こどもはたたかえない②
小さな町の小さな警察署。私はその地域課に勤めている。この普遍的な田舎町にある、たった一つの大きな違い。それは……
……動物の姿をしたヒト達が、人間と共に暮らしている。たったそれだけだ。私にとっては。
***
「おはようございまーす!」
「はい、おはようございます」
「おはようございまぁす!!」
「はーい、おはよう」
すれ違う子供たちが、私達に元気な挨拶を交わしてくれる。この町に来て一年とちょっと、ようやく花も散り、早起きしても肌寒く感じなくなった頃には、大分この朝のパトロールにも慣れた。私が生まれた隣町の都会では、子供が地域の大人に挨拶をする事など殆どなかったので、なんだかくすぐったい感じがする。
私とライさんの横を駆け抜けていく子供の一割程は、その背に尾を携えている。それは、私の隣を眠そうに歩く上司も同じ。最初こそ驚いたけれど……私にとってこれももう、当たり前の光景だった。
「ライさん、今日はなんか眠そうですね」
「ああ……昨日、夜に洗濯機の排水が詰まっちゃって。パイプ洗浄剤もなかったので、適当な棒でなんとか取ったんですけど、これが地味に体力勝負だったんですよ……ふぁぁ……」
そう言うと、ライさんは控えめにあくびをこぼす。温厚な性格に似合わない牙が顎から覗いた。
「やっぱり気をつけてても詰まっちゃうもんですか、ご自身の毛って」
「そうですねえ、どんなにブラシとかかけても手の届く範囲とか、見えてる部分……それも一部しか取れませんからね……お陰様で眠くて、眠くて」
「確かにそうですよね……でも、気をつけてくださいよー? 詰まりも寝不足も」
善処します、とやんわりライさんは笑う。その耳があっちを向いてたのを見ると、几帳面で真面目なライさんのことだ、薄々自分の健康状態については分かっていたけれど、睡眠時間より事の解決を優先したかった……という言い訳が見て取れる。
『黒猫のライ』と呼ばれている私の上司、ライさんは、地域課の部長で、先輩で、そして文字通り黒猫である。昔、とある企業の実験の元に生まれた種族であるライさんは、ペットとして虐待を受けていた過去に耐え、人間である『育ての父』の意志を受け継いで警察となった。
そして、地域に密着した警官として、人と獣人の平和を守るべく働いているライさん。だけど、虐待の後遺症や、そのお父さんが記憶に障害を持ち、記憶が巻き戻ったりなくなったり……なかなか思うようにいかない。私はそんなライさんの姿と、ライさん達を取り巻く歴史を知って、同じ地域課に属する警官として、日々、種族間の橋渡しが出来る人間として、己を磨いている……つもりなんだけどどうなんだろう? 実質的な『この町の地域課』の仕事は……やっぱり雑用係なのである。
「あれ? あそこに……これ、お財布ですね」
そんな雑用……もといパトロール中、私は行く先に何かを見つけて駆け出した。数歩先に転がっていたのは、モノグラムが型押しされた、ちょっといいお財布だ。朝露に濡れてはいるが、中身は無事らしい。
「落とし物ですかね、うーん……」
ライさんも覗き込む。「状態からして、昨晩ぐらいの落とし物みたいですね」と判断した。
「どうします? ……流石に住民の顔は分かっても、お財布まで把握してないですよね? 署に持って帰ります?」
「すみません、流石に財布は覚えてないです……署に持って帰ると、受け取るのにお手数かけるでしょうから、近くの交番に保管して貰いましょう」
ライさんは財布を受け取ると、そう言って来た道を戻る。が、数歩歩いて、私を振り返った。困ったように。
「……音胡さん、ついてきてもらっていいですか……交番」
「へ?」
青ざめた表情で、その耳をぺたんと伏せながら。
***
何故か急に顔色を悪くしたライさんがたどり着いたのは、『東交番』と書かれた小さな交番だった。この小さな町では、交番はなんと南北東西、各方角に四つしかないらしい。
「……音胡さん、渡してきてください」
「いやいや待ってください、何をビビってるんですか。言えば貴方が上司ですよ、この地域を統括する地域課の署員でしょ? 部長でしょ? なんでビビってるんです?」
「署員だからこそ都合が悪いことがあるんですよ」
「何言ってるんですかちょっとー!」
しかし、そんな交番の前で、何故かライさんのヘタレが炸裂した。警察署員なのにお巡りさんが怖いのだと言い、私に財布を押し付ける。いくらなんでも、署員が部下にビビってる姿は受け入れがたく、私はそんなライさんの背中を押して……コントのような押し問答は続いていた。
「……おい、何やってんだ」
「ひぃいっ!!」
そんなくだらない騒ぎを聞きつけてか、交番の扉はあっけなく向こうから開く。その中から響いてきた声に、ライさんはしっぽを逆立てながら飛び跳ねた。
「あ? ライじゃねえか……おい、何だよその態度。俺はキュウリかなんかか?」
「す、すみませっ」
「いちいちビビってんじゃねえよ、いつ慣れるんだよ」
「しゅ、みませ……」
「大体そんなビビリで署員やってんじゃねえよ」
「うっ、う、うぅ……」
ダメだ。普段から泣き虫なライさんだけど、盛大な小言ラッシュに完全に萎縮している。私はライさんがビビって放り投げた財布を拾い上げると、目の前のお巡りさんに押し付けた。
「そこの十字路で落とし物を拾ったんで、保管していただけますか? あと、うちの上司を泣かせないで貰えます?」
「泣くほうがどうかしてんだろ、テメーも口の効き方がなってねえな。つーか誰だよ」
ごもっともな意見ではある。しかし、彼自身の口の効き方がなってないな、と思ったので、私はムッとしながら質問に答えた。
「私は地域課署員の音胡です。ライさんの部下に当たります。どうぞ、お見知りおきを」
「ねこ、変な名前だな……キラキラネームって奴か……必要なのかね、あんな暇そうな部署に新人……俺は東交番の巡査、ケンだよ、まあ宜しく」
妙な自己紹介のタイミングではあったが、とりあえずお互い頭を下げる。ケンさんとやらは、そのまま乱雑に財布を受け取った。彼の人より鋭い爪が私をひっかきかけるが、間一髪、手を避ける。ケンさんは尾を翻して、財布を交番内に投げ入れた。な、なんて乱暴なヒトだ。
「……に、しても、ライさん以外にも警察、いたんですね。ライさん達の種族の方……。」
それはそれとして、私が気になったのは、ケンさんの種族だった。三角の耳、太い尾、小麦色の毛並み。見た目だけならどこか可愛らしいのに、態度がそれを残念にしている。彼は柴犬だった。性格さえ良ければ、本当に『犬のお巡りさん』って実在したんだなぁ、ぐらいの感想だったのだが、お巡りさんとは思いたくないぐらいの酷い扱いに、私の人間としての夢は崩れ去る。
「け、ケンさんは十八歳で……ここに所属したばかりですが……その、逮捕率がとても良い優秀な方です」
「十八歳? じゃあ私の方が完全に先輩じゃないですか」
ビビりながらライさんが解説した。ケンさんは耳をピンと立てると、割と大きな身体をぐいと引き寄せて、こっちに凄んでくる。なるほど、この横暴な態度じゃあ、小柄で気の弱いライさんは確かにビビるな……。
「いいか? こういうのは実質的に現場のほうが偉いんだよ、てめえ達と違って机や書類とにらめっこしてるのと違うんだ。ついこの間ちょっと刃物向けられたぐらいで、縦社会ぶってんじゃねえよ。こっちは日々、泥棒だ、強盗だ、認知症のババアだに毎日刃物向けられてるんだからよ」
「ちょ……っと、大変そうではありますけど、もうちょい言い方ってものがないんですか?」
「あぁ? てめえも上司なら少しは部下を労えってんだ」
今縦社会ぶるなって言ったのに……。と、私は完全に眉を寄せた。その態度に、さらに気を悪くしたらしいケンさんは、ずかずかと交番の中へ戻る。
「とりあえず落とし物は預かるよ、要件はそれだけなんだろ、目障りだからさっさと帰って書類でも眺めてろよ、泣き虫なお偉いさん」
そう言ってケンさんは私達を追い払うジェスチャーをしながら、乱雑にドアを閉めた。ライさんはその音に再度、ビクウッ! と肩を飛び跳ねさせ、深い溜息を吐く。
「かーーー!! なんですかあの態度!!」
「うっ、うぅぅ……ぅ、ぅうぅ……」
「ライさんも! もう泣き止んでくださいよぉ! 簡単に論破されるからナメられるんでしょ?」
「で、でも実際、彼の方が優秀なのは間違いないんですよぉ……僕なんて、うぅ、捕まえる前に自分がへたばってしまうので……前から思ってましたけど、やっぱり犬の方が現場に採用されるに決まってるじゃないですかぁ……」
ライさんは尚、泣きながら彼の事を説明する。完全に耳は伏せ、しっぽは力なく垂れているのを見ると、これは心が折れた、完全にバッキバキにされただろう。嫌がっていた理由が分かった。
***
「嘘でしょぉ……」
翌日、私は一人きりの机で頭を抱えた。ライさんが来ない。出勤時刻になってもパトロールの時間になっても電話一本来ない。どんだけ気にしてるんですか。そう言いたかったけど来ないので、ツッコむこともできない。
よっぽどケンさんの小言が刺さったのか、ライさんが出勤してこなかった。私は仕方なく一人でパトロールをする。今日は土曜日なので、いつもの小学校の見回りがない。休日だからか、町の様子もどこか穏やかで、正直ライさんが居なくても仕事に余裕はあった。
でも、いくら雑用部門とはいえ、居ない上に居なくても成り立つ上司ってなんですか。全校集会で挨拶の時しか目撃しない校長先生ですか。
「音胡ちゃん、おはよう」
「ああ、おはようございます!」
その見回りの帰り、すれ違ったのは、いつも草取りを手伝っているお家のおじいちゃん。署のOBで、ライさんのお父さんの元上司。ライさんが警官を目指すきっかけになった一人で、ライさんにとって第三の父親のような存在の人だ。
「今日は一人なのかい? ライは?」
「……どうも、出勤拒否のようです。連絡つかなくて。昨日、後輩にイジめられたんですよ」
そんなライさんに深い親交を持つ彼が、私一人が歩いている違和感に気づかない訳はなかった。私も素直に理由を述べると、ライさんのメンタルの脆さを良く知る彼は頭を抱える。
