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suzuno's house

こどもはたたかえない①

2023.05.10 04:16

 春。それは気合の入る季節だと思う。

 新しいスーツに身を包んだ仲間たちが、見慣れないはずなのに何処か懐かしい雰囲気の中を闊歩する姿。同じ足取りと表情の私も尚更、気を引き締めざるを得ない。

 この独特の空気、でもどこか物憂げな、ほんのちょっぴり憂鬱な季節。そんな春が好き。何かが始まりそうで、でもそれは昨日まで居た世界が終わった証でもあって。なんだか寂しいことにワクワクしたりする。

 気が抜けてしまいそうな春めいた日であればあるだけ、妙に背筋が伸びてしまうのは何故だろう。どこからか香る『春の匂い』としか形容出来ない匂いが、その気分を更に盛り上げていた。

 今までは下ろしていた髪をひとつに纏めて、慣れない道を慣れない靴で歩き、慣れないドアを開けて、慣れない真新しい制服に袖を通し、険しい顔でロッカールームを飛び出る。

 春。新人婦警となった私は、今日から始めての街で、始めての配属につく。くすぐったいようななんとも言えない感覚に思わず俯いてしまうと、慣れないヒールの爪先には桜の花びらがくっついていた。

 この小さな港町の風はまだ冷たく、桜の時期は短いという。きっと精一杯、仕事を覚える前に、花の季節は終わってしまうだろう。

 それは、なんとなく残念だ。

 残念だから、はやく慣れたい。一瞬でも、その花を見逃さないように。

 慣れて、そして……。

 ……あれ? どうしたいんだっけ?

 ………私は、私は………?――――

 ――――大事なことを思い出しかけた所で、嫌に機械的なアラームの目覚ましに叩き起こされた。身に纏っていたのは、勿論、着慣れてくたびれたパジャマだった。

***

 春。新属の時期。署内の空気はなんとなく忙しそうで、署内はざわざわとした声に満たされていた。

「皆様、おはようございます。これからよろしくお願いします。」

 新属署員が集まったホールの真ん中に現れたのは、案内役らしい上司の一人だ。まだざわつく私達の目の前に現れて軽く挨拶をすると、それに応え、私達も『よろしくお願いします!』と声を揃えた。

 部署を一通り案内されると、私は同期となるのであろう数人と共に、上司の何人かの前に立たされる。流石に署員全員は席についていないので、何人かは外に出たり、席を外したりしているのかもしれない。これから挨拶回りになるようだ。数人ずつ、所属部門の上司と思われる人たちに呼ばれて、班に分かれていく。

 ……一気に挨拶出来ないのはちょっぴりめんどくさいな。しかし、最初の挨拶だ、気合を入れなければ!

 私は大勢の上司を目の前に、緊張のピークではあったものの、声だけは張り上げようと大きく息を吸い込んで叫びかける。

「きょっ、今日よりこの署に配属となりました、音胡と申します! これから――……」

「――……ねこ?」

「あっ?」

 しかしその言葉も、どこからともなく聞こえてきた声によって失速した。私はその言葉の何処かこの場に似合わないトーンに疑問を浮かべたが、質問自体は聞き慣れたものだったので、改めていつも通りに返事をする。失速した理由はわかっていたからだ。

「ああ、はい、音色の「ね」に、胡瓜の「胡」を「こ」と読んで『ねこ』と読みます……」

「ああ、名前なんだな、『ねこ』、俺はてっきり……」

「へ?」

 目の前に並んだ沢山の上司の中から、私の目の前に座っていた初老の男性がそう言葉を濁す。首から下げられた名札には交通総務と書かれていた。その彼の隣にいたお兄さんが無言で小脇をついて、なぜだか急いで彼を黙らせる。彼の名札には、警備と名が刻まれていた。

「いや、失敬。最近の若い者の名前は読み慣れていなくてねえ……こんなオジサンですけど、宜しくお願いしますよ」

「……? いえ、私こそよく言われるので慣れております。お気にせず!」

 私は謝る彼にそう言いながらも、その雰囲気というか、歯切れの悪さを気にしてしまう。彼を小突いたお兄さんっぽい人の態度も、なんだか心にざわついた。なんというか、いい態度ではなかったからだ。差別的というか、差別にならないように気遣うけど、結局偏見の目で見ている時の、あのちょっとイヤな空気。それに似た何かがそこにあった。

 なんだろう、さっそく新人いびりだろうか? キラキラネームで悪かったな! やるか、おうおう。

 心の中でヤンキーぶりながらも、仮にも私は新人警察署員なので、そんなお下品な言葉を発することはできなかった。ただ愛想笑いを浮かべる他になく、適当に笑ってその場を誤魔化す。……誰に似たのかは知らないが、私という署員はどうやら、自分が思っているよりも、私は負けず嫌いなようだ。

 まあ、それもそのはず。特に警官になるという事に、大した目標も所属したい課も行きたい街もなく、ただがむしゃらに頑張ります、とだけ主張していたら、こんな小さな署にあっさり受かってしまった。誰もが知る大都会から、誰も知らない田舎町で暮らす羽目になったのだ。これが根拠のないプライドでも持っていなければ、とっくに私は意気消沈しているだろう。

 そのプライドを保つためにもとにかく今は頑張るしか無い。小さな署だろうが、パワハラだろうがキラキラネームをいびられようが、電波も届かぬ田舎だろうが、負けるわけには行かないと思うしかなかった。そうしないと、明日には辞表を叩きつけて、『これだから若者は』なんて言われて終わりそうだから。

 しかし、その気合もつかの間、似たような反応が、この後の挨拶回りでも三回程繰り返されたことで、私の心は折れかけた。途中で署長室にも案内され署長にも挨拶をしたが、あろうことかその署長にまで、『ねこ、ねこねえ……。お似合いかもな、ねこ』と意味深な感想を抱かれたりもした。私はもしも、ハラスメントでこの先困ったら、誰に相談すればいいのだろうか。

 まあ、確かに人なのに「ねこ」なんて名前おかしいかもしれないけど、まさか猫が本当に配属されれて来るわけもないでしょ!? と私はツッコミたくなる。

 だけど、配属一日で怒鳴り散らして問題児になるわけにもいかないので、ここはぐっとこらえた。

「えー……音胡さんは地域課窓口の配属になるわけですが……ライ、ライは戻ってきてるか!?」

 最後に案内されたのは、私が所属するらしい課の窓口だった。地域課という名前の割には係の区分けはなく、ただ窓口があり、そこに地域課と看板が掲げられ、ポスターの貼られたカウンターと、奥に二対、申し訳程度の机があるだけだ。署というよりは村役場感を感じる。田舎町ってこんなもんなんだろうか。それとも、この町が特別なだけ?

 今まで巡った課とは雰囲気が違い、なんだか殺風景で隔離された場所だった。机の上には私の分と思しき型落ちはしているが新しいパソコンと、誰かが使っていたのであろう、よく片付いていて古びた机と、型落ちすら通り過ぎた古いパソコン。持ち物一つ一つが年代物っぽいので、お爺ちゃん署員なのか? と思ったが、呼ばれた名は妙にハイカラだった。どうやらあだ名っぽいけど。

 上司は続けて、また何度かライ、と言う人の名前をしきりに呼ぶ。すると、部屋の奥にあるロッカールーム兼給湯室から、優しげな青年の声がした。

「はっ、はーい! 今行きます!」

 お爺ちゃんじゃなかった。だとすると、きっとよっぽど物持ちのいい人に違いない。もしくは古いお下がりを押し付けられても文句を言わない人なのだろう。悪い人ではなさそうで安心したけど、なんか継ぎ接ぎだらけのケチな人だったらやだな……コピー用紙裏表で使いなさい、とか言われそう……。

 などと、私は妄想を巡らせていると、案内をしてくれたおじさん上司がぼそり言う。さっきまでの説明口調ではなくなっていたので、こっちが素の喋り方なのだろう。

「地域課は……まぁ、交番のボスみたいなもんだな。この街は小さくて平和だから、交番も数えるほどしかない。署員ではあるが、地域に根づいた活動をしてるみたいだ。今のところ、担当はお前とライ……おっと、つまり……この課の部長だけだ。詳しい仕事内容は彼から聞いてくれ。直属の上司、ってことになるな。皆からは『黒猫のライ』って呼ばれてるよ」

「あ、はい……!」

 その言葉に私は頷きながらも、要するに町の雑用課なのかな……と、新たな不安を心に浮かべていた。

 案内してくれた……どうやら別課の上司は、ひとしきり説明し終わると、その「ライ」と言う人が出て来るであろう方向をじっと眺める。

 『黒猫のライ』か……なんとも変わったあだ名だ。二つ名みたいでかっこいいが、さっきの声色や身の回りの品を見ると、そんなに格好は良さそうには思えないけど……。

 ……それにしても、遅いな、そのライさんって人は……。

「……悪いな、アイツ、ルーズなヤツじゃないんだけど、真面目すぎて準備が遅いんだよ、考えてみれば、もっと俊敏で居てくれたほうが『らしい』んだけど」

「……? いえいえ、羨ましい限りです。真面目に越したことはないですよね。」

 おじさん上司の方も、どうやらもう説明することはなくなったらしい。間を埋めるように、さっきよりかなり砕けた感じの雑談が飛び出た。私はそれに愛想で返すと、彼は妙な目線を私にくれる。

「………君、出身はこの町ではないんだな?」

「え? あっ、はい、そうです! ちょうど大ターミナルのすぐ裏に住んでたので……実は引っ越しが間に合わなくて、今日始めてこの町を歩いたんですけど、どこか懐かしい……えーと、穏やかでいい町ですよね」

 意味深な会話に私は首を傾げながらも、彼の会話にそう返事をする。都会出身として、田舎を鼻で笑っているような嫌味の雰囲気を出さずして地方を褒めるというのは、難しいな……と、多少冷や汗をかいたのだが、彼の歯切れの悪さはそこにはなかったようだ。

「なるほど……いいか新人、驚くなよ。アイツ、すごくナイーブだから」

「え?」

 ようやく奥から足音がして、「ライ」さんが近づいてくるのが分かると、彼はそう私に釘を差し、軽く肩を叩いて私の姿勢を正した。慌てて私も気をつけをする。一体何が起こるのか、とハラハラしながら。

「すいません、お待たせしました」

「遅えよ、ライ! お前に待望の部下を連れてきてやったんだから、もう少し先輩らしい所を見せろよ!」

 そう言って上司に悪態をつかれ、ペコペコ謝りながら出てきた「ライ」さんは、声色から予想したとおりの物腰の穏やかそうな青年だった。

「す、すみません……いや、もう緊張しちゃいまして。今まで部下持ったことないので、至らない点があったらごめんなさいね。地域課部長……と言っても、僕ひとりだったので、まだ下っ端なんですけど……皆にはライって呼ばれてるので、えーと、どうぞ宜しくお願いします」

「…………。」

 そうして差し出された手を、私はおずおずと握る。柔らかそうな声とか、身体? と、……手まで柔らかい。ふにっとした。

「……………新人、おい、大丈夫か? …………もしかして、苦手?」

「……あ! ああ……!! もしかして僕、驚かせてしまいましたか……? 町外の……ご出身ですか、ね……?」

 二人が私の顔を真っ青になりながら覗き込む。案内の上司がおずおずと頷いた。ライさんは更に顔を真っ青にさせ……といっても、よくわからないんだけど、明らかにオロオロし始めてしまう。物腰の柔らかさからは落ち着いて見えるが、結構パニックになりやすいヒトみたいだ。

 比べて私は、それよりも真っ青になりながら長い間フリーズし、『ようやく声を発せた』と思うぐらい後になって挨拶を絞り出すことができた。しかし、それはこの場にふさわしくない、大変失礼なご挨拶で、脳内に溢れるたった二文字を素直に唇から吐き出すことしかできなかったのだけれど。

「………………ネコ………………。」

「……はい、猫です」

 ライさんはヘニャヘニャと人の良さそうな顔で笑った。表情筋がどこだかイマイチわからないけれど、表情の作りは人間のそれだった。私は失礼にならないように必死に頭を巡らせるが、一度フリーズした頭はそんなに都合よく回らない。

「………私の、名前……も、音胡っていいます……よ、宜しくお願いします……ライ部長……」

 見当違いの言葉を吐き出し、背後で案内してくれた彼が深い溜め息を吐くのをどこか遠くで聞いていた。

***

「本当に大丈夫ですか? あ、アレルギーとかないですか? 僕、離れてたほうが良いならそうしますし、異動願も全然受理しますし……一応、毛の手入れはちゃんとしてますから!」

「いえ、本当に大丈夫です! アレルギーないです! ただ、その……大変に失礼ですが……み、見たことがなかったので……」

「あ、それは大丈夫です。慣れてますよ、街の外では確かに珍しいでしょう、『僕ら』は」

 二人きりになった地域課窓口……という名のただの席で、ライ部長は正気を取り戻した私に、改めてそう確かめた。上司だと言うわりにはですます口調で、ふんわりと笑う姿は癒し系。おっとりとした雰囲気を醸し出すライさんは、言葉通り『黒猫』だった。

 ライさんの説明によると、この街には一定数、獣人の種族が人間と共存しているのだという。

 昔、とある事故により増えたらしい『彼ら』種族は、人間との衝突や、権利、地位の差別を乗り越え、この町の住人として市民権とヒトとしての文化を得たのだそうだ。とはいえ、彼らの歴史はまだ浅く、人種差別や繁栄の規制がある為、特定地域にしか住居権がないのだという。その特定地域の一つが、人口減少の傾向にあるこの町だ。

