「いいですか! もういいですか? これで全部の決着はつきました!! これ以上ごめんもありがとうも馬鹿野郎もありませんからね? 分かってますか? 私こんな何万年も生きた人たちのでっかい喧嘩の仲裁やらされたって事に気づいてますからね!??」
「……それは、うん……そうだな、申し訳ない……」
「分かってれば宜しいです!!」
そうして私が投じたしょげる一行の姿がなんだか滑稽で、私もふふっと笑みが漏れる。
結局、コエさんはその日、お付きの人が回収していって、どうやらアメさん達とは別で暮らし始めるらしい。お付きさんの名はなんとしたのだろうか、あとで聞いてみようと思った。
ルナさんはその日、サナさんの目が覚めるまで泊まっていった。一緒に暮らすことも提案したけれど、サナさんもルナさんもそれは望んでいないらしかった。
特にサナさんはやっぱり、ルナさんはルナさんの人生を歩んで欲しかったみたいだし。
ただ、サナさんはやはりルナさんと戦ったショックが大きかったのかちょっとの間だけ体調を崩したけれど、予想通り、ルナさんとまた関わっていくうちに落ち着いて、生活はすっかり元通りだ。
私も何も変わらず、ただちょっとだけ変わった生活に戻っていった。願わくば、山も谷もあってもいい。ただ、このまま時が過ぎて来るべき時を迎えられたらいい。何も変わらず変わっていければいい。自分たちの力で。
だって。
もうこの世界に、
天使なんて、いない。
***
「次の週末、実家に帰省しようと思うんです」
バイトから帰って食事の支度をしている間に、つばさがそう話を切り出した。今のつばさは、一人っ子から3人姉妹へと変化して初めて、よくから連絡があったらしい。一度も彼女が田舎に帰省した姿は見たことがなかったから、その告白は素晴らしいことだ。
「貴女がいいならゆっくりしてきて構わないけど、大丈夫なの?」
料理の下ごしらえを隣で手伝って貰いながら、様子を伺う。もしもよくが『戻ってこい』というニュアンスでつばさを誘ったのであれば警戒も必要だと思った。けれど、つばさは嫌がる様子もなく、静かに笑って頷く。
「大丈夫です。私が決めました。姉さんから『家族としてやり直したい』って言ってくれたのでその一歩、ですかね」
「あら……じゃあお邪魔はしない方が良さそうね」
「サナさんこそ……もう体調大丈夫そうですか……?」
つばさがコエを神様の立場から下ろしてしばらくは、ルナとの戦いがフラッシュバックして辛かった。つばさとルナがどうにか支えてくれて、ここのところはショックも薄れてきている。つばさが居なくても大丈夫だと思う。
「うん、落ち着いてきてる。丁度週末にアメ達とタコパに誘われてたから泊まって貰おうかしら」
「……え、タコパ? サナさんが?? そんなカジュアルな料理に耐えられるんですか??」
一度はアメとその魂を決別して人間として暮らしていたカンも、つばさの願いでまたアメと、きぃと同じ時間の流れで暮らしている。既にズレてしまった分の年齢の問題は解決しなかったけれど、今は恒例の喧嘩も姉妹喧嘩じみて来た。
「……失礼ね……でも、私に調理器具を触らせないそうよ」
「アメさんが爆弾レシピを持ってこないといいですね」
そう言ってつばさは呆れた顔で乾いた笑いを零す。アメはこういう時ネタに走りがちなのは誰に似たんだか。
「きぃがストッパーになってくれるわよ、多分……」
「た、頼りない……。きぃちゃんも来るんですね」
「少し前にアメから聞かされてたんだけど、あの子服飾の学校に通ってたのが卒業近いらしくて」
つばさに渡された下処理済みの野菜を鍋に入れながら、軽く答える。つばさの手がピタリと止まった。
「……あれ? となるとサナさんも高校卒業では?」
「それも兼ねてるパーティじゃない?」
「あ、あれ? サナさん進路は?」
「んー、今のバイト先から社員登用の打診が来てるから一応決まってるのかしら……音楽活動に力を入れたいところもあるからまだちゃんと返事はしてないんだけどね」
つばさはキッチンの後ろに掛けてあるカレンダーを眺めて冷や汗をかく。季節は3月、庭からはルナが手入れをした花が今にも咲きそうで、徐々に暖房を入れる時間は短くなっていた。
「……それもしかしてサナさんのお祝いメインじゃないですか??? あれ、私帰省してる場合じゃない?」
「ダメ、行きなさい。自分で決めたならちゃんと話をしてあげて」
煮立った鍋に軽く調味料を加えてスープが完成。丁度のタイミングで焼いていたメインの肉も焼き上がってグリルのブザーが鳴る。あとはつばさの手元で出番を待つサラダだけなんだけど……悔しそうな顔をしたままのつばさの手は止まったままだ。
「う、ううう~っ!!!」
「……後でちゃんと二人きりでどこか行きましょう。今度こそ旅行でもいいんじゃない? 貴女がきちんと仕事を片付けてお休み取れるんなら、だけど」
「が、頑張ります!!」
つばさはそう言って腕まくりする真似をしてから、止めていた手を動かす。サラダも出来上がって、後は食卓に並べるだけ。つばさはコップと飲み物を取り出した。
「コエさん達は来ないんですか? ええと……あの方」
「ああ、月都(つきと)さんね。んー、しばらく忙しそうだしどうかしらね」
コエの部下……と言ったらいいのだろうか。お付きの天使は名を『月都』に改めたらしい。コエも正式な名前は『神越 穹(かみごえ あめ)』になったらしいけど、私達は変わらずコエと呼んでいた。月都さんとコエは絶賛新居の整備中で、まあまあ使ったり使われたりの関係を続けているようだ。
「……あの方見た目が結構スマートですけど女性でしたよね?」
「まあ、天使に性別なんてあってないようなものだし」
「なるほど、野暮でした」
そうこう言い合っているうちに食事の準備は出来た。二人向かい合って席に付く、いつも通りの日常、いつも通りの食卓だ。
「じゃあ、頂きます」
「いただきまーす!」
揃って手を合わせる。他愛のない話を続ける。
きっとこの後揃って映画でも見て、シャワーを浴びて、ギターを弾いて、眠る時間になって。
そうやって回っていく。時に涙したり、喧嘩したりするかもしれないけれど……。
貴女がくれた何一つ欠けない幸せを、私は噛み締めていた。