「……彼はそんな所ばかり父親に似てくるなぁ、全く」
「そ、そうなんだ……血も繋がってないのに嫌な遺伝ですね……」
私はその衝撃的事実に冷や汗をかきながら、彼の散歩に付き合った。最終的には家の軒先にお邪魔する。
「ライが居ないんじゃ、いつもの家事や草取りを頼むわけにもいかないしな……まあ、どちらにしろ用事はないから、少しゆっくりしていってくれ、話し相手でもしてくれよ」
「いえ、必要とあらば私一人でもやりますが……申し訳ないです、お邪魔しまーす」
ライさんとお父さんの元上司、という事は、私にとっても彼は上司に当たる。私は彼のご厚意に甘えて、縁側に腰を下ろした。春の風は寒すぎず暑すぎず、庭先で過ごすにはちょうどいい気温で落ち着く。彼は一度縁側から部屋に上がると、部屋の奥から一冊のアルバムを手に戻ってきた。
「君にこれを見てもらいたかったんだよ、ちょうどよかった。前に見たいって言ってたろ? ライが居ると見せるなってしつこいから」
「もしかして?」
「ライの子供の頃の写真だ。ライが家に置くのを嫌がってな、うちにあるんだ。」
ずっと見たかったライさんの子供の頃の写真だ。私は食い気味にアルバムを手にすると、ページをめくる。今より大人しそうで、でもやんちゃそうな黒猫の男の子と、がっしりした男の人が手を繋いでいる写真が目に入った。
「ライさんかわいいー!! あ、これが、現役の頃のライさんのお父さんですね」
「そうだ、ちょうどライが彼に飼われたばかりの写真だな……」
OBさんも懐かしそうに目を細める。しっかりしていた頃のお父さん。ライさんによって、双子を失った苦しみと向き合い始めたばかり。
「ライも、この頃はもう少ししっかりした子だったんだがなぁ……」
「……あの、私、ちゃんと聞いてないんです。ライさんのことも、双子のことも。あの事件で少しだけライさんは話してくれましたが、その後はまた話さなくなっちゃって……」
その姿を見ながら、私はこの頃のライさんの事に思いを馳せた。
部分部分、ライさんとお父さんが出会って助け合うまでは聞いたのだが、その間、その後の話は、ライさんの口から聞いたことがない。自分の事を話すのがとても苦手なヒトなのだ。
「ライは多分……話すのが怖いんだろうな。虐待の事もあるし、今の父親の状態のことも……いつもは気にしてないように振る舞ってるだけで、きっと責任を感じてる。彼とライは……ライが警察になる時にかなりモメたみたいでな……最後は喧嘩別れに近かったよ」
「そうだったんですか……私にはそんな事、一言も言いませんでした。お父さんはずっと応援しててくれて、気づけば様子がおかしくなって……ある日突然、って……」
そう言うと、OBさんは少しだけ悲しそうな顔をした。彼にとっても、ライさんのお父さんの記憶を失った事は、決して明るい話ではない。ここで聞きたい、と言うのは無茶振りだろうか、と私は眉を寄せたが、彼はすぐに微笑んでくれた。
「……私が分かる範囲でよければ、簡単に話そう。聞いたことは、ライには言わないでくれるかい? 一度怒らせるとちょっとしつこいからな」
「……はい、お願いします!」
私はそう言いながら、またアルバムをめくる。恐らくお父さんが着古したのであろう、ぶかぶかの大人のシャツを羽織った子供のライさんは、いつも朝、私が見ているような小学生の子よりずっと痩せた、小さな仔猫だった。
「当時はまだ、ライさん達はペット扱いだったんですよね……ライさんもお金持ちのお家のペットだった、って」
「そうだ。でも、遊び相手として飼われてたはずのライは……そこの坊っちゃんが亡くなって用済みになった。持て余した飼い主は、ライに虐待をした末に追い出した」
ライさんが受けた仕打ちは、ライさん自身が語った分だけでもかなり酷いものだった。殴る蹴るの暴力に、締め出し、閉じ込め、時には暖炉の火を押し当てられた事もあるらしい。今でもその後遺症に苦しむぐらいだ。想像以上の壮絶さだったと思うと、本当に居たたまれない気持ちになる。
「そこで行き倒れたライを拾ったのがスティーブだった……だが、当時のスティーブは、双子を亡くした事をまだ引きずっていた。双子が心臓の病で死んだ時、彼に罪を被せない為に自殺を装って亡くなった事を信じていて、自分が死なせたと思ってたからだな。仕事にも来ない、寮を抜けて一人で暮らしていた。ライの事も最初は、自分で飼うつもりはなかった」
この時の二人は、似た者同士だったのではないかと私は思う。お互い、自分の事も、他人の事も分からなくて、近づくのを恐れていた。こういうの、なんて言うんだっけ……。ヤマアラシジレンマ?
「私は、そんなある日にスティーブの家を訪ね、ライに会った。彼に軽く事情を話し、冗談のつもりで彼を寮に連れてくるように頼んだ」
「私とライさんが、先日『ライさん達を元の動物に戻す法案』という、書類を見つけた寮ですね」
私はそう言うと彼が頷く。ライさんが探し当て、そして燃やしてしまったあの書類。それが保管されていた部屋こそが、双子とスティーブさんが共に暮らした部屋だった。
「当時のままの部屋は、スティーブにとってトラウマに近かった。どうしても足を運べずに居た彼を、ライは自分が走ることで連れ出した。彼がライを見捨てないと判断して……まさか連れてくるとは思わなかったさ。そして、ライはあえて部屋をめちゃくちゃにして、双子が未だ立ち直らない彼を見て喜ぶのか、と訴えた……」
話は続いた。それからライさんが寮に頻繁に出入りするようになり、いつかの双子のように周りの皆に支えられて生きてきたこと。やがてライさん達に人権保護が決定し、彼らはペットから、人間と同じように義務教育を受けることになる。
ライさんの名前が『ライ』になったのも、ケンさんが『ポチ』から、名前を『ケン』に変えたのも、きっとこの辺りだろう。
「ライが警察官になりたい、と言い出したのは、小学校を卒業するぐらいの時だった。それまで寮に出入りして、皆にとっても家族みたいなものだったから、そう思うのは自然な流れだと思ったよ……でも、同時に誰もが無理だ、と思った。それまで『彼ら』種族の警官は居なかったし、警察と言えば『犬』。それにライの後遺症の事もあった。虐待の過去は、ライにとって……たとえ、新しい家族を手にしても辛いことだったろうし、良くしてもらっても尚、忘れられないっていうのは……ライ本人も悔しかったろうし、焦っていた様子だった。私達も悔しかったのと、心配だったからこそ、誰もが反対した。特にお兄さんは、自分も警察を志願しながら、ライの進学は望まなかった。」
OBさんはしんみりと言った。指先にはライさんの、ちょうどその頃の写真。撫でるように往復する。無邪気な子供の表情に隠された、辛い過去を癒やすように。
「唯一、反対しなかったのはスティーブだった。学校ぐらいには行かせてやったっていいんじゃないかって必死に頭下げて回って、その姿にあの二人の署名活動の事思い出してさ……最終的には皆で協力して……ライもライで、成績はずっと上位を独占して……そして警察学校へ入学した」
「……この頃はお二人とも、すれ違ってなかったんですね……」
OBさんは頷く。あの寮で最後に見つけた書類。スティーブさんがライさんを心配するあまり、彼らを動物に戻すことを願ったという証。書類を見つけた時にライさんに逮捕された、前の署長……ライさんのお兄さんも確かにそう言っていた。
「ライも、卒業したらこの町に配属されるように願っていた。スティーブもそれを待ってた。……だが、卒業間際になって二人の意見は急に食い違った。スティーブは、ライが警察になる事は勿論、仲間たち……関係者への接触すら止めて欲しい、と言い出したんだ。私は理由までは知らないが、ライはその言葉ずっと反発し続け、やがては町外に配属を希望した。勿論、スティーブの反対を押し切ってな……」
私はアルバムをめくる。そこには、卒業式間際だろうか、ライさんが学校らしき建物の前に立っている写真があった。その顔は……少なくとも私の目には、明るくは見えない。先のページにいた、無邪気な子供のライさんは居なくなり、きっと今と同じ、ですます調で話す姿が簡単に想像できる。
「結局、ライの配属は……知っている通り条件付きだ。こっちには彼ら専属の医者もいる。それでも諦めきれないライは粘ったようで、最初は町の外の交番に所属したんだ。でも、一回目で逮捕に失敗して、犯人を逃してしまった。追いかけてる間に発作を起こしてな……ライを心配した同僚たちは、町外ではもう扱えないとライを町に返した。そしてその後、すぐにスティーブの記憶喪失が見つかった……帰ってくるしかなかったんだ」
「そう、だったんですか……」
わざわざ、己に不利な方を選んでまで、ライさんはスティーブさんと離れたかったのだろうか? この町を信じられなくなってしまったのだろうか? その時のライさんの苛立ちや悲しみを想うと、とても悲しくなる。
「結局、この町で仕方なく、という言い方は良くないが、彼にとって不本意かもしれないと思うと、他人ながら辛いよ。自分達にとっても、子供みたいなものだから尚更な。仕事自体は喜んでやってはいるみたいだが……」
「……それが町に根付いた仕事をする地域課の部長、っていうのは皮肉な話ですね」
私は肩を落とす。アルバムの最後のページは真っ白だった。今の制服を着たライさんは、このアルバムの中にはいない。
「ああ、すまない、別に君は気にかける事じゃないからな」
慌ててOBさんは取り繕うと、私は深く頷く。ライさんが不本意でも、この町が好きだと言って仕事をしている姿は、ずっと見てきた。少なくとも全てが嘘じゃないと信じている。それに、それで私の仕事の何が変わるわけじゃない。私はライさんのしたい事についていくだけだ。
「と、まあ……話せるのはここまでかな」
「ありがとうございます……そろそろ戻りますね、ありがとうございました。」
OBさんはしんみりと、アルバムを閉じた。私は頭を下げる。そろそろ署に戻ろうかと立ち上がった所で、OBさんはまた口を開く。
