教室の居眠り魔女
「……ですから……魔法術式における魔法陣を描き方には大きく分けて3通りの方法があるので……ごほんっ!! 朔さん、朔さん……!? 椰月朔さん!!……ったく、っ!!」
「あいたっ!!」
「あいたぁ!!」
午後の穏やかな空気の中、ステンドグラスのはめ込まれた教会風の講堂に少女の叫びが反響する。教科書の文字を辿っていた先生が指示棒を兼ねた魔法の杖を振るうと、『何者かが』少女の脳天にぶち当たった。
椰月朔と呼ばれた少女は、緩いウェーブのロングヘアを一本にまとめた巨大なポニテを大げさに揺らして、苦痛に悶えながらも居眠りから目を覚ました。
「いてて、せんせー、乱暴ぅぅ……」
頭を抱えながら文句を言うと、教壇に立っている銀髪をシニヨン風に纏めた髪型にブラウスとタイトスカート、いかにも先生という姿をした、通称『せんせー』は杖を手のひらに叩きつけながら、朔をしっかりと睨む。
「今度居眠りしたら追試を行うと言ったわよね? 後で図書室に来なさい。約束通りにしましょう?」
「うっわぁ……。そ、それで……また赤点だったら……?」
その言葉に朔は青ざめて震えながら、取り敢えずの疑問をせんせーにぶつけた。
「退塾でご自宅に強制送還です。安心して、ちゃんと梱包して天地無用のラベルを貼るわ」
せんせーが得意げに微笑むと更なる精神的な痛みに、朔は再度頭を抱えながら思わず立ち上がる。
「ひぃぃぃ、それだけはご勘弁を……!! マジカリスト目指してるなんて親に知れたら、割れ物注意じゃ済みませんよ!?」
「ならば、赤点を免れるように授業を聞いてください。但し一度説明したことはもう説明しませんので、今まで寝てた分は回収できないと思いますけれど……自力で調べるか、誰も取っていないノートを借りるか……それでダメなら時間を遡るか予知の一つでもしてみなさい」
「うわーん、無茶~~~!!」
クラス中からドッと笑いが起き、朔はその惨めさに脱力がてらに着席する。と、足元に、先程のもう一つの叫び声を上げた人物……と、呼ぶには小さい『者』が転がっていた。
「ご、ごめんね、妖使さん……」
「せんせーひどい!! なんで私を飛ばすワケ!?」
朔がそれを拾い上げると、妖使と呼ばれた小さなイキモノは怒り出した。先程せんせーが魔法の杖を振るい、飛ばしたのは他でもない彼女自身だ。
茶髪のセミロングを毛先だけ束ねた髪型に、水色のノースリーブシャツ。青い花のようなスカートと7分丈のレギンスという、一見おしとやかそうな見た目とは裏腹に元気いっぱいの少女のような性格をしている。
「何だよ、チョークのくせに~」
クラスの男子が妖使をからかうと、妖使は朔の手のひらから白い半透明の羽根で舞い上がり、男子の机の上に降り立った。瞬時にクラスメイトと同じぐらいの大きさになると、宙を舞ってぷんぷん怒りながら威張ってみせる。
「ふん、何よ、こう見えても皆より先輩なんだからねっ!!」
「こら、勝手に人間サイズにならないで。貴女が飛んでるとなんだかかさ張るわ。授業に戻るわよ。帰ってきなさい。板書が進まないでしょ、生徒の端末に送信するものなんだからちゃんと書いてちょうだい」
冷静にせんせーが言い放つ。妖使はむくれながら反論した。
「せんせーが飛ばしたんじゃん、回収まで魔法でやってよぉ。っていうか、いいじゃん別に居眠りぐらいさ……聞いてるこっちも眠くなってくるもん」
スポン、と妖使は元の妖精の姿に戻る。
彼女はせんせーの使い魔であり、妖精であり、天使でもある……。魔族の中でも珍しい、『妖精天使』から名前を取って『妖使』と呼ばれていた。
せんせーは妖使が手元に戻り、また板書に戻るまでを見届けてから得意気に言った。
「いいのよ、授業が分かるのならいくらでも居眠りしてくれても、せんせーは怒りません」
「うう……無理だ……」
更なる攻撃に朔は机の上にうなだれる。寝こけていたせいで、板書が送信されるべき朔の端末は、すっかり電源が落ちていて、どこまで授業が進んでいたかも解らずじまいなのが余計に朔の頭を重くさせた。
「はいはい、いいから授業再開するわよ」
果たして次のチャイムまで朔が授業を黙って聞いていられたかと言えば……それこそ無理だった。
***
その塾に明確な名前はない。
名も無き小さな国の港町。その国で一際目立つ名もない城の跡地を改修して作られた校舎には、理由があり他の魔法学校に入れない者達が集っている。
教員は『せんせー』を含めて、3人ぽっちとせんせーの使い魔である妖使だけ。カリキュラムは有名な魔法学校のものをせんせーがアレンジしているそうだ。(余談だけど、せんせーはその有名魔法学校の卒業生らしい。それがなぜ塾の先生になったのか、せんせーが先生になる前は何をしていたのかは、この塾の七不思議のひとつでもある。)
生徒たちは魔法学校の入試を目指していたり、家業を継ぐための魔法を覚えたり、仕事や、時には芸能活動や趣味の為に魔法を習ったり。目的も熟練度も年齢も違えど同じものを学んでいる。まあ、選択性の授業もあるので、皆が皆本当に同じという訳ではないのだが……。
しかし、その中でも朔は際立って落ちこぼれの生徒であった。
授業は殆ど聞いていない。すぐ寝る。テストをすれば赤点だし、追試をすれば赤点だし、実習をすれば赤点であり、これが物語ならば、『ピンチのときには人並み外れた魔力が宿る!』みたいな展開を期待するけれど、そんな運も持ち合わせてはいなかった。
ただ、この世の言葉で言う『マジカリスト』、つまり『魔法使い』に強い憧れを抱いて、家出をして、やがて辿り着いたこの塾の門を叩いたに過ぎない。
と、言うわけで、すっかり『やる気の無い不良生徒』と成り下がった朔は図書館の椅子の上で縮こまり、現在絶賛お説教され中なのであった。
「朔さん、何度も、何度も、なーーーんども言いますけども……」
「進路希望調査を書き直せって話、です、よね……?」
朔は小首を傾げて、申し訳なさそうにせんせーに向き直った。
「そう、正解です。……分かってるならなぜ書き直さないんですか?」
勿論、せんせーはカンカンに怒っている。目が合わせづらい。朔はまた目を逸らす。
教員3人+αに対して、何十人もいる生徒……たまに余生を魔法使いとして過ごそうとしているおじいちゃんとかもいるけど……そんな中で、こんなに面談のトータル時間を消費した生徒が、朔以外に居ただろうか。
せんせーも朔の面接にはもうすっかり疲れ切っているのか、かなりげっそりしていて、いつもはきっちりしているおだんごヘアも、ぴしっとした襟もくたくたになっていたし、顔も青ざめていた。
朔もいつも以上にポニテと、制服風味の黒いシャツとスカートをくしゃくしゃにしている。
しかし、どんなに面接が長引こうと、朔は変えたくない考えがあった。これだけは譲れない。そんな信念だ。
「私はこれ以外に進路を変える気は、たとえ紙切れの上でも約束できません」
朔は、はっきりとせんせーに向かって断る。
それを聞いたせんせーは、はぁ……と深い溜め息をついて肩をすくめた。
その指先に引っかかっている進路希望の紙の上に書かれているのは、
1.魔女
2.魔女
3.魔女
であった。
「あのね、先生としてじゃなく、一個人として何度も、何度もしつこく止めるわ。『魔女』はしてはいけない事なの、進路にするものなんかじゃ絶対にない。人を苦しめるだけの存在よ、なりたいなんて願っちゃいけないわ」
朔は頷く。
それは何度も、たくさんの人から聞いてきた。
朔はその言葉に、スカートの裾を握りしめ、口を尖らせる。
「私は『魔女』に助けられて苦しんだり悲しんだりしてません。誰かの願いを叶える素敵なものだと思ったし、感じてます。私は苦しめるための魔法を使いたい訳じゃありません」
この世で言う魔女とは、魔法の使えない者に魔法を売る人の事を指す。それは基本的に昔から罪であり、良くないものとされてきた。
しかし、朔はその風潮がどうしても信じられない。なぜならば。
「お姉ちゃんは魔法で助かってます。家出しちゃったから最近は会ってないけど……今だって元気だし、いつも手紙をくれるし死んだりしてません。折角私がマジカリストに産まれたのに、人の為に魔法を使うな、とせんせーは言うんですか?」
朔は良い慣れた理由をせんせーに話す。せんせーも同じ理由を何度も聞いてきた。しかし、今日こそは、とせんせーは深く、深く首を横に振る。
「……違うわ、お願い、話を聞いて。貴女が魔法に感謝をしていて、お姉さんも大事にしていて、人の為になりたいと願っていることを責めているんじゃないの……ただ、人間に魔法を売ることは、結果的に人間を壊してしまうのよ、人間は魔法に長くは耐えられないの、だからっ!」
「それは本の話です! お姉ちゃんは無事です!!」
朔は立ち上がり机を叩く。せんせーはその朔の行動に肩を強張らせた。その物音に反応したように、遠くで様子を見ていた妖使が朔とせんせーの間に、文字通り飛んで入る。
「朔ちゃん、落ち着いて。せんせーも一回落ち着いてよ。そんな言い方じ、怒るに決まってるよ」
「でも……っ、そうよね、ごめんなさい。助けてもらった大事な家族なのよね……」
妖使も、普段の元気な少女らしい声色を失い、落ち込んだ声でせんせーを諭す。せんせーもその言葉に、いつものハキハキした言葉を失ってしおらしく謝罪した。
しかし、朔にはその態度こそが二人が魔女をよく思っていないようにしか聞こえない。
誰もがそうだ。仕方ない、可哀想、みたいな態度を取る人ばかりが、朔を魔女にさせてくれない。
周りがこの態度でいる限り、朔は『魔女になりたい』事を、曲げたくなくなるのだ。
「その理由、魔法を使うのには大事なことだよ? 誰かを喜ばせたいとか、楽しませたいとか!」
怒りで険しい顔になった朔を見た妖使はふと、人の姿になると、ぴょこんと飛び跳ねて、机の上に飛び乗った。瞬間、妖使の服装はひらひらとしたドレスに早変わりし、周囲には、どこからともなく花が舞い散る。
「わあ、すごい!」
朔は怒りを忘れ、宙に浮かぶ花びらに触れようとする。そうすると花は手をすり抜け、キラキラと粉のように砕けて溶けていった。それが逆に花の儚さを思わせるとても綺麗な余韻を残していく。
「きれーい! すごいよ、妖使さん、踊りも上手いし」
「えへへ、これ結構久々にやったけど鈍ってないや」
朔は拍手すると、妖使はスカートの裾を持ち上げて大げさに頭を下げた。
まるでミュージカルのショーを終えた歌手のようで、その仕草は見えない幕が閉じていく景色すら浮かぶ。
「もう、机の上に乗らない! みっともないでしょう!」
そんなはしゃぐ二人を見て、せんせーは眉を寄せながら怒る。
「はぁ、もう。せんせーもなんだか疲れちゃったわ。取り敢えずもう塾も閉まっちゃう時間だし、プリントは一旦持ち帰って考えてみて。明日また提出して。」
せんせーはその展開に拍子抜けしたのか、ぐったりしながら立ち上がった。長い説教から解放された朔は、先程の意味を深く考えず解放された喜びから心の中で踊りだす。
「せんせーノリわるーい、せんせーも踊ればいいのに」
妖使が口を尖らせる。
「誰が踊るもんですか。しかも机の上じゃない。絶対に踊らないわよ私は。」
せんせーはその提案をがっつり否定すると、スタスタと先に図書室を出ていってしまった。
「じゃあね、朔ちゃん、また明日ねー」
「はーい、お疲れ様でーす!」
妖使はその後を追い、手を振りながら飛び去っていく。後に残るは、図書検索データベースシステムの淡い光だけだ。
***
この世界は魔法とともに、科学が共存している。そんな世の中でも特に珍しいのが、このデータベース。
この塾舎に組み込まれた各種システムの殆どはせんせーが作ったものだという。
朔はその光を頼りに荷物を手繰り寄せ帰る準備を始める。プリントもぐしゃりとカバンに押し込んだ。あんなに凄いデータベースを一人で作れる先生が言うことだ、間違いじゃないのかもしれない。
