月
「サナちゃん、おつかれー」
「おつかれ」
日も暮れ、帰宅ラッシュも過ぎた夜、陸橋の上で待ち合わせると言ったのはルナからだった。
レコーディング帰りに背負ったギターも重く、サナはふり疲れた腕をゆっくりと上げる。
「こんな時間に呼び出して何なの、もう」
「いいじゃん、たまには夜遊び! つばちゃんお仕事なんでしょ?」
「やましい意味なら帰るわよ」
「嘘だよ」
ルナはひとしきり笑うと、サナの手を取った。
通り過ぎる車のライトに照らされて、よく見れば、珍しくスーツを着ている。
「……ルナ、貴方、何かの帰り?」
「ん? ああ、まあね」
「……そう」
言葉の濁し方に『それ以上聞くな』と汲みとったサナは、詮索をやめて言葉を返す。
「じゃあ、いこ」
「どこに行くのよ?」
「いーからさ! ついてきてよ!」
こんな夜遅く、普段家か、サナの家の庭に引きこもっている彼が行く場所など、サナには検討もつかない。行き先もわからぬ先へ、夜道を歩くと少し不安になる。
相手がルナだからこそ、露骨な気持ちが前に出てしまい、サナは眉をひそめた。
退屈していた自分に、もしかして合わせて行動しているのかと思うと、申し訳なくなる。
「……貴方から行き先を決めてもらうの、初めてね」
「そうだっけ?」
ルナの声は明るい。こちらの表情は見えていないようだ。
「……ルナはさ、いっつも私を優先して行動してたから……、私のことばかり、考えて生きてきたよね……」
本当は、ルナには、自分のことを考えてもらいたい。
それが、今のサナに少し重い事だった。
見放されたくはない、だけど、自分の人生に突き合わせる必要はない。
「家にもお金出してもらってるし、学校だって、ルナ行ってないのに、私だけ行かせてもらって……面倒見てもらってる、私、面倒くさい人だから、ルナに……重くないかなって、考えちゃう」
人気の少なくなってきた道に、サナは立ち止まる。
俯いたサナの顔をルナが覗き込んで、初めてルナと目線が合った。
ルナは笑っている。
「サナちゃん、ギター持ってていい?」
「……ちょっと、人がまじめに……」
「いいからさ」
ルナは急にサナのギターケースを受け取って背負った。
サナより背丈の小さいルナには、どちらかというとケースに背負われているようだ。
そうしてしばらく夜道を歩いて、辿り着いたのは、やけに近未来的な建物だった。
針金とシャボンで出来たような、シンプルなようで複雑なデザイン。
「もう閉まってるじゃない」
「入れるよ」
そう行って、ルナは裏に回って、勝手口を開ける。
小さな灯火が足元を照らしていて、最低限の明かりが確保されているのがわかった。
「仕事仲間に頼み込んで開けてもらってるんだ」
「……仕事って、貴方仕事してたの?」
「なんだと思ってたのさ」
「デイトレーダーとコーディングしてるって言ってたじゃない」
「あれは趣味みたいなもんだよ」
なにそれ恐ろしい。
やたらにサナの事を褒めるつばさの姿を思い出して、ああ、こんな感覚なのか。とサナは納得した。
そうしてようやくルナに連れられて来たのは、鉄筋で囲まれた広い施設だった。
ぼんやりとライトが照らす横に、細いベルトが浮いている。
ルナはサナのギターケースを下ろすと、そのベルトを連れてきた。
「サナちゃんに、実験をお願いしたいんだ」
「実験?」
「これね、試作品なんだ、感想を聞きたいな」
「なるほど、そんなの先に言ってくれれればいいのに」
「協力してくれる?」
「勿論よ」
サナは二つ返事で、ルナにされるがまま、そのベルトを背負った。
ルナの頼みとあれば、怪しいとは思うが危険はない。
「僕じゃ背丈が小さすぎてさ、サナちゃんぐらいならまあ一般的な目線かと思うんだけど」
「で、何をすればいいのかしら」
サナの背負ったベルトから、暗くてよく見えないが、ワイヤーが通され、遠い天井まで伸びている。
その反対側にあるのは、どうやらばねのようだった。
「跳ねてみてくれないかな」
「跳ねる? ジャンプ?」
「うーんと、ジャンプっていうか、飛ぶ感じ?」
「Flyって事?」
「うん」
飛ぶ、少し懐かしい響きだった。
まあまとも飛べたことなんてないけれど、まだ、その感覚は、この心のなかに残っている。