 というわけで、都会に住んでいた私にとっては、ライさんのような獣人種は未知の存在だった。

「まあ、耳や尾があるぐらいで、僕らはそんなに『人間』と変わりません。たまに動物的な感覚を持つヒトもいますが、僕はあいにく、そういう力もないですし……なんなら、人間よりどんくさい方だと思います」

 そう言うと、ライさんは机の上に置かれたお茶を手に取り……飲むのを躊躇った。やはり駄目なのだろうか、熱いのは。

「それでも部長さんなんですよね、それってすごいと思いますよ」

「そうですか……? ここは名前こそ地域課、だけど、実際は雑用に近いんですよ。言うほどすごい立場には居ないです。係の区分もありません。まあそこら辺は追々説明していきますね。でも、やりがいはあると思います。僕はこの立ち位置、すごく好きなんですよ。他の人がやりたがらないので、出来ればこのまま異動したくないぐらいです」

 そう言ってライさんはまたやんわりと笑った。その時の私は、やっぱり雑用課なのか……と、ちょっぴりしょんぼりしていたが。

 それから、私は基礎的な事務や業務を教わりながら、街のゴミ拾いや花壇の水やり、迷子の保護……本当に雑用をこなしていった。ただ与えられた仕事を淡々と、来る者拒まずでこなす日々。二ヶ月程経過すると、何も知らなかった私でも流石に手慣れてきた。その場に馴染んでいく、というやつだ。

 そしてまた、ライさんも上司とは思えない程に、同じ仕事で私以上の働きぶりを見せていた。それは、彼なりの郷土愛なのだろうと痛いほど実感する。ライさんはこの町が本当に大好きなようだ。

 噂によると、彼は子供の頃から警察寮に顔を出していて、ご年配のOBの方たちにすると名物的というか、アイドル的というか……皆の孫のような存在だったらしい。かなり可愛がられて育てられてきたようで、どこに顔を出しても彼の昔の話を聞くことができた。

「それでなぁ、動物の癖に海で溺れそうになったとかで、暫くは川見てもビビってたんだよな?」

「ちょっと!? 何勝手に吹き込んでるんですか!! 人の部下に!」

「えー、ライ部長可愛いー!」

 仕事の合間に顔を出した地域課のOBさんからは、そんな可愛らしいライさんの思い出話を小耳にする。彼の住む家の草取りを手伝っていたライさんは、慌てて立ち上がって軍手を振り回しながら全力で恥ずかしがった。ライさんが取った雑草をほうきでかき集め、ゴミ袋にまとめていた私は、思わずその話に興奮して大声を上げてしまう。慌てて口を押さえたが、ライさんは恥ずかしそうに口を尖らせた。

「ノラならともかく、飼い猫は生来泳げないもんなんですよ……! それで波に飲まれかけたら、警戒ぐらいするのは当たり前ですっ!」

 いつも穏やかでおっとりしたライさんだったが、やはりまだ若者。家族同然に過ごした皆さんといると、少しだけ言動がフランクだ。まだですます調は抜けないものの、軽い反抗の言葉はなんだか反抗期の少年みたいで愛らしい。これがギャップ萌えというヤツだろうか。

***

「音胡さん、まだ、ニヤニヤしてますね……」

「いやぁ、部長さんの貴重なお話が沢山聞けたものですのね、ふふふ」

「あぁ……上司として示しが付きません……」

 OBさん宅をおいとまして、ライさんと私は近くの小学校前の横断歩道で交通整理をしながら、先程の思い出話にまだ花を咲かせる。ライさんは恥ずかしそうに黒い耳を震わせてしょんぼりしていた。

「……それにしても、今この町でならともかく、ライさんが子供の頃はやっぱりまだ、ライさん達は珍しい存在だったんですよね? それでもこんなに街に溶け込んでるライさんって、すごくかわいい子供だったんでしょうねー……」

 私は彼らが語る、見知らぬ昔に想いを馳せる。まだライさんの子供の頃の姿は、写真ですら見ていないので妄想だ。

「そうですね、あの当時……僕らは数は多い方でした、でも、『人間』にとって、奴隷やペットに近かった……でも、僕が生まれる少し前、その昔……とても頑張った二人の仔が居たんですよ、大人しい僕が皆さんに顔を覚えて頂けたのは、彼らと……っと、はい、渡っても大丈夫ですよー」

 ライさんは黄色い旗を上げると、小学生とハイタッチを交わしながら、子供たちを横断させる。私が子供の頃よりも、色とりどりのランドセルを背負う子供たちの一割ぐらいは尾を持っていた。

「……彼らが行った署名運動のお陰で、僕らは『動物』ではなくなったのです、…………。」

 小学生を横断させ切って、ライさんはぼそり、とそう呟く。その後に、また何か一言呟いた。私はその続きを聞き取ろうとしたけれど、私達の間に車が横切って結局続きは聞きそびれてしまった。

 ライさんも伝わらなかった事に気づいたのか、少し考えてから言い直す。恐らく、さっきとは違う表現の仕方で。

「……僕らは、小さな二匹が命がけで作った、たった一枚の紙で命拾いしたんですよ」

 その時のライさんの瞳が妙に切なくて、私はその言葉も聞き取れないふりをした。

***

 それから更に二ヶ月後、何十年に一度と報道された、猛暑日も猛暑日のくそ暑い夏の日のことだった。港町の日差しは都会のコンクリートジャングルより容赦ない。溶けそうな地面はもはや鉄板のようで、このままバーベキューでもできそうだ。

 そんな地獄じみた町の中で雑務に追われる日々を過ごしている私達の元に、立ちはだかるものがそこにはあった。

「……こんなの、私達がする仕事ですか? 刑事さんぐらいこの町にもいるんでしょう?」

「新人と『僕ら』下っ端だから、ですかね……? 刑事さんは居ますよ、元々居た方が辞めてしまわれたので、今は臨時で委託の人がひとり……今は夏休み取ってますので、どのみち居ないという結論に至りますが……」

 目の前に積まれた書類を見て、私は肩を落とす。幾ら雑用係とはいえ、こんな踏み込んだ仕事までさせられるとは思わなかった。私よりも色と毛並みのお陰で数倍暑そうなライさんも、いつもは温厚なはずの目線だけは冷ややかだ。

「どれだけ人が足りないんですか、この署は!」

「……すみません、僕が至らない限りで……」

 バサバサと書類を叩きつけながら、私は不甲斐なさを空中に叫ぶ。その手にしている書類には、『数十年前の紛失書類を見つけなさい』という、上からの無茶振りが長ったらしく記載されていた。私の叫びはそのお上様へ宛てたものだったが、勝手に責任を感じてライさんがしょんぼりしてしまう。耳が後ろにぺたんと伏せた。

「ああ、ごめんなさい、ライさんのせいじゃないですよ!! 気にしないでくださいっ! 新任署員があんなに居たのに人手不足なんて、どう考えても署の方がおかしいんですよ!」

「いえ……僕がなんでもなかんでも『はい』と言わなければ、音胡さんにもご苦労はかけずに済んだでしょう……」

「ええ、どうしたんですかライさん、ネガティブが過ぎてもはや卑屈ですよ!?」

「猫なんて所詮こんなもんですって……」

 仕事大好きなライさんにとっても、どうやらめんどくさい案件らしく、ぐったりとライさんは机に突っ伏してしまう。しっぽがだんらり、と力なく地域課のボロな床に垂れていた。

「いやいやいや、もうさっさと見つけて見返してやりましょう! いつものOBさん達の家をいつも通り回って、ついでに聞きこんじゃえば、すぐですから、ねっ? ねっ??」

 私は子供をあやすように、ライさんの椅子の周囲をぐるぐる回りながら優しく声をかける。しかし、ライさんの耳は復活しない。ボソボソとライさんは愚痴を呟き続ける。

「……休日は確実に四、五日は犠牲になりますよ……これ……ああ、今度の日曜は釣りに行こうと思って、新しい釣り竿を注文していたのに……それに炭も使い切らないと……う、うぅ……」

「泳げない割に海には行くんですね!? じゃなかった、ええと、釣り竿は逃げませんから!! 魚の保証はできませんけども!!!」

 ライさんの落ち込みようからして、かなり張り切った釣り竿を買っていたらしい。これにはご愁傷様としか言いようがない。ライさんは趣味にも真面目なようだ。

***

 そうして迎えた世間は夏休み真っ盛り。署の外に出るだけで、強い紫外線が私の半袖から伸びた腕に突き刺さった。すぐに汗が吹き出て、日焼け止めなど無意味なものに変えていく。

「って事だから、今月は帰れないかも。お父さんにも伝えておいて、じゃあね……っ、と。」

 私は実家に、お盆は帰れそうにない事と、月末の誕生日パーティもどうなるか分からない事だけを告げ、歩き慣れた道を電話の赤いボタンを押しながら歩き進める。

「音胡さん、月末がお誕生日なんですか?」

 その話を聞いていたライさんが、ゆっくりとそう聞いてきた。私は頷く。

「ええ、でも何の変哲もない、一年に一回必ず巡ってくる誕生日ですよ、仕事で潰れるぐらいなんともないです。最悪一人でコンビニケーキつつきますよ」

「いえ、申し訳ないです。二十歳って、人間にとっては節目の年なんでしょう? そんな大事な日に、音胡さん一人になんか、上司の僕がさせませんから。さっさと片付けちゃいましょうね」

 そう言うと、ライさんは頼りない腕で力持ちなポーズを決めた。その格好があまりにも似合わず、私は思わず笑いだしてしまう。

「あはは、駄目だったらライ部長、やけ酒やけ煙草に付き合ってくださいね?」

「……音胡さんはお酒、強そうですね」

「確かに、ライさんは弱そうですね……」

 そう指摘すると、先を行くライさんの尾の先がゆったりと揺れる。その意味は、尾のない私には分からないが、恐らく何らかの感情を表したものなのだろう。

「そうなんですよ、まあ僕自身は別にお酒には執着してないんですが……やはり、上の人がね」

「アルハラですねえ……」

 ライさんは深い溜め息をつきながら、柔らかく笑う。その表情からにじみ出る仕方ないなあ、という空気が、よっぽど絵に描いたような苦労人だった。真面目がすぎると言われる理由もよくわかる。彼はいい人すぎるのだ。

「音胡さんも覚悟しておいた方がいいですよ、忘年会とか……――」

 そこまで言いかけて、ライさんはとある建物の前で立ち止まった。立入禁止と書かれた黄色いテープが貼られた土地、その先にある……寮だろうか。白いコンクリートのアパートのような施設だった。

 交差点の角にあるそれは、風化したコンクリート塀で囲まれている。庭先が少し拝めるけれど、ただの風化したアパート、以外の感想は出てこない。隣は空き地、反対側の道路を挟んだ反対側は……潰れたお惣菜屋さんかな。屋根にかかっていたビニールがビリビリに風化していて、なんとか亭、みたいな店名が読めるようで読めない。

「……ライさん?」

「――……ああ、すみません」

 ライさんは一瞬だけ、見たこともないような目をして、その誰からも忘れ去られているような、空虚な建物を眺めていた。

 だから私は飲み込んだのだ。わざとライさんが避けたのであろう、少し重たい疑問を。ライさんが去年感じたであろう『二十歳』と、私が迎えるであろう『二十歳』の重さの違いを。

 ……ライさんは私になんでも話してくれる。

 けど、唯一話してくれないことがある。私はそれに今、気づいてしまった。

 ライさんは、ライさんにしかないことを……身体や種族のことを、ほとんど話してくれない。

***

 あのくそ暑い夏も、気づけばあっさりと通り過ぎ、夏風が涼風へと変化していく。

 一ヶ月に一度の、いつものOBさんの家の草取りの日課をこなしながら、私は彼に書類の事を聞いた。答えは勿論ノーだった。彼でノーと答えたOBさんは、夏から数えて十四人になる。私とライさんは、もはやあの仕事に手詰まり感を覚えていた。

 もう手当たり次第、ライさんの広い顔でコンタクトが取れるところはすべて調査しつくしてしまっている。人づてにも聞きまわって、もう町民の殆どにお声をかけてしまったと言ってもいいぐらいかもしれない。こんなにみんな仲良しの小さな町で、行方の分からないものが出るのが驚きだ。

「人づてにも聞いて貰っているんですが……誰か他に、同僚さんで連絡の取れる方はいますか? 町外の方でも構わないんですけど……」

「……居ない……と、答えるのが正しいかな」

 彼は何度か唸った後、曖昧な答えを吐き出す。私は首を傾げた。

「正しい、といいますと?」

「居ないことはないんだ。ただ……」

 そこまで言うと、彼とライさんは目配せする。ライさんも事情を知っているようだった。知らない私だけが置いてけぼりの空気だ。彼は頷いたが、ライさんはゆっくり首を左右に振る。

「……すまない、もうアテはなさそうだ」

「そうですか……」

 私は肩を落として深い溜め息をついた。身近に手がかりがありそうな空気なのに、『無い』と言われたことが、逆に残念で出たため息だった。

 ライさんとお知り合いは、たまにそうして、私抜きの話をすることがある。流石に半年も一緒にいると、仲間意識のひとつも持つようになった私にとっては、ちょっとさみしい。ライさんのプライベートはまだ、肝心な所で不透明なのが、なんだか悲しい? それとも悔しい?