「でも……信じられないよ。だってお姉ちゃんは助かったし、魔法はあんなに素敵。魔女が悪いのは絵本の中だけだよ、絶対にそうだよ!」
朔は自分の信念にガッツポーズを決め、塾の側にある学生民宿に帰る為に教室を飛び出たのだった。
「せんせー、ごめんね、……勝手なことして」
図書室を出て階段を駆け下りるせんせーの背に、妖使はぼそりと呟いた。
その言葉の意味は先程勝手に机の上で踊ったことではない。ただ、それが何に対する謝罪なのか、までははっきり言わなかった。
「……いいのよ、分かってる。貴女の方がよっぽど生徒想いの良い先生だわ。カッとなってしまってごめんなさい。色々あったからかしら、なんだか疲れてしまって……」
せんせーは階段の踊り場で足を止める。もう日も暮れた塾舎に残る生徒はおらず、妖使の影とせんせーの影だけが、階下にその姿を伸ばしていた。
「あの時、遠巻きに見てただけの貴女がああしたって事は、あのままだと何か危険な事が迫っていた……という事なんでしょう? 違う?」
せんせーはそう言うと、ふんわり笑って妖使を振り返った。その表情に妖使はそっとため息をつくと、深く頷く。
「うん……危なかったと思うよ。朔ちゃんは、今は魔女への憧れだけを原動力にして魔法を使っている。簡単に『事実』を告げたら……魔法は気持ちを形にするものだから……朔ちゃんが壊れちゃうよ」
「『事実』ね……やはり、彼女のお姉さんは……?」
「……生きてはいるよ。でも……手紙は、誰かの嘘だね」
せんせーは深刻そうな顔で頷いた。妖使も珍しく真剣な顔で頷く。
「もう少し彼女の事は慎重にした方が良いわね、ごめんなさい……『視る』のは辛くない?」
廊下に響くその意味深な会話は、使い魔と契約者として繋がっている二人にしか分からない話だ。
せんせーは納得したように頷き、また先を歩き出す。妖使も遅れてついて飛ぶ。
「……ううん、大丈夫だよ。せんせーの為だもん。せんせーこそ顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫よ、ただ変に疲れてるも確かだわ……何かしら、年齢だったら嫌ね」
そう言ってせんせーは、また疲れた顔で笑った。
***
「神様、ここにいらしたのですか」
遠い空の向こう。天界の奥の奥。世界の隅。神のお付きである天使が降り立った場所は、何もない焼け野原だった。
「ああ」
桃色の羽根を幾重にも重ね少女の姿をした神は、ゆるりと片腕を上げ、ヘラヘラ笑った顔で軽い挨拶をした。しかし、その口は心なしか普段より重く、いつもならペラペラと要らないジョークをかます姿は今に限って無い。ぼんやりと何もない場所を見つめていた。
「ここは……何故このような場所に……? 穢れた戦場跡ではありませんか、貴女のような方が居ていい場所ではありません」
天使がそう言うと、神はふっ、と笑った。
ゆっくり、なぜか得意げな顔をして振り返る。
「君は『伝説の悪魔』の話を知っているか?」
「おとぎ話のですか? 『女子供を狙い、海底に沈めた黒い羽根の悪魔……』ってやつですよね?」
神は頷くと、また遠く……焼け野原よりも遠い場所に目をやった。しかし、天使の目には何も無い、ただ空が広がっているだけだ。未来をも見通せる神には、もしかしたら違うものが見えているのかもしれないが……その目に今は、何も映していないようにしか見えない。
お付きはその姿に、逆に不気味さを感じた。
神はまだ何も言わず、数秒間、二人の間に怪しげな静寂が訪れる。
「あの『悪魔』の正体が……私だと言ったら、どうする?」
「は?」
しかし、その静寂も、他ならぬ神によって、とんでもない言葉で破かれた。
お付きの口から間抜けな空気が漏れる。
「いや、厳密には『あの悪魔を生み出した根本』が私なんだ」
「えっ? ……あの、冗談でしょう。貴女は……我々、天使は戦闘民族として、習性として戦いを好むものが多い種だと言うのに、その長である貴女は誰よりも戦いを好まない。静かに誰をも見守って来たじゃないですか……まあ、願いを聞いた者の数名を除いて……ですが」
お付きがそう反論すると、神はがくりと首をうなだれて、そしてまたふふっ、と笑った。
しかし、その目はとても悲しそうで、笑顔というよりは落胆のような、泣きそうな顔だった。
こんなに切ない表情をした神を、お付きである天使は今まで見たことがない。
どうしたんだ、今日の神様は。お付きはあまりに異様な光景に、眉をひそめる。
「人間の作ったおとぎ話に惑わされてはならない。この世の悪魔は戦いを好まない者達だ。何より規律を守り、いつでも自分の罪を見ている……そういう意味では、今も私は『悪魔』だ。……まあ、今私が言いたいのはそういう事じゃないがな」
そう言うと神はひとつだけため息をついた。
神の真剣な瞳が、お付きを射抜くように見つめる。
「ゆくゆくは、君にも話すことになるさ。私が何であったのか、この場所に何も無いのは何故なのか……嵐の予感がするんだ」
「……貴女が申し上げるのであれば、そうなのでしょう……分かりました。聞かずして待ちます。下ネタを振らない貴女など、不気味でしかない」
「物分りが良くて助かるよ、それでこそ私のお付きだ」
神はお付きの背をぽん、と叩くと、ふわり、と桃色の羽根で空の彼方へと飛んでいった。
***
「せんせー、せんせーっ、お風呂沸いたよー……って、あれ? 寝ちゃったの、せんせー?」
塾の地下。その一角に、せんせーと妖使が使っている住居スペースはある。
広さや設備は一般家庭のそれとそんなに変わらない。バスルームとトイレ、キッチン。リビングと寝室。
妖使は使い魔なので、実質ベッドは要らないが、特別何か無いときは人と同じ大きさになって、せんせーと同じベッドで眠っていた。
しかし、せんせーが今横たわっているのは仮眠用のカウチソファだ。妖使はせんせーを軽く揺すってみるが、彼女は眉を寄せて寝返りを打っただけだ。
「………」
妖使はそのシワを寄せた額にひとつキスを落とす。
「せんせー、お疲れ様」
二人は使役する側とされる側。その前に、恋人関係でもあった。と、過去形で表現しなければいけないことが、妖使にとってとても心苦しいことのひとつであり、そして幸せなこともでもあった。
このまま契約を解除しなければ、二人は、どちらかが朽ちるまでずっと一緒だ。もちろん、記憶の限界が来るまで魂を使いまわす天使と、マジカリストとはいえ人間では死後の魂はお別れしてしまう。
それでも、ただのマジカリストと天使ならばまだ結ばれる事は可能だったろう。でも、妖使はその名の通り、妖精でもある。そして何より使い魔と契約者。
妖使自身は「そんな事関係ないよ」と思っていはいるが、ふたりの壁は高い。特に真面目なせんせーにとっては、とてつもなく高い壁のようだった。
妖使は、いつからかせんせーが冷たくなって、自分を恋人として見なくなったことぐらい、なんとなくだけど気づいている。
――仕方ないよ、妖精や使い魔は、『良き隣人』とか『ファミリア』って呼ぶって、昔習った。『隣人』や『家族』にはなれても、『恋人』にはならないんだよね、せんせー、昔から真面目だから――
「私は、せんせーの『ファミリア』で、良かった」
言い聞かせるように口に出す。どうせ眠っていて気づかないのだから。
妖使はしばらくせんせーの寝顔を眺めてから、そっとタオルケットを彼女の背にかけて、ソファを離れた。
そして、部屋の隅のチェストから取り出したのは一冊の日記だ。
ペンを取り出してサラサラと、今日の事を綴っていく。
授業で飛ばされたこと、朔の悩み、久々に踊ったこと、せんせーの寝顔。やけに疲れていて心配なこと。
いつか記憶に限界が来た時……天使としての死に際を把握する為、日記を付ける天使は多い。天使によってそれはメモだったり、自伝だったり、ただの日記だったりする。ただ、一貫して言えるのは……皆、忘れるのは怖い、という事だけだ。
「……あの本も、誰かの日記だったのかな」
日記を書き終え、ページを眺めながら妖使は呟いた。思い出したのは、昔読んだお気に入りの本のことだった。
そしてふと、振り返る。背後で、静かに寝息を立てているせんせーの寝顔をまたぼんやりと眺める。
「せんせー起きないなぁ、珍しい。そんなに魔力使ったのかな……? ……寝ちゃった、といえば……朔ちゃんも、あの睡眠時間……。うーん、なーんか『嫌な予感』はするんだけどなぁ……肝心な時にはっきりしないよ」
そう呟きながら、妖使も大きなあくびを漏らした。
「あーあ、私も寝よ……せんせー、ゆっくり寝てね。おやすみ。」
せんせーの指に嵌まる、使い魔の依代である琥珀の指輪に触れると、妖使の姿はその指輪に溶けていった。
***
せんせーはその姿を見届けてから、ゆっくりと目を開いた。妖使が指輪で眠る夜は、酷くしん、とした空気が流れる。昔から、明るくて騒がしくて、でも誰より人想いの少女だった彼女は、時折こうして、自分に気を使ってくれる。
それが、苦しい。
「ごめんなさい……私は、助けてもらった身なのに、貴女の好意に応えることも出来ない」
指輪を外し、祈るように両手で包み込んだ。
一度戻った使い魔は魔法で呼び出さない限り、コンタクトできない。
それを都合よく利用している。そう思えてしまってせんせーは深い溜め息を吐いた。
帰り際、『勝手なことをして、ごめんね』と謝った彼女の顔が……頭から離れない。
今夜は彼女の事を意識せず眠れるのかと思うと、安心もしてしまう。
「いい加減、開放してあげるべきだわ、こんな関係から、ね」
そうしてせんせーは再度、ソファの上に身を投げ出した。
「……それにしても、何かしらこの疲れ……風邪でも引いたのかしらね、本当に年を食うって嫌ね。何もかも変わってしまう……あの子と、ズレていってしまう、すれ違っていく……」
眠り込んでいたのは嘘だったが、疲れているのは嘘じゃない。
何故、こんなに疲れているのだろう……疑問に思いながら、また目を閉じる。
***
翌日、朔は結局のところ、進路希望調査を直さなかった。
もちろん頑として魔女を諦めた訳でもなかったけど、単純に他の進路を思い浮かべられなかった、という理由もある。
これでもちょっと……10分ぐらいは考えたのだ。得意な魔法はなんだろう、とか、昔は魔法アイドルに憧れてたんだよなー、とか、魔法で人助けといえば魔法少女! 魅了戦闘科目を習うのもいいかも、とか。
しかし、結局睡魔に負けてしまい、起きたらプリントを握りしめて床に転がっていたのだった。
そして朝日を見ていると、やはり魔女になりたい! と思うだけだったので、いっそ直さないで来た。もう知らない。考えて出てこないんだから仕方ないじゃない! と、完全な開き直り体勢である。
「お?」
塾舎の廊下を進んでいくと、教員室の前に人だかりが出来ていることに気づいた。皆、教室の前に貼られた紙を覗き込んでいる。
「おはよー! なになに、どうしたの?」
「あっ、朔、見てこれ、ヤバくない?」
ちょうどよく友達を見つけて、朔は何事かと訪ねてみる。興奮気味のクラスメイト数人が揃って指差したのは、塾内新聞だった。
部員が誰一人として正体不明だという『魔法新聞部』が不定期に発行する、オカルトな紙面は、その胡散臭さから普段は殆ど目立つことがない。
そんな怪しい新聞を見て、皆が何故目を丸くするのか……朔はその紙面をじっと見て、タイトルの文字を認識した途端、皆と同じ顔色になった。
「えーっ!?」
「ね、ね、衝撃だよね!」
「衝撃すぎる!」
コルクの壁にポツンと貼られたそれの見出しは『せんせー、(ついに)婚約する!』だった。
せんせーと言えば、3人しか居ない職員の中でも、一番色恋沙汰に遠い先生と言われていた。
恋愛話が一切なかったのも大きいが、妖使がせんせーにベタ惚れでせんせーは私の何だからね! とよく冗談を言っていたのも、その理由だ。
生徒の間でも「妖使さんがいるからせんせーはダメだね、ガードが固すぎる」と、納得することがお決まりのようなものだった。
その先生が婚約とは……!