「……いつだか、ライがうちに押しかけてきた事があった。『双子の事を教えてください、全てを知りたいんです』って……」
「ライさんが、ですか……?」
いくら己を救ってくれた双子の話と言えど、ライさんがそこまで積極的に知りたがるところが想像できず、私は驚く。OBさんは深く頷いて話を続けた。
「スティーブは、ライに双子の名すら言わないでいた。ライもその日まで、あえて聞いたりしなかった。だから、彼には知る権利があると思い、思わず話してしまったが、言わなければ良かったのかもしれない。あの二匹の死は壮絶すぎた。だから、皆ライの事には慎重になりすぎていた。双子が、双子がって話ばかりじゃ、ライもうんざりしたろう……ライだって……双子と同じぐらい大事な仲間のはずなのに……」
OBさんはアルバムをそっと抱き上げるようにして、元あった場所に戻した。その隣にあったのはもう一冊のアルバム。背表紙には何もないが、寮に残されていた双子のブランケットと同じ星柄のシールが貼られている。一瞬で双子のアルバムだと分かった。きっと、そのアルバムは最後のページまで埋め尽くされている事も、厚みから想像がつく。ライさんより、先に生まれて先に亡くなり、それでもまだ双子が皆の一番であるという証だ。
「もしかしたら、二人を変えてしまったのは自分かもしれないな……」
「そんな……関係ありませんよ! 貴方も、双子のした事だって悪いことじゃなかったはずです! ライさんは双子と同じぐらい、愛されてたって事も知ってるはずです!」
私は思わず反論する。ライさんがどんな気持ちで双子の事を聞いたのかは知らないが、そこにOBさんの親切はきっと関係ないはずだ。
「……でも、ライさんの寂しい気持ちは……きっと、まだ埋まってないんでしょうね……。埋めるのに、必死になっているように、私には見えます。」
でも、逆にライさんが、どうしても双子に勝てない……という現状も、知らないわけではない。双子が亡くなって何年と経過している今この瞬間も、私とライさんの周りには双子の痕跡が目や耳に入らない日が無いのだ。
「……そうだな……ライは、普段は物静かで穏やかだし、何が欲しいかも言わない。でも、小心者だが、やる時はやる奴だ。彼らに決して劣ってない。スティーブを連れてきたとき、そう思ったよ。正直、あの子のガッツには当時驚かされたさ……音胡さん、ちょっと苦労はかけるけど、あの子を宜しくな」
「お任せください、部下の勤めです」
そう言ってOBさんは笑った。私も少しだけ気まずい感情を胸の奥に仕舞って笑い、彼の家を後にする。
……なるほど、この環境で後輩に言い負かされていれば……そりゃあ出社する勇気なんかなくなってしまう。死ぬより身体を張った偉業を成して、評価されるのは難しい。厳しい事を言ったかも。私はちょっぴり落ち込みながら、署へと戻る道を歩く。
「ライさん、大丈夫かな……」
思い返せば寮の解体の時の誓い以来、ライさんはどこか忙しそうで、でも上の空で……頑張りすぎている印象がある。どうせ休むのなら、今日ぐらいは何も考えずに、ゆっくり休んでくれたらいいけど。
***
「泥棒だっ、誰か捕まえてくれっ!!!」
「!」
その道の途中、私の耳に響いたのは、そんな叫び声だった。私は一瞬慌てたが、ライさんの居ない今、どうにかできるのは私しか居ない。とりあえず声のする方向へと駆けていくと、曲がり角で何かモフッとしたものにぶつかった。
「あ、あわ、ごめんなさ……ああっ!」
「おっ、こっちこそすまな……って、なんだ、お前かよ」
慌てて数歩、後退して頭を下げる。顔をあげると、そこに居たのはケンさんだった。露骨に私の顔を見て苦い顔をする。こっちこそ『ゲッ!』ですよ。
「お前一人? ライは居ねえのかよ」
「そうだっ、ケンさんが先日いろいろ言ったせいで、今日は出社してきてないんですよ!」
「はぁ??? 本気かよそれ? ……っと、今はそんな事どうでもいいよ、いいからあの強盗追わねえと」
ケンさんは思い出したように、路地の向こうへ駆けていく男の背を追っていく。私もそれに続いて走り出した。
「ひったくりですか?」
「そうみたいだな……お前、人間の癖によく息切れないな」
「吹奏楽やってたので、体力と音感だけは、多少は。ケンさんこそ、足速いですね!」
「犬だからな」
会話こそ、仕事上穏やかではあったが、私達の足並みはまるで競うように早かった。事件を解決したい気持ちも勿論だが、ここで私が手柄を取れば、それはライさんの手柄にもなる。逮捕率がライさんにとってのコンプレックスであるならば、その数を少しでも稼いであげたいという気持ちもそこにあって、私はケンさんを抜かすつもりで走った。
しかし、それよりも圧倒的に、強盗は速かった。常習犯なのだろうか、手際も嫌によく、自分たちを巻こうとしているのが嫌でも分かる足取りだ。
「くそっ、俺から逃げられると思うなよっ」
「そういうのは追いついてから言うもんですよ!」
ケンさんもそれなりに速い方なのに、スレスレ追いつけない。どうやらイライラしはじめたようだ。
私も焦る。とにかく、このままでは逃げられてしまう。気づけばケンさんが管轄するエリアはとっくに通り越してしまっていた。私はライさんとのパトロールで慣れた道だけど、ケンさんは明らかに慣れない道であることに困惑し始めているみたいだ。
「……そうだ! ケンさん、そのまままっすぐ追いかけてください! 三つ目の信号までにギリギリ追いつけてれば理想です!」
「はぁ? ……分かった、ちょっとだけペース上げるぞ」
地の利はこちらにある、と確信した私は、犯人が逃げる道から一本それた路地裏へと入り込んだ。身のこなしにはそこそこ自身がある。商店街の裏道でもあるその路地裏は、お店の勝手口が並んでいるとあって、使い終わったビールケースやら、ゴミ箱やらで走りづらかったが、私は構わず、時にはハードル走のように飛び越えながら先を急いだ。陸上部にでも入部しておけばよかったか。
「っぁっと!! す、すいませんっ!!」
とか余計な事を考えていると、道上のバケツを蹴り飛ばしてしまう。急いだ様子の私に、居酒屋の店主さんは苦笑いで許してくれたので、私は頭を下げた後にまた走る。ケンさんが追いついている事を信じてただひらすら走る。
ライさんと寮に行ったあの日から私はヒールを履くのを控えるようにしていた。やはり、大人のフリをしては走り出せない時っていうのはあるもんだな、と思う。これはライさんが教えてくれたことだ。
***
「……やってしまいました」
僕は無事な方の腕に付けた腕時計を見て、気まずい気持ちにため息を吐いた。音胡さん怒ってるよなー、怒るよなぁ……。怒られたくないなぁ……。
とりあえず署に電話をしたら、音胡さんがサボりだと愚痴ってた、という笑い話に終わってしまい、謝ることすらできなかった。とりあえず署に戻って、皆に頭を下げに行くのが先か……それとも、音胡さんを探して合流するのが先か、家に戻って着替えて出勤するか……。
病院からの帰り道を僕はとぼとぼ歩く。どうするか、どうするか……いつもより優柔不断なのは、昨日散々言われたのも関係しているのだろうか。足が向かない。行くのが怖い。
父の書類の一件で、音胡さんにはかっこよく頑張るなどと宣言してしまったけれど、この流されるがままに始まってしまった、地域課部長という人生は、正直今でも自信がない。
僕に務まるのか、何をしたらいいのか。何が出来るのか。何のためにやるのか。仕事は好きだけど、好きだけじゃ成り立たないものがいっぱいある。僕はいつでも力不足だ。
「結局、僕はあの日から止まったままなのかも……」
立ち止まる。本当にこのままサボってしまったら、僕はクビになるのかな。町の雑音で周りだけがうるさく忙しそうに回るのを見ていると、本当に時間に取り残された気分になった。……本当は、周りよりずっと短い時間を生きるはずなのに。
『泥棒だっ、誰か捕まえてくれっ!!!』
「!!」
そんなにぎやかで平和な町に響く、誰かの声に僕は弾き出される。たとえ迷っていても、どんなに怖くとも、根っからの不真面目には……警官の父の遺伝がさせてくれなかった。血は繋がってないのに、不思議な話だけど。
僕は一瞬だけ、薬の事を確認してから声のした方向へと走り出す。前回のようなミスはしない。今日はまあ……ちょっとだけ、本調子じゃないけど、走るぐらいなら問題ないはず。
先程の声を頼りに一本それた道へ飛び出ると、その視線の先には逃げる犯人と……それを追うケンさん。そして、さらにそれを追う音胡さんがいた。
「……音胡さん……っ、よしっ!」
僕はもう一つ先の路地を行く。交通の事を考えれば、確実に犯人はあっちへ曲がるはずだ。長く住み慣れた町を知る、僕にだからこそ出来ることはまだある。強引にでもそう信じた。
***
「ケンさんっ、はぁ、追いつきましたかぁー!!??」
「るっせえ、っ、はぁ、はぁあぁ、追いついてるよ!!」
私は路地裏から大声を出す。町並みの向こう側から、ケンさんの声が微かに聞こえた。彼も私も、耳が良くて良かった。どうやらまだ距離は離されていないみたいだ。
「そのままお願いします!」
「おうよ!」
私は大体の彼らの位置を確認すると、次の曲がり角から元の道に戻った。ここからでなければ、私が走る路地裏は、元の大通りに合流できない。この道を使うのは地元の人ばかりだから、大通りを逃げるようなよそ者では、見落としてしまう小さな道。
「逃しません! 降参して荷物を返しなさいっ!!」
つまり、不意をついた挟み撃ちのつもりだった。
「っ!!?」
「よしっ、大人しくしろっ!!」
私とケンさんが同時に犯人に飛びかかる。犯人の男は一瞬狼狽え、私の指先が犯人の腕に触れた。が、そこにぶつかってくるケンさんの腕。一瞬ひるむ私とケンさん。
「ぐっ、捕まるもんか……!!」
「「ああぁ!!」」
そしてその一瞬を突いて、犯人は私達の腕の中からするりと逃げ出した。素早い。よくよく見るとかなりマッチョな男だ。アスリート並の肉体を持っている。その鍛え方を別の事に行かせないのか、ちくしょう!