 なんだかモヤモヤする。別に上司のプライベートに踏み込む必要なんか無いし、なんなら詮索してはいけないジャンルなのは解かってはいるのに……。

「すみません、署に戻る前に少し寄り道をしてもいいですか?」

「ああ、はい、どうぞ。珍しいですね」

「時々僕ひとりで寄ってたんですけど、最近時間が取れそうにないので……署長には言わないでくださいね、彼に見つかるとややこしいことになるので」

 その帰り道、ライさんはいつもと逆の道を指差して、少しトーンを下げた声でそう言った。OBさんが、「居ないことはない」と言った十五人目の話の後から、なんだかライさんの様子がおかしい。私はなんとなく、その十五人目に会いに行くのではないか、と思った。ので、頷いた。ライさんの何かを知るチャンスだと思うと、断る理由がないからだ。

「こんにちは」

「あら、ライちゃん、いらっしゃい」

 そうして数分歩き、辿り着いたのは広いお屋敷のような、幼稚園のような建物だった。紺色の屋根が玄関から突き出している姿は、小さなホテルにも見える。庭は広く、窓際には何人かご年配の方が座っている姿。その大概は車椅子で、私の立っている足元は階段ではなく、手すり付きのスロープ。

「すみません、お願いできますか」

 ライさんは顔なじみか、エプロンを身に着けた中年女性に頭を下げて、何かをお願いする。女性は待っててね~とフランクで優しい言葉を残し、長い廊下の先へと走っていった。廊下には等間隔でスライド式のドアが並んでいる。その間を埋めるのは木製の低い手すりだ。

「……ここは……老人ホーム、ですか?」

「そうですね、介護施設です。僕らは立ち入れないんですよ、衛生上……ああ、おじいちゃん、こんにちは」

 そうして先程の女性……介護士さんが連れてきたのは、車椅子に乗ったおじいちゃんだった。白髪頭はふさふさで、身体も年齢の割には締まっている。メガネこそしているものの、目も耳も悪くはなさそうだ。一見しっかりしたおじいちゃんだった。

 彼も署のOBだったのだろうか? ライさんは軽く彼に敬礼をして見せた。この年齢ならば、もしかしてかなり重鎮? 私は小さな期待を彼に託す。

 が、ライさんが彼の目の前にしゃがんだ途端、彼が口にしたのは知らない人の名前だった。発音は不自由らしく、もごもごと呟いた名前は私には聞き取れない。

 でも、それは確実にライさんの名ではなさそうだった。私達、地域課は出歩く事が多いので、署内で首から下げる名札が最初から無い。身分証明は警察手帳で行うことになっていた。なので、考えてみたら私はライさんの本名を知らない。だが、ライさんの反応から、『またか』という空気が見て取れる。そして、その名前は二人分の名前っぽかった。確実にライさんが呼ばれているとは、思えなかったのだ。

「……。『彼ら』も元気ですよ、だから心配などありませんよ」

「ごえんな、ほおって、おいえ」

 ――ごめんな、放って置いて。

「気にしてませんよ、おじいちゃん。だから急がなくていいんです」

「すう、かえって、くるかあ」

 ――すぐ、帰ってくるから。

 そう言って、おじいちゃんはライさんの頭を撫でた。ぐりぐりとあやすように、小さな子供のように。幼稚園児にする父親のように。

「ええ、良かったねえ、おじいちゃん、息子さん会いに来てくれて」

「……○✕※、にいちゃんのいうこと……☆○□……いいこに、して……」

 ああ、だめだ。会話が成立しない。それだけは私にもわかった。最後の言葉は殆ど支離滅裂で、私には理解すら出来ない。ライさんは先程より見るからに元気をなくして、ふぅ、と肩が下がる程度にため息をついた。

「……元気そうで良かったです、まだ僕はお仕事の最中なので、これで失礼しますね」

 絶対そうは思っていなさそうなライさんは、その言葉で彼の言葉を殆ど遮るように、頭を下げながらドアの外へと出ていってしまう。介護士さんも困ったように、でもわかりきった様子でおじいちゃんの車椅子を押しながら立ち去っていく。

 私も慌てて頭を下げて、ライさんのしょげた尻尾を追っかけた。

***

 その帰り、ライさんが「申し訳ないものを見せてしまったお詫びに」と言って、夕飯を奢ってくれた。私は別に気にしてないですよ、と言いつつも、上司の誘いを断るほど無粋な部下ではない。ライさんの元気のなさが一段と酷くなったのも気になるし、ここで断ってまた落ち込ませるのも可哀想だ。

 ここはお言葉に甘えて、二人でファミレスに入る。夕飯時のレストランはそれなりに騒がしく、その中にはライさんと同じ種族のヒトも混じって、料理を楽しんでいた。その姿は犬だったり、馬だったり、ライさんと同じ猫の耳を持つ者もいるけれど、その顔色は三毛だったり。

 仕事中に会うライさんの知り合いは人間が多いので、私はこの町に来て初めてしっかりと生活の中にいる彼らを見た。こうして見れば別に姿以外、ライさん達におかしな所なんてなにもない。私達と同じ、社会の歯車の中でそれぞれに生きている。それだけだ。

「ライさん、ご兄弟がいるんですか?」

 注文したハンバーグをつつきながら、私は昼間の事を思い出してそう呟いた。あのおじいちゃんが『にいちゃんのいうこと……』と、呟いたのが気になっていたのと、単純にライさんに、同種族のお友達が居るかどうかを知りたかった、という理由で、安易に質問してしまった。

 が、ライさんは余計にしょんぼりして返事をする。余計なことを言ってしまった、と思ったが遅かったみたいだ。

「いや、居ないですよ。彼は昔の家族と、僕の区別がついていないんです」

「……そうでしたか……」

 ライさんは配膳されてきた料理を横目に、店員さんにゆっくり頭を下げてフォークを手に取る。が、まだ食事には手をつけなかった。そわそわとフォークの先を泳がせて、そしてぼそり、と言葉を漏らした。

「彼は、僕の父なんですよ」

「えっ?」

「『育ての』がつきますが……僕は生みの親を覚えていません。僕は、お恥ずかしながら捨て猫だった所を、彼に助けて貰った身で……」

 ライさんはそう言うと、一度だけお冷に口を付けて、また続ける。指先はテーブルの上を、静かにトントン、と小突いていた。

「……とても、立派な警官だったそうです。勤勉で、努力家で……僕と出会った時にはもう、身も心もボロボロだった程に。大変仕事熱心な人物だと聞きました。前の家族の為に働いた彼は、仕事を優先したが故に前の家族とすれ違いを起こして、家族を失いました。僕と出会った後復帰して、僕もその背中を追いかけて警察学校に入って………本当に、数年前まではしっかりしてたんです」

「それっていつ、誰から……?」

 ただの老人のあまりにも重たい過去に、私の箸も止まる。その過去を、子供であったライさんは、どこから知り得たのだろうか。

「いつも庭掃除を頼んでくれるおじいさんが居ますよね、彼から聞きました。今日も午前にお伺いしたあの方……父の上司だったんですよ。年齢もあの方の方が上です」

「……でも、明らかに……老いが……」

 一見して、いや、しなくとも、老化が進んでいるのはあのおじいちゃんの方だ。朝に伺った彼は、まだ車椅子どころか杖だって使っていない。庭掃除を手伝っているのは、しゃがむのが少しだけ辛くなった、とライさんに愚痴をこぼしたら、ライさんの方から来てくれたのが最初だと言っていた。自分でできないこともないんだけどな、仕事を増やすんじゃないよ、と笑っていた姿すら思い出す。

「そうなんです……どんどん進行していって、もう僕のことも分からない。いろんな診断名が付いて、できる治療はすべて試したのですが、結局直接的な原因も分からないまま……精神的疲労が脳にダメージを与えた、という、ふわっとした理由が最終診断でした。恐らく、ずっと、もう……僕の事は認識できないでしょう」

 ライさんの黒い耳がへたん、と横に伏せる。ライさんは表情を変えなかったけれど、その仕草が何よりライさんの心を表していた。

「……書類の件、あと関連する人物が思い当たるとすれば、僕としてはもう、父だけなんです……でも、ダメそうですね。いえ、分かってたんです……ただ、第三者に……音胡さんから見てどうかなって思ったんですが……今日は特に酷かった。会話も成立しなかったですから難しいですね」

 そう言うと、ライさんは悲しげに笑った。その泣きそうな顔を見ると、私は全く笑えない。なんだかほうっておけない気持ちになる。ライさんは多分、今までもそうして、自分の事や、あのおじいちゃんの事を、仕方ない、こんな身体だから、こんな存在だから、こんな病気だから、って笑って潰してきたのかもしれない。

 だから、彼は語らないのだ。自分のことを。

「……すみません、気分のいい話ではないですよね。今日はご迷惑をおかけしました、ここは僕のおごりですので、飲み物やデザートも好きなものを頼んで――――」

「っ!! 部長! なんでそんな事言うんですか!!」

「へっ?」

 そんな悲しすぎる笑顔を見ていると、私の知らないどこかに炎が灯る。私はテーブルを叩きながら、気がつけば叫び出していた。ライさんの目が驚きから、キュッ、と細くなる。

「今日は、ってことは多少会話が成立することもあるんですよね?」

「えっ、ああ、まあ……でも僕の事は認識しない日の方が少ないですし……」

「じゃあ、昔の話はできるんですよね?」

「あっ、はい……?」

 突然怒鳴りだした私を見て、ライさんはうろたえ出した。周りの客も、急に叫び出す私に目を丸くして顔をガン見してくるが、私は構わず続ける。今言わなければ、多分伝わらないと思ったからだ。

「ならば、もしかしたら思い出すこともあるし、上手く行けば当時の記憶を、当時のまま今あったように話してくれたりもするって事じゃないですか!? そんな簡単に、一日ぐらいで無理とか言わないでくださいよ! ごめんなさいなんて言わないでくださいよ!!」

 ライさんは私の勢いに押され、は、はいぃ……。と完全に萎縮した返事を返した。その耳と尻尾はプルプル震えていて、完全に犬にでも追い込まれた子猫の姿である。

 私はその姿を見て、急にかわいそうになってしまって、冷静になった。

「あ、す、すいません、つい……声デカいのに叫んじゃって……」

「いえ、凄いですね、音胡さんは……すみま……いえ、ありがとうございます。僕、もう少し頑張ってみますね」

 そう言うと、ライさんはようやく、少し冷めた定食の味噌汁に口をつけたのだった。

***

 二人でデザートまで食べきった所で、私は深い溜め息をついた。

 ライさんはトイレに行っていて、大分夜も深くなってきたお陰でお客さんもまばら、すっかり静かになった店内に、煙を吐き出す。

 ……今日のこの町のレストランには、分煙という文化が無い。科学が発達し空調設備が良くなったので、社会が特に煙草を気にしなくなって数年が経過した結果、分煙という言葉は死語になりつつあった。

 ライさんはトイレから戻ってくると、お、という小さな声を漏らす。

「やっぱり、煙草吸うようになったんですね、お酒飲まなくて大丈夫でした?」

「あっ、すみません、断りもなく……! いえ、もう十分ご馳走になりましたよ、申し訳ないぐらいです。これで私がお酒なんか飲んで大声でも出し始めたら、またさっきみたいに大変なことになっちゃいますよ。私、吹奏楽やってたので、うるさいってよく言われるので……」

 とはいえ、流石に真正面の人に煙の配慮をしないのは話が違う。私は慌てて横を向いた。

「いえいえ、大丈夫ですよ。遠慮なさらなくても……」

 そう言いながら席についたライさんは、上着のポケットからピルケースを取り出し、何かの薬を飲む。白い錠剤が三錠、顎と牙の隙間から見えた。

「……ほ、本当に大丈夫でした?」

 私は慌てて煙草をねじ消す。ライさんは、『勿体無いですよ、最近の煙草って高いんでしょう?』と、唇だけで呟いてから、薬を飲みきった。

「……いえいえ、薬さえ切らしてなければ、むしろ普通より健康でいられますよ。僕、昔ぎゃく……いえ、子供の頃に高熱を出して、ヒトより少し弱いだけです、お気にせず」

「……すごく、気になる言葉を言いかけませんでしたか? 部長、たまにははっきり言わないとダメですよ?」

 私はじぃっとライさんを見つめるが、ライさんは耳を伏せながら目を逸した。今さっき、黙ってたことに対してお説教を食らったばかりのライさんは、また困ったように笑う。

「それは、猫界では戦闘態勢の仕草ですよ」

「人間界では疑いの目って名前なんですよ?」

 軽口を含めて言い返す。ライさんはやっぱり、へらっと笑うだけだった。

「さあ、明日も早いです、登校見守りが入ってますから。もう帰りましょう、送りますよ。僕、夜目は効くんで」

 そう言って、伝票を持って立ち上がるライさんの尻尾は、まだ力なく下を向いている。私は、なかなかに猫らしく本性を見せない彼の性格に気づきつつあった。

 そして、それを見ているとなんだかほっとけない自分も居る。同時に、何かを思い出しそうなのに、思い出せない。でも遠い昔、同じ気持ちを感じた……デジャヴが私を支配していた。

 それから暫く経過して、ライさんと私は別々の仕事をする日も増えていった。秋風が冷たく、日に日に、冬の足音も聞こえてくる季節に変わっていく。本当に、今年は時間が過ぎるのが早い。気がつけばきっと、また春が来て、それもあっという間に過ぎるのだろう。

 私達に何故別々の仕事が増えてきたかというと、私が大体の仕事を覚えたことと、ライさんに部長としての仕事が増えたのをきっかけとして、手分けして仕事をこなすようにしたからだ。