出処の分からない噂だとしても、生徒がざわつくのは仕方のないことだった。
「そうだっ、せんせーに魔法でお祝いを贈ったら魔女のこと、見直してくれるのかもっ!」
『魔法で人助け』がよく思われていないのなら、よく思わせてしまおう!
なんだか、これなんか昔の偉い人っぽいぞ!
朔は真偽も解らぬまま勢いで廊下を駆け出し、昨日お説教を食らった図書室へ滑り込む。
そしてせんせーが作った端末に触れると、立体映像が朔の目の前に現れた。
「うーむ、でもどんな贈り物をしたらいいんだろう。せんせーの好きなものとか全然知らないや」
しかし、検索画面を目の前にして、朔は人差し指を突き出したまま固まってしまった。
あの真面目な先生に、何を贈れば喜ぶのだろうか……。
「お祝いと言えばお花だけど……」
朔の脳裏には、去年、町に出来たケーキ屋さんで見た花輪のイメージが浮かぶ。
彼女にとっての『お祝い』のイメージはこれだった。
しかし、せんせーはお店ではない。まあ塾も広義ではお店なんだろうけど、塾のお祝い事ではないし。
「花束を……作れば良いのかな?」
朔は唸りながら、魔法と花についての文献を検索する。
しかし、まともな本は見つからなかった。花、花、花と魔法……。
花……。そういえば、昨日見せて貰った妖使の魔法は綺麗だった。
アレを真似できたらかっこいいのでは?
仮にも魔法の先生の前で、ただ花を出すだけじゃあんまりに芸がない。拾った花をお気に入りの先生にプレゼントする幼稚園の子みたいだ。
どうせなら凝った演出から考えないといけない。と、なれば花のことや、魔法のことを基礎から知らなければならない事になる。お、これ勉強っぽいぞ。
「幻想魔法でお花を生み出す方法は~……これかな?」
朔は検索ワードを変え、幻想魔法について検索し始める。
普通の図書館では出来ない、文献の中身まで検索できるようになっているせんせーの図書システムは、とても優秀ですぐにお目当ての本に辿り着いた。
「ほうほう、魔法アイドル史……アイドルの演出技術?」
手に取るとそれは魔法の指南書ではなかった。魔法アイドルについての本だ。
魔法でステージを華やかにする演出について、書かれているようだ。
これなら確かに見た目には華やかかもしれない。空飛ぶブーケ、というところか。
朔は適当にページをめくる。ふと目についたページには、世界最初と思われる魔法アイドルのライブの姿が、数秒の動画で映し出されていた……が、殆どノイズがかぶり、アイドルがどのような顔をしているのかも全く判別できない。
遠目なその映像から分かるのは、セミロングにマーメイドドレスの、クールそうで小柄な女性と、ポニーテールにアイドルらしい王道の衣装をまとった女性のデュオ。二人の幻想魔法を合わせると、幻想が変化する……ようだ。何の幻想魔法なのかまでは判別できないぐらいぼんやりした映像だった。
「うう、これじゃあわかんないよ~」
朔はさらにページをめくる。
時代が進むにつれ、朔にも見覚えのあるアイドル達や曲が、ページに浮かび上がってくる。
「ああ、この人知ってる! アストランティア!」
たどり着いたのは、10年ぐらい前のアイドルの映像だった。朔が子供の頃に流行っていた曲が流れる。静かなバラード調で始まり、サビでは力強いロックになる、アイドルらしからぬかっこいい曲。朔もひっそりと、この頃はアイドルにあこがれていた。
彼女の芸名は『アストランティア』と言った。本名は知らない。
銀髪のセミロングヘアに、ロングドレスがトレードマークで、どちらかというとバラードやロックなど、可愛いよりはかっこいいイメージのアイドルだった。
幻想魔法の演出の種類も多く、綿密な魔法の数々や、歌唱力、バラエティに出れば知識も豊富で、ドラマとコラボした1曲が社会現象まで巻き起こした有名アイドルだった。数百年に一度の天才と呼ばれた彼女は、今でも10代以上の子なら、名前ぐらいは知っている程有名だ。
「そういえば辞めちゃったんだよねー……好きだったんだけどなぁ、今どうしてるんだろ」
しかし、アストランティアはたった5年の活動で、芸能界を引退した。
今どこで、何をしているのかは、誰も知らない。
「あ、アストランティアってお花の名前なんだ。セリ科、アストランティア属……。この赤いのかわいい! ルビー・ウエディング、かあ。これ、せんせーに似合いそう!」
名前にウエディングと入ってるぐらいだ。きっと喜んでくれるだろう。
「ああ、でも育てるのが難しいだって……。育てるのが難しいってことは、魔法で出すのも難しそうかなぁ……?」
朔は頭を傾げる。魔法には自然の力を活用したものも多く、人によっては草木を攻撃手段とする能力者も多い。しかし、朔はどちらかというと、理科的なものには弱い方だった。花のことなんて分からない。……というか、よくよく考えてみると、得意科目はほぼないのであった。
「や、やってみないとわかんないよね……! よし、裏庭で練習しよう。失敗したらお祝いムードじゃなくなっちゃうしこっそりと……これ、貸出禁止の本だけど借りてっちゃおーっと」
しかしここは、朔の持ち前のポジティブさを都合よく発揮する所だった。貸出禁止の本をこっそり持ち出し、塾舎であるお城の裏庭に出る。
裏庭は今こそただの広場だが、この城が城として機能していた頃はどうやら立派な庭園だったようだ。今でもちらほらと咲き乱れる花は、どれも見たことがないぐらい立派な姿をしている。
この城の主が誰だったのかは、明かされていない。噂によると記録がごっそり抜け落ちていて、まるで『その人だけ』消えてしまったかのように調べがつかなかったのだという。
そんなまだ知らぬ王子様か王女様か……その人が愛していた(かもしれないし、そうじゃないかもしれないけど)庭でなら、きっと難しい花も咲くのかも。朔はなんとなく期待してしまう。
「いよっし、いっちょやりますか!」
朔は借りてきた本を地面に置くと、懐から小さなリングを取り出した。
授業で作った『魔法の杖』だ。杖と言っても、朔のは、せんせーが振るっているような棒状の杖ではない。これを腕にはめて魔法を掛ける、最近流行しているタイプのものだ。
指輪ぐらいの大きさから、魔力を込めると腕にはめられるぐらいの大きさになる。
朔はそれに腕を通すと、何度か手を握って感触を確かめた。魔力は良好。軽く頷いて一人で納得する。
「それっ!!」
取り敢えず腕試しに、朔はそこら辺の雑草に手のひらをかざしてみる。魔力を込めると、腕輪と草が柔く光った。
……が、それだけだった。光が消えても尚、草に変わった様子は見られない。
「あ、あれっ?」
朔は慌ててその草に駆け寄る……と、草が突如としてひとりでに、まるで人間が這い出るかのように葉を地面について、ズボッと抜け出てきた。
「ぎゃあっ!?」
朔はあまりの衝撃に尻もちをついてしまう。
あろうことに、そのまま走る草は、スタコラと地面を駆け出しはじめたではないか。
「ぎゃあああ!? ま、待って、まてーーーー!!」
朔はとんでもないモンスターの誕生に悲鳴を上げながら、その草を追いかけ始めた。あれが誰かに見つかったら……とんでもない騒ぎになるし、朔は退塾させられてダンボールに詰められてしまうに違いない。それだけは阻止しなければ。
「止まって! えいっ、えいっ!! まてっ、このっ!!」
朔は慌てて魔法で炎を繰り出し、なんとか草の行く先を取り囲もうとするが、さすが草と言うべきか、ひらりひらりと交わしてしまい、全く当たらない。
それどころか、朔はその炎で燃え移った地面を踏みしめながら移動しなければならず、二度手間なだけだった。
「くっさー……じゃなかった、くっそー! 私が魔法を苦手じゃなかったら……」
朔は結局走る草を見失ってしまい、悔しさに己のデカポニテを引っ掻き回す朔。
「はあ、はあ……ただの草すらコントロールできないんじゃお花どころじゃないよ……ん?」
この手段はダメか。朔は手にしていた図鑑を名残惜しそうにめくりながら落胆する。
すると、ふと遠くから、聞き慣れた声が聞こえた。言い争うような、激しい声だ。
「あれは……せんせーの声? 職員室からだよね?」
***
事は朔が図鑑を持ち出した時間まで遡る。
二人の職員が部屋を出て、せんせー一人になった職員室。
「聞いてないんだけどっ!」
「……言ってないもの」
せんせーの手元には粉々になった、妖使の依代の指輪があった。
あの夜からせんせーは妖使を召喚しないまま一日が過ぎていた。流石に丸一日放っておかれた妖使は、召喚されていない身ながらも違和感を感じたらしい。自力で指輪から抜け出しその魔力に耐えられなかった指輪は壊れてしまったようだ。
しかし、妖使はそれを気にする余裕もなく、今はせんせーに詰め寄って怒りを露わにしている。
「なんで? なんで教えてくれないの? 言ってくれないの? 結婚まで決めてあるのにたった一言も好きな人が居るとかできたとかすら言ってくないの?」
「……言ったって、貴女分からないじゃない」
せんせーの言葉はまだ冷静だ。むしろ、こんなに問い詰められた状況で淡々と返す様子は、逆に異様とも言えた。まるでこの日が来ることを知っていたかのように。
「わかるわけないよ、ずっと、ずっと一緒だって思ってたもん……」
妖使はスカートの裾を握りしめ、悔しそうな顔で俯いた。
「せんせーはもう私の事嫌いなの? それとも最初から好きじゃなかったのにイエスと返事をしたの? ……私はせんせーにとって、何? 恋人? 家族? 親友 ?友達? 同級生? それともただの使い魔? まさかチョーク? なんにもわかんない。せんせーのなんにもわかんないよ、私せんせーのファミリアだけど、せんせーの考えてることいっこも理解できない!!」
妖使はせんせーの机を叩く。
すると、せんせーも顔色を変えて、妖使に詰め寄るべく立ち上がった。
「わかるでしょ、私と貴女の時間は違うの! 貴女は天使なのよ、人間みたいに死んでも記憶がリセットされる訳じゃない。天使には次があっても人間には無いのよ? それに、貴女が先に記憶を無くす可能性だってある……どっちかが後から、残された愛情で苦しむなんて耐えられないし、馬鹿馬鹿しいわ! だからもう終わりにするの! そうすれば対等よ!! 質問の答えなら貴女は私の使い魔でしかないわ!! 繋がりは切れないだけマシと思いなさい!!」
大人しく冷静なせんせーが怒鳴り声を上げたことに、妖使は肩をビクつかせた。しかし、妖使も負けては居ない。
「せんせーの臆病者っ!! 何それ、全然わかんないよ!! そんなの全然嬉しくもないよ!」
「臆病で結構よ! 貴女も知らないわけじゃないでしょう、あの人形と先生の事を忘れたとでも言うの? 貴女と私に待っている結末は同じよ!」
「だからって、だからって失うのを怯えるためだけに自分から終わらせるなんて間違ってる……それならまだ捨ててくれたほうがマシだよ、諦められたよ……」
妖使は人の姿から、妖精の姿に戻ると、ふぃ、と職員室の天井に飛び上がった。
せんせーを見下す位置で、泣き笑いの表情を浮かべた。
「どこへ行くの、私の使い魔である以上、貴女は私から離れられないわよ!」
「……そんなの矛盾してる。結婚したせんせーとずっと一緒なんておかしい。………終わらせてくれないなら、私は自分で終わらせる」
妖使の静かな声が響く。
窓の外から朔はその喧嘩の一部始終を目撃してしまった。
ところどころよく分からない話が飛び交うものの、察しの悪い朔にも、大体の危機が察せてしまった。