「ったぁ……おい、不意打ちするならひるんでんじゃねえよ!!」
「こっちの台詞ですよ! 何ビビってるんですか!? ライさんですか貴方は!」
「お前、直属の上司を暴言の例えにするなよ!!?」
「貴方に言われたくないですよ!!」
悔しさに再度、私とケンさんは言い合いになる。が、そんな事をしている場合じゃない。数秒で正気に戻り、私達はまたひとつ隣の路地に逃げようとする犯人を追おうとして……足を止めかけた。
「ああっ、信号がっ……!」
「っ、くそっ、逃げられるぞ!」
反対側の道路に設置された信号が点滅になる。犯人はもう少しで渡りきってしまうが、私達が渡るには余裕がなかった。大通り沿いの道は交通量も多く、いくら犯人を追うにしても無視できるような信号ではない。あの足の速さでは、信号が青になった頃には見失っているだろう。
もうダメか……私は諦めかけたその時。
「音胡さんっ!」
「ライさん!?」
信号の向こう側から走ってきたのは、左手のシャツの袖を抜き、テーピングを肩に施したままのライさんだった。タイミングだけならまさに救世主のそれなのだが……なんというか、ひと目で『左腕痛めてます』感がすごくて、全然頼もしくない。特にあのマッチョ犯人を見た後では、ライさんの身体は棒である。
「ライさん、危ないですってー!」
と、それはともかくとして、犯人はライさんを突破しようと向かっていく。ライさんは通りがけに信号の歩行者ボタンを押し、そのまま犯人へと正面突破していった。ビジュアル的に勝ち目がなさそうなので、私とケンさんはそれを、ただアワアワしながら見つめるだけだ。
「……もう逃げられませんよ!」
「うわ!? ぐぁあぁぁっ!!」
しかし次の瞬間。ライさんとすれ違おうとした犯人が、軽く投げ飛ばされ、そのままライさんに腕を捻られて、横断歩道の上に横たわっていた。
ダァン、という音を、脳みそが後から認識する。
信号は変わったが、その鮮やかな投げに、車は一台も動こうとしない。皆窓を開けて身を乗り出しては、おぉ……という吐息を揃えて吐き出している。
「……ふぁ?」
「………え? な、何が起きたんだ?」
ライさんが押したボタンのおかげで、信号は再度、青に変わった。ぱっぽー、ぱぱっぽー、と間抜けな音が、ぽかんとしたままの交差点に響く。
結局、犯人はすんなりと逮捕に応じて、荷物は返してもらえた。ライさんの警察手帳を掲げて逮捕出来た、久々の犯人だ。……ただ一人、『前の署長』を除いては、だけど。
「すみません、遅くなりました」
照れ気味にライさんはそう言うと、空いた右手で頭を掻いた。私は言いたいことが多すぎて、逆に口が動かない。パクパクと宙を食んでいた。
「遅えよ」
代わりに口を開いたのはケンさんだった。不機嫌そうにライさんを睨み、腕を組む。腕組みはどうやら癖らしい。
「ひぃぃ、すみませんっ」
「ちょっ、ちょっと、うちの上司いじめないでもらえますか!?」
そんなケンさんの態度に、ライさんは萎縮する。私は咄嗟にライさんをかばった。
「う、うぅ……さすが音胡さん、男前です」
「えっ? ちょっと待ってください今なんて?」
お、聞き捨てならない印象を持たれたようです。誰が男前ですか。それを言うなら、ライさんも、年齢と性別に似合わず可愛らしいと思いますけど……というのは言わないでおく。
「……はぁ、なんなんだよお前ら……気が抜けるわ……つーか、さっきのどうやったんだ?」
ケンさんはそんなライさんの様子に、逆に呆れて冷静になったらしい。ライさんは、至って普通に「あぁ」と声を漏らすと、右手を伸ばした。
「何と言うことはないですが、武術のひとつですかね。腕を捻り上げて、足で身体を浮かせて……背負投げの要領で……力はそんなに要らないので、護身用として覚えたものです」
ライさんはその腕をひねる真似をして、ぴょこんと爪先を蹴り上げる仕草をする。筋肉や骨の流れを利用した護身術。前にもそう言えば使ってましたね……。
「なるほど、相変わらず勉強熱心なこった……どうして今まで使わなかった?」
「追いつかなきゃ使えないですから……音胡さんとケンさんが犯人を追いかけ回して、スピードダウンしてなければ、道を知ってても追いつけなかったと思います。お二人とも、速くて羨ましいです」
ライさんはそう言うと、寂しそうに笑う。またこの笑顔だ。仕方ないや、みたいなライさんの顔を見ていると、私はどうしてもほっとけなくなる。
「そうだっ! ライさん、どうして今日、朝から来なかったんですか!」
「あっ!! すみません……先日の洗濯機の詰まり取ってたら、腕を痛めてしまってたみたいで……電話してから病院へ、と思ったのですが、電話も調子悪くて繋がらずで……事後報告になってしまいましたね」
私はライさんが来なかったことを思い出し、問い出す。ライさんは恥ずかしそうにそう言った。ちょっと呆れる。どんだけ力づくで自分の毛の詰まりを取ったんですか……。
「……痛み止め打ってテーピングしてきましたので、心配ないかと……」
「そっちの心配はしてませんよ……はぁ、私はてっきり昨日のボロクソが効いたのだと」
ふんわり微笑むライさん。私は突っ込みを入れざるを得なかった。
「…………まぁ、そっちもちょっと、というか……かなり、足が遠のいたのですが……」
その問いにライさんは気まずそうに目線を泳がせる。ケンさんは深い溜息を吐いた。
「はぁ、本当にお前らが上司かと思うと、バカらしくなるよ……でもまあ、全員無事に捕まえられたし良かったな、じゃ、これで俺は帰るから」
ケンさんは完全に脱力したのか肩を落とすと、手を振りながらそっぽを向いて来た道を戻り始める。その腕をライさんが引いて止めた。どうしたんだろう、と思った瞬間、ライさんの口からこぼれたのは衝撃の発言だった。
「待ってください、今回の手柄は貴方のものですよ」
「ええっ、ライさん待ってください! 捕まえたのはライさんですよ! 逮捕率だって気にしてたじゃないですか!」
私は慌ててその発言を撤回させようとする。私が何のために路地裏走ったと思ってるのか。そして、昨日自分で言ってた逮捕率の話はなんだったんですか。
「……僕はいいんですよ。彼は地域のお巡りさんですし、地域の人を助けた功績を頂くのは地域思いの彼の方が合ってます」
ライさんは妙に寂しそうにそうつぶやいた。まるで、自分は功績が要らないかのように。他に欲しいものがあったかのように。それが見つからなかったかのように。
「……ライさん?」
その姿に妙な違和感を覚える。私は思わず声を漏らしたが、ライさんは無視した。
「何だってー聞こえねーあーあー聞こえねー俺かーえろ」
ケンさんもその違和感に気づいているらしく、耳を塞ぎ、ライさんの腕を振り切って先を歩き出した。このままケンさんが帰れば、ライさんは手柄を渡さずに済む。その思いで足を進めていく。
「……ポチさん」
「あぁ!?」
が、次にライさんが口にした名に、ケンさん……否、『ポチ』さんは振り向いた。
「てめえっ!! その名で呼ぶなと!!!!」
「え、ええ……ケンさんの本名って、『ポチ』なんですか……?」
慌てて戻ってきたケンさんは、ライさんの胸元を鷲掴みにした。ライさんは少し意地悪そうな顔でにこりと笑い、「聞こえてるじゃないですか~」と茶化す。……私はそれより、ケンさんの本名に衝撃を受けていた。
「しかたねえだろ、元々ペットだったんだから。それが突然、人権保護されて義務教育受ける羽目になったんだ、飼い主、つーかお袋と親父にに申し訳ねえよ。突然ペットから息子が増えて、学費までかかる。それで一生懸命勉強しても、許可が無いと、この田舎から出ることが出来ないんだから、おまわりさんにでもなるしかないだろ。幸い犬だって理由で良くしてもらってるからさ。」
「な、なるほど……それにしても、ポチ……」
「あー、もうっ、バラされたくなかったのに……ライ、覚えてろよ」
私は顔に似合わない可愛らしい名前に、一瞬吹き出しかけた。ケンさんはライさんを睨んでから、しっぽを振り回して私に必死の反論をする。ついでに、なぜお巡りさんをしているかの理由も勝手に喋ってから、一人でむくれた。
「ですから、親御さんに成績をプレゼントなさったら良いじゃないですか」
「……要らねえよ、おこぼれの成績で喜ぶ程馬鹿じゃねえ」
ケンさんはライさんの提案をすっぱり断る。態度の割には、ケンさんは意外といい人なんだな……。しかし、そんな彼のぶっきらぼうな優しさは、ライさんには届かないようだ。
「あんたこそ、成績を親父さんにプレゼントしねえのかよ」
「……した所で彼は喜べもしませんよ」
その一言にケンさんは黙る。彼も、ライさんの家の事情は流石に知ってるらしい。変な空気になってしまったのを気まずく思ってか、ケンさんは頭を抱えた。仕方無そうに目線を逸らす。
「……っ、まぁ……なんだ……『俺ら』は、簡単には……行かねえよなぁ」
「そう、ですね」
ライさんもうつむいてしまった。しんみりと二人で遠い目をした後、ケンさんは私の肩を叩く。
「お前は良かったな、人間でさ」
えっ? なんなんだこの空気。折角、せっかく逮捕成功したのに、一瞬にしてお通夜みたいになってしまった。私はしょげてる二人を見て、居ても立ってもいられなくなる。
「あぁぁああぁあぁぁっ! もうっ!!」
「あ?」
「ひ、ひえっ!? ど、どうされました、音胡さん!?」
いよいよ、私は空気の重さに耐えられず叫びだす。ライさんは驚きにしっぽを逆立てて飛び跳ねた。
「辛気臭い!」
私は急に怒りだしたように、そう叫んだ。ライさんは目をまん丸くさせて、ケンさんも私の雄叫びに思わずひく。
「え、ええ?」
「あなたたちって諦めが早いのが習性なんですか?」
「あ? お前な、喧嘩売ってるのか?」
私は上司と後輩のどっちにも失礼な発言を二人に浴びせた。唐突な私の暴言に、ケンさんも喧嘩腰になり、ライさんは明らかにオロオロし始める。
「業績は三人で半分こです、いいですか? 私とケンさんが〇.三人で、ライさんが〇.四人逮捕です」
「細けぇ……」
「なんか、嫌ですねその表現……」
急な案にケンさんは再度ひく。ライさんはどうやらバラバラになった犯人を想像したらしい。青ざめた。
「ケンさんはもう少し警官らしく、多少はライさんを見習って穏やかになってください! 貴方の地域愛は、幸い地域の方にも伝わってるみたいですから、後は礼儀を身につければ親御さんも安心かと思います! ライさんがケンさんに勝ってる要素と言えば、それだと思います!」
私はこの際、失礼ついでに思っていることを全てケンさんにぶっちゃける。ケンさんは耳としっぽをしょげ、口をとがらせてモゴモゴ呟いた。
「っ……わ、わかってる、よ……。俺、警察入る前は族だったから口調が抜けねえっていうか……羨ましいんだよ。一応、酷いことはされてたとはいえ、ライはいいお屋敷の生まれだし、育ちは警察関係者に囲まれてるし……しがない普通の家庭のペットだった俺が、まともな警官になるのが怖いつーか……」
「……ポ……じゃなかった、ケンさん……。僕なんてただ、流されるままに就いただけの、名ばかりの警官です。こうして署員で居られるのも、父の名があったからで……」
ライさんの謙遜がまた飛び出る。私は怒りついでにライさんにも怒りの矛先を向けた。
「ライさん!!」
「ひゃいっ!!??」
急に私に名前を怒鳴られたライさんはいつもどおり、ビクリと肩を跳ねさせて、しっぽを足に挟んで完全な怯え姿勢に入る。
「ライさんの悪いところはそれですよ! 自分を下げて相手を上げるのは、逆に失礼に値します! 貴方は上司である己を、上司として威厳をキープすべきです!! それが礼儀です!!」
「ふ、ふぁい……!?」
ライさんは驚いたまま、曖昧な返事を返す。完全に目が泳いでいるので、その言葉が頭に入っているかどうかは分からないが……。
「……私、先日の書類の事件の後考えました。ライさんについていって、ライさんと共に頑張るための目標として……ライさん達の種族を、もう少しだけ……もうちょっとだけしがらみを解きたい。人間と変わらない所まで、解放したいと思っています」
「!」
「それって……!」
ケンさんとライさんは、同時に驚き、顔を見合わせた。私はまるで威張るように、言葉を続ける。ふっ、と優しく微笑んで二人と向き合った。
「ですから、お二人とも……どうにもならない、とか言わないでください。ペットとして成せなかった使命を諦めて、謝らないでください! 境界線なんて、いつか忘れさせてあげますから!」
私は二人の手を取って、そう宣言する。道のど真ん中で。数秒遅れて、驚きから言葉を反芻するまでの時間を使ったライさんは、急速に目を潤ませる。
「ふっ、ぐぅ……うっ、うぅ……うわぁあぁぁぁ!! どうしてそんなに、音胡さんだけかっこよくなるんですかぁぁあぁあ……!! 本当にかっこいい!! 僕には勿体無い部下です!!」
ライさんは目も鼻もぐしょぐしょにしてガチ泣きしていた。
「うわ、きったね……」
「……手、放していいですかね」
「ひどい!」
その泣きっぷりに、ケンさんと私は本気でひきました。