 その中で、例の書類の案件も半分こになっていた。とはいえ、手がかりは未だになく、近所の人に用事がてら聞き込みを重ねる日々。指先に触れるか触れないかぐらいの、ふんわりとした情報を追いかけ続けていた。誰がいつどの部署にいた、とか、重要書類が隠されるような事件があったかどうか、とか。

 でも答えはやはり出ない。最終的には有耶無耶になってしまう。

 そもそも消えた書類の番号は知っているけれど、私にはその中身がどういうものかも知らない。正直調べようがなかった。

 それでもただ、私は闇雲に聞き重ねる。自分がどうして、こんなにもこの案件を気にかけるのか、何故頑張っているのかの答えも知りたくて、ただ走り回った。

 そして、時にはライさんの目を盗み、私はあのおじいちゃんにも会いに行く。

「おじいちゃん、おはようございます」

「……誰だ?……」

 今日は調子が良かったのか、彼ははっきりと私の顔を覗いて、誰だか分からないことを分かってくれた。人間である私は施設内にも入れるので、部屋でゆっくり話すことができる。これはライさんには出来ないこと。上司の出来ない捜査をする、部下の仕事、そう言い聞かせて、勝手に相手の家庭事情に踏み込んだ罪悪感を押し込めて、彼の話に耳を傾ける。

 最初は良かった。何となく話をして、世間話から家庭の話に持っていこうとする。『息子さんとか居るんですか?』と聞くと、『いや、居ないよ。離婚した嫁との間に娘はいるけどな』と答えた。

 どうやら、今日の彼は、ライさんの居る世界には居ないようだ。私は怪しまれないよう、そこで子供の話は打ち切って、また世間話に戻る。世間話は三、四分ぐらい続いた。しかし、問題はここからだった。

 何度世間話を繰り返しても、数分後には彼は必ずこう言うのだ。

「すまない……俺にはやることがあるんだ……仕事に戻らないと……」

 何度宥めて引き止めても、数分後には必ず、彼は『仕事』に戻ろうとする。仕事熱心という話は本当らしい。にしても、そこまで急ぐ必要があるのだろうか。

「早く終わらせて帰らないと、あいつらが待ってるんだ……」

「あいつら?」

「見なかったか? あの二匹を……」

『二匹』……?

 しばらくそんな話を続けた後、施設を後にした私の耳に残ったのは、そのワードだった。

 あいつら、二匹、待ってる。

 ライさんの話も頭を巡っていく。最初の家族、すれ違いで失った。その後のライさんの子供の頃。昔はペット扱いだったと言う、ライさん達の種族。二『匹』のあいつら。彼が仕事で守ろうとして、失った家族。

『――とても頑張った二人の仔が居たんですよ――』

 ライさんに前に聞いた言葉が耳の中で蘇って、一瞬だけ嫌な予感がした。そういえばあのとき、どうしてライさんが生まれる前のことを、何故ライさんがまるで見てきた風に言えたのか。

 私は急に襲ってきた不安な思いを振り切って、署に戻る道を歩く。足が勝手に速くなっていく。鼓動がうるさいぐらい速まっていく。頭の回転も、信じれられないぐらい速くなって、バラバラだったものが繋がっていく気がする。

 そして、走れば走るほど、私は嫌な予感に背中を押されていった。動くことで余計に頭は周り、足はまた速まる。

「まさかね、そんなに世間狭くないよね……」

『――僕らは、小さな二匹が命がけで作ったたった一枚の紙で命拾いしたんですよ――』

 また、ライさんのいつかの言葉が頭をよぎる。彼らは、ライさんのお父さんの前の家族は、二匹は、確かに署名で、書類の一枚でライさん達を救った。

 でも、それと引き換えるように、ライさんのお父さんは二匹を失った。二匹は命をかけないと、他を救えなかった。彼ら、尾を持つ者が住む世界は、私たちと同じ場所にあったとしても「そう」なのだ。

 もしも、もしも。

 その書類とやらが、ライさん本人の存在に関係するものだとしたら?

 ライさん達、動物の身体を持つヒト達に対する情報だとしたら?

 それが本当にライさんのお父さんが持っていたものだとしたら?

 ライさんのお父さんは、何故それを手に入れた?

 どこからどうやって、どんな目的で?

 何と、何を引き換えに?

 そして、今、誰がそれを知って手に入れようとしているんだろう?

 その書類から、何と何を変えようとしているのだろう?

 たとえば、たとえばライさんが…………

 ――その事実を知ったとして、ライさんは耐えられるのだろうか?――

 だって

 彼らは、

 ライさん達は紙切れ一枚で、その生死さえも、世界に手綱を握られたままだ。

 死にかけた子供が訴えて初めて、生きることを許されるような世界に。

「……ライさんっ……!」

 私は気づくと走り出していた。それを、ライさんが見つけてしまったらいけない。ライさんもきっと、あのおじいちゃんのように、身も心もボロボロになってしまう。優しくて人が良くて、ちょっと臆病で悩みやすくて、諦めの早い彼が、壊れてしまうかもしれない。

 足を進めるうちに、私は知っては行けないことに気づいてしまった、ということに気付かされてしまった。明らかにおかしい。背後に感じる気配が、只者ではない事を知らせてくる。おかしいな、私は人間なのに。こんなにも野生の勘に突き動かされるものだろうか。

「ライさんっ!!」

『音胡さん、どうかされましたか?』

 私はおもむろに携帯を取り出すと、ライさんに繋げる。走りながら、街の中をぐるぐると巡りながら。幸い、ライさんとの仕事の中で、私はこの小さな町の広い広い路地裏を、裏の裏まで知り得ていた。まるで子猫のテリトリーのように、奥の奥まで知り尽くしていた。

「……誰かに、つけられてます。書類の件の情報集めをしていたので、これから署に戻るつもりだったのですが……気の所為であって欲しいんですけど、そうじゃないみたいです。すみません、後で説明したい所ですが、ちょっとむずかしい話なんです!」

「っ、今、どこですか? 話は後でいいです、とりあえずどこかで合流しましょう」

 私は手短に番地だけを伝えると、通話を切った。大丈夫、地の利は私と、それを教えてくれたライさんにある。この町で過ごし、この町を愛しているライさんにあるはずだ。

 だけど、タイミングがタイミングだからこそ、嫌な予感が加速する。

 私が施設を出て、まさかね、と思った瞬間。おじいちゃんと話していた部屋の窓の横を通り過ぎた瞬間。背後に感じる足音が増えたのだ。

 私、警官だよ? 入ってまだ半年の新人警官で、仕事内容なんて殆ど雑用係だよ? なんでつけられてるの? 探偵みたいな真似しなきゃならないの?

 全力で駆け出しながら、頭の中はそんな疑問ばかり巡っていく。私とライさんは、予想より遥かに危ない橋を渡っていたのではないか。知らないうちに、導かれるように。考えてみればおかしい。中身も場所も知らない書類を探せ、なんて命令がある日、机にポンと乗っかっているんだから。

 ――きっと、これは誰かの陰謀だ。

 たとえば、私たちに描かれたのはこんなシナリオ。

 私たちに依頼が来たこと自体は嘘。ライさんはおじいちゃんの記憶が使い物にならないことを知ってるから。彼が持っているであろうものを、ライさんは確かめようとはしない。ライさんはもう諦めているから。だから、ライさんのお父さんが作った書類の在り処を、ライさんは知ることが出来ない。彼が昔のことを言えないと思い込んでいるライさんは、彼の言葉を信じない。だから、本当の答えにたどり着かない。

 ただ、後々にライさんが書類を知らなかった事実があると、その書類は機能しない。だから、探させた上で、ライさんがライさんの意志で『それを見なかった』事実を作らなければいけない。

 でも、私が足を突っ込んだせいで、ライさんはヒントを知ってしまう。もしかしたら、私の言葉をきっかけに彼の記憶が戻る日があるかもしれない。そうしたら、ライさんは書類の在り処に気づいてしまう。

 ライさんに知られてはまずいもののヒントを知ってしまう。

 ライさんが見てはいけない書類の内容を知ってしまう。

 『あの二匹』の意志を知っているライさんが、反対するであろうものを知ってしまう。ライさん達が助かったことが、紙切れたったひとつで無駄になってしまう。

「っ、ライさんに会わせちゃダメだ!」

 私は、元の来た道を戻るしかなかった。

 ごめん、ライさん。私は、部下失格かもしれません。

***

 遅かった。

 どうにか耳と足をフル回転させて、彼女が向かっている方向へと走る。

 走る。身体ばかり大人の僕には厄介なことだった。こんな足、役に立ちやしない。耳だって、ただただ、気持ちがバレるだけ。嘘が下手くそな僕には、役に立ちやしない。ちょっと聴力がいいだけなら、他にも沢山居るから。

 肺が重くて、苦しくなる。

 どうして、どうして、どうしていつも、僕はいまいち役に立たないんだ!

 ようやく彼女を見つけた時、彼女が告げた番地とはまるで真逆の方向に彼女は倒れていた。パトカーと救急車が僕の横を通り抜けて、すぐにドアが開く。

 道端に倒れている音胡さんを、救急隊員と近所の交番の巡査長が駆け寄って持ち上げたのが見えた。意識は無いようだ。怪我もしているようで、流石に他人よりは効く鼻が鉄の匂いを僕に伝える。

 もう疲れて走れず、少し遠い場所から息を切らしてその景色を眺めていた僕に気づいたのは、パトカーの後部座席から出てきた署長だった。

「れ、い……うっ! ……おっと! 大丈夫か?」

「署長っ……うっ……う、あ……っ、ゲホッ、はぁっ、はぁ……はぁ……ね、こさん、は……?」

 署長は、僕が子供の頃から知っている。僕は彼の姿を見ると身体の力が抜けてしまい、思わず倒れ込む。ギリギリで受け止められて圧迫された胸からは、ひどい咳しか出なかった。ライ、というあだ名が浸透した今、僕の本名を呼ぶのは彼だけだ。父だって、もう僕の名前は忘れているから。

「彼女なら大丈夫だ、すぐに病院に行く。 ……お前の薬は?」

「胸、ぽけっ、と……」

 煙草の煙が平気なんて嘘だ。確かにあの錠剤で症状は抑えられるけど。僕の身体は、全力で走るなんてもってのほかだった。飲酒だって本当は止められてる。皆知ってる。酒の席に呼ばれたことなんかない。

 署長は僕の上着からスプレーの薬を取り出すと、まるで自分が悪いかのように、申し訳なさそうに眉を寄せた。潤んだ視界でも分かるぐらい、僕を見る目は痛々しそうな、可哀想な者を見る目だった。

「すみま、せ」

「………お前は悪くない。すまなかった、私が上からの変な依頼を許してしまったせいだ。お前の性格と、身体の事を考えずに……音胡くんの素直さも考えずに……君たちに重たい仕事を流してしまった、私の責任だ」

 口にあてがわれた薬のトリガーをカシャン、と引かれると、変に動き始めた呼吸と鼓動が落ち着いていく。と、同時に、意識が遠のいていく感覚に襲われた。普段なら気を失ってしまうけど、此処で僕は倒れるわけにはいかない。倒れる権利なんかない。可哀想になんか思われたくない。

「ちがい、ます、僕、僕が……彼女に無茶を、させなければ……あれは、僕の仕事だった! 彼女には関係のないものです……!」

「……もうやめろ、お前まで父親やあの二匹みたいになって欲しくないんだ。だから私は反対したんだ、お前が警官になることなんか……彼だって、お前の父親だって望んでなかった」

 僕は署長の腕にしがみつきながら、動かない口で必死に噛み付くように弁解した。でも、それもすぐ言い返されてしまう。彼が反対することはもうわかりきっている。僕は誰より彼を知っていた。

 彼が、僕が警官になることを望んでいなかったことも知っている。

「これは僕が選んだことです、今更何を言うんですか、やはり猫には警官が出来なくて、犬が良かったなんて言いますか!?」

「いいや、違う、でも今からでも遅くない。犬とか猫とか人間とかどうでもいい。ただ、お前には向いていない。お前も父親のようになりたいのか?」

「意味によります。僕は彼のようになりたくて警察になったし、なりたくないから貴方のいる署に来たんです……! それは! ……それは……選択ミス、だ、だったので……っ、しょ、うか………」

 ああ、また役立たずだ。これ以上、言い返せなくなって、声が涙に濡れていくのが、冷静でなくとも分かる。いつの間にか、降ってきた雨が、嫌いな水が、僕の制服を重く濡らしていった。

「……『兄さん』は、いつも、っ……いつもそうやって……父の言葉しか、信じない………っ、僕の……気持ちなんて、分かってすらくれ、な、い………」

 秋先の雨はひどく冷たく、数メートル先の赤い水たまりを滲ませていく。

***

 散々泣きわめいた後、結局僕は気を失ったらしい。酸欠を起こしたそうだ。

 音胡さんを追いかける前に薬を飲んでいれば、多少は発作を起こさずに済んだはずなんだけど、偶然にもその寸前で音胡さんから電話が来て、僕はそのまま走り出していた。

 新人の頃も一度、それで犯人を逃したことがある。それでクビになりかけていた所を、雑用を引き受ける事を条件に、今の署に配属になった。父が退職した今、地元で働くのは本当は嫌だったけれど、意地っ張りな僕は血は繋がってなくとも兄とも等しい先輩に対して恩を返さねばと思ってしまった。その、署長でもある我が兄が反対することも知っていて、だ。