「……せんせーの結婚が……妖使さんとの仲を割いてる……? せんせーの結婚は、せんせーが好きだからしてるんじゃない……?」
生徒たちは二人のことが大好きだ。そんな二人が仲違いをしている姿に加え一般的に『幸せ』のイメージがある『結婚』が、まさかせんせーにとってあてつけにも等しい行動であるというショック。朔は胸が締め付けられる思いで、動けずに居た。ここまで来るともう花とか夢とか言ってられない。
止めなきゃ、二人を止めなきゃ……。そう思うのに足が動かない。
数秒、現場がしんとした。後に聞こえるのは、妖使の一呼吸だけ。その後に続くのは、聞いたことのない言葉で紡がれた歌声だった。
「……妖使さん!?」
朔が慌てて立ち上がると、妖使が歌っていた。歌に魔法を乗せる呪文のようだ。それはいつしか、図書館で見せてくれたあの魔法に似ている……が、それより嫌な予感が辺りを覆う。妖使とせんせーの間に、黒いもやが立ち込めていった。
「使い魔の契約を切ってる……!?」
朔はつばを飲んだ。鈍感な彼女にも分かるその意志。その歌声に込められた祈り……もとい呪いが届く。黒いもやが二人の間を伝っていくと同時に、徐々にじわじわと二人の間に感じる魔力が失われていく。
使い魔が己から契約を切る、という手段があるとは思えない。しかし今、妖使は己の意志で契約者を無視して行動している。元から常識はずれの存在である妖使にしか恐らくできないことなのだろう。
「やめて!! お願いだからやめて!! どうせ女同士、妖精と人間なんて結ばれないのよ!! 貴女が二度も私の為に人生を失う必要なんてなかった、だから!!!」
目の前が霞んでいく。最後に朔の耳に残ったのは、そんな悲痛なせんせーの叫び声だけだった。
***
「神様、何故貴女はクローンを禁じたのに、魔女は禁じなかったのでしょうか」
ふと、お付きの天使がぼそりと呟いた。神は顔を上げるとなぜか満足そうに笑う。
「クローンが生み出すのはクローン自身の悲しみだ。本物になれないという悲しみや憎しみは、オリジナルだけじゃない……クローン当人の苦痛のほうが大きい。お互いがお互いを苦しませるだけ。対して魔女は、時に、一時ではあるが誰かを救うことが出来る。それがやがて崩壊に繋がるとしても、後遺症が残るとしても命だけは助けられるかもしれない。広義には、それは私の存在意義と同じ『願いを叶える』に値することだ。簡単に禁じることは出来ないさ……。それに、欲望に駆られて能力を手にした人間の抑止力にもなる、云わば必要悪でもある。……どうしようもなくなった時だけが、私の出番なのさ」
神はそう言い放つと、まるで話が終わったかのようにまた視線を下に戻す。まるで池を覗き込む子供のように、ぺたりと座り込んだままだ。遠く、地上から、彼女たちの姿を見ているかのように。いや、見ているのだろう。
天使の言葉で紡がれた『うたごえ』はここまで届いてくる。
「……貴女は願いを叶えすぎたのです。だから、魔女も願いを叶えるものとそうお考えになる。言ったでしょう、ご自身のこともたまには考えてください、と……余計な仕事を増やすだけじゃないですか……」
「……余計な仕事、か。君がそう思うならば、そうという事にしておこう。すまないな。昔からよく言われるが……自分のことを考えられるほど利口な神様じゃないんだ、私は」
神はまた顔を上げて、今度はニヤリと得意気に笑った。
一方、お付きはその表情にさらに眉を寄せる他ない。
「神も長い世代交代をしてきた。世界を作った最初の神は……それは偉大だったかも知れんが、その神ですら赤い実を隠せなかった。失敗には誰にでもあるものさ。愚かで傷ついた神が居てもおかしくはないだろう」
「それと、セクハラの多い神ですが……まあ実在するのなら仕方ないでしょう、でも……」
お付きはため息を吐くと、未だしゃがみ込んでいる神の手を強引に引いた。
「っ、」
「……神様、貴女は願いを叶えすぎて、魔力が尽きかけているのでは?」
神は一瞬その腕を引っ張られる。が、すぐにまたペタリと座り込んで立ち上がることはなかった。痛みに耐えるかのように苦痛に顔を歪める。その姿を見てお付きはまたため息を吐いた。
「もう立ち上がれもしないくせに」
「……違うな。魔力が多すぎたのさ、私は……本来、自分でもコントロール出来ない程の魔力を生み出すことがある」
神はその失態を誤魔化すように、視線を反らした。
「だから、私は沢山の置き土産を交わらない世界に残した。その影響が出てるだけだ。魔女の影響のせいじゃない」
「……置き土産、ですか?」
お付きの問いに、神は深く、一度だけ頷いた。神は指を順番にゆっくり開くと、7本目で止めて、お付きの目の前に差し出した。
「ひとつめからななつめまである宝石のようなものだよ。一度は名前を失ったが、過去に存在していた輝きのひとつでもある。それは時におとぎ話であり、歌声であり、一冊の本であり、悪魔なんだ」
「……相変わらず意味がわかりません。ご自身の事になると、特に抽象的になられますね。」
この神は毎度毎度、話の真相だけ隠してなんでもペラペラと話す。それは逆に、お付きにとって信用されていない、そしてできない……なんだか突き放されたような気分になるものだった。冷静で居たいのに不機嫌になってしまう。なればなるほど、神は面白がって得意げな顔をするのが気に入らなかった。
「わからんでいいさ、神の過去を知ってはいけないのだ。だから神はひとりぼっちになるまで、長い時間放っておかれるんだ。それに未熟な過去を知られると言うのは、なかなか恥ずかしいことでもある。分かってくれ」
「……今より恥ずかしい時代があったんですか?」
その得意げな顔にイラついて、つい意地悪を言うのもお付きの仕事だった。
「君は随分言うなあ……さて、久々にもうひとやま、仕事がやって来たぞ?」
そう言うと神は桃色の幾重にも重なった羽を広げ、目の前を染めていく。
***
「……ここは?」
さっきまで妖使の歌声が響いていたはずなのに。せんせーが目を覚ますとそこにあったのはただただ、真っ暗な世界だった。物のひとつも、風のひとつもない。
「った、いたた……あれ?」
隣には妖使が倒れていた。せんせーの呟きで目を覚ましたのか、頭を擦りながら起き上がってくる。気づけばいつの間にか、その身体が人間の大きさに戻っていた。
「貴女、一体何を……」
せんせーが妖使に何をしたのか、問い出そうと口を開きかけたその時。
「突然ですまないな、止めさせて貰ったぞ。私のせいだ。彼女を責めないでやってくれないか」
「あっ、神様ー!」
「神様ですって?」
ふとした声の方を向けばそこに居たのは少女の姿をした女神だった。せんせーより先にその姿に気づいた妖使は、懐かしそうな声を上げる。
「……あぁ、久々だな、あの時以来だ、さら」
空中に『座る』神は、妖使の姿を見ると、旧友を見るかのように瞳を細めた。
その和やかな空気を引き裂くように、妖使……いや、『さら』の前にせんせーは飛び出す。
「あのときっ……!! あの時! 貴女が……あんな事をしなければ……さらはこんな目に遭わなかったのに!!」
「やめてよ、せりかっ!!!」
神に掴みかかろうとするせんせーを、さらは止める。
せんせーはその叫びも構わず神に腕を伸ばすが、あっと言う間に神に腕を掴まれてしまった。まるで、行動を先読みしたかのように。ギュッと一段と強く掴まれると流石のせんせーも怯んだ。
「……落ち着け。彼女は望んで君を……君や、友達や、先生や……君の母親を助けたんだ。君を想っての事を責めてはいけないぞ、せりか」
「………はい……」
せんせー、否、『せりか』は、その言葉に静かに項垂れる。
「……あの時のような、強い願いを感じたのでな、少しお邪魔させて貰ったよ」
神はそう言うと笑い、静かに手を下ろす仕草をした。二回目のさらにはその意味が分かったが、せりかは首を傾げる。さらはすぐにその場に『座った』。椅子も何も無い空間に、腰掛けたのだ。せりかも恐る恐る腰を下ろすと、丁度いい高さで腰が安定する。
「神様、これ絶対わかりづらいよ」
「うむ、よく言われる。善処しよう」
「……前もやったのね、これ」
向かい合ってただ座る姿は、まるで何かのトークショーである。
せりかはトークショー、という自分の発想に、何となく嫌なことを思い出して居心地の悪さを感じながら、どこか抜けている神様の言動に呆れてしまった。
「さて、ちょっと昔話を聞かせてくれないか。なあに、私の趣味みたいなものでね……若いマジカリストの無駄話が好きなんだよ。」
「30代のせんせーでも若い?」
「ぶっ飛ばすわよ、さら」
神はそのやり取りを見て満足そうに笑う。
「一万年近く生きている身からすればな」
冗談じみた表情でケラケラと笑い出す神様を見ていると、せりかは不思議な気持ちになる。
過去に教科書で見た神様は鋭い目つきでカメラを睨み、真剣な顔で桃色の羽を広げていた。その神が、こんな変にニヤニヤと胡散臭く話す少女神とわかると……なんだか力が抜けてしまう。
「……悪いですけど、そんな時間はありません」
「なんだ? 何を急いでいる? 時間は止めてある、心配するな」
「でしたら席を外して頂きたいです。これは私と彼女の問題ですので」
この神が居たのでは話が進まない。そう判断したせりかは、なんとか神にお帰り頂こうと必死になるが、やはり神だからか、何もかもが一枚上手だった。
「私のせいだと言ったり関係ないと言ったり忙しいな」
「……っ、それは……」
その口の巧さにせりかはどもってしまう。神は勝ち誇った顔をした。ドヤ顔というやつだ。
「……わかった、雑談はナシだ。ただ、状況は整理させてくれないか? 神とて、予知能力を持っていても、知らんことを知ることはできんのだ。」
「予知能力……!」
せりかは予知能力という言葉に反応して腰を浮かせる。神はまあ落ち着け、と言わんばかりにゆっくり首を振った。
「……本来、予知は神にしか扱えない。無尽蔵で膨大な魔力が必要だからな。意図して使った能力者も過去に居たのだが、出来て数分だったな。さらはそれを無条件で使っている。人間だった頃は睡眠で補っていた……というのは、お前が分析したんだったな」
神が手を空中に翳すと、宙に現れたのはせりかとさらが学生だった頃の報告書だった。さらが教室から逃げ出し森に迷い込んで気を失った時の。
「あ、これ……昔の私の?」
さらはそれを覗き込む。人間だった頃のさらの姿は今も色褪せず書類の上で微笑んでいた。神は一度だけ深く頷いた。
「そうだ。使い魔となった今もその能力は健在だ、しかし、せりか……君が大人になるに連れて、彼女は居眠りをしなくなった」
「……そう、ですね……」
せりかは数秒考え込んでから、静かに答えた。
確かに今のさらは、一般的な人々と同じように夜にしか眠らない。もしくは、指輪の中でだけだ。それこそ最初は、妖使と化したばかりの時ですら眠そうだったのに……。
「使い魔になった彼女は、妖精としての身に馴染むうちに、依代の本体……つまり、せりか、君の力を吸収していくようになった」
「……成る程……この間、生徒の前でさらは……久々に幻想を使いました。その時、『眠くなった』のは私だった……つまり、消耗したのは私なんですね」
せりかはその解説から、一つの疑問に対する答えを導き出す。
「神様、それってなんでなの? っていうか、それでどうなっちゃうの?」
それに対して、さらが食い気味に質問を重ねた。
