こほろぎ嬢
こほろぎ嬢
2006年10月26日 青山 東京ウィメンズプラザにて(第19回東京国際女性映画祭)
(2006年:日本:95分:監督 浜野佐知)
私はこの映画の原作となる尾崎翠の3つの短編、「歩行」「地下室アントンの一夜」「こおろぎ嬢」を読んでいないので、原作との比較は出来ない、と先に書いておきます。
この映画を観た後、少し調べてその断片を読んだくらいです。この映画を観て思い出したのは1992年泉鏡花の原作を坂東玉三郎が監督した『外科室』です。
女流幻想文学者として人気のある尾崎翠の本は『第七官界彷徨』しか読んだことがありませんが、これが明治生まれの女性作家の書く物とは思えない幻想文学でした。幻想というのは時にとても歪んでいびつな一面も持ち、それは幻想文学に限らず、SFでも小説でも、いびつな世界というのは有り得ます。そこが文学の面白いところで、宮澤賢治ですら、私はいびつな一面を持っていると思います。
さて、そういう世界を映像として映画にする場合、奇をてらった映像に凝る場合が多いのに、この映画はその辺の「いびつさ」が見られないのが特徴かもしれません。
家には柿の木がある、というナレーションにかぶって柿の実のなる木が出てくるところなど、随分、ストレートな演出だと思いました。
特に前半は、観る者に、まるで本を読むように想像させるような、映像の撮り方はしていません。
冒頭、「歩行」の主人公である着物を着た小野町子(石井あす香)が砂丘を歩くロングショットに続いて、最後に出てくる小野町子という少女が成長した洋装の「こおろぎ嬢」が同じ空間の砂丘を歩いている・・・・というロングショットが交互に出てきても、そこに何も「奇をてらったもの」見られないのです。
この映画は、尾崎翠の故郷である鳥取県の支援を受け、鳥取で撮影されました。
大正の時代の建物、家具、調度品など全て作ったものではなく、重要文化財に指定されているような本物を使ったそうです。
本物志向ということではペ・ヨンジュンが主演した韓国映画『スキャンダル』に次々と惜しみなく出てくる国宝級の壷や絵画、器、建物などの、迫力に比べると、やはり、力みを感じさせないような映像、落ち着きのある映像を目指しているように思います。
しかし、脚本、台詞に関するとなると登場人物たちは、皆唐突で、現代からするととても不思議な演劇的といえるような言葉遣いをします。身内なのにフルネームで呼んでいたり、理由理屈なく、詩人は義兄である動物学者、松木博士を敵視する。理由理屈なく、というよりも不思議な論理で詩人は動物博士を嫌うのです。
そんな相対する2人にはさまれても飄々としている空気のような松木夫人(吉行和子)
そんなところにおはぎを持っていく、小野町子。この小野町子は、自信のない少女です。
詩人と同じく外に出ることを嫌い、心理学者に本を朗読して、といわれてもどきどきして戸惑ってしまうような内気というより自信のない少女。
しかし、それが、こおろぎ嬢(鳥居しのぶ)に突然といっていいほど、成長した姿になるとそこにあるのは自信と落ち着きのある女性詩人なのです。
図書室で、詩人、ウィリアム・シャープ氏とマクロード嬢についての物語を思うとき、その思いは確信のように思えます。
また、地下に降りるとパンを売っており、ひとりの女性が勉強をしている。それを、密かに独学するのは産婆学である、と確信を持つ。
その産婆学を独学する姿を見つめる、すでに独立した女性であるこおろぎ嬢の立ち姿は、見下ろすようであり、見惚れているようでもありました。こおろぎ嬢は映画の中では、言葉を発することがありません。全てがこおろぎ嬢の頭の中の宇宙なのです。
それを、地下室というものになぞらえた所が、純日本風であり、かつ西洋風でもある、和洋折衷のような幻想的な後半の世界の暗さと、前半のふらふらとした感じとの上手い対比になっていたと思います。
浜野監督は、尾崎翠という作家をもっともっと世間に知らしめたい、という希望がとても強く、観客に媚びるような説明的な映画は作らない、また製作スポンサーに左右されるような映画は作りたくないという強い気持から自主制作映画という形になったのだそうです。
それ以前に、監督は尾崎翠の心酔者であり、それ故、この映画を観る者もまた心酔者でないと、共有できない壁のようなものが出てくるのは仕方ないのですが、前にも書いたようにひとりよがりの奇をてらった映像でなくストレートに映像を出しているところ、ありがちな流れにはなっていない力強さと同時に節度ある謙虚さも感じます。