 しかしこれがどうだ。来たばかりの女の子を傷つけて、彼女は今昏睡状態で、集中治療室。僕は自宅謹慎で、あんなに欲しかった休みに、釣り竿なんか握れるはずもない。

「………」

 結局、音胡さんを襲った人物の正体は分からなかった。

 音胡さんの持つ携帯から、電話をする前にどこに居たかは調べがついていて、その最後の記録は父の居る施設だ、ということだけ聞かされている。

 僕は被っていた布団から這い出すと、玄関に立つ。玄関横にある姿鏡から、ボサボサの黒猫がこちらを見ていた。

 昨日泣きわめいた目はすっかり腫れていて、誰が見ても泣いた顔だった。膝はギシギシしてるし、まだ喉に違和感もある。夜中は熱を出していた。身体の筋肉が強張っているような、妙なだるさが身体を支配している。

「……なんで、僕は……猫に生まれたんでしょうね……」

 本当の、人だったら、あるいは……。

 僕は恐ろしい思いを振り切って、靴を履いた。

 いつか、靴を買ってくれたことを思い出した。

***

「おじいちゃん、こんにちは」

「……おう」

 久々に来たような気がする。父は庭先で日向ぼっこをしていたので、僕は庭先にお邪魔した。玄関じゃない所で話すのは初めてで、制服を着ていない僕を見て看護士さんも察したのか、席を外してくれた。

 今日は会話が成立するらしい、父ははっきりと僕の顔を見て、敬礼じみた角度で腕を上げた。

 それは、昔……僕が彼に憧れていた、まだ走り回れる程に小さな子供だった頃、挨拶代わりだったハンドサインだ。僕はそれを見るだけで、目が潤んだ。どうやら昨日から涙腺が壊れでもしたらしい。

「どうした?」

「……なんでもないですよ」

 さすがにボケてても分かるよね。そうだよね、分かりやすいよね。耳伏せてるし目腫れてるしボッサボサだし。

「昨日、ここに女の子が来ましたか?」

「……きのう? きのうっていつだ?」

 そうだよね。覚えているわけがない。心の中に湧く答えは、ひどく冷めきっていた。でも、僕の口は、まるで操られたように、別の言葉をするすると喋る。誰に似たのやら、肝心な時に限って素直に感情が出せず、勝手に取り繕ってしまう。損な性格だと、自分でも思うことがあった。

 例えば、今みたいに。

「最近、何をしてるんだろうって思って、どうですか? 最近モテてます?」

「モテてるわけねーだろ」

 僕の口からは小さな笑いが漏れた。目は、また涙を生む。会話が成立するだけで、冗談を言い合えるだけで、こんなにも嬉しいのに悲しい。

 僕、何してるんだろう。

 彼、今何考えてるんだろう。

 聞くのが怖い。

「なあ、本当にどうかしたのか、お前」

「よく、分かりますね、あはは」

 だから、分かりやすいんだよ……。

 心の中の僕は、また僕を責める。僕は下唇を噛んだ。

「お前は落ち込んでる時、ヒゲが下がるんだよ、隠してるつもりだろうけどバレバレ」

「………え?」

「耳とか尻尾は誤魔化せても、それだけは誤魔化せないぞ、詰めが甘いな」

 そうだ、それ、よく言ってた。

 え、今の、空耳とかじゃないよね。

 思わず僕の耳がピクン、と立った。

「……おじいちゃん」

 今日は、完全に記憶がある。

 そのことに気づいた瞬間、僕は何もかもを抑えられなくなった。表の僕を操る糸が、ブチン、と突如切られたように。

 知らない人になってしまった僕の父が、育ての親が、かつての憧れの人がそこにいる。形だけじゃない。この人は今、好きだった人の抜け殻じゃない。それは、僕を余計弱虫にした。

「っ、うっ……あぁ……! うっ、あぁぁ……おじいちゃん……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 本当は笑ってやりたい。会う時はそう決めてた。

 でも、無理だ。僕は、

「おじいちゃん、」

 いや、

「おじちゃん、ごめんなさい……!」

 警察を目指そうと決めたとき、正した言葉が壊れていく。彼のことをそう呼んでいた事すら忘れていた。忘れたフリをしていた。

「僕は弱虫だ、あの、何も出来ない子猫のままだ……! 後輩一人守れない弱虫だ……! 貴方にも、子うさぎ達にも……顔向けできない……貴方と、彼らが残したものを壊してしまった、僕は警官失格のただのいくじなしの子供だ……! どうして、僕はいつも、いつもいつもいつも! 役立たずで終わってしまう! ペットでも警官でも上司でも、なにひとつうまくできやしない!」

 そう言って、僕は彼の車椅子にすがりついた。揺れる車椅子の上で、彼は「おおう」と驚きに声を上げる。

「なあ、お前の思う正義ってなんだ?」

「……えっ?」

 僕の殆ど独り言のような叫びですら、今の彼は聞き取ってくれた。僕の言葉を、どことなく痛々しそうな笑顔で聞いていた彼は、少し間を置いてから静かに質問を返す。その質問の意図が解らず、僕はとっさに聞き返してしまった。

「俺が思ってた正義は、あいつらを殺したよ」

 彼はそう寂しそうに言うと、僕の頬に触れた。そのまま、ワシワシと撫でる。力強い腕は変わらない。車椅子生活を送っていても、明日も昨日も解らなくなっても変わらなかった。

「……そしてお前が来て、あいつらの正義は叶った。ようやく形になった。俺にお前という新たな家族が出来て、俺は間違っていたことをお前から教えて貰った。……ああ、気づかないうちに、大きくなったなぁ、レイル……」

「っ……おじちゃん……っ」

 レイル。それは、僕の名前。もう呼ぶ人は少なくなった、僕が『生みの親』から知り得たたった一つのもの。育ての親である彼が、一番、沢山、たくさん呼んでくれた名前。彼の声で、沢山の人の耳に届いた名前。

 海で溺れかけたことも、身体が弱いことも、呼吸のことも、本当なら彼しか知らなかった事。それを、彼が自慢げに話していた過去があるからこそ、臆病で大人しく、口下手だった僕は、あの元上司や、署長や、町の人に、何年も経った今だって慕って、知ってもらえている。

 まだどうしようもない子供だった僕に叩きつけられた現実を塗り替えて、種族の差を初めて忘れさせてくれた人。

「何があったか知らねえけどよ、お前に身体や動物の強さがなくたって、お前には人情と勇気がある。人を想って生きることができる。俺みたいに、大事な事を見過ごして、大事なものを失うなんて、優しいお前は絶対にしないよ。間違いには後からだって気付ける。一度ぐらいで諦めるな。お前が信じる正義を貫いて生じた結果を、俺は弱虫でいくじなしの子供のしたことだなんて責めたりしねえし、できねえよ。お前が導いてくれて、あの寮に帰れたとき、そう教えてくれたのはお前自身だ。だから、お前は今のお前に自信を持て……俺はお前を変えてやれないが、変わらないお前が大好きだ」

 そう言って彼は、僕を軽く抱きしめた。子猫の時、いつも抱えてくれたその手で、その時のように。

「っ、あぁ……っ……うわぁぁ…………っ!」

「泣くなよ、本当にお前は泣き虫だな……」

 僕はその優しさに、今度こそ涙腺が壊れたかと思った。彼はまるで呆れたかのように、仕方なく笑って僕の背をトントンと叩く。

「今まで言ってやれなかったが、お前は立派な警官になったさ。もしもお前が『大人』じゃないんだとしたら、俺にとってのお前は、いつだって『俺の自慢の子供』だ。それも、勇敢な、な……。お前は双子の残した希望を壊してなんかいない。身体よりも種よりも、誇るべき心がある。お前の気持ちを、生きてるうちは殺しちゃダメだ。お前の時間は人よりそう長くはないが、俺やあいつらよりずっと、沢山の時間がある。一つ一つ、お前らしく大事にして欲しいんだ……どうだ、答えは見つかったか?」

 僕は強く頷いた。双子が僕に残してくれたものは、僕自身の何かを変えるような奇跡ではない。それでも、死、という最悪のエンディングを迎えなければ、変えられないような世界を変えてくれたんだ。彼と僕が出会うという、ほんの少しの、希望にも満たない、それだけの世界を。戦いに、戦い抜いた勇敢な仔として。

 そうして僕にも世界を変えるチャンスが巡ってきた。勇敢な彼の子として、彼と双子、これから出会う、『尾を持つ者』と『そうでない者』の為にしなければいけないこと。

「おじちゃん、僕は……もう行きますね」

「おう」

 彼はいつかそうしてくれたように、僕の涙を拭った。

***

「ご迷惑をおかけしました」

「音胡さん、良かったです、本当に良かったです……う、うわーーー!」

「どっ……!? ああぁ、泣かないでくださいよライさん!!」

 目が覚めたら病院にいた。どうやら私は追手の反撃に遭い、脇腹を刺されたらしい。顔は見なかったが、中年男性だった記憶はある。それ以外はあまりにとっさな事で記憶になかった。捜査上も、それ以上の調べはついていないそうだ。

 幸い傷は深くはなかったが、三針縫合。予想以上の失血による貧血&ビビった私は気絶。二日程寝込んでいたらしい。音胡だけに。ってやかましいわ。

 私が目を覚ました、という連絡を受けてやってきたライさんに頭を下げると、ライさんは喜びのあまり病室でギャン泣きしてしまった。ので、私は寝起き早々、上司をなだめる羽目になった。

「って、ライさん私服ですね、今日……平日ですよね?」

「あぁ……ぐすっ、僕も自宅謹慎……というか、療養になってて……」

「えっ!? うわ、すいません……私が面倒を招いたせいで……って、療養? ……ライさん、今日外に出てきて大丈夫でした?」

 ライさんは照れくさそうに頭を掻く。ちなみに私は精密過ぎる検査の結果、怪我と気絶以外の異常はなかった。集中治療室にまで入れられていたとは思えない速さで、もう午後には退院予定だ。

「はは、全力ダッシュしたのが身体に障ったみたいです。まだめまいはしますけど、大丈夫でしょう。」

「わ、笑い事じゃない……よく警察受かりましたね? ……代わりに入院しますか?」 

 涙を拭きながらほんわかと笑うライさんは、冗談にならないセリフを吐き出す。私は己が座っているベッドを指差すと、ライさんはご勘弁を、と手を振ってみせた。病院は嫌いだそうだ。

「すみません、見栄を張ってましたが……色々と隠していたことをまずは謝りたいんです。本当の事をお話しますね」

 ライさんはそう言うと、ベッドサイドの椅子を引いて窓際に座る。ベッドの上から同じ目線で見るライさんは、その落ち着いた姿からは想像できないほどに、少年のような純粋な瞳をしているのだった。その眼を真っ赤に泣き腫らしていることを除けば。

「僕は元々、お金持ちの家のペットでした。そこで虐待を受け、捨てられた所を父に拾われました。父は既に、僕ら種族の子と死別していて、また失う恐怖から僕を飼えないと判断し、僕の貰い手を募りました。しかし、当時、僕のような動物の身体を持つ者は今よりもっと珍しくない存在でしたので、貰い手はつきませんでした。」

 ライさんは思っていることすべてを、素直に語ってくれた。時々懐かしそうに、時には嬉しそうに、悲しそうに。

「ペットとして価値もなく、行き場を失った僕は彼の元で過ごすことになりましたが、虐待のショックで息ができなくなったり、パニックを起こしたりする事も多く……今も後遺症として、呼吸が弱くなったりする事はあります」

 そう言うと、ライさんは服のポケットから、スプレー型の薬を取り出した。

「もしかしら、この先、発作を起こした時、投与をお願いするかもしれません」

「そ、そんな大事な事、なんで言わなかったんですか!」

 私は今更降って湧いた重大な話に、思わず病室であることすら忘れて声を上げてしまう。ハッとして口を手で押さえると、ライさんは指を口に当てて、シー、と息を漏らした。

「……すみません、僕が臆病者でした。もう、後輩も出来て、誰かの世話になりたくないと思ってしまいました。僕は過去にヘマをしていて、今の署長に拾ってもらわなければ……また捨て猫になっていたでしょう。余計な心配が、余計な混乱を招いてしまったと後悔しています。素直にお話していれば、貴女に心配をかけて、その挙句貴女が刺されるなんて事もなかったと思うので……改めて、すみませんでした。」

 そう言うと、ライさんは深く頭を下げた。私は慌てて頭を上げるように言ったが、ライさんは聞かない。頭を下げたまま話は続く。表情は見えないが、声はとても、今まで聞いたことが無いぐらい真剣な声色をしていた。

「子供の頃の僕は……彼と暮らしてるうちに、彼も傷ついた事を黙っている人間だと知った時、今の音胡さんのように怒りました。ずるいと、彼が戦っている姿を見て、彼の前の家族も、あの双子もただ何も思わず死んでいったはずはないと、見て見ぬふりをするなと怒ったんです。何もかも黙っていた挙句、女の子に守られてしまう今の僕からすれば、どの口が言うんだ、の一点です。情けない奴だと思います。」

「……ライさん……」

 私は思わず、ライさんの肩に手を置いた。その身体は震えている。ライさんはおずおずを頭を上げると、ゆっくり、病室に染み渡るような声で続けた。

「僕は身体も弱く、臆病で、後輩一人守れない……子猫と何も変わらないような上司です」

「ライさん、そんな事言わないでください」

「僕らは人より生きる時間も短い。でも、僕は人より何をするにも時間がかかります、きっと貴女にすぐ追いつかれてしまうでしょう」

「何言ってるんですか、ライさんはずっと私の上司ですよ」

「現に貴女を危険に合わせ、未来ある若者で女性である貴女に怪我をさせた」

「……っ、ライさんっ!! いい加減に……―――」

 私は怒りかけた。またマイナス思考に陥っているライさんを咎める為に。しかし、ライさんの続く言葉の色は、今までと違っていた。

「……でも、僕には短い時間で、しなければいけないことが沢山あります。僕は何があっても、その書類について知らなければならないと思いました。僕の為だけじゃない、警官として、父と亡くなった仔、そしてこの先、僕と父のように出会うヒト達の為にも。そこに、貴女という、懸命で素直で頭の回る部下が、相棒が必要だと思いました。…………こんな僕でも、まだ……付いてきてくれますか?」

 顔を上げ、私をまっすぐ見つめるライさんの目は、また涙に濡れている。この目が、今まで何度涙に濡れたのだろう。どれだけ身体のことや、生まれの事で悔しい思いをしてきたのだろう。どんな汚い世界と綺麗な景色を、見てきたのだろう?