愛する相手の魔力を吸って取り付いているとなれば、尚更……さらにとって、彼女に憑依している意味がなくなってしまう。
「……単刀直入に言えば、さらがこのまま契約を切ってしまえば、二人のどちらかは魔力のバランスを崩すだろう。その結果がどうなるのかは私にも予知できん。原因としては、やはり互いの『想い』の変化だろうな」
「想い……」
ぼそり、とせりかがその言葉を反芻する。
「それだけ能力者と魔族が想いを繋ぐことはとても深いものなんだ、昔からな……。さらの願いは、友を救うためのものだった。だからこそ、せりかを含め……あの場に居た者……せりかの母親しかり、あの先生しかり、同級の少女や年齢詐称少女しかり」
「ふりあは年齢詐称じゃありませんっ!!」
さらが反論すると神はそうだった、と呟いて頭を掻いた。
「……失礼。とりあえず、旧友全てを助けられた。しかし、さらから見て、今のせりかは友ではない……それを越えた相手になった。その変化は決して悪いものじゃないさ。しかし、その想いに対して、せりか……君は、だいぶ前からもう情を突き放すことを決めていたのではないか?」
「………そんな、ことは……」
せりかは首を振りスカートを握りしめる。不安げな表情で、震える腕で、スカートをくしゃくしゃにしていた。いつもキチンとしている先生の姿は今はどこにもない。
「もちろん、心の何処かで、という意味も含める。最初の最初は自覚していない想いもあったろう。しかし、こうして結論を出し、裏切るような真似に走った結果こうなった、という意味では変わるまい。そして、この決断に至るまでにどうして情が離れるような気持ちに至ったか、という出来事も問題に関係してくるだろう」
そこまで言うと、神はため息をついてせりかの顔を覗き込んだ。
せりかは深く考え、記憶を巡らせる。さらと拗れた原因を遡ってみた。
「……きっかけは私が……アイドル活動をこなせなくなった辺り、からでしょうか」
「ほう」
せりかが口を開くと、神はわざとらしく頷いてみせた。
さらは「この人、もう大体をわかってるな」と思いつつも、場の雰囲気を尊重して同じく真剣な顔をする。
「学園を卒業後、私はアイドルになりました。大手所属のスカウトで入った事務所でした。ファミリアになったさらは私と舞台に立つことを望まなかった。別に魔族でも舞台に立った魔法アイドルは過去にいくらでも居たのに、私も構わなかったし、むしろ同じ舞台に立ちたかったのに、さらはそうしなかった。ただ、さらが私をプロデュースする事を決めて、私はさらが言うように歌い、踊りました……でも、ダメだった……」
「……どのように、『ダメだった』のかな?」
言葉を詰まらせ俯くせりかに、神は優しく聞き出す。
せりかは顔をあげると、泣きそうな顔で叫びだした。
「……っ、だって!! あんなギャグみたいな名前のアイドル、続けられるわけがなかったのよ!! 素性を隠して別人を装って、さらのプロデュースに乗っかったけど……そうしたら、自分の実力と求められるものがあまりにも違いすぎたから!! 苦しくて……どうして、舞台に立つのはあの子じゃなくて私なのか、何度も思った。プロデュース自体は間違ってなかったけど、それが私には合わなかった、それだけで、あの子の大事な舞台への思いを壊すのが怖かった!! そう思っていくうちに、あの子が人間としての人生を捨ててまで助けた私は……っ、私は、あの子の分までの人生を背負えないって思って………そうしたら私に残ったのは、教科書の上の知識だけだった、から……だから、先生、に……」
「せりか……」
今まで一緒に居たさらも初めて聞くせりかの本音。さらは重い言葉で、せりかの名を吐き出すのが精一杯だった。どうしてせりかは、あんなに熱心に勉強したアイドルを辞めてまで先生になったのか? 聞きたくても聞けなかったこと。
「……あはは、ははっ……そっかぁ……!」
「へ?」
「あ?」
次の瞬間、その答えを聞いたさらは、意図せず笑いだしていた。あまりに急なことに、せりかだけではなく神まで間抜けな声を漏らす。
「それ、私が学校飛び出した時とおんなじなんだもん、良かったあ、せりかも同じ事思うんだね」
「さ、さら何言ってるの、貴女……?」
唐突な感想に困惑するせりか。さらはひとしきり笑うと、ゆっくり微笑んだ。
「……私が無意識とはいえ使っていた予知を使えなくなって失敗した時、せりかと一緒の舞台を壊すのが怖かった。開き直ったつもりだったけど、やっぱり心のどこかに引っかかっててさ……プロデビューするって思ったら、どうしても同じ舞台に踏み出せなかったの。でも、悔しかったんだ、一人でデビューしたらライバルになっちゃうじゃん、そんなの、嫌、じゃんっ……うっ、だからっ、だから……プロデュースを、したらっ……一緒、いっ、しょ……だって、おもっ……」
さっきまで笑っていたさらの声が、涙で揺れていく。
せりかは慌てて立ち上がり、さらの背を撫でながら優しく声をかけた。
「ごめんなさい、さら……今まで言わなくて……私達、ちゃんともっと……話をしなきゃいけなかったわね……」
さらはその言葉に嗚咽を零しながら、ただ首を横に振る。言わなかった自分も悪かった、という風に。
神もその姿を見て、静かに目を閉じた。
「さら、すまなかった。泣かせたかった訳じゃないんだ、デリカシーに欠けていた……泣き止んでくれ。『天使は泣いたら死ぬ』という慣用句がこの世にはある……泣くのは魔力に障るぞ」
さらは強く頷くと、強く目を拭った。その様子に、神も安心したように微笑む。
「……では、お詫びと言っては何だが……私もひとつ、昔話をしよう。君たちにとって損はしない情報だと思う、何せ今の歴史には残ってない情報で……」
「えええっ!! せんせーってアイドルだったんですかぁ!?」
神がそう言いかけた瞬間、真っ暗な世界に、急に大声が響いて、一同は肩をビクつかせた。
せりかとさらが振り返ると、そこに立っていたのは朔だった。
「朔!? 貴女どうしてここに?」
「朔ちゃんっ!?」
「せんせー達が喧嘩してるの聞いちゃって……気づいたら倒れてましたっ!」
「……君は……せりかの教え子か。近くに居たから巻き込まれてしまったのか……? ……うむ、まあいい。君の勉強にも役に立つだろう、若い芽にこんな無粋な世界は似合わないな。場所を変えよう」
そう言うと神は翼を一層広げ……4人の周囲は暗闇から陽が射す真っ白な地面に、真っ青な空が広がる世界へと変化した。
「……ところで、その草何? 使い魔?」
一同が天界へと移動した直後、さらが発したのはその一言だった。さらが指差す先には、朔の肩にまるで飼い慣らされた小鳥のように留まる、一本の根っこの生えた草。
「あああ! どこに行ったと思ったらっ、えいっ、えい!!」
それは先程まで、朔が追いかけっこしていた走る草だった。朔が掴もうとすると、器用にふよふよと逃げ回す。
「魔法で動かしてるのか。 また随分と器用な娘だな……」
「いえ……彼女はクラスでも成績は……こら、朔、暴れるのはやめなさい。そんな草に構ってる場合じゃないのよ!」
神はその姿に感心するが、せりかはがっくりと肩を落とす。
「だって、逃げるんですよぉ、この草……! 私はただ、お花を……アストランティアを咲かせてせんせーにプレゼントしようと思ってぇ……」
朔はがっくり肩を落とした。草は器用にお尻ペンペンならぬ、根っこペンペンをしながら朔を煽っている。
神が興味津々に摘み上げるとあざとくしんなりと萎れてみせた。
「花を咲かせようとしてこうなるとは。ある意味天才だな。紙一重のなんとやらの方かもしれないが」
神は草をふーふー吹いて煽りながら、あんまりに脱力する魔法に呆れていた。
しかし、せりかだけは違う言葉に目を見開き、声を震わせていた。
「……『アストランティア』……」
嫌に聞き慣れた言葉を思わず口に出してしまうと、後ろからニヤニヤと口元を緩ませたさらが小突いた。
「アイドル時代のお名前と同じだね、せ・ん・せー♡」
「えええええええっ、せんせーってああああああのアストランティアだったんですかぁ!?!? 私大ファンだったんですよぉ!!」
「やっ、やだ恥ずかしいじゃないっ、こんな大声でっ!!」
せりかは慌てて朔の口を塞いだ。その様子に、次はさらが呆れてツッコミを入れる。
「いや、もうばっちり聞こえてるし……」
「あ、そうよね……ごっ、ごめんなさい、朔、勝手に口を……」
「ぶはっ! でも、なんとなくお花を見た時、せんせーに似合いそうだー! って思ったんですよね! 間違いじゃないみたいでよかったです!」
せりかが手を離すと、朔はそう言ってにっこり笑った。
「……そう、なのかな……? い、いや、間違いとか正解とか無いわよ、アレに! 名前が「せりか」だから「セリ科」の花……ってだけで付いた名前で……」
「いや、アストランティアはフラワーアレンジにも使われる、とても可憐な花だ。花言葉は『知性』……優等生で、アイドルで、先生の君にはとてもよく似合うな。あとは『星に願いを』『愛の渇き』っていうのもあるな」
慌てるせりかに神もニヤつきながら解説をする。せりかはその解説に引っかかる所があり、一つの言葉を口にした。
「愛の、渇き……?」
神はニヤニヤしながら軽く頷く。
「……君の教え子だろう、後でよく咲かせられるように教えてやりなさい」
「………無事に、魔力を持ったまま帰れたらそうします」
せりかは神の意地悪な発言に、少しむくれながらそっぽを向いた。
直後、パンパン、と4人の背後から手拍子が鳴り、4人は同時に振り向く。
後ろに居たのは、神のお付きの天使だった。
「神様、もう茶番は宜しいでしょうか? いくら時間が止まっているとはいえ、無駄な時間を使いすぎです」
「ああ、すまないね。ではそろそろ話を進めよう」
神はパチン、と指を鳴らした。
まるで世界がまるごと巨大なスクリーンになったようだ。
VR映像の中にいる、とでも言うのだろうか。それが映像と分かっているのに、そこに居るような臨場感。
一同が立っている場所は、いつかのライブ会場、その客席だった。
「お付きも聞いてくれ、今まで私が話さなかったことだ。……少しややこしい事情があって、ここに至るまでの事情は省かせてもらうが……私は一人の人間の亡き後、幾度か天使として生まれ変わった。神である私は、その成れの果てなのだ。その中で私……いや、もう私とは別の存在と言っても良いのだが……」
「結局どっちなんですかー?」
朔が口を挟み、神はゴホン、と重い咳払いをした。
「ややこしい事情があると言ったろう。まあ簡単に言えば遠い『前世』だろうか……。今の私から見ると、感覚的には他人であるのだが、『前世』とした方が説明がつきやすい。……正体は後で説明するさ、君たちも、存在自体はよく知る者だ。」
得意げな顔をして、神はステージを見上げる。一同もその目線を追いかけた。
その目線の先にライトが灯り、ワァァア、と歓声がけたたましく地面を揺らす。
「……凄い、こんな歓声……」
「一体どんなパフォーマンスが見られるの……?」
アイドルに長けたせりかとさらは、その空気の意味を知る。
これは国民的アイドルの比ではない。世界的、爆発的……これからどんな歌手が出てくると言うのか……。
一同がつばを飲む。聞こえてきたのは流暢な発音の歌声。そして現れる、花びらだった。
「……これは、幻想魔法?」
「そうだ、さら。流石だな。因みにこの時代、能力者は裏社会の存在だった。マジカリストという言葉も無ければ、魔法アイドルも存在していない。当時は最先端のホログラムか何かと、思われていたな」