「地面を軽く蹴ってみて」
とん、サナの靴音は意外と、施設の中に響いた。
ガラス張りの高台にある建物の中で、サナの視線がふわり、と舞う。
遠く街明かりが、望める。
「うわ、高いっ」
軽く蹴っただけなのに、ふわりと身体が浮く感覚。
久々すぎて戸惑った。
「引力と逆方向……上方向に力を加えることで、引力を弱めるアトラクションなんだ」
「……引力?」
「今設定してるのは、重力が1.622 m/s²の場合。つまり、月の上と同じ引力の状態」
「……月」
ルナが両手を取って、跳ねたサナの身体を引き戻す。
装置が極端に軽いせいで、まるで自力で飛んでいるような気持ちになる。
慌ててルナにしがみついて地に足をつけても、また軽い反動で浮きそうだ。
「サナちゃん、身長の割に体重軽すぎるね」
「……なんで、こんなもの」
ルナが柔く笑う。淡い光がそれを拾う。
「さっきの道での話だけど。僕は、君が正直重いのはわかってる、でもさ、それは……君の重さじゃない、君が背負ってきたもの質量だと思う。僕は、君と違って、誰かに物を持ってもらう生活をしてきた。でも君は…全部、自分で生きてきた。それはもう、君に癒着して、降ろすことの出来ない重みだ」
サナの表情が、また泣きそうになる。
ルナその逆で、優しく、柔らかく微笑んだ。
「この先、背負えるものは僕や、それがダメだったら、コエや、つばちゃんで背負ってあげる。いくらでも手を貸す。今までのものが重ければ、重くならなくすればいい。引力を弱めればいい。」
サナの身体が、ようやく安定する。
ルナが強く、手を引いてサナを支えたからだ。
「サナちゃんにとって、ここがつまらない事は、僕もコエもわかってる。だから、難しくしちゃったんだよね、レコーディング、うまくいかないんだよね」
「うっ…うぅ、うえっ……」
サナがついに、泣きだした。
静かに、ルナが抱き寄せる。
「コエがこの世界を用意したように、探せば引力の弱い世界が見つかる。地球でも、天国でも、地獄でもないどこかに。今は物理的な話にしか過ぎないけど、きっといつか、君にぴったりな世界が、星が見つかるかもしれない、君は天体が好きだから、僕はそれで興味を持って調べた。君が行く先を、照らせたらいいと思って、僕は研究をしてるんだよ」
「でもっ……それはっ……私の為であって、ルナの為には……」
「……双子の弟妹ってね、先に生まれたほうが弟妹なんだって。兄姉の行く先を守るために。僕がサナちゃんの弟なのは、僕が、サナちゃんの先を行くためだと思う。能力を自覚したのも、この世界で記憶が戻ったのも、僕が先だったよね……それも、きっと、僕が僕だからだ」
「理由に、なってない!!」
サナは叫んだ。その反動で、また足先が浮く。
でも、ルナの手は離れなかった。
「なってるよ、サナちゃんに分からないだけ」
「だって、私っ、そんなっ、事、してもらっても……返せないっ……」
サナがルナの片手を離し、涙を拭いながら、なんとか発した言葉はそれだった。
救ってもらえばもらう程、その恩が重い。
「……僕が君のためにしてきた研究は、今日こうして君に見せる前に、沢山の小さな成果を世に出してきた。それは、君以外の誰かの何かを軽くしたり、重くしたりした。その結果は、僕の気持ちを軽くして、僕の責任を重くして、君に見せたいと思う気持ちを大きくした。引力も、因果関係も、気持ちも、一方通行じゃないよ、サナちゃん。広い目で見てみれば、君が、君の望んでいた、誰かに差し伸べる手になれるって事だよ」
ルナはそこまで言って、ようやくサナのもう片手を離す。
サナはまた反動で浮かんだ。
「まっすぐ前を見るんだ、サナちゃん、なにが見える?」
「……夜景と、満月…」
「月は太陽の光を、街明かりは人々の暮らしの光を反映して、君に届いている。もちろん、君以外にも届いてる。」
サナが、その言葉に引き寄せられるように降りてきた。
もうその目に、涙の色はない。
「……貴方にも?」
「うん」
サナは笑った。
ルナもつられて笑う。
それからサナはしばらく、その装置で飛びながらギターを引いた。
何にも囚われない歌声で、月の歌を唄った。
その歌が収録された日は、よく星の見える新月の日だった。