 私は思わず、膝の上で握りこぶしを作った。彼の、静かな決意を握りしめるように。そして深く頷いてみせる。ライさんの表情が分かりやすく変わった。

「……勿論です。私は貴方の部下であり、相棒です。至らないならば負けません。勝手に好奇心で独断行動をし、上司のプライベートを探るような後輩です……ですから、似た者同士、です。一緒にまた、雑用こなしましょう!」

「……っ、はいっ! 改めて、よろしくお願いします!」

 久々に見たライさんの笑顔は、とても眩しかった。

***

 退院し、ライさんも療養から復帰した後、地域課はまた元の雑務に戻っていった。ただし、ひとつだけ戻ってこなかった仕事がある。

 あの書類の件だ。

 二人で揃って出勤したその日に、署長が直々に訪ねてきて説明してくれた。

「大変申し訳なかった。君たちの仕事ぶりと、仕事の危険性を見誤ったのは私の責任だ。」

「そ、そんな……私が勝手に首を突っ込んだのが悪かったんですから、ライさんも! お二人とも、もう顔上げてくださいよ!」

 大の男二人に揃って頭を深々下げられると、逆に不気味だ。私はゾッとしながら慌てて二人の腰を持ち上げる。説得して二人の顔を上げさせると、署長は説明を続けた。

「……書類の件はもう、気にしないで欲しい。君たちはよく調べてくれたが、結論として見つからなかった。形式としては全員に命令が出ていたが、後ほどちゃんと部署も設けて捜索するつもりだったものだ。君たちが捜査する必然性などなかった……。しかし、雑務に慣れている君たちは、それが正規の仕事ではなくとも、正直、不当な作業でも受け入れてしまえる懐の広さがあった。君たちの熱意を甘く見ていた……。大変よくやってくれたことに感謝する。……だからもう、あのような無茶はやめてくれ」

 つまり、私たちはやらなくても良いことをバカ真面目にこなしていた、もう十分だから諦めろ、というのが署長の説明だった。

 ライさんも、私も、どっちかと言えば、言われたことは素直にやるタイプだ。それは想定内だったんじゃないか、と私は思う。新人二人の部署で、説明もなしに上から命令が来たら従うしか無い。あんな大げさな書類を出されたら、誰だって信じてしまうだろう。

 そして、それを受け入れてしまったが故に事故に巻き込まれた。ならばもう十分だから手を引いて欲しい。

 言い分を要約するとこうなる。私はその説明に納得できず、なんとなくムッとしてしまった。ので、強く言い返す。……ライさんはやっぱりオロオロしていたが、この際構わない。彼が言えそうに無いことまで、私は言ってやろうと思い口を開く。

「署長……そもそも、私はこれが何の書類なのかも聞いてないのですが、ライさんに関係するもの、で間違いないのでしょうか? だから『ライさんが知ること』を阻止する誰かが居ると考えていいのですか? 私が襲われたと言うことは、私が知ることについても妨害されていると思ったのですが、私の勘違いですか? なんでそんな書類を、この署内で探し当てる命令がそもそも下ってるんですか? 何を知っていて何を知らなくて、署長がその命令にゴーサインを出したのか教えて頂かなければ、説明にもならないのですが? これが何で、何故探していて、何を持って私達がしたことがもう十分なのか説明してはくださらないんですね?」

 私は追われていたあの瞬間に、感じた疑問を全て吐き出した。署長は明らかに顔色を悪くしながら、私の質問に一度だけ頷いた。やはり、この人はその秘密を知っている。知っていてぼかしている。私は更に虫の居所を悪くした。

「何を知っているんですか?」

「この町が、この署が『彼ら種族』を管轄している以上、あれを外に流してはいけないんだ。外から来た君にも、できれば見られたくないものだ……勿論、レイルにも……」

 しかし、その回答はどんなに質問を重ねても、最後の最後までふわっとしていた。怪しい。私は更に言い返す。上司と新人、という体は保ったままだが、それはもう口喧嘩に近かった。

「不透明すぎます、刺された身にもなってください。知っているのになんで説明できないんですか? 逆に気になりますよ、己が刺身になるまで調べ上げたくなるぐらいです。つまりお返事としては、容認し兼ねます。」

「……すまない、私はあの二匹とレイルの父の事を直接伝え聞いている数少ない署員だ。彼と二匹の意志を守る為に、この事を知る者は少ない方がいいんだ、納得して欲しい……」

 だめだ、お互いにさっぱり伝わらない。言い訳じみてすら居た。

 私はまだムカムカしてはいたが、とりあえずその説明で納得したフリをした。……署長にもとりあえずの理由があることだけは理解したし、もう察してくれ、という空気が辺りに漂ってきている。それだけはわかったので、もう怒鳴ることはなかった。

 というより、それどころじゃなくなってしまったので、私の気持ちは冷めきる。

「……ライさん、めちゃめちゃ顔色悪いですよ」

「……すみません、ちょっと、気持ち悪くなってしまって……」

 私と署長の口喧嘩に動揺したのか、ライさんはオロオロを通り越して、明らかに冷や汗をかいていた。デスクチェアに浅く座り、燃え尽きたスタイルで動けなくなっている彼の背をさする。

 署長が立ち去った後、ライさんは私が汲んできたコップ水を飲み干して、深い溜め息と共に天を仰いだ。

「……僕と署長は兄弟のような関係でした。兄と慕う程に。父と僕、そして二匹の関係を直接知る、最後の人物でしょう。……その相手が、僕に見て欲しくないというものがある、って聞くと……つらいものですね……知るのが怖くなってしまいます」

「ライさん……そういえば、二匹のしたこと……って、具体的に聞いても?」

 ライさんはコップを置くと、引き出しから古い新聞記事と一枚のディスクを取り出した。

 もうボロボロになっている新聞の切れ端は、見出しすら役立たずの状態だ。辛うじて残っているのは、そこに掲載されていた写真。白黒の奥に、小さな子うさぎの二匹が、痩せ細って立てもしない二匹が座っている。手にはなにかプラカードを下げているが、写真が小さすぎてなんのカードか分からない。ディスクには乱暴な字で『反対運動』とだけ殴り書かれているが、その字はもう掠れて薄くなっている。

「……僕ら種族は元々、とある科学企業の実験体から生まれた失敗作のひとつでした。二匹が亡くなる直前、僕ら種族を排除する動きが高まりました。今よりもずっと数が多かった僕らは、いずれ人間の居場所を奪うのではないか、と考えられ、全員殺処分の予定もあったそうです。そこで反対運動を起こしたのが、彼ら二匹です。彼らは保護者である父が仕事に打ち込んでいた最中、生来の心臓病の悪化と、環境による精神疾患を発症、どちらも治療を諦めざるを得なくなりました。病が進行していく中、『自分たちのように死に別れる者を無くしたい』と、署名を募る動画を上げた事が注目を浴び、僕ら種族は守られました」

「……じゃあ、亡くなった原因って……」

 語られたのは、とても壮絶な時代背景だった。可愛らしい双子のうさぎの姿には、似合わない、とても悲しい話。私の声色も、珍しくトーンを落とす。ライさんは静かに頷いた。

「……確かに、精神疾患は父が彼らの手を一度離したせいでしょうが、そうでなくとも、父の仕事に関係なく、彼らは亡くなる運命だったでしょう。でも、彼らはそれ隠し、事故のオーバードーズを偽って亡くなりました。それは父を傷つけない為に二匹が考えた、文字通り必死の嘘だったと聞いています。署名活動による法改正を成し遂げたことを見届けてすぐ、二匹は亡くなりました。父がその時仕事熱心だったのは、二匹と暮らすためだった。彼も必死だったので、テレビすら見なかったのでしょう。彼は何も知らなかった。僕と出会うまで、二匹は己が殺したのだと信じていました」

「…………」

 私は言葉を失った。

 ライさんとおじいちゃんと二匹の子うさぎと……その間に、沢山の嘘と見栄と傷があることを、一言で言い表す言葉は見つからなかった。

 ああ、それでおじいちゃんは、仕事を終わらせたかったんだ。帰って二匹と遊んであげたかったんだ。にいちゃんのいうことを……。って、お留守番してる二匹に言い聞かせて。

 その景色を思い浮かべると、私は強く胸が痛んだ。お互い、ひどく寂しかったはずなのに、通じ合うことが出来なかった。お互い、思い合うあまり、反対側にしか走っていくことが出来なかった。

「……その後、近年になって僕ら種族の人権は保護されました。ただ、現状それには条件があり、端的に表現すれば、『決められた地区に閉じ込める』のが、今の条件なんです。そのひとつが、彼らが死んだ地、この町だった……僕ら種族の責任は、この町でつけなければいけません。そしてその責任があるとすれば、やはり僕だと思うんです。だから、僕は知らなきゃいけない。その書類の正体を……」

「……でも、ライさん、今つらいって言いました」

 私はそう反論する。話を聞くだけで参ってしまう彼に、やはりその案件は触れさせてはいけないのでは? と、私も思ってしまった。彼をよく知る、兄とも等しい関係の署長が言うのならば、尚更だ。

「そうもいかないんです。この傷の連鎖を、僕で終わらせなければいけない。僕は気づいたら失ってたなんて絶対に嫌です。もう会話が続かなくたって、父は僕を何より心配してくれた。僕は来るべき日が来た時、彼にちゃんとお別れを言いたい。その為には臆病なままではいられません! そして、僕にはそれを知る権利もあると思っています!」

 そう言うと、ライさんは立ち上がった。

「もう探すな、なんて命令が聞けるほど、猫は素直ではありませんよ。これは、『犬のおまわりさん』を雇わなかった署長のミスです。音胡さん、手伝って頂けますか? 町の外を知る貴女にしか、出来ないことだって沢山あります!」

「……はい! 部長!!」

 私は頷いた。ライさんの勇気と、子うさぎ達が託したものの為に。

 ライさんに誘われたのはその話から三日後、二人で休んでいて溜まっていた仕事をすべて片付けた後だった。

「寮に行ってみましょう」

「寮……?」

「当時の寮……父と双子が過ごした警察寮が残っているんです。もう老朽化が進んで立ち入り禁止ですが、父が土地の一部に権利を握っているので取り壊せないんです」

 そう言うと、ライさんは作業用の上着を羽織って席を立ち上がった。靴がいつもの革靴じゃないところから見ても、相当荒れた建物なのかな、と思う。私もロッカーに置いてあったスニーカーに履き替える。

 ……思えば、ヒールの靴にもいつの間にか慣れてしまっていた。あの春の日、あんなに慣れないと思っていた制服も、今ではすっかり私の一部だ。

「流石に片付けてるんじゃないですか?」

「まあ、その後も使ってましたからね、当時のままではないですが、彼は双子との思い出を残すために暫く部屋をそのままにしていた過去があります。今は一応片付いていますが、捨ててはないはずです……その中にきっと、書類もあります、彼は物持ちがいいから、僕の備品も大体お下がりですし」

 ライさんはそう言って笑った。彼にとって、仮にも父親が自分ではない仔との思い出を大事にしていることは、どんな気持ちなのかと思ったが、その笑顔が穏やかだったので私は聞かないでおくことにする。

「ああ、そう言えば……彼と一度だけ、現実の時間の上で会話が成立しました」

「えっ、嘘……? い、いつですか?」

 ライさんは思い出したように、衝撃的な事実を口にした。私は思わず机に乗り出して驚くと、ライさんはうーん、と唸って日付を数える。

「貴女が起きる前……ちょうど入院してた日ですね」

「何か仰ってました?」

「書類のことは聞き忘れましたが……そうですね……男の約束ってやつですかね」

 私がどんなにコンタクトしても成立しなかった会話を、ライさんは成功させたのか……。そこは、流石息子と言うべきだろうか。

「内緒ってことですか? そういうのセクハラに当たりますよ」

「あたっ、殴らないでくださいよ……それもハラスメントですよ」

 内容が気になるが、教えてくれないライさんに向かってむくれてみせると、ライさんはいたずらに笑った。

 そうして数十分歩きたどり着いたのは、いつだかライさんがぼんやりと眺めていた、アパートのような建物だった。ライさんは躊躇いもなく立入禁止のテープをくぐると、こちらに手招きをする。

「老朽化と言っても、今すぐ崩れ落ちるほど傷んではいませんから安心してください」

「今すぐ崩れ落ちるほどの場所に案内する上司だったら、ついてきてませんよ」

 私も真似をしてテープをくぐる、と、足元からガサガサと物音がした。刺されたばかりの私は思わず警戒して振り返ってしまう。

「!」

「音胡さん?」

 そこにすかさず、ライさんが庇うように飛び出してくると、入り口の横からも何か白いものが飛び出してきた。

 チリン、と可愛らしい音と共に。

「……にゃぁ」

「……ネコだ」

「ネコですね、ああ、びっくりした……」

 そこに鎮座していたのは、赤い首輪に小さなベルを付けた、真っ白な猫だった。勿論、普通の愛玩動物の方の。

「ここを住処にしてるんですかねー、ライさん言葉とか分からないんですか?」

「無茶言わないでくださいよ……今更、僕にそんな力があるように思いますか?」

 抱き上げると、白猫は抵抗せず私の腕に抱かれた。ごろごろと擦り寄ってくる所を見れば、かなり人馴れしているようだ。綺麗な猫だし、首輪もしてるから飼い猫だろう。耳は切れていないので、外猫には思えない。家猫が出ていってしまったのだろうか?