「魔法アイドルの先駆け……ってことは!」
せりかもはっとした顔で叫び出す。神は満足そうに頷いた。
「そうだ、ほら、出てくるぞ」
ステージには新たに氷の粒が舞いはじめ、それが混ざってやがて雪の結晶として舞っていく。キラキラ輝く光のベールがステージに集まっていくと……観客の叫び声も最骨頂になる。
『みんなーっ、お待たせーっ!』
イントロと共にすぐに聞こえたのは女性の声。そして、ステージが弾けるように雪の結晶が吹き飛ぶと、ステージに現れたのは二人のアイドルデュオユニットだった。
一人はポニーテールの黒髪に青い瞳、ピンクのフリルが肩と腰にあしらわれ、まるで羽根のような形をした正統派の衣装。もう一人はセミロングの黒髪に青い瞳。白いマーメイドドレスの裾にフリルが付いているが、もう一人とは全く逆でクールな印象。顔色一つ変えず、淡々と歌い、踊る。しかし、その背は決して高くなく、スタイルがいいわけでもない。でも、なぜか華のある魅力があった。
「あのアイドルだ……せりかのデータベースにあった、名前も顔も分からない……あの二人だ……」
「さっき本で見た人たちです!」
さらと朔が叫ぶ。せりかも頷いた。
神はその反応に二度頷く。
「彼女たちの名は『スノーフレーク・ソルベ』。魔法アイドルの先駆けであり、今はもうその名も、姿も、消えてしまった存在だが、不鮮明なステージと歌だけが残され、ああして文献に名を馳せ、君たちの時代や、今もアイドルを支えてきた存在だ」
「な、なんでこんなに素敵なのに、知られてないんですか? 消されたってなんですか?」
さらの質問に、神は懐かしそうな、悲しそうな笑顔で目を細めた。
「……二人は、この時の前にも後にも、大切なものの為に戦った。その行く末で、いろいろなものを傷つけてしまったんだ。悪魔と呼ばれる程にね。一人は自らの願いで自分の存在を消し、もう一人が自らの手で筆を取り、その意志を守りながら……名を記さずして後世に語り継いだ。さら、君はよく知っているはずだ、前に会った時、その名を呼んでくれたよ」
さらは暫く考え、ふ、と思い出す。それは本の表紙だった。臙脂色と深緑の本。
「……っ、」
「ピンクのドレスの方だ、かつて『伝説の悪魔』と呼ばれたのは。彼女は、不必要な罪を押し付けられた天使だった。不当な扱いを受けた天使は、身も心もボロボロにされてしまったんだ。しかし、それでも抗った。偶然出会った、たった一人の少女の為に……名をサナと言った。」
「『伝説の悪魔』って、あの……?」
さらがその答えを口にする前に、神は頷き、そして昔話のように語る。
そのタイトルに反応したのは……いつか、それが自分自身だと思い込んだせりかだった。
「そして、隣の白いドレスの方は、悪魔が亡き後……その存在を守る為に、名の無い真実を書き上げた……名をつばさ、と言った。」
「それが、『伝説の悪魔』と『うたごえ』なんですね?」
せりかが答える。神は何も言わなかったが、言わないことこそが、正解という答えのようだ。
パチン、とまた神が指を鳴らすと、戻ってきたのはさっきの雲の上だった。
「二人は芸名を『アイオライト』と『プレナイト』と名乗り、世で最初の魔法アイドルとなった」
「……目的はなんだったんですか?」
「目的は……そうだな、言葉にはし辛いが、二人にとって大事なもの……お互いを守るためだった、と言うべきか。愛ゆえに、というヤツだ。さっきも言ったように……その為に、仲間の全てを傷つけなくてはいけなかった。それでも、お互いが欲しかった。それだけだ。でも、とても、大事な事だよ。自分の生まれ持った運命より、愛する人を優先した……それだけが……」
そう言うと、神様はまた、遠くを見つめた。その目線の先には何も無い。
ただ、方角は……あの穢れた戦場の方向を向いていた。
いつか、神がまだ神ではなかった頃、サナでもルナでもなかった頃。全てを失ってしまった、始まりの場所を。
「……『悪魔』は、『サナ』は、過去の私だ。私は、『悪魔』と、その愛した者と、その他にも抗い続けた全ての意志を継いで、願いを叶える神となった。それだけの話さ。わかりづらくて、長い話ですまなかったな。……さらを泣かせた詫びにはなっただろうか?」
「逆に感動と神様が可哀想で泣いちゃいそうだけど……」
さらはそう言って笑った。
一同も、何度も頷く。神は安心したように微笑んだ。
「神様、何故今まで……このような事をお隠しになって……仰らなかったのでしょうか?」
お付きは新たな事実に眉を顰めている。神と長い間連れ添ったお付きにも、知らない事実。
少しだけ不機嫌そうに見えるのは、心配からだろう。神は可笑しそうに、またヘラヘラ笑い出す。
「苦しみはしたが、悪くない人生だった。ただ、遠い昔の話だからな……少し語るには長い話だったし、必死だったが故に、確かに犯した間違いもあった。それを語るのには、少しだけ勇気がなかったんだ。でも、久々に若い芽と話したら、土産話をしたくなったんだ。……本当に、深い意味はないさ」
神はそう言って、満足そうに笑いながら、偉そうに仰け反った。
「さて、詫びも済んだ所で話をかなり巻き戻そう。私はもう満足したからな。本題は覚えてるか?」
「なんだっけ?」
朔とさらが顔を見合わせる。せりかはがっくりと肩を落とした。
「……私とさらの間のファミリアとしての契約の存在が、まだあるかどうか、です」
「そうだな、すまない、昔話が過ぎたようだ」
「ああ、そうだった……」
さらはがっくり肩を落とした。
「神様、私は……もう十分反省しました。さらと私の間には話が足りなかったと思います」
「私もそう思う。神様、私達戻れる?」
二人は神に真剣な表情をして問う。
神は静かに目を閉じたまま、黙っていた。お付きも思わず神を凝視してしまう。朔もその空気に息を呑んだ。
神はワンテンポ遅れて、ゆっくり口を開く。どうやら予知に集中していたようだ。
「……今のまま時間を動かせば、契約は切れてしまう。想いがすれ違ったままでは、さっき言ったように、どちらかの魔力が無事じゃなくなるだろう」
「じゃあ……どうしたらいいんですか?」
不安げに、さらが質問を重ねると、神はゆっくり目を見開いた。
その表情からは、先程の軽い笑顔は消えている。
「だが、二人の間にはもう反省が見えている。想いの問題はもう解決しているな。と、なれば問題は『切れかけた契約を繋ぎ止める』手段だな」
神は急に険しい目をして、一同を見つめる。
「本来、最初に我々が居た暗闇には、神である私が『願い』が有る事を認めないと、立ち入れないようになっている。しかし、せりかの『繋がり続ける』とさらの『離れる』は、願いとして一致していない。二人がこの場に一緒に居るのはおかしいと言える。しかし、ここに今いるのは、『二人だけじゃない』な?」
「え、じゃあ……」
二人は同時に朔を見る。
「えっ、私ですか?」
「前回、さらが『皆の不幸を連れて行く』と願って、人間ではなくなったように、願いと結果を認識して初めて、願いは成立する。二人を『対象』とした『願い』を持っているとすれば、朔が、そして対象である二人がここに居るのはおかしくは無いな」
朔は慌てて自分を指差した。神様は頷く。
満足そうに朔の前に腕を広げた。
「朔、君にはどんな願いがある?」
「……私は」
そう迫られると、朔は多少戸惑ってしまう。ちらり、と朔は、せりかとさらの顔を見てから、胸の内を明かした。
「二人をお別れさせたくない! せんせーを結婚なんかさせたくない!」
「ほぅ」
朔は叫んだ。せりかとさらが、深刻そうな表情で顔を見合わせる。
神はまるで感心したように声を漏らした。
「人間の少女にしては珍しい願いだ。事情はともあれ、せりかは、人の子が言う幸福の絶頂期を控えている身だぞ? それを止めると言うのか?」
神は興味津々といった様子で、朔に質問を重ねる。
「私は、誰かの為に魔法を使いたいと思っています! もしもせんせーの結婚が……皆の言う『幸せな結婚』だったら、私の魔法でお祝いをしたいと思ったけど……。二人のこと、そして神様のことも聞いてそうじゃなくなった。結婚なんかなくても、本当に好きな人と、好きな時間を守ることが一番大事だって思う。せんせーも妖使さんも、ふたりとも、ふたりが大好きだし、私達生徒も、先生である二人が大好きだから……好きだからするお別れなんていらないと思う! だから、二人の為に魔法を使いたい……魔女として!」
朔は、意気込みを全て吐き出した。最後の言葉にせりかは、弾かれたように叫ぶ。
「朔! まだそんなことを言っているの? 進路調査でも言ったでしょう、魔女はダメだって!」
「せりか、まあ落ち着け」
神はせりかを止める。
せりかは納得行かない、という風に眉をひそめながらも口を噤んだ。
「君の夢は魔女か、幾度も周りの大人に止められてきただろう? それでも成りたいのか?」
「なりたいです! ……神様、どうして、どうして魔女は悪者なんですか? 誰かのために魔法を使いたいだけ、誰かを救いたいだけ、それだけなのに……絵本の中ですら、悪者扱いなのはなんでなんですか?」
その場がしん、と静まり返る。
さらも、せりかも、勿論、神も、お付きも……その真実を知っているからだ。
しかし、ずっとその願いを知っていたせりかもさらも、それを明確に教えなかったぐらいには、朔はあまりにも……魔女の存在に懸命であった。
「私はお姉ちゃんを魔女に助けて貰っています、今ここに……魔女のお陰で助けてもらった身があります」
「……神様、どうして魔女は禁忌になさらなかったのでしょう? 魔女は、貴女が革命を起こす前から存在する罪だったはずですが」
せりかも思わず口を零す。神は静かに頷いた。
「まずひとつ訂正しよう。昔から魔女が罪なのは人間の間でだけだ。まあ、魔族の間でも鼻つまみ者ではあったがな。……朔、よく聞け。それでも確かに必要なものもある。その中のひとつが、魔女だと私は思ったまでだ。それに、魔女が禁忌ならば、もっと他の禁忌があっただろう。……例えば、今、こうして話をしてこなかったお陰で、元の契約に戻れなくなった二人のような、悲しい罪が。……まあこれも、『本当の禁忌』ならば、私はこの世にそれを残さない……が、本当の禁忌とは何なのだろうか? 悲しみや苦しみから生まれるものの全てを、ダメだと否定していいのだろうか?」
「神様にもわからないのですか?」
朔が聞き返すと、神様は首を横に振って腕を組んだ。
「いや、分かるからこそ残したんだ。最初から数えて数万年という永い時間を過ごしたが、私には悲しみや苦しみの時間の方が多かった。しかし、そこから産まれたものをひどく愛しいと思ったのさ。それが悲しければ悲しい程、嬉しく思えるときもあった。例えば、さっきの話……藻掻いて、抗って、『悪魔』が愛する人を手に入れられたのは……ほんの数日だった。それでも、彼女のために、その後も『悪魔』は、その身が滅びるまで、彼女を愛し続けたんだ」
そこまで言うと、神は今の今まで座っていた席を立ち上がった。
いや、立ち上がったというよりは、立ち上がれない所を無理やり羽根で浮くことで支えていた、とでも言うのだろうか。そうして朔の目の前にしゃがみ込むと、朔の顔を支えてまるで悪魔のように囁いた。