***
「では、私は先に署に戻りますから! ライさんもさっさと着替えて出勤してくださいね?」
「……はい、すみません……いえ、いろいろとありがとうございます。」
ライさんに釘を指して、私は先に署に帰ることになった。ライさんが来ないと進まない作業もあるので、このままサボらないように、ケンさんに監視をお願いする。とりあえずライさんには、ちゃんと着替えてから出勤して来るように言いつけた。
そして、私が去った後、ケンさんはライさんの耳元にこう呟いた。
「聞きたいことがある」
「……どうぞ」
「自分が不気味じゃねえのかよ、お前は」
すっかり平和を取り戻した町中に、溶けるような小さな声で。その場を立ち去った私の耳には届かない声で。
「……不気味ですよ、僕らは。人でも動物でもない……どちらにも受け入れられない生き物だ」
「変えてくれるかな、あいつ。……とてつもなく、いい子だけどよ」
「………どうでしょうね………そう、なればいいですね」
***
「よう」
「あっ、ポチさん、お久しぶりです!」
「その名で呼ぶなっての!!」
強盗の事件から一ヶ月も経った後、地域課の窓口にやってきたのはケンさんだった。
「ポチさんじゃないですか、どうされました?」
「お前もかよ、ライ! ……まぁ、いいや。この間の逮捕の処理が終わった報告と詫びを兼ねて、近所の和菓子屋のまんじゅう持ってきた」
給湯室から出てきたライさんも、同じく彼をからかう。ケンさんは最早こっちのペースに呆れながら、カウンターに白い紙袋をどっかりと置いた。
「別件のお礼で貰ったけど食い切れねえんだよ、貰ってくれ」
「……いや、頂けるなら貰いますけど、何のお礼をしたら食べきれない程貰えるんですか……」
「あのばあちゃん、ちょっとボケてんだよ……俺は荷物を運ぶのを手伝っただけだ。俺は甘いの、そこまで得意じゃなくてよ……ライは好きだったよなと思って」
ケンさんは顔と態度に似合わず、そんなベタな親切までやってのけるらしい。私生活で私は『道路の反対側まで荷物を運びながら横断歩道を渡る人』を、ライさん以外で見たことがなかったので、その光景をケンさんがやってるかと思うと、多少、いや、かなり面白い光景だと思った。
「おい、笑ってんじゃねえぞ、似合わねえとか思ったろ今!」
「ワラッテマセン……」
私は慌てて誤魔化すように、紙袋の中身を確認する。丸く綺麗に包まれたおまんじゅうがびっしり並んでいた。私とライさんはちょうど、書類の片付けが終わって一息つこうか、というタイミングだった。思いがけないお茶菓子の入手と来客に、ライさんは慌ててお湯を沸かす。
「丁度、お茶淹れるところだったんですよ、ケンさんもお茶、飲まれます?」
「いいよ、もう交番帰るから。あとオメーの淹れた茶はぬるい」
しかし、その誘いにケンさんは首を振る。ライさんはその発言にちょっと口を尖らせた後、貰ったおまんじゅうにかぶりついた。どうやら気に入ったようで、嬉しそうに食べ始める。
「あっ、甘みが丁度良くて、餡もたっぷりで美味しいですねぇ、これ」
「あ、本当ですね! 生地もしっかりしてます」
「いやあ、こういう時はヒトで良かったと思いますねぇ……猫は甘みの感覚ないですから」
私も一つ拝借する。確かに美味しい。綺麗に包まれた生地は見た目にも美しいし、職人って凄いなぁ、とぼんやり思う。ケンさんの記憶通り、ライさんは甘党らしく、甘みを感じれる事自体を噛みしめるようにおまんじゅうを食べていた。うん、成人男性だということを忘れそうなぐらい、いい笑顔です。
「しかし、お前ら本当に仕事してるのか? ヘラヘラしてんなぁ」
「サボってるみたいな言い方やめてくださいよ! 今、偶然休憩に入ってただけです! ほら見てこの書類の量を!」
そんな私達の和やかムードに、ケンさんは呆れた様子で突っ込んだ。私は机の上の書類の束をボンボン叩いてケンさんに見せつける。
「まあ、現場の方あっての僕らの仕事ですから」
「まーたライさんはそういうこと言って!!」
ライさんはまた穏やかに笑って、謙虚というよりはちょっと卑屈な持論を持ち出した。
「書類といえば、お前らが見つけただか燃やしただかだっけ? ……の書類さぁ」
「前署長の逮捕の時のですね」
「そう、それ。もう一枚は結局どこ行ったんだろうな、ってこっちではもちきりで、よ……?」
唐突にケンさんの言葉が失速する。私はふと顔を上げ、ライさんを見上げた。ライさんの顔色が確実に鋭くなり、さっきまでワイワイしていた署内が一気にシーンとしたのが肌ですら感じ取れる。ケンさんの顔色が、その無音と共に去っていくのも分かってしまった。
「…………え?」
ライさんの口から、冷たい一音。
「なんですか、それ? ……僕が聞いてない案件ですね?」
温厚さの欠片もない声色で、ライさんの目が細くなる。ケンさんの尾がぞわわっと逆立った。私も鳥肌が立った。完全に空気は凍った。最早まんじゅうの甘みなど、感じない程に冷え切った空気が周囲を支配する。
「…………わりぃ…………めっちゃ、口、滑らせたわ…………。」
***
ケンさんの説明を要約するとこうだった。
去年、私とライさんが、スティーブさんの部屋で見つけた『ライさん達を元の動物に戻す方法案』の書類。その前に出された『動物に戻すためのシステムの実験許可証』という書類があった、という記録が、倉庫から出てきたのだと言う。
そして、そのシステムの被検体が人間である、という事もそれには記載されているらしい。
それは、『ライさんには内緒』という前提で、署内で噂になっていた。恐らく、前の書類がライさんにバレずに回収できた時には、この書類も探すことになっただろう。ライさんがあの書類を燃やした今、記録に残っている方のこの書類はどうするべきなのだろう……と。
しかし、署外で働くケンさんの耳には、「ライさんには内緒」という、前提は殆ど薄まっていたようだ。
それが『口を滑らせた』の真相だと、ケンさんは語った。
「……他に知っている事はないんですか?」
「…………」
「本当にないんですね?」
「…………」
ケンさんは滑らせた口を両手で押さえ、ブンブンと首を横に振り回す。耳も一緒にプルンプルン震えていた。
「ライさん、もうやめてあげてください、尋問みたいになってます。ケンさんにもお仕事があるんですから……」
「……すみません」
「い、いや……こっちこそ、ごめんな……」
普段とは逆に、ケンさんが完全に萎縮してしまっている。私は慌ててライさんを引き剥がすと、ケンさんは文字通り尻尾を巻いて、地域課のカウンターから逃げ出した。
「……だから組織ぐるみって嫌なんだ、大事なことばっかり隠して……」
ライさんは相当機嫌を悪くしたようだ。いつものですます調も忘れ、ぼそりと物騒な事を呟いた。
「ら、ライさんほらっ、今は今ある書類の話をしましょう! 終わったやつから提出!」
「…………。そうですね、ひとまず報告してきます。ケンさん、おまんじゅうありがとうございます、和菓子屋さんにも宜しくお伝え下さい。お手数おかけしました。」
「お、おう……?」
私がライさんの気を仕事に引くと、ライさんはまた温厚そうに微笑んで、部門を出ていった。ビビったままのケンさんと、その切替えた笑顔に内心震え上がっていた私は、彼の背を遠目に、二人で深い溜息をつく。
「「こ、怖えぇ……!」」
ケンさんと私の声が見事なまでにハモったのは言うまでもない。
「どうするんですか、ケンさん、いや、ポチさん」
私はケンさんの背に冷ややかな目線を送る。ケンさんはすっかりライさんの豹変ぶりに、肩をビクつかせた。
「俺のせいかよ!?」
「……いえ、違いますね……黙ってた皆の責任でしょう」
ライさんが、嫌がる気持ちも、皆がライさんを想って隠し事をする気持ちも、どっちも分かる。分かるからこそ、まだ知らないことばかりの私は、何も言えないことにまた、悔しく思うのだった。
***
その翌日。またライさんは出勤してこなかった。なんとなくそんな予感がしていた私は、今日も一人。
前みたいにちょっと病院行ってから、という事でもないらしいのは、地域の見回り中に通りがかった、あの介護施設で聞いたからだ。
「スティーブさんの息子さんなら、朝来てましたよ」
「……様子はどうでした?」
「特に変わらないご様子だったと思いましたけど……平日にお休みとは珍しいな、と……」
どうやら朝早く、ライさんはお父さんと面会しに来ていたらしい。職員さんは不思議そうにそう答えてくれた。あの事件以来、ライさんとお父さんであるスティーブさんの関係がどう変わり、『おじいちゃん』と呼んでいたお父さんを、今はどう呼んでいるのかも私は知らない。
そんなライさんが、仕事をサボってまで、彼とどんな話をしたのだろう。前の書類の事も知っているのかどうか、探りに来たのだろうか?
「……お姉さん、前にも、会ったな」
「………!」
そんな話をしていると、車椅子を不器用に転がして、スティーブさんが玄関に顔を出した。心なしか、前会った時よりしっかり喋るようになっていて、病状が軽くなったようにも見える。
しかし、ライさんは前に『一瞬だけど普通に会話ができた』と言っていたので、もしかしたら今日だけ調子がいいだけなのかもしれない。
「どこで会ったんだっけなぁ、同業者だよな?」
「……私は」
口調がしっかりしているとはいえ、彼がライさんの事を覚えているかどうかは分からない。安易に息子さんの部下です、とは言わないほうがいいかもしれなかった。もしも、彼の今の時間が、ライさんが警察になる前、反対している時期の記憶だったら、婦警の部下がいるなんて知ったら……そんな考えを巡らせていると、何も言えなかったのだ。
「……最近配属された者です、今日はご挨拶に伺いました」
「そうかぁ、まあ頑張ってくれよ」
私は適当な……嘘、ではない何かで誤魔化して、施設を後にする。
次に向かったのはOBさんの家。何かあると彼を頼るのはなんだか申し分けなかったけれど、ライさんの足取りを辿るには一番確実だったからだ。
「ライは来てた、が……まさか休んで来てたとは知らなかった」
「え?」
「いつもどおり、ちょっとだけ家事を手伝ってくれて帰って行ったよ。制服も着てたし……でも、君が居なかったから少し変だな、とは思ったが、フリだったとは」
OBさんはそう言うと、思い出すように頭を捻る。
「……なんか、変、ですね」
「………そうだね、あの子が、フリまでして会いに来るなんて変だ」
ライさんは、どこか素直じゃない。それは皆が知っていることだ。しかも、あの真面目なライさんが、仕事に行きたくないと思うほど気持ちが落ち込んでいる時に、わざわざ親にも近い人の前に現れて、いつも通りを装って手伝いをするなんて事は……普通はない。バレないように、静かに、静かに一人になりたがるのが彼だ。
それに、ライさんの嘘は分かりやすい。しっぽも耳も、顔よりよく動く。休んだことに気が引けてる時に、仕事中を装うなんて出来るヒトじゃない。
「音胡さん……もしかしたら、ライはもう、『諦めてしまった』んじゃないだろうか……」
「……っ、そん、なの」
昨日の話をOBさんにもすると、OBさんの表情はあからさまに曇った。
「もうひとつの書類の事実に、何か心当たりがあるのかもしれない。スティーブがどうしてライの事を元の動物に戻そうとしなかったのか。ライの代わりにそれを使った人間の被検体が誰なのか……。もう、ライは危ないかもしれない、自分のせいだと思いこんで……責任を感じてるのかも……」
縁起でもない言葉が彼の口から溢れる。
「や、やめてくださいよっ!」
「! そ、そうだな……すまない、縁起でもない話だ」
私は思わず叫んだ。
「ライさんは、確かに自分に自信もないし……お父さんとの事はいつも気にされてたみたいですが、そんな事で約束を投げ出すようなヒトじゃないですよ! 私、約束しました。寮の取り壊しの時に、一緒に……町の為に、双子の意志を継ぐだけじゃない、越えよう……って!!」
そこまで言い切って、私はふっとライさんの最近の姿を思い出す。今までなら体調より、気持ちより、職務を優先するだろう。そもそもあのヒト、病院嫌いじゃないか。怪我で遅刻なんてしなかったし、その後だって、逮捕をケンさんに譲ったり、昨日は急に口調が乱暴になったり……。考えてみたら確かに、らしくない。急に嫌な予感がした。
「……OBさんは、もうひとつの書類……ご存知だったんですか?」
これは早急に前の書類も探さなければならないのでは、と私は焦る。順序としてはライさんを探すのが先かも知れないけど……とりあえず手掛かりをOBさんが知っているかどうか聞いた。
「……噂は耳にしたよ。でも、それが何処にあってどんなもので、そして誰が、どんな理由で、そしてそこにスティーブがどう関係したのかは知らない。被検体が人間だったとして、どんな変化が起きるのかも……少なくとも、寮にはなかったはずだ」
「それは私も同行してたので知ってます……可能性があるとすれば、前の署長、ですかね……」
私は首を傾げて深く考える。やっぱり、前の書類の在り処を知っていて、それをライさんに触れさせまいと工作した彼が、一番近い人物なのではないだろうか?