「…………白猫、か……。」

「音胡さん、どうかしました?」

「ああ、いえ……もう行きましょう!」

 その猫の青い瞳を見ていると、私の脳裏にとある景色が浮かんできて、私は急に黙ってしまった。その姿を見たライさんは小首を傾げる。私ははっと我に返って白猫をそっと下ろし、慌てて立ち上がった。ちょっと気恥ずかしくなって、誤魔化すようにライさんの先に飛び出る。

 ライさんはポケットから小袋に入ったニボシを取り出し、一匹だけ白猫に与えた。

「……ヒト用のですから、少しだけですよ」

 白猫はまるでお礼を言うようににゃぁ、と鳴くと、それを咥える。私は予想外のアイテムの登場に、微妙な感情を抱いた。

「……なんですか、そのニボシ」

「…………僕のおやつの残りですよ、悪いですか? ニボシそのまま食べちゃ。ほら、『食べる小魚』って書いてるじゃないですか。そういう目的の商品ですよ。僕間違ってます?」

「…………カルシウムとかDHAは大事ですもんね」

「……そうです」

 ライさんは恥ずかしそうにそう言い訳すると、さっさとニボシをポケットに押し込んでしまった。

 微妙な空気が流れる。私ですらそう思うのだから、愛玩動物と同じ血が流れているライさんにとっては、かなり気まずかったのだろう。しかし、それでも取り出して与えるところが、ライさんの優しさだった。自分の恥を忍んでも、他者に持つものを与えられる。それがたとえニボシ一匹でも。

「……さあ、行きましょう。廊下の突き当りが、父と双子が居た部屋で……僕が昔めちゃくちゃにした部屋でもあります」

「めちゃくちゃに……ですか?」

 ライさんはその気まずさから気を取り直し、寮を案内してくれた。しかし、その説明に私は冷や汗をかく。子供のライさん、わりとアクティブじゃないですか。いや、アグレッシブか? 後で写真見せてもらいたい。署長持ってないかな……後で聞きに行こう。

「押し入ってベッドマット剥がしたりしましたよ、懐かしいです」

「え、ええ……」

 どこいったんだ、病弱。

 そんな思い出を胸に、苦笑いで私とライさんは玄関を上がっていく。作り的に靴のまま上がる建物みたいだった。仮に間違っていたとしてもどうせ誰もいないし、何が落ちてるかわからない、との事なので、靴のまま床を踏みしめる。その瞬間だった。

 静かな、重い声が背中に降り注いだ。

「……動くな」

「来ると思ってました」

 真打ちの登場に、まるで笑うかのように答えたのはライさんだった。ライさんは即座に私を背後に押しやり、私をかばうように片腕を広げ、もう一方の片腕は腰のホルスターに指を添えていた。完全に臨戦態勢であることが、ライさんと私にとってどれだけ危険なことか。言葉よりも視覚よりも先に気づいてしまう。

 ライさんの肩の向こうに目を向ける。その声の主は署長だった。しかし、その表情は先日のものと全く違う。とても険しい表情をしていた。まるで他人のような鋭い目線は、私の知っている署長じゃない、と思うぐらいだ。

「レイル、話が違うじゃないか、この案件からは手を引けと言ったはずだ」

「それはこっちのセリフですよ、署長。僕も音胡さんも、まだ納得がいってません、何故、降りる理由があるんですか? 刺された程度で諦めるような署員を雇ったおつもりでしょうか?」

 ライさんは署長の妨害を、まるで読んでいたかのように、毅然とした態度で肩をすくめた。私はただただ、目の前で繰り広げられる静かな口論に驚くが、心の何処かで『やはり』という気持ちも分かってしまう。最初から怪しかった。彼の言い訳じみた理由や、都合よくあの、私が刺された現場にいたことが。

「……僕らは忙しいんです。誰かさんが町の雑用と父親の介護をすべて任せてくれたお陰でね。……時間がないんで、手短に言いましょう。右手に隠しているものを離した方が身のためですよ、……兄さん」

 ライさんと署長は睨み合う。次の瞬間、動いたのは署長だった。

「ライさんっ、危ないっ!!」

 途端、署長が飛びかかってきた。その右手に握られていたのは一本のナイフ。そのナイフには見覚えがある。まだ、激しく動けば、鈍く痛む脇腹に記憶されたそれ。私はその恐怖を思い出し、思わず目を硬く閉じた。

「……舐められたものですね」

 次の瞬間、ライさんの冷たい声が降りかかり、私は思わず閉じていた目を開ける。ライさんはすかさず彼の腕を取ると、外側に腕を捻った。ぎり、と締めるような音に反応して、署長の唸るような声が漏れる。

「薬なしでは走れもしなくても、僕だって仮にも警察です。護身術ぐらい出来ますし、ナイフ一本に怯んだりしませんよ、わかってるでしょう、兄さん」

 その姿は、病弱で温厚で泣き虫な猫の姿では決してなかった。大人の男性として、警察としての使命を抱えたライさんの姿もまた、他人のように見える。私は驚いてぽかんとする他なかった。

「……わ、私を襲ったのは、署長、貴方なんですか……?」

 見覚えのあるものを改めて見つめながら、絞り出した声は震えていた。

「……すまない、君に恨みがあるわけじゃない。ただ、本当に、本当に私は……レイルにあれを見せたくないだけなんだ。それを止めるためには、被害者が必要だった。レイルは頑固だから、自分が無理と思わない事には、どうやってもしがみつく。……しかし、お前は納得してくれないんだな……それでも力づくで止める、それが父の、彼の願いなんだ、本当だ、分かってくれ……」

 ライさんは静かに首を振る。その否定が一体何に対するものだったのか……それは多分、ライさんにしか分からない。

 ……そして、胸ポケットから警察手帳を開き、署長の前に立ちはだかった。

「僕には、貴方を逮捕できる権利があります。ですが、貴方への恩を仇で返す訳には行きません。ここを見逃しさえしてくれれば、『僕は』黙っていましょう。これは取引です。貴方がどうしても、僕に隠したい情報であるならば、どうぞ、僕を刺せばいい。その前に、僕は貴方を撃ってでも止めるでしょうね!! それが、たとえ父の願いだとしても、僕は知るって決めました! 貴方が思う通り、僕は諦めの悪い頑固者です!!」

 そう言うと、ライさんは手帳を投げ捨てて、銃を構えた。一触即発。まさにその状況を、私はただ見ているしか無かった。しようと思えば通報だってなんでもできるはずなのに、私の手も足も、ピクリとも動かない。それは、最も静かで恐ろしい兄弟喧嘩だった。

「何故だレイル! あの書類に、お前にとって得になる情報なんてひとつもないんだ、お願いだ、お前に傷ついて欲しくない! あれを見て、お前は幸せになんかなれない……お前を想って、言ってるだけなんだ……!!」

 署長の声も震えていた。状況は一つも分からないままだが、それでもその言葉がただの悪意で無いことぐらい、私にも分かる、彼も、大事な家族を守ろうとしているだけなのに。なんで、こんなにすれ違うのだろう。双子も、ライさんのお父さんも、そうだったの?

 私は泣きそうになった。まるでライさんの涙腺が、こっちに引っ越してきたようだ。

「僕は貴方が嘘をついているとは思いません。でも、それが僕の為だと言うのならば、それは間違ってる。僕が大切にする仲間を傷つけ、僕の仕事を奪い、僕の意志すら無視して、脅迫じみた事をする。僕がそれを見て勝手に傷ついたら、それは僕の責任だ……」

 言い終わると同時に、ライさんは引き金を引いた。思わず怯む署長の元に、ライさんは駆け出す。銃は発砲されなかった。ハッタリだったようだ。

「音胡さん、先に行ってください! 突き当りの部屋です!」

 ライさんは署長に馬乗りになり、ナイフを取り上げる。私はその隙に二人の間を通り抜けて、廊下を駆け出した。いつかの子供の頃のライさんも、多分そうしたように。泣きながら、全力で駆け出した。スニーカーを履いていてよかった、と思った。

 私が大人のままならば、きっと走り出せなかった。

***

「お邪魔します……」

 部屋に入ると、二段ベッドとカーテン、小さな机とソファベッド、引き出し……それと、大量の紙類。そこにあったのはそれだけだった。

 ただ、その部屋のあちこちには、子供の居た痕が残っている。ボロボロの星柄のブランケットが色違いで畳まれて二対置いてあったり、クレヨンの痕が壁に弧を描いていたり。

「……これは、絵……?」

 日に焼けてパサパサの、うす茶色い画用紙には、色の褪せたクレヨンの絵。二人のうさぎと、一人の男の人が笑っている絵だった。似たような絵は数枚あったが、どれもなんだか不自然な笑顔が目立つ。最後の一枚は絵ではなく、ミミズが文字を描いたような、読めるようで読めない何かが繰り返されている紙だった。文字を練習したものだ、と分かると、途端に心がざわつく。

「音胡さん、お待たせしました」

「……ライ部長……署長は?」

 気がつけばライさんはドアの前に立っていて、悲しそうな目で部屋を見渡していた。そのライさんが後ろを指差し、廊下の先にはライさんが呼んだらしい、他の署員に連行されていく署長の姿。

「……兄だからこそ、彼の行動は見えていました。彼も強引なところがあるんですよ。僕らが早めに仕事を片付けて、出ていくのを見たんだと思います。まさか己から素性を明かすとは思いませんでしたが。あの強引さは誰に似たんでしょうね……」

 その指先にはボイスレコーダーが摘まれていた。どうやらこれを逮捕の証拠にしたらしい。

「彼は僕と同じぐらい、己の正義を決して曲げない男です。そして、僕のことと、父のことを、とても愛しています。愛しているからこそ、彼は父に会うことが出来なかった。昔の父の姿にしがみついて、今でも過去の彼だけを信じていた。彼も父に助け出されてこの町に来た子供でしたから、英雄視をしていたんでしょう。でも、父も……人間ですから、完璧ではありません。過去の過ちのひとつやふたつはありますし、自分が憎んだ仕事に僕と兄さんを歩ませ、最後は記憶すら手放してしまった……悲しい男です。結果として、あの双子の『親』だっただけで、英雄でもなんでもない。彼自身は今でも、二人を悲しませた罪に苦しんでいます」

 そう言うと、ライさんは迷わず、机の上に散らばる紙類から、厚い茶封筒を引き抜いた。

「……大体の大事な書類はこれに入れてましたから、恐らくこの中でしょうね……ほら、あった。」

「内容を、聞いたんですか……?」

 ライさんは何も言わなかった。ただ、ひとつ頷く。その表情から、私はもう結末を察していた。毛皮に覆われた彼の顔色を、気づけば私は察せるようになっていたことにも驚くが、渡された書類を見てまた驚いた。

「『セニマルを元の動物に戻す方法と、利用する為の手引・法律改正への署名』……って?」

「『セニマル』というのは、僕らの当時の総称です。でも、蔑称になり廃止されました」

 私は何も言わず、書類をめくる。お知らせの紙と、何やら化学式の書かれた書類、何か書いて提出する感じの書類、そして署名の名簿が重なっている。提出書類と、署名名簿の一番上には、同じ名前がサインされていた。

「この、スティーブさんというのは……」

「父の名前です。今は音胡さんのような和名の方が殆どですが、港町なのもあって、昔は海の向こうで生まれた人や、その家族が多く、英名の住人が多かったので。……その彼は、僕を……ただの猫に戻そうと考えたのですよ」

「っ……どうして、」

 衝撃の事実に、私の書類を持つ手が震える。それは、ライさんの父親が、ライさんをただの猫にしてしまう、という意味だ。

「……僕の身を案じたのでしょう。人間としてやっていけないのではないか、と……。身体のことも、彼が望まない警官を目指したことも……応援はしてくれてましたが、気乗りしなかったんでしょうね。思えば当時から、様子のおかしな時期があったんですよ。僕が警察学校を卒業する少し前ぐらいから、急に双子の映像を見返したり、ぼーっとしたりしていて……聞いても『秘密だ』としか言わなかった。だから、書類の手がかりで思い当たる人物の最後は、彼だけだと思ったんです」

 そう言うと、ライさんは大きなため息をついてソファに座り込んだ。古いソファはぎしり、と、今のライさんの顔色のように重たい音を鳴らす。

「……だ、大丈夫ですか?」

 私は聞くまでもない、彼は育ての親に裏切られたのだ。そう思い、恐る恐る口にする。この結論はあんまりではないか。ライさんはやはり何も知らないほうが良かった。署長の言い分は間違いではなかった。

