音胡と猫の休日
「あ、ライさんだ」
休日の午後、海岸で見慣れた姿を見つけた。
この小さな町の小さな警察署で働く私、音胡(ねこ)は、地域課と言う名の雑用部門に所属する新人婦警だ。この町では、いわゆる獣人の種族を保護する特定地域に指定されていて、私の上司は『黒猫のライ』と呼ばれている、文字通り『黒猫』の上司である。
私は釣り竿を振るうライさんの背後にそっと忍び寄る。
海風が強いせいなのか、集中しているからなのか、人よりは聴覚がいいはずのライさんは全く気づかない。
私はライさんの背後に立つと、息を吸い込んで、手に持つそれに思いっきり息を吹き込んだ。
「プァーーーーッ!!!!」
「ひゃぁ!!??」
ライさんはおおよそ成人男性とは思えない、可愛らしい悲鳴を上げて肩をビクつかせる。
自分でやっておいて、ライさんが心臓発作でも起こすんじゃないかと心配になるほど、ライさんは大げさに驚いた。
「ご、ごめんなさい、そこまで驚かすつもりは……大丈夫ですか?」
「ひ、ひぇっ……あ、音胡さんでしたか……。びっくりしましたよぉ」
ちょっと泣きそうになっているライさんに謝ると、ライさんは安心したようにため息を吐いた。
「休日にも会うなんて変な感じですね」
ライさんはびっくりついでに落とした釣り竿を拾い上げながら、照れ隠しにそう言う。
私も頷いた。
「それがこの間言ってた新しく買ったやつですか?」
「ああ、違いますよ。これは父から譲って……というか勝手に拝借したというか……もう、扱えないでしょうし」
ライさんは釣り竿を何度か確かめるように、くるくる回す。
「釣りの趣味はお父さんの影響なんでしたっけ?」
「そうです、父はしばらく半自給自足みたいな生活をしてましたからね……連れて行って貰って、たまに教えてくれたりして。その後も趣味で続けてたのに同行してる内に、自分でもやるようになりましたね」
「いいですねぇ……私の父はどっちも無趣味の人なので」
私は頷く。ライさんにはお父さんしか居ないので、お父さんっ子になるのは当たり前なのだけれど、その影響のされ方というか、なるべくしてなった感じは……なんだか子供の頃のライさんを想像させて、微笑ましい気持ちになる。
ライさんは自分のいびつな出生を気にしている様子だけれど、十分ライさんが、お父さんと『親子』だった事が分かるエピソードでもある。
「音胡さんのは……えーと、ラッパ?」
「トランペットです、元々吹奏楽部なので、何個か楽器やってて……でも、都会だと迷惑になっちゃうから、この町の海岸だと迷惑にならず練習できるかなと思って来たんですけど」
「なるほど、でも、ヒトの背後でいきなり吹くのは止めてくださいね……心臓止まるかと思いました」
そう言って苦笑するライさん。
私はもう一度謝ると、ライさんの足元にあるバケツを覗いた。
「あ、まだ釣れてないんですね」
「そうなんですよ、今日はダメみたいです」
そう言うと、ライさんは釣り針に餌を付けて、海に向かって竿を振るう。
遠くに小さな水しぶきが上がって、ライさんは手元のリールを小刻みに動かす。
「その動きはどんな意味があるんですか?」
「餌が生きて泳いでるように見せるんですよ」
何度か竿を引くライさん。どうやらこの一投にも、手応えは感じないようだ。
「普段は釣れるんですか?」
「うーん、まちまちです。釣れる時でも2〜3匹なんですよね……僕が下手くそなだけなんですかね……」
ライさんはあまりの成果のなさからか、しょんぼりと耳を伏せる。
「ま、まあ、運とか天気とかもあると思いますから! ……やっぱり、魚は好きなんですか?」
「……実は、そうでもないです。健康に害がないなら、甘党なんでお菓子だけ食べてたいです」
「………偏った食生活だけは、やめてくださいね……ライさん、すぐ身体に出そうだから」
ライさんはその言葉に軽く笑うと、「善処します」と答えた。
あ、この答えはあんまり乗り気じゃないやつだ。
「音胡さんは、もうトランペットの練習はいいんですか?」
「いや、まだ全然やってないですけど、釣りしてるヒトの近くでやったらそれこそご迷惑じゃないですか?」
「いえ、聞いてみたいです。どうせ魚も釣れなさそうですし、今更魚が逃げるとも言いませんよ」
そう言うと、ライさんはまっすぐに私を見つめる。
どうやら期待されているらしい。
「……言っときますけど、そんなに上手くないですよ、いろんな楽器をつまみ食いしてやってきたんで」
「吹けるだけで羨ましいですよ、金管楽器なんて僕じゃ絶対酸欠起こします」
「それはそれで、ある意味凄いですけどね」
私は軽く深呼吸すると、トランペットを構える。
張った音が海岸に響くと、海鳥がその音に驚いて一斉に飛び立った。
「わぁ」
ライさんはその景色と音色に、感嘆の声を上げる。
吹き始めたのは、有名なアニメ映画の冒頭で流れる曲だ。
ライさんがどこまで音楽知識があるか分からなかったので、とりあえず耳にしたことがあるであろう曲をチョイスした結果だ。
どうやら知っていたメロディのようで、ライさんは音に合わせて、無意識にかしっぽを揺らす。
そのままゆっくりリールを巻いて、私達は隣でそれぞれに休日を過ごした。
「良かったですね、一応釣れて」
「音胡さんの演奏に聞き惚れた魚かもしれませんよ」
「まさか、水中じゃ聞こえませんよ」
だいぶ日も沈んてきて、お開きになった頃、ライさんのバケツには一匹だけ魚が入っていた。
ようやく釣果を上げられて、ライさんも機嫌が良さそうだ。
「では、僕はこれで……」
「はい、また明日ですね」
「ええ、また明日」
海岸沿いの帰り道、私はライさんに手を振る。
ライさんも小さく手を振り返してくれた。
明日からはまた、雑用ばかりの毎日が来る。
それがなにより、楽しいのは……きっとライさんのおかげなんだろう。