「……行ってみるかい? 君は被害者だし、本当は会わせちゃいけないんだろうけど、ルールと命……どっちが大切だろう?」
「勿論、仔ウサギ達が己の大事な物を差し出してでも救いたいと思ったほうです!」
私が唸っていると、OBさんはそう言って腰を上げた。私はその言葉に、深く頷く。
***
「……すまない、そこまでは……私が知るのも『書類があり、被験体が人間だった』という記録だけだ。父からも直接聞いたわけではない。私が隠したかった方の書類だって、『レイルに不都合な書類』という理由で処分するつもりだったんだ。無いものをわざわざ手元に置こうとはしない。」
「そう、ですか……」
OBさんに連れられて、私は前の署長へと会いに行った。しかし、彼の口からも情報は聞き出せず、私はただただ肩を落とすしかない結果。記録が署に残っている、という事は、少なくとも警察関係者が触れた案件だ、という予測はついたのだが……今の職員とOBさんと前署長が知らないとすれば、この町の中でのアテはもうない。
……やはり、スティーブさんを除いて、だけど。
私はがっかりしながら、どうにかスティーブさんの当時の記憶を引き出せないか考えていた。そんな私を見て、ふと、前署長は呟く。
「……レイルは、怒ってたろうな」
「今回のことでしたら、怒ってはいるけど怒る気はない、と言ってましたよ。むしろ心配してくれて嬉しい、と……」
「いいや、違う。私がレイルと兄弟になった日のことだよ。父の元に引き取られ、急に彼と私は兄弟になった。それまで、父とレイルの二人の世界だった所に、急に。人間と猫、捨てられ子と虐待ペット、微妙な関係のままここまでズルズル来てしまった。兄と慕ってくれてはいたけど、彼にとって本当の兄には成れなかった。」
そうして前署長が語ったのは、ライさんが警察を目指すことになってから、スティーブさんに反対されるようになるまでの話だった。
ライさんが警察になる事を夢見始めた頃、ライさんには家族が必要だ、母はもう叶わないけれど、兄弟が必要なんだ。とスティーブさんは言い出した。そこでお声がかかったのが、偶然、捨て子として居場所がなかった前署長。スティーブさんはすぐに彼を迎えに行って、ライさんに会わせた。
彼は突如として、猫の弟を持つこととなり、ライさんは人間の兄を持つこととなる。ライさんの性格のおかげで喧嘩こそしなかったものの、二人の間はぎくしゃくしていた。
「……でも、それよりも、父とレイルの間は酷かった。言い合いも喧嘩も多くて、今まで本当に共に暮らしてきた関係には見えなかった。本当に、彼はレイルが大事だったのか、騙された気になったりもしたよ」
「……それは、やっぱりライさんが卒業する前、ですか?」
ライさんも、スティーブさんも、いつもは本当に穏やかな人だ。喧嘩している所は想像がつかない。私は聞き返した。多分、それはライさんが所属を決める頃の話なのではないか、と。
「そうだな……。レイルが大人になって、配属を決める時期に近づけば近づく程、父は上の空になり、双子の思い出に浸ることが多くなった。レイルはそれが気に入らなかったようで、ある日を堺に反発が始まったんだ。私はその空気に耐えられなくてな……折角手に入れた家族を、どうにか元に戻そうとした。それも、レイルにとって癪なことだったと、ようやく分かったよ。彼ももう大人なのに、心配をしすぎた……それがレイルを狂わせたのかもしれない、彼だって自分なりに上手くやろうと努力していたはずなんだ……」
私は唇を噛む。私の家も離婚家庭だから、家の空気が不穏な事がどれだけ気持ち悪いかはよく知っている。最初は彼だって、二人にまた仲良くして欲しかっただけなんだ。でもライさんにとってそれが、良いことだとは限らなかった……。その結末を知っている私まで、やるせない気持ちになってしまう。それ程、彼らの間にあるものはこじれていた。
「音胡くん、来てくれてありがとう。そして改めて、申し訳ない。悪いが……私が心配していた通りになってしまう前に……レイルを……いや、ライを、迎えに行ってあげてくれ、もう悪夢は繰り返したくない。私は間違ったやり方をしてしまったが、今でも、彼と父のすれ違いを食い止めたいのは変わらないよ」
「……こちらこそ、押しかけてきてごめんなさい。ありがとうございました」
***
私はそれから前署長の元を後にして、OBさんとも別れて、とにかく町中を走り回った。すっかり日は暮れ始め、仕事の時間は終わっている。ライさんはまだ見つからない。
目撃情報を辿っていくうちに、寮へ行かなくなったスティーブさんと拾われたばかりのライさんが暮らしていた、という小さな家のあった場所へ走り出していた。その家近辺はもう取り壊されて、ブランコだけがある小さな公園になっている。
「あっ……! ……これ、ライさんの上着……!」
そこに無防備に取り残されていたのは、ライさんの上着だった。幾ら暖かくなってきたと言えど、日が沈み、風も冷たくなってきた今、シャツだけであの寒がりなヒトが外を歩いているのは通常じゃない。慌てて拾い上げると、ポケットから転がり落ちたのはいつかも見た、おやつのニボシ。
「……ライさん……」
公園に来たのは殆どカンだった。一日、暇さえあれば聞き込みをして、とりあえず分かった事は、ライさんが今日の内に訪れた場所は全て……あの頃のライさんの思い出の全て。大切なお父さん、OBさん、通っていた学校、住んでいた家のあった場所………。まるで、時間を巻き戻すかのような足取りだ。
今は空き家となった、ライさんがペットとして飼われていた三丁目のお屋敷の前でも、佇む彼を見た人がいた。何を思って、彼は辛い記憶がある場所にまで足を運んだのだろう。そして、そんな彼が最後に行くとしたら何処なのだろう。
「思い出さないと、思い出せ……思い出せ……ライさんから、地域の人から聞いた全部……お願い、ライさん……無事で居てください……」
私はライさんの上着を抱きしめながら、思わずそう呟いた。ライさんの思い出を辿っていけば、ライさんの足取りを掴める。そう信じて、ライさんという存在の根付くこの町の、この地域の、思い出を絞り出す。
その時、ふと、私の耳に小さな音が届いた。
「にゃぁ」
「……! あ、あなたは……この間の白猫……」
チリン、という鈴の音に引かれて、私は顔を上げる。足元にすり寄ってきたのは、寮で会ったあの白い美人猫だった。ライさんのポケットから溢れたニボシに惹かれてやってきたのだろうか、足元を嗅ぎ回る。
「わっ、ダメだよ、食べちゃ……」
流石に人用のものなので、食べてしまう前に慌てて私はそれを拾い集めた。しかし、ふと思い出す。躊躇わず差し出したライさんを、格好いいと思ったあの日のことだ。
「……一匹ならいいか、あげる。きっと許してくれるよ……あのヒトは優しいから……」
「なーん」
そこから一匹だけ拝借すると、猫はお礼を言うかのようにゆっくり鳴いて、それからしゃくしゃくとニボシを咥えて咀嚼した。私はその小さな頭をそっと撫でる。ふわっとした毛並みは、ライさんとはちょっと違う。……飼い猫の方が毛並みがいいだなんて、ちょっと皮肉な感じですね、ライさん。
「……ねえ、猫ちゃん……分からないかな……あのヒトのいる所」
その姿を見ていると、どうしてもライさんと重なって、私は思わず泣きそうな声を漏らした。
もう日も落ちてきて、辺りは薄暗くなっている。黒い毛皮の彼は、夜になったら闇に紛れてしまう、きっと探せない。その中で人知れず、もしも、もしもの選択をしたら……手遅れになるまで発見できない。上着を投げ捨てたのは、居場所を突き止められないようにする手段なのだろう。
「分かるわけないか……警察犬でもあるまいし……」
「にゃん」
私はライさんの上着を握りしめて、立ち上がった。私の心と同じように、不安げに垂れた袖が揺れる。すると、その袖を猫が嗅ぎ出した。そして、私の前でひと鳴き。そして飛び跳ねるように、数歩先を行く。立ち止まって、私の方を振り返る。私の目を、じいっと……まるで宝石のような青い目が覗いていた。
ライさんが泣いた時の、キラキラした目にそっくりな瞳で。
「……ついてこいって、いうの?」
「にゃぁーん」
まさかな。流石に、ライさんの感情が分かるようになった今でも、普通の猫の言葉まで分かるわけない。でも、もう手掛かりなんかない。……もうカンでいいか。カンしか頼るものはない。
「………お願い!」
「なゃぁんっ!」
私は猫を追って走り出した。猫は私の先を行く。一目散に住宅街の道を、まっすぐ走っていった。
あの先には寮があった場所が。
寮の庭にはかつて、手作りのブランコがあった。双子の為に皆で作った遊具が。
さっきの公園にブランコだけが作られているのは、その名残らしい。双子を知る人達が、次の世代の仔達の、ヒトとしての幸せを願って建てた。勿論、その中には、ライさんだって含まれてる。
そしてその隣にはかつてお惣菜屋さんだった場所。
双子があそこのお惣菜を気に入っていたのだと聞いた。ライさんはお店を知らないけれど、ご主人だったおじいちゃんとは仲がいい。
そしてその先は港。砂浜がある小さな港だけれど、昔は貿易で栄えた。スティーブさんを始め、OBさんの年代に英名が多いのは、海外からの移住者が多かったから。ライさんとケンさんも、その世代の影響を受けて、ヒトとしての名前を決めたらしい。
そしてその海は。ライさんの趣味が釣りになったきっかけで。
ライさんが子供の頃溺れかけた海で。
その砂浜で波に飲まれかけてびっくりしたライさんを、スティーブさんが助けて。
それで、スティーブさんが、ライさんを飼うって、家族になるって約束した場所。
ライさんが、人生で一番最初に救われた場所。
***
数分走り続けて、私は港へとたどり着いた。
「あれ……猫、ちゃん……?」
気づけば、白猫は居なくなっている。すっかり日が落ちてしまった港は、どこを見つめても怖いぐらいに真っ暗だ。ただ、ざざん、ざざん、と深い波の音がするだけで、あの鈴の音は一切聞こえない。
「……ライさん、居るんですか?」
「…………っ!」
ただ、その代わりに、密かなノイズが私の耳に届く。何の音までかは判断がつかなかったけれど、元吹奏楽部を舐めないで欲しい。
息を呑む音は、聞き慣れた声だ。居る。ライさんはそこにいる。
「ここからでは、闇に紛れて姿が確認できません、居ない前提で……海に向かって独り言を言います。『夕日の馬鹿野郎』の日没バージョンです」
「…………。」
返事はない。しかし、恐らく、海を目の前にして……港のギリギリ、縁の所に立っているのかもしれない。思い描いてゾッとした。真っ暗な海の向こうで、彼はどうするつもりでここに居たのかを思い描くと、何よりも恐ろしかった。
でも、私は平常心を装い、そして貫き通す。泣いて良いのはライさんだけだ。ここで泣きたいのは、誰よりライさんだから。
「とりあえず、サボるのはやめてください。制服を公共施設に置き去りにするのもよしてください。始末書のレベルじゃないですよ、警棒とか装備品はどっかに置いてないでしょうね?」
「…………。」
「あと、OBさんに嘘つくのはやめたほうがいいです、仕事熱心で有名な貴方のお父さんの上司なんですから、どっかでチクられたらどうするおつもりですか?」
「…………。」
私は一度、聞こえないぐらいの小さな声ではぁ、とため息を吐く。何を言ったら彼に届くのだろう。短い時間で考えなければならない。
遠くから、ざり、と砂を踏む音がした。内心、その音が心臓に悪い。港の、何処らへんに彼は立っているのだろう。もう爪先が、海面のすぐ側でないことだけを願う。
「……こういう時に、説教言っちゃいけないってわかってるんです。ライさんの気持ちはライさんのもので、ライさんにしか分からない。でも、ライさんがすっごく、すごくすごくすごく、悲しくて、悔しい思いをしてきた事も、私は側にいて痛いぐらい分かってます……ですが、貴方は折角、暴力から助かり、この海で波に飲まれる事から助けられ、殺処分から救われ、発作を起こしても、お兄さんに襲われても助かったヒトです。…………それでも、投げ出せるんですか。泳げない身体を」
「……って、」
小さな声が闇の向こうから返ってくる。震えた、小さな声。成人男性とは思えないぐらい、頼りない声。迷子になった子供みたいな、不安でいっぱいいっぱいの声。
「だって、僕はっ、」
「………っ」
その声色だけで、彼がどれだけ苦しんだかが分かってしまう。本当は今すぐ駆け出して、その腕を引っ張り上げてしまえば早い。抱きしめて、痛かったろうと、苦しかったろうと言ってあげることは簡単だった。
でも、それで彼は救われるだろうか? 身体だけ助かって、それで彼が満足するだろうか?