 私は本気でそう思った。

 しかし、顔を上げたライさんは微笑んでいた。

「僕が、落ち込むと思いました?」

「へっ?」

 彼から漏れた声は明るかった。私はマヌケな声を漏らし、ぽかんとする他無い。

「怒ってないわけではありませんよ。身体にハンデがある僕が警察になるのに、どれだけの努力をしたのか分かってくれていれば、こんなことしようとも思わないでしょうに。そこまで僕は信用なかったのでしょうか? 双子もいきなり放っておかれてこんな気持になったのでしょうか? ……そうは思うんですが、何故か怒れないんです。僕らは紙切れ一枚で存在が変わるような生き物ですから、これを提出さえすれば簡単に、僕らの存在は変わったでしょう。でも彼はそれをしなかった。諦めたのか、思いとどまったのかは分かりませんが……」

 そう言って、ライさんは書類を抱きしめる。愛おしくも、悔しそうに。そして、また、ぽかんと立ち尽くすだけの私に向かって笑ってみせた。

「矛盾してるかもしれませんが、今、少し嬉しいんですよ。父も、父のことを知る人達も、話をすれば双子のことばかり。彼には離婚相手との間に娘も居るし、僕も、兄もいるのに……でもやはり彼にとっては、双子の存在が大きかったのだろうと、僕も遠慮して生きてきました。そもそも、血も繋がっていない。流れてる血の仕組みだって違う。家族とは形ばかりで、僕は双子の影を重ねて同情されただけだって……そう、今まで、今の今まで心のどっかでそう思ってたんです。でも、形は違って、歪んですらいましたが、父も兄も、ちゃんと心配してくれてたってのがわかったんです。おかしいですね、血縁はないけどシャイなところばっかり、僕らは似てる。書類の命令がこのタイミングだったのも、恐らく部長になった僕を案じた兄の優しさだったんでしょう……」

 そう言うと、ライさんはポケットから一枚の便箋を取り出した。

乱雑で不器用そうな字が、紙の上で踊っている。

「父は既に、この時から己の病を察していた。自分の代わりに僕を守ってくれる大人を探したかったのかもしれません。情けない話ですが、僕だけが彼の病を『急に発症した』と思っていたようです。先にこの手紙を見つけた兄は、僕が彼と同じ道に行くことをどうしても避けようとしたんですね。僕も壊れてしまうだろうと。父と同じようにおかしくなってしまうかもしれないと。……もっと、話せばよかった。父とも、兄とも。今からでも遅くないとは思いますが、やっぱり後悔してしまいますね。」

 私もライさんの隣に座る。埃の積もったソファだったが、なんだか嫌な感じはしなかった。まるで、思い出が染み込んでいるように、温かい座面が私を迎える。

「……僕は彼と、双子が後世に残した約束を破らないためにも、この傷を僕で終わらせなければなりません。ですから、僕の答えは……こうです」

 そう言うと、ライさんは私の胸ポケットに入っていたライターを引き抜いた。

「えっ、あっ!?」

「お借りしますね」

 そう言うと、ライさんは書類にまとめて火を点けた。手紙と共に。乾いた紙はあっという間に広がって、テーブルの上にあった灰皿の上で火柱を上げる。手紙の内容は殆ど読む時間もなかったが、『俺を止めてくれ』という一文だけが、私の目に残った。

「……ら、ライさん……」

 強引すぎる。私は若干引いた目で彼を見ると、彼はいたずらに、やっちゃった、と舌を出した。

「僕は彼と話せる身体であったことが何より幸福です。双子もそれを願っていた。たとえ過去のものであったとしても、こんな法律も仕組みも要らない。一瞬でも彼がその約束を破りかけた過去も要らない。過去にも今にも未来にも、僕がこの書類を父に出させる決意を持たせてはいけない。僕は、今この姿の僕に誇りを持っています。これが僕と双子と父との約束です」

 そう言うと、ライさんは灰皿を持って、部屋の小窓へと向かっていった。カラ、と軽いサッシの音の後、窓から灰皿を差し出す。

 書類だったものは、風に乗って、町の空の奥へと消えていった。

平和で穏やかで、ライさんが愛する町の空は、今日も綺麗に晴れている。気づけば下校時間。子供の声が響いていく。尾を持つ子も持たない子も、一緒に帰っていく。個々の家、家族の元に。

「で、手紙、なんて書いてたんですか?」

「……秘密です」

「あはは、男の、ですかね?」

「親子の、ですね」

 寮を立ち去るとき、私はどうしても気になったことを素直に聞いてみた。が、ライさんは笑うだけだった。多分、気持ちのいいものではないはずなのに、ライさんは清々しく笑っていた。

「部長は、強いですね」

「……惚れ直しました?」

「調子乗らないでください。惚れてすらいません。けど、まあ、見直しはしましたかね」

「冗談だったんですけど、ものすごくストレートに言いますね……」

 バッサリ切ってやると、ライさんは笑いながら、がっくり肩を落とした。

***

 一週間後、ライさんはお父さんが持っていた寮の権利を自分に移して、すぐに寮の取り壊しが決まった。空いた土地はライさんのものになる。さて、何に使いますかね……と悩むライさんは、そこを自分だけの土地にする気は全くないらしい。そこがライさんらしいな、と思った。

 双子の描いた絵や、あのブランケットはライさんが引き取り、お父さんの施設に私が届けに行った。彼は懐かしそうにそれを眺め、「早く帰らなきゃな」と言って笑った。その言葉が、いつの記憶の言葉なのかを、私は探らなかった。

 寮の取り壊しの日には、二人でその様子を見ていた。重機が建物の壁に一発目を入れた途端、ライさんは顔を覆って泣き出す。この人の涙にも大分見慣れたものだ。ティッシュ持ってきてよかった。私はティッシュを彼に差し出しながら、苦笑する。

「相変わらず、泣き虫な上司ですね、全く……この間のかっこよさは何処に行きました?」

「うぅ、すみませんっ……暮らした訳じゃないけど、僕にとっても第二の家みたいな、ものだったから……」

 そう言うと、ライさんは勢い良く鼻をかむ。それにしても擦りすぎでは?

「……ライさんのお父さんにも来てもらえたら良かったんですけどね」

「すみません……交渉までしてもらって。彼、結構頑固なところがありまして、僕も昔、彼をここに連れてきたことがありましたが、黙って強引に連れ出したのが偶然成功しただけだったんです……それに、見せたら多分止めますよ。それはそれで、多分ややこしいことになります」

「……ライさん、頑固さもお父さん似ですね」

 私は前日に、ライさんのお父さんも誘っていた。

 彼は寮に行かないかと聞いた途端、血相を変えて、あそこにはもう戻らないと言ったので、連れてくることは叶わなかった。ライさんは、笑いながら「でしょうね」と言っただけだった。

「……ライさん、私もライさんに言ってないこと、言っていいですか?」

 重機が放つ次の一発が、壁にのめりこんでいく。柱がメキメキ、と音を立てる中、私はぼそりと呟く。人の耳では多分聞き取れなかっただろうが、ライさんは耳をピクリとこちらに向けると、小首をかしげながらふわりと微笑んだ。

「どうぞ」

 聞こえない事を前提に、ライさんは口だけで答えた。私は聞こえないことをやっぱり前提に、言ってないことをすべてその場に、崩れていく寮の姿と共に置いていく。

「……私の親は再婚でして、父親とは血がつながっていません。親子仲は悪くないですが、やはり他人行儀のままです。私は、それはそれで別に気にしたことも、悩んだこともなく、こんなものだろうと思っていました。先日、ようやく下ろした夏のボーナスと冬のボーナスをあわせて、初めて彼にプレゼントをしました。彼は今のライさん程じゃないですけど、ガチ泣きしながら喜んでくれました」

「それは……良かったです」

 これは、私が今まで、学校の友達にも言わない事だった。上司に言うなんて未来は想像していなかったし、言ってもしょうがないことだと、今この瞬間も思っている。でも、ライさんにはなんとなく聞いてほしかった。まあ、かなりこっ恥ずかしい話なので、この物音に紛れて聞こえてない事を信じて話しますけど。その大きな耳が飾りだと言った貴方を信じて。

「彼は、私がなんとなくでこんな小さな町の警官になった事を、耐えられなくて帰ってくるんじゃないか、帰ってきたらどんな態度を取ればいいのか、と要らない心配を重ねて、逆に連絡が取れずに居たそうです。私も特に、父に直接連絡を入れることがなかったので、そこで初めて、貴方の事を含めてこの町の話をしました。時々、自分の性格が誰に似ているのか、と疑問に思うことがあったのですが、話せば話すほど、私と今の父は似たもの同士でした」

 次の柱が倒れていく。なんだか寂しくて、私の目にも涙が浮かんだけれど、口は止まらない。ライさんも、ポロポロと見たことのない涙を流しながら、耳だけは私に向いていた。

「その流れで完全に思い出したんです。きっかけはこの寮でこの間会った、赤い首輪の白猫なんですが……親が再婚する前、前の父の実家がこの町の隣町だったんです。そこで、白猫のヒトと友達になった事を思い出しました。春休みの間だけでしたが、同い年の女の子でした。」

 そう、私が春を好きな理由は、全てあの春休みにある。

 なんで今まで忘れていたのだろう。いや、忘れるほど、あの時の私は……彼女やライさんのような、尾を持つヒト達を当たり前にしていた。それが、本当はきっと、この世界の正解なのだろう。

「私は、彼女が猫であることなど気にもとめず、彼女と毎日飽きずに朝から晩まで遊びました。今思い返せば友達以上な感情を抱いていたぐらい……とても、大事なヒトでした……でも、住んでいた町に帰る私を追って、彼女は春休みの最終日に行方不明になってしまいました。幸い、三日後に警察に発見されて、命に別状はなかったのですが……その後から、連絡が取れなくなって、私達の関係はフェードアウトしました。……猫に戻されてしまうよりはマシなのかもしれませんが、もうあの人間と関わるな、ぐらいは言われたのかもしれないと、今なら考えられます。……私は今まで忘れて居ましたが、警官になりたかったのは、それがきっかけでした」

 形もきっかけも違う。けれど、私が警官になる目標になったもの。目指すもの。それがライさんと、きっと同じ理由だと、ようやく思い出した。彼を見て懐かしさを感じるのは、きっとあの仔のお陰だ。

 私は言ったそばから恥ずかしくなって、寮とライさんから背を背けてしまう。

「……正直、なんで警官を選んでしまったのか、と思ってしまった時もあります。刺された時とか。でも、目標を思い出しました。私はライさんを目標にします。貴方は、貴方で終わらせたいと言った、貴方たちの記憶……私にも背負わせて欲しいんです」

「……楽ではないですよ、おすすめはしません。きっといつか、我慢のならない時が来ます。苦しむことも多いはずです。尾を持たない貴女には、どうしようもない事もきっとありますよ、それでも?」

 ライさんの返事は、とても穏やかだけど厳しかった。まるで、上司の言葉のようだ。

「それでも」

 私はライさんの手を取る、なんとなくふにっとした感覚が手の中に触れた。大きな音を立てて寮の最後の柱も倒される。あとには、ただ瓦礫しか残っていない。

 ライさんはその光景を、涙に濡れてキラキラした眼で眺めていた。しかし、その表情だけは涙に濡れてはいない。

「……貴女ならそう言うと思っていましたが、実際に言われると困ってしまいますね」

 ライさんは握られた手を見て、眉を寄せて困る、というよりは照れていた。我ながら随分、このヒトの表情も分かるようになったと思う。

「す、すみません……出過ぎた真似ですかね」

 私もその表情に気づくと、なんとなく照れてしまった。慌てて手を離す。ライさんはその姿にまたふにゃりと柔らかい笑顔を見せた。

「いいえ、心強いです。確かに僕に課せられた使命とはいえ、僕には少し大きな仕事が過ぎます。それに、僕と貴女は同じ部署の上司と部下ですし、似た者同士で、相棒ですから……本当は僕からお願いするべきことでしょう」

 ライさんはそう言うと、私の手を取直す。やっぱりふにっとした。

「改めて、お願いします。僕と一緒にこの町と、全ての人とヒトの出会いを守ることを……」

「はいっ! 部長!!」

 私の返事が響く空は、あっという間に冬空。地域見回り中、と書かれた揃いのジャンパーは、ダサいけど誇らしく思えた。繋いだ白い手と黒い手の間に、一粒の氷の綿が舞い降りたのだった。

 あの春の花びらのように。

***

 春。それは気合の入る季節だと思う。

 桜の花びらを見ると思い出す。その花が似合う、白い毛並みを。

 春の匂い、としか言い様の無い香りが、もの悲しく感じた休み明けの空気を。

 そして

「ふぁっ……ふぁあぁっ、くしゅっんっ!!」

「部長、くしゃみはあっち向いてくださいよ……」

「しゅ、しゅみません、うぐ、ぐ……」

 アレルギー体質だと言うライさんのくしゃみを。

「常備薬はどうしました? 切らさなきゃ大丈夫だって言ったじゃないですか」

「アレルギーは別なんですよぉ……でも、今、病院が混んでて予約……はくしょんっ!! 去年は、忘れ、なかったのに、ぐしゅん! はぁ、はぁ、苦しい……」

 ライさんは激しく咳き込みながら、目を擦る。ちょっとお高い柔らかめのティッシュを鼻に詰め込みながら。大きめの箱に、動物の写真がプリントされているかわいいティッシュ箱を小脇に抱えていた。

「ま、全く困った上司ですね……」