「朔、君はどうだ? 魔女になるには聞きたくない事実や、悲しみと向き合わなければいけないぞ。それは、感情で魔法をコントロールするマジカリストにはとてつもなくキツイ世界だ。自分の願いや希望を捨て、他人だけを愛せるか? 他人の為に己を捨てられるか? その結果、望まない他人を傷つけることも、受け入れられるか?」
「……どういう事、ですか?」
「そうだな、そのままの意味でもあるが……言うならば、いや、願うならば……人では無くなる、と言う意味か?」
神はニヤリ、と意味有りげに微笑むと、さらの方を向いた。
さらは慌てて立ち上がる。
「待って神様、朔ちゃんは魔女になりたいっていう夢が……!」
その言葉の意味を理解したさらは、必死に弁護する。
そう、それは、『願いを叶えたければ、さらと同じ運命を辿れ』という意味。
「さっき聞いた。その上で確認している。私が朔を『何者か』にするのと、朔が自分を『魔女』にするのと……結果として同じじゃないか? 人の為に魔法を使う存在になる、という意味でなら、だが」
神はスパッと言い切ると、また羽根で浮き上がる。煽るようにさらの周りを回って飛んでいた。
「同じじゃないよっ!! 神様、今日ちょっといじわるがすぎるんじゃないの?」
「何? 天使の癖に逆らう気か、さら? ならばお前が教えなかったのが悪いのだ、お前も一応、教員なんだろう?」
朔にはそのやり取りの意味がわからない。新しく始まった喧嘩に狼狽えるだけだった。慌てて二人の間に割って入る。
「わっ、私なんかの為に喧嘩しないでくださいっ、神様ともあろうお方が!」
神はさらから目を逸らすと、その険しい目を次は朔に向けた。朔も負けじと黙って神を睨み返す。
「……はは、負けだ、負けだ。わかった、順を追って説明するよ。さらも、せりかもそれで良いな? 朔はその答え次第で……『何者か』か、『魔女』か……『どちらか』を選びとれ。但し、事実を聞いたからには二択しかないぞ。もう人間では居られまい。辿り着く結果はさっき問いだした、そのままだ」
神はまたヘラヘラとした笑みに表情を戻し、手をひらひらさせて降参した。
その様子に朔は息を呑む。朔が知らない魔女の事実。
今まで信じてきた魔女の事を、これだけ周りの大人が一同に顔をしかめて、傷物のように朔に接して隠してきたもの。それを知って、そして受け入れなければならない重さはいくらバカでも気づいている。
だって、今まで誰もが『本当のことを知ったら、朔は危ない』って言ってきたのだ。それがどうしても納得できなくて、でもその本当知るのは怖くて、だから意地になってしまった。そのコンプレックスが、ついに幕を開けてしまう日が来てしまったのだ。
「これは大事なことだ。お前にその覚悟があるのか? 事実を知る勇気があるのか? 私は、それが知りたいだけだ。……いじわる、と言われれば……そうだな、いじわるな事をしていると思う」
神はそう言うと、また席に座り直した。
「朔ちゃん、お願い、やめたほうがいいよ……! 今ならまだ断れるもん、魔女以外にだって魔法を使って誰かを喜ばせられるお仕事はいっぱいあるよ? 魅了戦闘……魔法少女だっているし、せんせーみたいにアイドルだっていいじゃんっ!」
「妖使さん、私……何度でも言うけど、やっぱり魔女じゃないとダメなんだよ。もう意地でしかない。私、魔女の存在を自分で否定しちゃったら……多分、この先何にもできなくなっちゃうから!」
今まで朔の夢に何も言わずに居たさらまでもがついに口を出す。
彼女に魔女なんて不可能だと心のどこかで思っていたさらも、この状況では焦らざるを得なかった。このまま朔が一つ返事で魔女になったって、幸せになんかなれないしできるわけがない、自分の二の舞いを教え子に踏ませるわけにはいかない。
しかし、その願いは……願いの神の前で、彼女の笑顔によって打ち消された。
「……その前に、神様。私には、魔女になる才能はあるの? それだけ先に教えて。」
「……そうだな。ここで隠してもややこしくなるだけだ、素直に答えるぞ。人は平等、と綺麗ごとを謳っても難しい話かもしれないな。……お前には、魔女となるような魔力は無い」
そう言うと神はまた指を鳴らした。足元の景色が変わり、遠くに見えるのは朔の故郷だ。
「……あれは、私の家?」
「お前が魔女になる為に家を飛び出した、翌日の景色だ」
まるで地図のホログラムを拡大したかのように、足元の景色はとある一点へと集中する。その庭先にいたのは、朔によく似た黒髪を持った、しかしストレートヘアの女性だった。
胸元を強く握りしめて、窓からよろよろと飛び出してくる。
「お姉ちゃん……?」
朔の静かで重たい声がその場に響き、結果を悟ったさらとせりかは目を逸らした。
「目を逸らすな、さら、せりか。お前たちがもしも、あの同級生の、あの場に居なければ……お前たちも迎えた事実だ。知っておいて心に焼き付けるんだ、助かったことを当たり前と思うな!」
神は厳しい声でそれを咎める。朔はその言葉も耳に入らない程、姉の姿に注視していた。
「なんで、なんで苦しんでるの、お姉ちゃんは? 助かったんじゃないの? あの時、魔女の、うっ!?」
「あの当時と今の朔に、魔力の力関係をリンクしてある」
途端、まるで足元の景色と連動するかのように、朔の身体も崩れ落ちる。呼吸が激しくなり、酸素が薄くなる感覚。足が震えて力が入らない。手が痺れていく。
……魔力を、吸われている?
「っは、っ、足、力っ、入らな……っ?」
「朔ちゃんっ、なんで、神様やめてっ!」
「……安心しろ、映像が終われば『返す』さ」
朔は身体の脱力感に、思わず目を閉じそうになってしまうが、必死に足元の姉の姿に食らいつく。この目を離してはいけない。知らないことを知らなきゃいけない。私が何に憧れて、何を信じていたのか、それがどうして間違っているのか――――!
姉の景色はぐるぐると目まぐるしく回る中で、姉の身体がボロボロと崩れていく姿が幾重にも映し出された。それは日々、悪化していく様子そのものだ。
同時に、朔の脳裏には自分の塾での生活が、まるで焼き付けられたかのように回っていく。自分の意識と、誰かの記憶が混ざり合って、現実が解らなくなっていく。
この時、姉が苦しんでいる時、自分が何をしていたのか……。
「居眠り……!」
誰の声か解らなかったが、呟くような声が聞こえた。よく聞けば、それは自分の声だ。
朔はいつの間にか閉じていた目を開ける。気がつけば、また真っ黒な世界に戻っていた。
「……そうだ。姉と契約した魔女が誰かまでは私の力でも特定できん。しかし、その魔女がした事は想像がつく。魔力を持たない人間である朔の姉を維持する為の電池として、朔は縛られている。分かりやすく言えば、朔は姉を生かすために魔力を吸われているんだろう。しかし、生かすだけで、姉が持っていた痛みは消えていない。むしろ、生きているだけ、長く強く痛みを感じている。身体が壊れても魔力で動く……。彼女は生き地獄の中に居るのだろうな」
「そ、そん……っ、お姉ちゃん、そんなこと、一回も……て、手紙だって」
朔は頭をブンブンと振り回す。いつの間にか、手元には姉から貰った手紙が握られていた。あんなに苦しんでいた人物が書いたとは思えない、綺麗な字の手紙が。
「……代筆だろう。いや、もう『代わり』ですらないかもしれない。あの状況じゃ話すどころか、自分の意志を表現する暇も無い。むしろ苦しむことすら出来ない……もう、彼女は廃人だ。植物状態よりも酷いだろう」
朔は崩れ落ちた。バラリ、と結っていた髪が解け落ちると、その姿は本当に絵本の魔女のようで。姉がいつか結ってくれた記憶が、頭の中をするすると滑っていく。もう戻ってこない彼女の優しい腕。
「なんで、私、そんな時に……何もせずに、眠るだけで」
うわ言のように、後悔を呟く。
「あれだけの魔力を吸われていれば、居眠りするだけで無事だった方が奇跡だろう。むしろ塾に在籍しているだけの余裕があった……という事は、ある意味才能だろうな。地の体力はなかなかにある。ただ、『それだけ』だ。さらのように特別な力を持ったり、せりかのように知力を持つことはない」
「そんな……」
神は朔にそう説明すると、すっかり何もなくなった景色を見渡した。
せりかとさらは寄り添い合うように抱き合いながら、さらがせりかの胸に顔を埋めてしゃがみ込んでいた。せりかは何も言わず、苦い顔をしながらさらの頭をただ撫でている。
「……本来、マジカリストではない人間には、魔力を処理する機能、器官と言うべきか? ……が無いんだ。魔女に魔力を与えられた所でその身体は魔法に耐えられない。身体は壊れていくが、魔法が壊れきることを許してくれないんだ。人間にただ魔法をかける事でさえもやりすぎると身体が崩壊する」
「神様、もうやめましょう、やりすぎです」
事を遠巻きに干渉せず眺めていたお付きも、これにはあんまりだと思ったのか神の肩を叩く。神はその肩を軽く払って話を続けた。
「それでも、私が魔女という存在を無くさなかったのは、それで助けられる事が『嘘ではない』からだ。魔女と君が居なければ君の姉は即死だったろう。もしも、君の姉が魔女と契約しなければ、君は家を飛び出て己の力で勉学に励もうと思う程の夢を抱かなかった。姉は、そんな君の背を眺めて「生きててよかった」と言わなかった。自分の代わりに妹が活躍してくれたら、と願わなかった。代わりを頼んででも、嘘の手紙なんか送りつけないだろう。それどころか、なぜ生かしておいたのか? と、君を責めていたかもしれない」
「……お姉ちゃん……」
朔は立ち上がる。脱力感は身体から抜けていた。神様が魔力を返してくれたらしい。
揺らいだ記憶の中から、姉の笑顔だけが朔の脳裏に浮かぶ。
お姉ちゃん。
私、お姉ちゃんを死なせたくなかった。
「……説明は以上だ。朔、もう一度聞くぞ。助けたはずの人達をもう一度苦しめてまで本当の奇跡を起こせるか? 身体を崩壊させ、二度と暮らせない身体を持った者が『あの時助けて貰って良かった』と笑ってくれる姿に、君は悲しまない事ができるのか?』
手を握ったり開いたりしてみる。さっきより、いや、今までより力は漲っている。
そんな気がする。
お姉ちゃん。
生きててよかった、なんて言わないでほしかった。
「お姉ちゃん」
もう一度呟いてみると、また勇気が出そうな気がした。
「やめよう、神様、やめよう、朔ちゃん、もうやめよう、やめて、やめて……」
さらの涙声が、小さく小さく朔の耳に届く。
せりかはさらを強く抱きしめ、何も言わないで震えている。
「……私も、もう一度聞きます。私に魔女になる素質はありますか?」
「無いだろうな。それどころか基礎も出来ていないだろう? 幻想魔法も浮遊も出来ないじゃないか、奇跡を起こせるとは到底思えないな」
朔は一度、もう一度足元を見てみる。どこまでも続く暗闇だった。
もう足元に、苦しむ姉の姿はない。
今、姉がどんな姿なのかは知らないが、思いを馳せてみる。勿論予知も透視も出来ない朔に今の姉を知る術はない。
もしも今瞬間移動や、そんな類の魔法が使えたら……今すぐ姉の元に飛んでいって、どんな姿でも、身体が崩れてしまうかも知れないけれど、抱きしめたかった。
ごめんね、苦しませてごめんね。
一人にしてごめんね、手紙ありがとう。
黙っててくれてありがとう。
見送ってくれてありがとう。
願ってくれてありがとう。
「……だが、」
先に沈黙を破ったのは、神様の声だった。
朔はもう一度、顔を上げると、正面に立ち上がる神様の姿を捉える。
「……その奇跡に、別のやり方はないのか?」
さらとせりかも顔を上げた。
「神様っ……!