「僕は、父を愛していた、好きだった……でも、叶わなかった……。」
静かで、重くて、小さな声が、本当に密かに聞こえた。波の音が、彼の声をかき消そうとする。存在ごと、もしかしたら。それだけ、口にできなかった不安を、ライさんは最小限……まるで押し殺すように話す。
「きっと罰だったんです。……僕が好きだなんて言わなかったら、僕はずっと彼といられたのに、僕がそれを壊してしまった。昨日の噂……兄が書類を僕に見せたくない、と言っていた理由が分かってしまいました……。」
また足音がする。前進したのか、後退したのか、それすら分からない。どの言葉が、もしかしたら最期の言葉になるのかも分からない。私はただ、耳をすませていた。
「僕があの時書類を探したのは、勿論、真実が知りたかったのもそうですが、父が記憶を失う前の『好き』の答えを探す為でもありました。父の最後の意志ならば、そこに答えがあるものだと、そう考えていました。でも、残された手紙には一方的な謝罪の言葉しかない、あれは殆ど、遺書だった。心を殺すための準備でした。……つまり、彼は何らかの方法で、己を殺す手段を既に知っていた。彼は……病ではなく、自分が把握出来るタイミングで、自分の意志で記憶を消したんです。彼は自分の過去と未来、僕の全てから逃げたんです……」
私は何も言わず、ライさんの言葉を聞いていた。というより、言えなかった。ライさんは育ての父に憧れ、愛して、逆らって。そして、裏切られた、悲痛な気持ちがそこにはあった。
あの時、ライさんが燃やした手紙の内容を私は知らない。でもあの一瞬で目にした『俺を止めてくれ』の文字は見間違いではなく、そこに書かれていたのは嘘であれ本当であれ、ライさんにとって全ての救いではなかった。それが、覚悟を決めても尚、ライさんの心を蝕み続けたのだろう。
「恐らく、彼は僕らを動物に戻す実験を自分に適用して、その副作用を使って記憶を飛ばしたんです。ストレスだの認知症だの、薬でどうにかなる話ですらなかった。その後に僕も戻すはずが出来なかったのか、ただ躊躇ったのかは分かりません。どちらにしろ、僕は彼を諦めると踏んだのでしょう。急に警察になることを反対したのは、幻滅させる為かもしれません。」
ライさんは、普段の穏やかな話し方とは一変して、冷たい声色でそう話す。悔しさも怒りも通り越したような、静かで熱のない言葉は続く。
「でも、僕は父も仕事も嫌いになりたくなかった。僕を心配してくれたという愛情だけで、なんとか頑張ろうとしたんです。でも、頑張ろうとすればするほど、自分のギャップに足を取られ、すっかりただの後悔になってしまいました。結局、何も上手くできない。持った夢は持たせてくれた人によってなかった事にされたかと思うと、欲しいと思うこと、それ自体が怖くて、何も欲しくなくなってしまいました……」
ライさんの苦悩は、激しく入り組んでいた。大好きな人の為に真面目に頑張ろうとする心を、大好きな人達に踏み荒らされて、ライさんはもう、拠り所を失っているようにも、私には思えた。
「彼と一度だけ話せたあの日も、彼は親としての愛情しか僕にくれなかった。僕を誇らしい子だと言ってくれたけど、僕はそうとは思えない。内心、双子が酷く羨ましく思います。いっそ、僕も死んだら……彼の中に強く残る事ができるのかも、と思うぐらい。……ずっといい子でいようとするペットの僕と、愛して欲しい、というわがままを聞き入れて貰おうとする子供の僕……」
ライさんの言葉は、深呼吸するかのように一度そこで途切れる。合間に聞こえた波の音は、さっきより少し大きくなった気がした。風も少し強くなってくる。まるで、ライさんの決意に合わせたかのように……静かにゆっくりとだけど、確実に恐ろしくなっていく。
そしてライさんは、最後の言葉を、弱々しく吐き出した。
「もう、自分の中の子供と戦うことに疲れました……」
静かな声が、静かに響いた。
「……それがライさんの答えならば、私に止める権利はありません。私に貴方の答えは出せません。勿論、お父さんの答えも、双子が貴方に託した答えも、です。」
「…………。」
返事はない。
「……でも、もう一回だけ考えて頂きたいです。……ライさんが今迎えようとしている結末を、お父さんは望んでると思いますか? ……虐待されてきた貴方には想像し辛いかも知れませんが、親の愛情っていうのは、本当なら血が繋がってなくとも、びっくりするぐらい深いんですよ。貴方が知らない答えがまだ、あるかもしれません。」
「…………。」
やはり返事はない。
「……少なくとも、貴方についていくと決めた部下は、こんな結末、望んでませんよ。貴方は私の大切な上司です、先輩です、仲間です。私の目標です。貴方にはもう、こんなになってるものがありますよ。」
私はそれだけ言うと、港を背にする。
私が今伝えられるのは、きっとそれだけだ。これでライさんが、もしもを選んだとしたら……とても、とても、たまらないぐらい恐ろしい事だけれど……ライさんの選択だと思う。
「………!」
また、ざり、と足音がした。そろそろ目も暗闇に慣れて、ライさんの耳の内側がぼんやりとこちらに向いているのが見える。
少なくとも、今は、港から一歩で飛び込める場所には居ない。今なら、不意をつけばなんとか、彼の腕を引くことが出来る距離だ。それでも、私は来た道を戻る。ライさんはあっさりと身を引いた私を、ただ立ち尽くして眺めているだけだ。
「……私は信じて、署で待ちます。ライさん、『また明日』です」
「…………。」
後に聞こえるのは、波の音だけだった。
***
僕の中で、一番痛い記憶だ。
もしもその日が、あの時のような蒸すような雨の日だったらやめようと思っていた。でもその日は、夏らしい、酷く照った日だった。
連日の厳しい訓練と、長く続く勉強の日々。周囲からの言葉は、僕にとって優しくなかった。
お前には向いてない。
お前には危険過ぎる。
お前には無茶だ。
わかってる。
普通じゃないって事ぐらいわかってる。
一番苦しいのは僕だ。
でも、どうしてもあの人の隣に並びたかった。
誰かの命令を聞くことは、たまらないぐらい癪だった。
二匹の兎でも、かつての結婚相手でも、実の娘でも、人間の拾い子でもなく。僕があの人の期待に応えて、同じ地位で同じ場所にいる事が欲しくてたまらない、ただの子供だった。
短い夏休みで帰った頃、彼はいつも通りに聞いてきた。
「どうだ、卒業できそうか?」
「うん、なんとかギリギリだけど」
彼だけは、この言葉の後に、「ちゃんと病院行ってるか?」とか、「考え直してはみないのか?」とは言わない。先程まで共に部屋にいた兄が、似たような事を言った事に少し苛ついていて。
ちょっと、ほんの少しだけ……出してはいけない勇気を出してしまったのだった。
彼の優しさを壊してしまうような、本音を言ってしまった。
他人がくれる物だけじゃ足りなくて、僕が欲しい形の、欲しいものを。
わがままに言ってしまっただけだった。
「……僕、おじちゃんの事が、好きだよ……もし僕が、このまま……卒業できたら、返事欲しい」
次の瞬間には、部屋にあった全ての音が止まって、蝉の声しか聞こえなくなったのをはっきりと覚えている。おかしくなったと思われるのではないか、気持ち悪いと思われるのではないか、と一瞬にして後悔した僕は、思わず肩をすくめた。
彼は、そんな僕の強張った肩をひとつ、ポンを叩いて、笑って僕に語りかけた。
「……なぁ、『ライ』。………配属は、辞退した方がいい。もう十分だろう。お前は十分頑張ったよ、もう俺の真似なんかしなくていいじゃないか。あんな仕事をお前が選ぶ必要はないんだ。」
僕の本当の名を、ペットの名前を、彼が呼ばなかったのはこれが最初だった。僕はその言葉に怒り狂ったように反論した、と思う。
怒りのあまり、記憶にないぐらいに、彼とはじめての喧嘩をした。気づけば兄が僕の腕を羽交い締めにして、あのスプレーを僕の口に当ててて、僕は息ができなくなっていて、意識も朦朧としていて。
次に会った時にはもう、僕と彼の間にあるものは狂っていた。何度も何度も、辞めろ、辞めない、辞めろ、辞めないと喧嘩を繰り返した。
終いには口すら利かなくなっていた。僕はこの頃から、何もかもが敵に見えた。多分、子供の頃の方がまだ、人を信じることが出来たと思えるほど。
そのまま、僕は謝れないまま。
彼を失って、そのままだった。
――ねえ、ああ言ってはくれたけど、僕は本当に貴方の誇らしい『子供』?
双子が求めていた、貴方との家族はこんな形ではなかったよね?