「だめだよ、朔ちゃん!!」
「言ったろう、朔、選択は二択だ。お前はお前の意志で魔女と成るのか? 成れるのか? それとも……私に『願い』をかけるのか?」
神様が、一歩、二歩。歩いて朔に近づいてくる。
『朔、人々の願いを受け入れる覚悟はあるか?』
「あります」
神は深く頷いた。
朔はその頷きに応えるように、満面の笑みを見せる。
そしてくるり、と、背後で息を呑むばかりのさらとせりかを振り向いた。
そして、深く、ゆっくりを頭を下げる。限界まで身体を折り曲げた。
大きなポニテが前に垂れて、朔と二人の間に壁を作る。顔は見えなくなった。
「……せんせー、妖使さん。ごめんなさい、最後の最後まで、私、不出来な生徒だけど……やっぱり無理だよ、諦めきれないよ」
「なんで、朔ちゃん……ね、分かるでしょ、私を見てよ。こうなるんだよ? 人間じゃなくなっちゃうんだよ」
「うん、分かってる……でも、私本当に、本当にどうしても……人であることよりも譲れない」
そう言って顔を上げる。その表情に曇りはなかった。
さらはまた、せりかの腕の中で、泣き出す。声を押し殺すように泣き出していた。
「朔さん」
代わりに、震えた声のせりかの声が、真っ暗な空中に響く。
「……今更、何を言っても……貴女のことだからきっと聞かない。どうせあのプリントも直してない」
「はい」
朔は頷く。
「私達も、学生の時魔女と契約した同級生がいたの……どうしても魔法少女になる事を諦めきれなくて、魔法の適正と適齢を補強する為に魔力を強化して、壊れてしまいそうになった」
「はい」
頷く。
「貴女に私達がちゃんとその事を説明できなかったのは、その同級生を壊しかけた魔女を敵にして……間違った魔法使いが生まれないように教員として指導する、そんな意地があったからなの。貴女を敵にしたくなかった」
「はい」
朔は笑顔で、淡々と応える。
いつもは冷静で理性的で合理的な話をする担任の、言い訳のような、反省のような言葉をただ受け止めて頷いた。
「……ダメだわ、時間がなくてまとまらない。言いたいことはいっぱいあるのに……。ごめんなさい、今まで敵同士だった相手を今すぐ愛するって難しいわ、でも、神様も教えてくれたように、逆境だって愛さなきゃ。その同級生……いいえ、友達に出会えたのだってその願いのお陰だし、貴女と会えたのもその願いのお陰なんだわ。でもね、貴女にはだけは、誰かを騙すような真似はして欲しくない。貴女は素直で、素直すぎて心配にも成るけれど、しかも強情でもあるけれど自慢の教え子なのよ」
「大丈夫ですよ、せんせー。私は嘘をつけるほど器用じゃありませんから」
朔は何度でも二人に笑いかける。
「……朔、進路決定、おめでとう」
せりかがそう呟くと、朔は強く頷いて神に向き直った。
神も優しく頷くと、朔の肩口から『何か』を手に取る。
「あ」
それはあの『草』だった。そう言えば忘れていた。
『草』はジタバタしながら神に摘まれ、神の手のひらに乗せられる。
「ふむ、マンドレイクに近い妖精の類と見た」
「よ、妖精なんですかそれ? 適当に召喚というか、勝手に出てきたというか」
朔は身近な草と己の魔法から生み出されたモノの、正体に対して驚いてしまう。
「偶然、適当な魔法が召喚魔法と一致したんだろうな。召喚したファミリアとマジカリストは結びが強い……そうだな、今の私の力じゃ不十分だ、彼の力を借りるとしよう」
神はそう言うと、ふっ、と妖精の上に手をかざす。
途端、暗闇の中から流星の光が集まってきては、朔の周りに溜まり始めていく。
朔の耳には、まるで遠い喧騒の幾つかのような、言葉は耳に届き始める。
「……みんな、何か、言ってます」
「この世の、誰かの願いだ……これから、嫌という程、聞くだろう、この声を……」
徐々に、まるで重力に引かれるように、朔の身体が落ちていくような感覚に見舞われる。
「では最後にしよう。朔、君の願いは何だ?」
「私は……私は! 誰かの、いえ、皆の願いを叶えたい、たとえその先辛いことがあったとしても、一瞬でもよかったと言って欲しい!」
「その為に人の身体を失い、永い時を彷徨うとしても、か?」
「はいっ!!」
『その願い、聞き入れた――――』
朔の身体が、真っ逆さまに落ちていく。
そして、世界は、強い光に包まれる。
***
「神様、立ち上がれないなんて嘘だったんですね?」
「いや、嘘じゃないさ、何せ7つも産んだんだ、一時的に魔力不足になっても仕方がないだろう……いや、朔の魔力量は優秀だな。私の力不足まで叶えていったようだ」
「何なんですか、貴女は? ニワトリかなんかですか」
「ニワトリは一日一つしかタマゴを産まんぞ、覚えておくがいい、アメ……いや、マメ知識だ」
さらが目を覚ますと、耳元に聞こえてきたのはそんな馬鹿馬鹿しい会話だった。
「……さら、起きた?」
その視界に、きれいな銀髪が覆う。
「せ、りか? ここどこ?」
「知らない……離島の小島。塾からそんなに離れてないみたいだけど」
髪を解き、銀髪のロングヘアを風に靡かせたせりかが、手を伸ばしてくれる。その手を取って起き上がった。背中に刺さる草の感触が離れていく。
「契約は」
「切れてないわ……あの子が、叶えてくれたのね」
そう言ってせりかが指差す先には、草に覆われた小高い丘。その先にあるのは大きな樹だった。
広々とした枝の広葉樹に、見たことのない小さな星のような花が連なっている。
「……あれが、朔ちゃんの姿……?」
「強いていうならば、妖精の結合体……精霊と言うべきか? ……が、宿った『神木』だ」
後ろから、すっかり立ち上がれるようになった神が、無い胸を張って説明してくる。
「神木?」
「昔は天使や神が人柱にされたものだ。微細な魔力を持ち、人間がそれにあやかるために願いをかけてきたものだな。その魔力を操って精霊と成った朔はこれから願いを叶えるのさ」
神は勝手に深く頷く。さらはふぅん、とどちらともない返事をして、さわさわ音を立てて揺れる木枝を遠くに眺めた。木漏れ日がキレイだ。手入れされていないはずの……静かな、静かな場所なのに。
「……私みたいに人になれる?」
「今は無理だろう、まだ馴染んでいない。そのうち精霊として姿を現せるかもしれないが、それにはファミリア契約を結ぶ人間が必要だ」
そっか、とさらはうなだれる。
「……すまない、望まない結果なのは分かっていたが……誰も泣かせないのが私のポリシーだったが、難しいことだな……結局また、泣かせてしまったようだ」
その反応に、次は神がうなだれた。
「ううん、朔ちゃんが決めたことなら、私もう泣かないよ」
「……そうだな、それがきっと彼女にとっても一番だろう」
神もその目線を、朔の木に合わせて、柔く微笑んだ。
さらとせりかは顔を見合わせて頷く。
「さて、私はそろそろ天界に戻るとしよう。流石に寄り道が過ぎた。久々の下界で、懐かしい場所を見ることも出来たしな」
「そうだ、神様、ここはどこなの? 私達も帰れる?」
さらは立ち上がる。見渡す限り草原で遠くに古びた家屋がひとつあるぐらい。
潮風の匂いが辺りを覆っている。海が近いのだろうか。
「……名も無い無人島だ。君たちの街からはそう遠くないだろうから、飛んで帰れるはずだ。いや、昔は名があった。『ストルード』と言ってな、呪われた島と言われていたよ。」
「呪われた島…?」
神は隠していた羽を伸ばす。桃色の幾重にも重なった、半透明の羽根だ。
「『悪魔』の住んでいた島さ」
「……ここでの生活は、楽しかったんですか?」
神は浮かび上がりながら思わせぶりに振り返る。目線の先には古びた家屋があった。きっとあの家が……かつての『悪魔』の住処だったのだろう。
さらはその態度に仕方なく笑いながら、聞き返した。
「ああ、悪くなかった。愛していたよ」
「そっか、なら、良かった」
さらが強く頷くのを確認し、神はお付きと共に天の向こうへと消えていった。
せりかと共に寄り添いながらそれを見送って、さらは朔の樹を振り返る。
「……じゃあね、朔ちゃん。私達も帰ろう、ね、せりか」
「ええ、そうね。さら、帰り道宜しくね。帰ったらもっと、もっと話し合いましょう、これからのことも」
「うん、勿論。昔のことも、ね」