やりたいことを、やりたいようにすればいいって言ってくれたけど……僕のやりたいことって、なんだろう? なんだったんだろう?
貴方と、双子と、過去を抜きにした僕は、僕じゃない気がするんだ……――
***
翌日、私はいつもより二時間は早く出勤した。
流石にまだ開いてないんじゃないか、と思った署の扉は開いていて、『まさか、まさかで全員早朝招集?』と勘ぐってしまう。恐る恐る地域課へと足を運ぶと、地域課は今までにないぐらい綺麗になっていた。
掃除的な意味で。
「音胡さん、おはようございます、随分早いですね」
「ライざぁぁああああぁん!!」
「わっ、あっ……うわぁあ」
床を磨いていたのはまさかのライさんで、泣きはらした目でにっこり笑い、雑巾を持ったまま私を見上げた。私はその姿に色々とこみ上げすぎて、抱きつくというよりはタックルをかます。
ライさんは勿論、弾丸のように飛んでくる私を抱きとめるような力もなく、当たり前のように机に頭をぶつけてしまった。
「い~~~~……」
「う、わぁあぁぁ!? すっ、すみません、思わず!!!!」
「……だ、だいじょうぶです、いだぐないでず」
「いやいやいや、もうたんこぶ出来てますから!!?? ひどくなる前に、冷やしたほうが……」
涙目で強がるライさんだが、既に頭頂部が腫れかかってきている。私は給湯室の冷凍庫に保冷剤が凍らせてあったはずなので、取りに行こうと身体を起こそうとした。ちなみに、よく考えると床ドン体制であったことには深く考えない……つもりでいたのだが。
「大丈夫、ですから……」
「ふぁっ!?!?」
ライさんの腕が私の背中に回って、軽く抱きしめられる体制になり、立ち上がることが叶わなくなってしまった。ライさんらしからぬ突然の大胆行動に私は吹き出す。
「え、で、でも……」
「……だ、い……っ、ぐすっ……」
「ほ、ほら痛いじゃないですか……! 相変わらず困った上司ですねもうっ!!」
結局泣き出してしまうライさん。
私は今度こそ立ち上がろうとしたが、ライさんの手は離れない。えっ、えっ。なんですかこれ? まさかセクハラですか。何処に訴えたらいいんでしたっけ?
「……ごめんなさい、昨日の、こと。……嬉しかったです。」
「あ、ぁぁ……いえ、こちらこそズケズケと偉そうな事を言ってすみませんでした」
あっ、すみません、勘違いでした。ライさんは半泣き半笑いで、私をまっすぐに見つめる。抱きついているのは無意識らしく、その目にはちょっとアウトな行動を取っているという認識はなさそうだ。
「貴女に言って貰っていろいろ考えて、考え抜いて……過去を引いた僕に残ってるのは、貴女との約束だけでした。二人で双子の意志を超え、町を変える。残り物でも、無いと思っていたものがあっただけ、ちょっと嬉しく思えました。ある意味諦めがついたとも言えますが……また、一から新しい夢を探そうと思えました。音胡さんのおかげです。」
「……それはよかったです」
私はその言葉にほっとして、微笑んだ。ライさんも涙目でおずおずと私を見上げる。軽く背中に回されたライさんの腕が、密かに震えているのに気づいた。
「……怖かったんです、音胡さんが去ってから、もう一度海を見たら、もう怖くて、怖くて……結局、飛び込む勇気なんかありませんでした」
「よかった、私はあの後、アレで良かったのかな、怒ってただけじゃなかったのかな、と思い返しちゃいましたよ。一晩、考えまくってました。多分、貴方程ではないんでしょうけど……でも、心配したんですよ、もうあんな事やめてくださいね、心臓に悪いです」
ライさんはまだ不安そうな顔をしていた。怒られるのを覚悟した子供のような瞳で私を見つめる。私はそんなライさんを責めないように、優しく返す。
「……前にも言いましたけど、私もライさんの記憶を……悲しみや悔しさも一緒に背負います。だから、言える所からでいいです、怖いなら怖いって、仰ってください。貴方は一人じゃないです。お父さんや双子だけの願いの為のものでもないです。町に行けば、皆がライさんの昔話をします。貴方は皆の側にちゃんと立ってますよ。」
そう言って私はライさんに笑いかけた。ライさんはその言葉にようやく安心したような表情になる。
「はい……改めて、ご迷惑とご心配をお掛けしました……もし音胡さんが昨日、力づくにでも僕の腕を引っ張っていたら、強情で天の邪鬼な僕は、それに抵抗して間違いを犯していたと思います。父に反発した時のように。でも、昨日の音胡さん、やっぱりかっこよかったですよ」
私もその顔を見て、ようやく心の底から安堵した。いつもの穏やかな表情でライさんは少しだけふふ、と笑みをこぼす。釣られて私も笑ってしまった。
「じゃあ、とりあえずー……始末書書きます? 投げ捨てた上着は要らないって事なんですよね?」
ついでに、私は昨日拾ったライさんの上着の事を思い出したので、お小言代わりに言ってやる。ヤケとはいえ、備品を放置したことは褒められることでは無い。それとこれは別だ。すっかりその件については忘れていたのか、一瞬でライさんの顔から血の気が引いた。
「えっ、待ってください、シャツだけはキツいです! 今朝も地味に寒くて……って……あれ、ポケットに入ってたやつ……は……?」
「公園に置くから野良猫に食べつくされてましたよ」
あっさり言ってやる。ちなみににぼしは、地面に大半が落ちたので捨てさせて貰いました。
「え、いや、そっちはいいです……左ポケットの……」
「これですか? 勿論、お預かりしております」
しかし、ライさんが心配しているのはそっちではない。反対側に入っていたもう一つのポケットの中身。私はいたずらに紙切れをライさんの目の前にちらつかせた。
「か、返してくださいっ」
ライさんは私の背中を手放すと、その紙を取り上げようとする。が、狭い床に転がっていては、まともに身動きも取れない。私はそれをひらりと腕の動きだけでかわした。
「嫌です。誰かに読ませたら成立してしまいますので、私が保管させて頂きます。……というか、急に朝から掃除し始めた理由はなんですか? まさか辞めるんですか? それとも異動? …………もしかして、死に支度ですか? ならば、余計にこの遺書は返せません。異動届も退職届も、この間のライさんがやったみたいに燃やして窓から飛ばします。」
「しませんよ! 単純にけじめとしての掃除です、心機一転というか、ご迷惑をお掛けしたお詫びと言うか……信じてくださいって!」
そう、ライさんの左ポケットに入っていたのは、紛れもない遺書だった。
中身までは読んでいないが、これが署員の目に入ってしまえば……ライさんがはやまった事が事実になってしまう。これは誰の目にも触れさせずに処分するべきだろう。ライさんは勢いでやってしまった事の証拠隠滅を図りたいのか、必死で取り返そうとしてくる。
「本当ですかぁ?」
「本当ですよー!」
「ライさん嘘つきだからなあー? そう言えば会ったばかりの時、『兄弟は居ない』とか言ってたし、薬さえあれば身体が丈夫ってのも、嘘だったし……」
「こ、細かいです……許してくださいよぉ……!」
ライさんはバタバタと腕を伸ばしてどうにか遺書を取り返そうとする。これだけ見ていると、本当にじゃれている猫そのものだ。
「……ライさん、改めて言いますけど……貴方がどうであれ、死んでほしくなんか誰一人思ってませんから……こんな紙、読ませないでください。居なくなられたら、困ります……。」
困ったライさんもそれはそれで可愛らしいのだが、そんな事はさておき、私は説教を続けた。責めないように、とは言いましたが、怒ってないとは言ってませんので。
「す、すみません……」
ライさんも一瞬でまた泣きそうな表情に戻り、しょんぼりと耳を伏せた。
「……許します!」
「音胡さぁん!」
ライさんの表情がパッと明るくなる。
「でも、制服紛失の始末書は書いてください」
「音胡さぁんんんん……」
またしょぼんとする。ヤバい、面白い。
私は笑いを噛み殺しながら、ライさんの遺書を預かった。
「僕で遊ばないでください……」
「すみません、面白くて……スネないでくださいよ、本当子供っぽい上司なんですから……」
「最近、ナメられてる気がします、そういえば最近『部長』って呼んでくれてないです」
流石にからかいすぎたのか、ライさんはふくれっ面で私を睨む。そういう、子供のように感情が豊かな所もライさんの良い所だと私は思うんですけどね。余計スネられて、また仕事に来なくなっちゃったら困るので、からかうのはここらへんで止めておこう。
「っていうか、僕が話していないことまで音胡さんが知ってるのはどういうことでしょうか」
あ、マズイことに気が付かれましたね……。が、もう隠せそうに無いので私は素直に事実を告げる。
「あっ……OBさん……に、聞きました……」
「あああ、もう! ……昔から思ってましたけど、あの人、わりとお喋りじゃないですか……? ああ、どんどん格好がつかなくなっていく……!」
ライさんは頭を悩ませながら、自分の理想と現実のギャップに悶えていた。
「ライさんがかっこよかったことなんて、ありました?」
「ひ、酷いですっ!! ありましたよ、犯人投げ飛ばした所とか!」
そんな、なんてこともない、中々に頭の悪いやりとりをだらだらと続けているうちに、程よく時間も経過し、署員も次々と出勤してきていた。ふと、遠くからライさんを呼ぶ声が聞こえる。恥ずかしさで悶絶するライさんは気づかなかったようだ。
「あれ、呼ばれてますよ、ライ部長……」
私はその声にようやく立ち上がろうとしたが、それよりも先に声の主が顔を出してしまった。突如、カウンターから身を乗り出したのは、いつだかに私に地域課を案内してくれた別の課の上司だ。
「おい、ライっ! 来てるか……って、な、なんだぁ……?」
「あわわっ、うっ、いたっ!!……おっ、おはようございます!!」
「お、おはようございます……」
しかし、床ドンされているライさんと、床ドンしている私を見て、一瞬ひき気味になる。ライさんは驚いて、再度頭をぶつけた。私は逃げ遅れ、苦笑いで挨拶を返すことしか出来ない。
「あ、あの、これは、転んで」
まさか私にタックルされたとは言えず、ライさんはしどろもどろで状況を説明する。上司は腑に落ちていないようだが、ライさんの頭を見て一応納得したようだ。
「な、なるほど……? たんこぶ、凄いぞ、後でちゃんと医務室行けよ……って、それより、ちょっとホールに来てくれよ。テレビで紹介されてるアイドルが……」
「アイドル、ですか?」
「とりあえず見てくれ、信じられないんだが……見たほうが早いな」
ライさんと私は互いに首を傾げると、なんとか起き上がる。窓口の前にある、待合室のテレビを目前にすると、私達は固まってしまった。
「う、嘘……です、よね?」
「え、本人? ですか?」
そこに映っていたのは。
『急遽、電撃デビュー! 獣人双子アイドル!!』という字幕。
キラキラした衣装を身に纏った二人の頭には、大きな耳がふたつ。
年齢は……十歳ぐらいだろうか。一匹は灰色で、もう一匹は珍しい三毛の毛並みを持った少年だった。
「生きて、たんで、しょうか……『あの双子』……」
ライさんの口から、重い言葉が溢れる。
別の町のスタジオから中継されているそれは、『あの双子』にそっくりな姿を持つ、二匹の兎アイドルの姿を映していた。